聖なる証のレビュー・感想・評価
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『ルーム』の原作者が描く、もうひとつの「閉じ込められた女性」の物語
原作と共同脚本が『ルーム』のエマ・ドナヒューであることに合点がいった。時代設定は違えど、どちらも特殊な状況に封じ込められた女性の物語で、抑圧しているのは社会であり、また自分自身でもある。『ルーム』と違うとすれば、この映画のアナは状況から抜け出す力を得るためには、リブという大人の助けが必要だったということだろうか。一方でアナはただ非力な存在ではなく、あかの他人であるリブを巻き込み、この子を助けたいと思わせる存在でもある。
宗教全般を否定している映画ではないが、はっきりと狂信や盲信が害をなすものとして告発している作品だと思うので、日本よりも宗教的反動の強い欧米では、アンチの怒りも買いやすい気はしており、作り手がリスクを怖れずにテーマに向き合った作品である、とも思う。
作劇的には王道と言うべきか、「己の喪失感を克服するために誰かを救おうとする」お話で、個人的な好みでいえば母性に寄りすぎていて、赤ん坊の靴下のような小道具は意図が透けて見えすぎるのでノイズにも感じる。しかし物語を伝えるためにはわかりやすさも必要だとは思う。むしろ難しいテーマの間口を広げるための仕掛けとして機能しているのなら、悪しざまにいうことでもあるまい。
近親相姦の罪責と外国の抑圧への抵抗を小さな少女に押し付けて殺そうとする論理=story
冒頭で映画のセットがむき出しで映し出され、語り手は"We are nothing without srories."(我々は物語なくしては生きられない)と述べる。本作の意図はここであからさまに提示されている。
ここにいうstoryとは、アイデンティティとそれを取り巻く価値観や世界観、思想、宗教を指す。本作ではキリスト教的世界観に裏付けられた自己認識だと考えておけばいい。
アイルランドの11歳の少女アナは、4ヵ月間何ひとつ食べないでも生きている奇跡の少女と話題になる。地元のリーダーたちはそれが果たして真実なのか、英国の看護師と修道女に観察を依頼する。
主人公の看護師が見た少女は始めは健康そのものだが、看護師が少女と親たちとの接触を止めさせると、徐々に弱っていく。少女が当初、「マナ(神の与える食べ物)を食べている」と言っていたのは嘘で、母親がキスの際に口移しで食べさせていたのだ。しかしウソがばれても、少女はいっさい食べようとしないまま、やがて瀕死状態に陥っていく。
何故そのように断食しなければいけないのか。そこが本作のポイントである。少女の告白を聞こう。
「死んだ兄は地獄の業火に燃やされ続けている。兄を救わなければならないから、兄の魂が地獄から解放されるまで断食を続けるのだ。私が9歳の頃からずっと、兄は妹としてだけでなく妻としても二重に私を愛してきた。その後、兄は病気になった。神聖ではなかったために罰を受けたのだ。母によれば兄が死んだのは私のせいだ。私も兄を愛していたのだから」
働き手の男手を死なせた責任を妹に押し付けて口減らしをするとともに、近親相姦の痕跡を抹殺しようとする父親の意図と、隠れてそっと娘を生かし続けようとする母親の思いやり、そして恐らくは食べなくても生きている娘に「ジャガイモ凶作と英国地主による小麦収奪にも負けないアイルランド人の強さ」を仮託させたがったアイルランド社会の願望が、最終的にはキリスト教の贖罪の論理にすり替えられて、少女を殺そうとしていたのである。
人間に必須なstoryは、ここで家や国家社会に便利で都合のいい、個人を収奪し圧殺するものに転化する。
教科書的に言えば、彼女に必要なのは「現実を直視し事実に基づくstoryを作り直すこと」ということになるのだが、そんな単純な解決策を考えるのは小生のような素人の観客だけであろうw
映画は最終的に、少女の信じる土俗信仰にある「聖なる泉」により、彼女のstoryを自ら書き換えさせ、再生しようとするのである。そしてご都合主義のカトリック教会と古い陋習の支配するアイルランドから新大陸に渡り、新たな生を拓いていく姿を描く。
冒頭のむき出しのセットは、storyとは人間の根底にあって動かせないもののように見えるが、それは人為的であり、いつでも書き換えできるのだ、という監督のメッセージである。
久しぶりに剛球一本やりの作品を観た気がする。
どんよりした空気に満ち満ちている
フローレンスピューの素晴らしい演技と聞けば
見ずにいられないのだけど、
とにかく観たら重い空気に満ちていて
とてもしんどかった。
オープニングのセットからの入りが自分には
何を意味するのかよく分からなくて、
なんだ作り物かよと言う雑念が入ってしまった。
宗教観の話なので、
熱心な信仰をしているとまた違うのかもしれないが、
自分には、洗脳されこうでなければならない、と言う
意識が皆の中で共有されて雁字搦めになった哀れな
家族と、真実を受け入れられないのに観察しろと
命じた哀れな信仰者たちとしか思えなかった。
難しいし重いし、
4ヶ月何も食べない娘がどうやって生きてるのか?
と言うミステリーをもっと大々的にエンタテインメント
仕立てでやってくれればよかったのになと
思う。
まぁでも、日本でも話題になってた宗教二世の
問題もこういう感じで、周りは逃げればよいと
簡単に言うけど、親が全ての子どもにとっては
難しいよなと思いました。
フローレンス・ピューの重厚な演技
抑圧された少女
ホラーかと思いきや、ヒューマンドラマ。
最近の映画は注意書きが多い。
児童虐待に性暴力。
もはやネタバレですがな。
食べない少女。
キリスト教徒の中で奇跡と言われ、もてはやされるが
実は少女は家族や教徒達に抑圧され、聖者であることを心理的に強要されていた。
看護士の監視をつけたため、食事が取れず衰弱する少女。それを知りながら、看護士以外は誰もこの愚行を止めようとはしない。
中世で断食少女といわれ、実際にこういうことがあったというんだから、ゾッとする。
当時、私たちが思うよりずっと人々は閉鎖的で、身動きとれない時代だったんだろう。
命を賭して、少女を救い出す看護士。
ミッドサマーで泣き喚いていたピューだが、たくましい看護士役は適任だった。
派手な演出はないものの、見応えがあった。
宗教映画としてだけ見るのはもったいない
基本的には、男性による女性の抑圧の話です。
しかしそれにキリスト教の衣が着せられています。
4ヶ月も食べずに生きている少女は神に選ばれた奇跡の存在なのか?という謎解き要素は、実はこの物語の主ではありません。
「奇跡」であることにしたい聖職者や医師(みんな男性)がいて、そこに従属せざるを得ない家族、加えて、男性性の暴力の被害者である少女が、その男性の罪を背負わなくてはならないと思いこまされているという構造が重なっています。
解決策……と言えるのかわかりませんが、少女を救うにはああした方法しかないでしょう(ある意味ではリアリティを損ないかねない大胆な展開)。
しかしだからこそ、宗教はもちろん、科学や客観性では不可能な「私たちに必要な物語」なのですね。
それを示唆する映画のメタ構造も効果的です。
力作
19世紀半ばアイルランド。ロンドンの看護師エリザベスが4ヶ月絶食しているという少女の観察を依頼される。閉鎖的な田舎町の一家の娘アナはしかし健康であった。何で食べないのかという質問には「天のマナを食べている」と答え、朝に夕にお祈りを唱え、とにかく信仰に厚いのだった。アナには聖なる明石として頻繁に訪ねて来る人がおり、その人らから食べ物をもらっているのか、と疑う。エリザベスはアナに負担になっていると判断して家族にも面会を禁じる。
ある日アナやこの地域の取材にロンドンから記者が訪ねて来る。アナは彼に村の泉を見せ、彼はアナに世界旅行の話をし、鳥カゴのおもちゃをプレゼントする。
徐々に衰弱していくアナに無理矢理食物を与えようとするが、ある時、母親が面会時に口移しで食べ物を与えていたのだと気づく。なぜそこまでして食べないのかアナに問い詰めると、9才の時に死んだ兄とは二重の関係、つまり兄と妹プラス夫と妻の関係でもあった、と告白される。
口移しで食べ物を与えていたことは、当然、彼らには否定され、村の聖職者や医師に説明しても信じてもらえず、このまま衰弱死するアナを見殺しにできないと判断したエリザベスは、一家が夜のミサで留守にする日に、ある企てを実行する。エリザベスは皆には未亡人と話していたが、実は生後3週間の子どもを亡くしており、まだ救える子どもを見捨てられないのだった。
泉に瀕死のアナを連れて行き、一旦目を閉じさせて、ナンに生まれ変わらせるエリザベス。
火事の一件の調査後、それまで常に彼女と交代で観察していた修道女がエリザベスに質問する。何か見られているのかと警戒するが「胸騒ぎがしたのでミサを抜け出すと、天使が馬に乗った少女を連れているのを見た」と言う。
ある女性のモノローグでスタジオのセットから始まるオープニングと、そのセットで終わるラスト、という凝った作りも含めて、力作だと思った。
宗教だけでは生きられない
もし本作が実話を基にした作品か、でなくともミステリー要素の高い作品だったら、もっと違ってたであろう。
そのいずれでもなく、こんなにも宗教色が濃かったのは難だった。
1862年、アイルランド。
4ヶ月何も食べずに生きている少女。
その調査を命じられたイギリス人看護師。
これだけ聞くと非常に興味惹かれるのだが…。
開幕ショットは、まだ未完成の骨組み露の美術セット。そこに、「『聖なる証』をご紹介します…」とのナレーション。映画の定石を覆すような、ぶっ飛びの開幕。
つまりこれ、あくまで個人的な見解だが、作品自体は作り物。しかし、語られる話から何を感じ、何を信じるか。
…という事ではなかろうか。(という事でいいのかな…?)
やはり誰もが、摂食せず生きる少女の秘密が気になる所だが、ズバリ種明かし。
少女は天から授かる“マナ”で生きているというが、その“マナ”というのが母親からのキス。つまり、母親が食べ物を口に含み、口移しで与えている…との憶測。(当人たちは否定)
ペテンやないかい!…はともかく、そこがフィーチャーされている訳でもなく。
生物学的な驚きの秘密ではなく、これにも宗教色関わり、一番肝心な所がちとう~ん…。
やはり宗教絡むと、分かる人には分かる、分からない人には分からない。
少女が断食するようになったのは、ある過去のトラウマから。実兄からレイプされていた。その兄が死去。兄を死に追いやったのは、自分。地獄で苦しむ兄を救う為に、断食の儀式を捧げている。
宗教的な死生観、救済も分かりにくく…。
ヒロインにもトラウマが。かつて子供を身籠るも、命を落とし…。
少女を取り巻く大人たちの思惑。
娘を“奇跡の子”と信じ、献身する家族。が、それが却って娘の命を左右する事に。
新聞や取材などで利用しようとする輩。
調査を命じた教会側。調査報告を受け、断食の秘密が宗教が関わっていると知るや否や、報告を揉み消し。
“マナ”で生き永らえているとは言え、全く栄養が足りない。日に日に衰弱している。死を望む少女。神の思し召しの下に。
つまりは、宗教が一人の少女を死に至らしめる。こんな事、知られてはいけない。
何だかこのご時世と…。
客観的に、自分なりの解釈でレビューを書いていく内に、それなりに深いものも。
主演フローレンス・ピューや少女役キーラ・ロード・キャシディの熱演。
人里離れた閉塞感、地方の外れの何処か空虚感、全体覆う不穏感…セバスティアン・レリオの重厚な演出。
クオリティーは充分だが、とにかく重く、暗い。
難解でもあり、宗教観がそれに拍車をかける。
私はこの作品に、信じるものや救いを見出だせなかった。
もどかしい
カルト的なやつ
何も飲まず食わずでも健康な少女を巡る謎。
そのことを調査(監視)しに来たフローレンス・ピュー。飲まず食わずで人が生き続けられる訳がないと監視を続けて行くが、次第に少女は弱っていき…。
なんか、こういった小さなコミュニティと宗教って、くっつくと とんでもないことになるよなって。
近親相姦→兄の死→お前のせい→許しを乞え
って流れなんだけど、これが起きてるのが また家庭内だから、外部からは“見えにくい” のと、情報も遮断されるし 他者の言うことを受け入れないし…こう言うのがマインド・コントロールって言うんだよね。
私は無宗教だし、カルトなんて以ての外だと思ってるので、こう云う人の気持ちが余り理解出来ないけれど、こうやって人(少女)を縛り付けるのって本当に残酷。
最後はピューが救いの手を差し伸べる訳だけど、映画ながら宗教(カルト)という思い込みの鎖から開放されて幸せに暮らせると良いなと。
因みに、トム・バークがいた(笑)!
久し振りにみた〜
ほとんどカルトっぽい
食べずには生きられない
16世紀から20世紀にかけ英国で定期的にFasting girl(=断食少女)というものが現われたそうだ。
何ヶ月も食べていないと主張する少女およびその家族のことで、目的は教区からの寄付や恩恵にあずかり家計を潤すことにあった。
こんにちでも子を脅迫して学校に行かないというマーケティングをしている親がいるし、環境活動をやらせて巨財をきずいたスウェーデンの少女とその親もいる。
それらを顧みれば暗黒時代にFasting girl詐欺が横行しても不思議はない。
ただしキリスト教がやっかいでおそろしいのは食べずに生きているという与太話に猶予が生じるところ。
そもそもがFasting girlを擁立する一家の最終目標はバチカンのような高位のところから奇跡認定されることだ。食べずに生きられるのは神聖さのしるしと見なされる。
つまり中世キリスト教世界ではFasting girlが「もしかしたらほんとかもしれない」と勘案された。だからこそ定期的に彼女たちが現われた──わけである。
何人かのFasting girlが後世に伝えられていて、その伝承にもとづいてアイルランド系カナダ人作家のEmma Donoghueが2016年にThe Wonderというスリラー小説を書いた。
それをチリの監督Sebastián Lelioが映画にし、Netflixに乗り、聖なる証と邦題された。──のが、これ。
──
4ヶ月も食べてないと主張する少女とその家族があらわれ、教区がその審判員として修道女と看護人を派遣する。交代で二週間少女を観察せよとのお達し。──。
ところが信心深い一家は騙り(詐欺)を目的としておらず、断食とそれによってもたらされる死を試練ととらえ、当人さえも殉教を望んでいる。
それが映画の格調をあげ、テレーズやヨアンナのような宗教気配もあった。
が、非科学的な親が少女をみごろしにする話になっているので、立脚点は宗教サイドではない。むしろベルイマンのような「神の不在」映画といえる。
あまり明白にはされないが、アンナ(Kíla Lord Cassidy)は亡くなった兄から性的に玩弄されており──それを見とがめた親が兄を責めた結果、なんらかのかたちで兄は世を去る。で、亡くなった兄にたいする贖罪として親とアンナは断食を敢行するという話。(──だと思われる。)
リブ(フローレンスピュー)がやってくるまでは口移しができていたが、引き離されたことで神の意思にまかせる──ことになる。・・・。
なお、物語全体が俯瞰されるように撮影舞台がむきだしになっている状況から入り/閉まるがメタフィクションの気配が効果的──というわけでもなかった。
が、映画はいい。重厚で魅力的な雰囲気。豊頬で真っ白なアンナ。目力の据わるリブ。引き込まれた。
──
ピュー、たくましい。ずんぐりでがっちり。強い女の印象。放火し人様の娘を奪取し豪州へ飛ぶw。そんな強引が暴れない女優、ほかに居るだろうか?
Paige役にBelova役、豪胆だし、ずっとアメリカ人だと思っていた。イギリス人だなんてはじめて知ったw。
──
(余談だがこれを見るまえに荻上直子監督の川っぺりムコリッタという映画を見た。外国映画との差を感じたときに日本映画のポジション=存在意義について気づくことがある。それは「じぶんのさくひんを堂々と世間に披露しよう」という強いメッセージ。文でも絵でもなんでもいいがわたしがつくったものは世に出しても恥ずかしいことじゃない。──と日本映画は教えてくれる。)
またNetflixで
またNetflixでざわつく映画に出会った。娯楽映画好きには絶対無理系。話はひたすら平坦で謎はあるけど挫折者いっぱいやろなぁ。で、真相解ってもやるせない。これにパワー・オブザ・ドッグ思い出す自分は変なのかもやけど、因習、思い込み、今回は特に信仰(日本人特に外国の信仰はわからないと思うけど、ちなみに自分も映画etcで少し知ってるだけです。)に翻弄される登場人物は同じと思える。カンバーバッチもアン(役者名覚えてません)も束縛から開放されるけど棘だらけのカンピオンより今作はハッピーエンド。観終わって何時間も経ってからざわつきが来る映画にまた会えました。
えらそうに書きましたが自分の今年1番は娯楽作トップガンです。
最後にピールもパワーのカンバーバッチ並みに芸達者と思わせてもらいました、ということで終わります。
食べない少女と食べるピュー
贖罪VS実存主義か?僕はそう見た。
アイルランドと大英帝国の宗教の違いを大英帝国側から見た話だと思う。
しかし、監督はどこの国の人?
まぁ、難しい話だと思う。尊厳死を理解できる民族なのだろう。
哲学的にも宗教感からも、僕には理解し難い。
良いか悪いかは別にして、人間が自ら生死を選ぶ事の難しさを語っていると思う。
最後、僕は単純に良かったのではないかと感じるが。
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