「障害が多ければ物語が面白くなるわけでもなく、ラストステージを壊す演出も不要なものが多すぎる」レディ加賀 Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
障害が多ければ物語が面白くなるわけでもなく、ラストステージを壊す演出も不要なものが多すぎる
2024.2.10 イオンシネマ久御山
2024年の日本映画(104分、G)
タップダンスに挫折した旅館の娘が町おこしに巻き込まれる様子を描いた地域振興系コメディ映画
監督は雑賀俊朗
脚本は渡辺典子&雑賀俊朗
物語は、タップダンサーで舞台に立つことを夢見ていた樋口由香(小芝風花)のモノローグにて、現実は甘くなかったと語られてはじまる
スタンドインの仕事しかなく、これ以上望めないと絶望していた由香だったが、実家からの知らせによって状況は一変してしまう
それは、旅館経営をしている母・晴美(檀れい)が倒れたというもので、慌てて帰省したものの、母は何事もなかったかのように普通に働いていた
由香は仕事にキリがついていると嘘をついて居候することになったが、母は穀潰しに与える飯はないといい、旅館を手伝うことになってしまった
同窓生のあゆみ(松田るか)たちと再会した由香は、故郷のスター的な存在だったが、彼女の胸中は複雑で、飲み会の席で「タップダンスをやめて女将修行をしようかな」と言ってしまう
そこに現れたのが、元カレの松村(青木暸)で、夢のために自分を捨てたことを恨んでいた
彼は「お前は女将にはなれない」と言い放ち、「もしなれたら土下座でもなんでもしてやる」と豪語した
その後、女将修行のためのゼミナールの存在を知った由香が修行を始めることになるのだが、そこには自分以上に真剣に打ち込んでいる候補たちがいて、中途半端な由香はそこでも絶望を感じてしまうのである
という感じの導入で、温泉街は3度の危機を乗り越えてきたが、町おこしの課題は残っているという設定になっている
街はそのために天才観光プランナーの花澤(森崎ウィン)を呼び込んでいて、そんな彼と無理やり絡むことになってしまうという流れを組み込んでいく
彼は数々の偉業を持っているようだが、胡散臭さもマックスで、それによってある事件が起きてしまう
そんな中、「女将に必要なのは決して諦めないこと」という心意気を由香が示していくという流れになるのだが、このあたりの心理変化は結構雑な感じになっていたように思えた
映画の冒頭から「女将に必要なものがあなたには欠けている」という母の言葉があり、その答えを自分で見つけることもなく、母から言われてしまう流れになっている
友人たちの手のひら返しも辛辣で、「舞台に立ったの1回だけ」と言われているかと思えば、「東京で1回だけ舞台に立ったのにサインをねだられる存在」というものも意味不明な部分が多い
スタンドインの裏方しかさせてもらえない力量だが、彼女が舞台に立てない理由もあまり説明されず、多忙に思われる師匠の佐藤(HideboH)も2週間程度滞在できるぐらい暇だったりする
由香に降りかかる障害とか、彼女が立派な女将になるための軋轢などが色々と出現するのだが、とにかく挫折になりそうな出来事を無理やり起こしているように見えてくる
そして、いざダンスパフォーマンスになっても、その問題が紛糾し続け、テンポを削る不要なギャグパートなども多い
タップダンスシーンは見どころ十分だと思うものの、あのレベルになるのに2週間は短すぎるので、リアリティは皆無に等しいように思えた
夢破れたと言っても、明確に辞めたわけでもなく、仕事がないから帰省して時間を潰しているというもので、そこで自分のタップダンスが活かせるという流れになっているが、タップダンスに対して消極的になっている女性が町おこしの中心になるというのも不思議な話である
踊ることが楽しいという原点回帰の物語ではあるものの、最終的に由香がどのように生きていくのかがわからないまま終わるので、消化不良な感じが否めない
持ち逃げされたお金がどうなったとか、町おこしという割には、個々の旅館経営は自分たちで頑張ってねレベルで終わっているし、人を呼び込んだとしても、人手不足が解消していないのはナンセンスだろう
女将を見つける必要以上に、現地で働くスタッフを集めるのが先のように思えるので、町おこし自体のビジョンも見えてこないのは微妙だと感じた
いずれにせよ、由香を含むタンプダンサーたちの見せ場を作るために物語があるのだが、俯瞰すれば「外部から来た女将候補がPRに利用されているだけ」だったりする
その候補者たちもキャラ付けのために背景が色付けされているが、それらもテンプレート的なものが多い
同じ接客業の貴賤のためにキャバ嬢が出てきたり、人手が足りない旅館の女将が参加したり、人員不足なのに外国人は不要という旅館があったりと、町おこしと各旅館の思惑が合致していないのも微妙なのだろう
物珍しさに和服を着た人がタップダンスを踊っているという構図に健全性があるのかはわからないが、それが町おこしになるかどうかは置いておいても、ラストのステージで無駄なトラブルを挿入するのはセンスがないとしか言いようがない
トラブルはステージ前まで、ステージが始まればタップダンスに集中する
せめてこの流れだけは守らないと、この映画の存在意義が失われてしまうのではないだろうか