「アデルのままのアデル」そんなの気にしない 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
アデルのままのアデル
アデル、ブルーは熱い色にでていたアデル(エグザルホプロス)がでていたので見た。廉価航空の乗務員の話。
見ていて思ったのは部分的で辺境なこと。
日本では一般的に物語は包括的であろうとする。また中央値(都鄙なら都、謂わば代表的であること)であろうとする。部分的であったり辺境のことになりにくい。
もし日本で部分的で辺境なことを語るなら、地方でしがない職についているという卑屈なポジションに立ってしまうのであり、わが国では(東京でキャリアに就いているというような)中央値ではないすべてが哀愁の象徴になってしまうきらいがある。
言いたいことを解っていただけるか解らないが、日本では中央値の物語でないことはぜんぶ成功しなかった者のペーソスになるわけ。
つまり俺はまだ本気出してないだけみたいな話ってとりわけ卑屈に語んなくてもそんな奴山ほどいるわけであって、地方人の逡巡がさも異常事態のように語られることで、加えて都鄙が“格”に昇華されてしまうことで翔んで埼玉のようなものがあらわれ、けっきょく中央値を持たないすべての日本人に自虐が宿ったという話。
主人公は格安航空につとめるキャビンアテンダント。全体ではなく中央でもなく、ヨーロッパ的アンニュイとドキュメンタリーのようなムード。主人公の屈託は母を亡くしたことで、その事実から逃れるように働きまくる。映画はいくつかのオブセッションを経て哀しみを乗り越えようとする人を描いていた。
映画は主人公の安っぽさを強調している。大仰な目尻ライン。クレヨンでかいたみたいな口紅。働き者だがオフは酔いつぶれ勤務中も一杯ひっかける。壊れそうになっている女。瓦解の一歩手前の女。そういうペーソスを拾っていく。
アデル~(2013)はじぶん的ベストのひとつだがアデルを見たのもあれ以来だった。
特長は半開き口とそこからちょっと見える齧歯。無邪気さと淫奔さの緩衝地帯。フェミニンだがぶっきらぼうでふてぶてしい。
そしてやはり演技の気配がない。
Abdellatif Kechicheだったからあのアデルができたというのもあるが、アデルだったからあのアデルができたんだろうと、これを見て思った。
このムードは英米にはない。(リアルな演技以前にドキュメンタリーのごとく世界と人物が一体化したムード)
ドライブマイカーがパルムドールをとった年(2021)、カンヌのカメラドール候補にあがったが逃したそうだ。ちなみにアデルの言いにくい姓エグザルホプロスはギリシャ人の父に由縁しているとのこと。
ちなみに原題も英題も邦題より強く「知るかよ」という感じだと思う。