「近親相姦の罪責と外国の抑圧への抵抗を小さな少女に押し付けて殺そうとする論理=story」聖なる証 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
近親相姦の罪責と外国の抑圧への抵抗を小さな少女に押し付けて殺そうとする論理=story
冒頭で映画のセットがむき出しで映し出され、語り手は"We are nothing without srories."(我々は物語なくしては生きられない)と述べる。本作の意図はここであからさまに提示されている。
ここにいうstoryとは、アイデンティティとそれを取り巻く価値観や世界観、思想、宗教を指す。本作ではキリスト教的世界観に裏付けられた自己認識だと考えておけばいい。
アイルランドの11歳の少女アナは、4ヵ月間何ひとつ食べないでも生きている奇跡の少女と話題になる。地元のリーダーたちはそれが果たして真実なのか、英国の看護師と修道女に観察を依頼する。
主人公の看護師が見た少女は始めは健康そのものだが、看護師が少女と親たちとの接触を止めさせると、徐々に弱っていく。少女が当初、「マナ(神の与える食べ物)を食べている」と言っていたのは嘘で、母親がキスの際に口移しで食べさせていたのだ。しかしウソがばれても、少女はいっさい食べようとしないまま、やがて瀕死状態に陥っていく。
何故そのように断食しなければいけないのか。そこが本作のポイントである。少女の告白を聞こう。
「死んだ兄は地獄の業火に燃やされ続けている。兄を救わなければならないから、兄の魂が地獄から解放されるまで断食を続けるのだ。私が9歳の頃からずっと、兄は妹としてだけでなく妻としても二重に私を愛してきた。その後、兄は病気になった。神聖ではなかったために罰を受けたのだ。母によれば兄が死んだのは私のせいだ。私も兄を愛していたのだから」
働き手の男手を死なせた責任を妹に押し付けて口減らしをするとともに、近親相姦の痕跡を抹殺しようとする父親の意図と、隠れてそっと娘を生かし続けようとする母親の思いやり、そして恐らくは食べなくても生きている娘に「ジャガイモ凶作と英国地主による小麦収奪にも負けないアイルランド人の強さ」を仮託させたがったアイルランド社会の願望が、最終的にはキリスト教の贖罪の論理にすり替えられて、少女を殺そうとしていたのである。
人間に必須なstoryは、ここで家や国家社会に便利で都合のいい、個人を収奪し圧殺するものに転化する。
教科書的に言えば、彼女に必要なのは「現実を直視し事実に基づくstoryを作り直すこと」ということになるのだが、そんな単純な解決策を考えるのは小生のような素人の観客だけであろうw
映画は最終的に、少女の信じる土俗信仰にある「聖なる泉」により、彼女のstoryを自ら書き換えさせ、再生しようとするのである。そしてご都合主義のカトリック教会と古い陋習の支配するアイルランドから新大陸に渡り、新たな生を拓いていく姿を描く。
冒頭のむき出しのセットは、storyとは人間の根底にあって動かせないもののように見えるが、それは人為的であり、いつでも書き換えできるのだ、という監督のメッセージである。
久しぶりに剛球一本やりの作品を観た気がする。