「ゴジラ、海へおかえり」ゴジラ-1.0 恍惚のヒーローさんの映画レビュー(感想・評価)
ゴジラ、海へおかえり
ゴジラを『ジョーズ』の巨大ザメのように人類が対峙する正体不明の怪物として描こうとしたのはわかるし、VFX映像は会心の出来だったが、ストーリーはせっかくよい食材を揃えたのに肝心なところで調理の方法を間違えたような作品だった。
ラストは、あれはゴジラに戦闘機をぶつけるんじゃなくて、主人公・敷島がゴジラを攻撃せずにちょうどナウシカが王蟲を導くようにゴジラを彼の棲みかへと帰すべきではなかったか。
そうすることで敷島が1945年に大戸島でゴジラを攻撃しなかったことに別の意味が生まれるとともに、彼が徹底して“不戦”を貫くことがこの映画の放つメッセージを決定的なものにしただろう。
「特攻」というものが見せるスペクタクルが映画的に「絵」になって観客にカタルシスをもたらすことは理解できる。しかし、元海軍の男たちの海の“祭り”として描かれる「わだつみ作戦」同様に、「この国と愛する家族を守るため」という美名の下に行われる「特攻」という有害な男らしさの発露はここでは結局のところアメリカとの戦争の「敗戦」へのリベンジとして描かれているに過ぎない。負けたのが悔しい、次は絶対に勝つ、と。
撮影の順序は逆だが、朝ドラ「らんまん」で一つ一つの植物の名前にこだわり「雑草という名の草はない」と語る主人公を演じた神木隆之介をあえて特攻隊の隊員として描くのならば、戦闘機一機一機にはそれぞれ名前のある生きた人間が乗っていたこと、彼らは自機とともに生きて帰ってくるべき存在だったことをこそ強調しなければならなかったはずだ。
大戸島でゴジラが人間を襲ったのは恐怖に駆られて整備兵の一人が銃撃したからだし、ゴジラが敷島たちの乗る機雷を爆破する木造船を襲ったり東京で大暴れしたのは米軍の原爆実験で被爆したことへの怒りだった。
ならば憎むべきは戦争だし、核兵器だろう。この映画の中でゴジラの口に戦闘機をぶつけて倒すことは真の問題解決ではないはず。
爆弾を積んだ飛行機で目標に突っ込んで自爆することは、戦争を否定することにも核兵器の存在やその使用を拒否することにもならない。
かっこいい軍艦やゼロ戦、実戦に間に合わなかった幻の戦闘機に夢中になるのはせいぜいプラモデル制作の中だけにとどめておいてもらいたい。
1954年の“初代ゴジラ”の精神を受け継ぐ物語を描くつもりなら、戦争や特攻という非人道的行為を自分自身の不全感の解消に利用することなどやめて、永遠に海の底へ沈めておくべきだ。
ゴジラという怒りの化身を生み出したもの──それは私たち人間の中にこそある。