「きけ わだつみのこえ。 これは「セカイ系ゴジラ」という新しいジャンルだ!」ゴジラ-1.0 たなかなかなかさんの映画レビュー(感想・評価)
きけ わだつみのこえ。 これは「セカイ系ゴジラ」という新しいジャンルだ!
1954年に誕生した怪獣映画『ゴジラ』を、設定も新たにリブート。
太平洋戦争末期、特攻隊員の敷島浩一は大戸島の守備隊基地において、島に伝わる怪物「呉爾羅」の襲撃を受ける。
それから2年、ビキニ環礁での水爆実験の影響で巨大化した呉爾羅が突如として東京を襲撃。大戸島での出来事により心に傷を負った敷島は、再びこの怪獣と直面することになる…。
監督/脚本/VFXは『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや『永遠の0』の山崎貴。
主人公、敷島浩一を演じるのは『千と千尋の神隠し』『君の名は。』の神木隆之介。
敷島の下に身を寄せる女性、大石典子を演じるのは『エイプリルフールズ』『君の膵臓をたべたい』の浜辺美波。
機雷処理を請け負う船「新生丸」の見習い乗組員、水島四郎を演じるのは『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』『万引き家族』の山田裕貴。
新生丸の乗組員である元海軍兵器開発者、野田健治を演じるのは『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや『64 ロクヨン』シリーズの吉岡秀隆。
敷島の隣人、太田澄子を演じるのは『百円の恋』『万引き家族』の安藤サクラ。
新生丸の船長、秋津淸治を演じるのは『20世紀少年』シリーズや『ソロモンの偽証』シリーズの佐々木蔵之介。
『ゴジラ』シリーズ70周年(正確には69周年だけど…)記念作品。そして国産『ゴジラ』としては30作目なんだって。沢山ありますねー。
『シン・ゴジラ』(2016)の大ヒットから7年、再び生み出された国産ゴジラくん。まず思ったのは『シン・ゴジラ』のとことん逆を行こうとしている作品であるということ。
平成と昭和という時代設定の違いだけではなく、家族の物語を徹底的に排除し官僚主導でのゴジラ退治を描いた『シン』に対して、『-1.0』では日本政府はまるで描かれず、家族と民草の物語に終始している。
俳優陣の使い方も対照的で、とにかく日本中の有名俳優をズラーっと揃えた『シン』に比べ、本作はメインキャスト以外はそれほど有名な役者は出演していない。
山崎貴監督の提案なのか市川南プロデューサーの指示なのかは不明だが、こういう風に同じ題材を全く逆の視点から描いてみせるというのは面白い試みだと思う。
逆を行きながらも、映画開始直後からゴジラが登場する点や市街地壊滅を容赦なく描く点など、『シン』の美点がちゃんと踏まえられている。前作の良さをブラッシュアップしつつも、そこに胡座をかかず別のルートを模索する。その様なハングリー精神が感じとることが出来た。
まず結論から言うと、私は本作を楽しみました。…楽しみましたが、正直言いたいことは山ほどある!
極端な話、加点法で採点すると100点だが減点法で採点すると0点みたいな映画だと思ってます。
ゴジラのVFXやその見せ方に関しては文句無し!!国産ゴジラでは歴代最高、ハリウッド版と比べても全く遜色のない出来だったと思います。
冒頭でのゴジラサウルスの襲撃からすでに「おっ!怖い!」って感じだったのだが、それすら前フリにしてしまう堂々たる真打登場には心底痺れた!デケェぇぇーー!!強えぇぇーー!!
木造船でのチェイスから銀座上陸まで、この一連のシークエンスはシリーズ屈指の迫力だったと思います。
追われる恐怖となす術なく蹂躙される恐怖、異なる2つの恐怖を用意し、それを余す所なく味わわせてくれたわけで、加点法ならもうここだけで100点!💯
ゴジラ描写が最高だっただけに、その出番の少なさには不満が残る。もっと!もっと!もっと全てを破壊してくれゴジラくん!!
予算の関係など諸々の事情があるのはわかるが、襲撃するのが銀座だけというのは勿体無い。
ゴジラの襲撃とそれに翻弄される人々、そこだけで120分間走り切ってくれていたら…。そんな贅沢は望めないにしても、せめてあと30分ゴジラの出番が長かったら、本作は歴史に残る大傑作になっていたことでしょう。
ゴジラの攻略法もユニーク。
水圧の急激な変動によりゴジラを内側から破壊すると言う「海神作戦」には、よくぞそんな方法を思いついたなと感心してしまいました。
作戦内容は無理矢理すぎるし、立ち泳ぎするゴジラの図はシュールだったものの、"水泡に帰す"という初代を思わせる構図でありながら非常にフレッシュな攻撃方法を生み出したことは賞賛に値すると思います。
そして他のゴジラ映画と本作を分ける最大の特徴は、人間サイドに明確な主人公を据えたという点。
これまでのゴジラ映画にも主人公はいたものの、結局はゴジラの周辺人物という枠を越えることはなかった。
しかし本作の主人公、敷島は違います。彼に引き寄せられるかのようにゴジラは現れる。ゴジラと敷島の間には偶然を超えた宿命のようなものが横たわっているのです。
「夢か現かわからない」と度々呟く敷島ですが、確かに本作は彼の内的世界であると言えなくもない。本作のゴジラは、彼の罪の意識が具現化した存在として描かれているからです。
特攻から逃げ出し大戸島にたどり着いた直後、敷島はゴジラに初めて遭遇します。その後、心の病に苦しみながらも典子と明子という”家族”、そして気の合う同僚と出会い、再び人生に向き合あい始めた矢先、再びゴジラと邂逅するのです。
本作のゴジラはとにかくブチギレてる。とにかく怒気に満ちており、明確な意図を持って銀座を破壊し尽くしている様にも見て取れる。
一体何故こんなにもキレているのか。それを紐解くには、本作のゴジラが何を表しているのか、それについて考えなければならないでしょう。
本作のゴジラ、一見すると戦争で死んでいった英霊、特に特攻により若くして命を散らさざるを得なかった英霊の怨念が形を取った存在の様に見えます。
特攻隊員の英霊の怨念だからこそ、それを鎮めるために戦うのは元海軍の人間でなくてはならなかったのだろうし、最後の敬礼も彼らの無念に捧げたものだったのでしょう。
しかし、それだけだと理解は不十分な気もする。銀座の街はともかくとして、整備兵たちまで襲撃した理由を説明することが出来ませんからね。
ここは単純に特攻隊員の英霊であると読み解くよりは、むしろ特攻隊員たちに恨まれていると思い込む、敷島の妄念が形を成した存在であると考えた方が良いでしょう。
先に述べた様に、ゴジラが現れるのは敷島が心の平穏を見出した時。彼の中の罪悪感を思い出させる様に、ゴジラは敷島の前に現れ、目の前の全てを破壊し尽くすのです。
トラウマの克服=ゴジラを自らの手で滅ぼす、という図式が成り立つのは、この物語が日本国民vsゴジラというマキシマムなものではなく、一人の男が心的外傷を癒すまでのミニマムなものと言うことの証明に他ならず、それをもって「夢か現かわからない」という発言がなされたのだと理解しています。
あれこれと書きましたが、とどのつまりこの映画は個人の問題が世界の運命と直結しているという「セカイ系」に属する、世界初のセカイ系ゴジラ。
セカイ系というジャンルの第一人者、庵野秀明がそれを意識せずにゴジラを撮ったのに、あんまりセカイ系って印象のない山崎貴が「じゃあ俺がやるよ!」と言わんばかりにこの手の映画を作り上げたというのはなんだかとっても面白い。やはり『シン』と『-1.0』は、ニコイチとして鑑賞するのが一番楽しめる形の様な気がします。
以下に述べるのは気になった点。減点法だと0点だと述べましたが、その減点の部分。
まぁもうなんと言っても人間ドラマのつまらなさ!!これに尽きる!!
ただつまらないだけならまだしも、セリフが臭い!演技が臭い!演劇見てんじゃないんだよこっちは💦
おそらくはハリウッド版の10分の1くらいの予算で作られているこの『-1.0』。当然そんなに長くゴジラを登場させる訳にはいきません。ギャラが高いからね。
ゴジラの出番を増やせない以上、その代替として人間ドラマを描かざるを得ないというのはわかるが、その内容が凡庸。そして冗長。
冒頭こそ、突然のゴジラの襲撃というサプライズがありますが、そこからしばらくはゴジラくんの出番がなく、ひたすらに「ザ・邦画」な画面を見させられる。
ここの何が辛いって、出てくる人たちが全然終戦直後の日本人に見えないっ。セットこそ丁寧に作ってありますが、だからこそ逆に小綺麗に見えてしまう。大体、主演の2人が神木隆之介と浜辺美波って…。朝ドラかっつーの。
映像がパキッと明るすぎるのも、テレビドラマ感を強めている様に思う。もっとこう、フィルムで撮影しましたってな具合の汚れ感、ヘタれ感が欲しいところである。
特攻隊員が主人公の映画といえば、岡本喜八監督による悲喜劇『肉弾』(1968)なんかをいの一番に思い出してしまうんだけど、『肉弾』を観た時の本当っぽさ、実際には戦後20年経ってるんだから全然本当じゃないんだけど、それでも「うわっ!戦中だっ!」と思い込まされてしまうほどのリアリティを、本作からは感じられなかった。
じゃあなんでこんなに偽物っぽいのかと言うと、役者の演技に力が入りすぎていることが一つの原因だと思う。佐々木蔵之介が顕著なんだけど、切迫した状況に置かれた人間の演技=力の入った演技になってしまっており、喜怒哀楽の表現は毎回全力100%!みたいな、とにかく暑苦しい人間ばかりが登場するという事態に陥っている。歌舞伎っつーの。
さっきまで普通だったのに、急に怒100%みたいな展開がいくつかあって、そんなんで日常生活送れるのか?と心配になってしまった。
『万引き家族』(2018)であんなにリアリティのある芝居をしていた安藤サクラも、今回は演技過剰。まだ『万引き家族』の方が終戦直後に見えるくらい。
子役の女の子も全然演技が出来ていなかったし、多分山崎貴監督は役者の芝居に興味がないんだろう。
唯一、吉岡秀隆だけはいつものザ・吉岡秀隆的な力の抜けた芝居でとっても良かった。他の役者も吉岡秀隆くらいの抜け感を意識しても良かったんじゃない?
セリフの臭みも大いに気になるところ。
「やったか!?」はまぁギャグとして受け取るとしても(「やったか!?」で本当にやれたことってあるのだろうか?)、「日本の未来はお前らに任せた!」とか「なんでノリちゃんを嫁にしてやらなかったんでぃ!」とか、そんなことまでセリフで言わなきゃいけんのかいな?
セリフがおおよそ生の人間の言うものではないので、余計人間ドラマがチープで、偽物っぽいものに映ってしまっていた様に思う。
本作を終戦直後という時代設定にしたのは、”反戦”をメッセージとして込めるためだと思われる。世界情勢はどんどんきな臭くなっている訳だし、そのメッセージ自体は至極正しい。
ただ、それを訴えているにしては少々血の気が多すぎる。先の大戦で敗れ悶々としていた元軍人の男たちが「リメンバー・パシフィック・ウォー!!」と意気込んでいる様に見えなくもない。
反戦云々というより、ただ震電と高雄をゴジラにぶつけたかったからこの時代設定にしたんじゃあないですか監督?
「国家に頼らず、自分たちの力でこの国を守るんだ!!」と言うのは新保守主義的思想の人たちに受けるだろうなと思った。それ自体の是非は置いておくにしても、その作戦行動に元軍人や旧海軍の兵器を持ち出すという点には少々の危うさを感じずにはいられない。
また、「男は仕事女は家庭」をモロに描く旧態依然な価値観についても少々の危うさを感じる。『シン・ゴジラ』では女性も戦いの真っ只中に居たのに対し、本作では完全に蚊帳の外であり、数少ない女性キャラクターに与えられる役割は主に子供の世話。
終戦直後の日本が舞台なんだから、女が出張る方がおかしい!と言う意見もあるだろうが、それならそれで女性キャラクターにも正当な役割を与えるべきである。
「女が戦場にいるなんてのは気に入らないんだよ!」という、ヤザン・ゲーブルのような価値観の人間の隠れ蓑として、戦後という時代が扱われるのだけはご勘弁。
と長々と書いてきたが、好き嫌いはあれど語り甲斐のある映画である。
最後に一言。やはり伊福部昭先生は偉大だ!!
セカイ系のくだり、とても面白かったです。冴えまくってますね。
> そんなことまでセリフで言わなきゃいけんのかいな?
あはは。確かに。
特撮監督に徹する手もあると思いますけどね。
共感ありがとうございます。
現代人たちの戦後劇、もうこれは逃れようがないのでしょうか。玄関先まで父を出迎えてカバンを受け取り、着替えを手伝う。お盆にビールを乗せて持って来る・・男にとって夢のような光景が、第一作には遺ってますね。