フェイブルマンズのレビュー・感想・評価
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デヴィット・リンチ…だと…?
誰だっけ、この眼帯のおっさん。なんか見たことあるけど…と思っていたら、とんでもねえお人でしたね。
だが、この作品はスピルバーグ監督作。前作ウエストサイド某の悪夢(個人的に旧作が素晴らしすぎたことと、丁寧だけど説教くさい話の運びが気に入らなかったのですが、あくまでいち個人の意見ですと強調)のトラウマにより、今作はどうかとかなり構えて観に行きましたが。
いやあ、良かった。素晴らしかった。
一見していち映画マニアの話かと思いきや、ちょっと複雑な関係性にある家族の話だったり、芸は身を助く話だったり。
監督の自伝的な内容とのことで、どこまでが本当かはわかりません。ただ、どの世代にも満遍なく刺さる内容だと思いました。
個人的に(なるほどなあ)と思ってしまったのが、家族には理解されないけれど、趣味や熱中しているものが共通している他人ほど、自分のことを理解してくれるということ。
好きだから分かり合える。あるいは同じ血を引いているから分かり合える、ということではないんですよね。
そこを、ある程度の妥協点を見つけて歩み寄れるか。
歩み寄らずに己が道を行くか。
ラスト付近の父ちゃんの、とある決断。
家族だけど、自分とは考え方も生き方の選択も違う主人公に向けて、よくあの決断をされたなと少し感動してしまいました。
我が子だけど、自分とは違う一人の人間として尊重すること。
わりと多くの大人たちが出来ていないことだと思います。私もそうですが。
母ちゃんは…うん。
どこからどこまでが演技で、どこからどこまでが本音だったのか。
それはあのデカいイケメンにも言えますが。
やっぱり自分の得意なことを褒められるって、自分が認められたと思えるし、最強に嬉しいことだよなあと感じたお話でした。
監督。今作はとてつもなく良い話でした。はい。
温かなトーンの上に積み重なるドラマ
これは、150分の尺をもつ“90分映画”であり、スピルバーグが監督した“ゴダール映画”である。
誰もが驚いたであろう、あの嘘のように呆気ない終幕を目にした時の感情は、
「えっ、もう2時間半経ったの⁉」
という幸福を伴った困惑である。
この現象は、語り口の徹底した簡潔さにより時間感覚が失われたことに起因するのだが、
150分スクリーンを見続けた後に、もっと見たかった、という名残惜しさを感じつつ、
劇場を後にすること、これこそ映画における至上の幸福というものである。
スピルバーグの映画には、説話的持続から逸脱した異物的シーンが必ず存在する。
この新作はまさに、そんな突出部のみをくっつけてしまった滅茶苦茶な映画だ。
前後のシーンのつながりは非常に不連続であり、
数多の監督がその不連続をごまかそうと躍起になるのを尻目に、
その出鱈目さをこれっぽっちも隠そうとせずにガシガシとシーンをぶつけてゆく。
その強引さはしかし足枷となることはなく、軽快な簡潔さとして逆説的に語りを豊穣にしている。
語り口の徹底した簡潔さ。
初めから終わりまで、そのあまりの簡潔さに困惑し、ハラハラし、そして興奮したものだ。
思えばそれは1カット目から顕著であった。
夜の劇場の前に立ち並ぶ人々をカメラが下がりつつトラッキングし、会話する家族の前で停止する。
映画館に入るのを躊躇う息子を説得する両親の顔は、息子を俯瞰するカメラに未だ映らない。
息子に目線を合わせようと、父がしゃがみ、母もしゃがみ、
顔見せを終えて、劇場の入り口へと向かう3人をフォローパンしてカメラは、
今から息子を決定的な道へと誘うであろう作品が
セシル・B・デミル「地上最大のショウ」であることを明らかにする。
上質な長回しによって口火を切った映画はしかし、
みるみる過激になってゆく簡潔さによって観る者を困惑させる。
例えば、ようやく完成した新居を8㎜フィルムで撮っていた次の瞬間には、
両親の離婚が決定的なものとなっているし、
プロムでのいざこざから些か強引にサミーと母の和解のシーンが提示されたかと思うと、
画面はふいにホワイトアウトし、1年後の父とサミーが同居するアパルトマンへと飛ぶが、
どうしてサミーが父の元へ居候することになったのか、
サミーが就職活動でどんなに苦労していたのかといったことは一切具体的に提示されない。
滅茶苦茶なのはシーンのつなぎに止まらず、
カットのつなぎまでもあらゆる局面で混乱を来している。
雑なポン寄りが至るところで見られた。
前後のカットで人物の立ち位置が変わるところもあった。
デコボコなつなぎにドキドキして、しかしフォードのシーンでは、
マッチに着火→口元の葉巻に火を持っていく、というアクションつなぎが素晴らしく、
そこからさらに同軸上でカメラを引くつなぎもあったように記憶する。
安定しないカット割りは、次が予想できないために常にハラハラさせてくれる。
その心理状態の中、沢山のカットで心を揺すぶられた。
白い照明が大胆に使われた夜のキャンプ場の森なんて、50年代のニコラス・レイの森のようだし、
そこで自動車のライトを背にして踊る母は、「カビリアの夜」のジュリエッタ・マシーナではないか!
簡潔さとは、単純化では全くない。
説話的な持続が一向に不明瞭なままにも拘わらず、
語りたいテーマのために必要なプロットは強引に展開される。
あのプロムの上映で、イケメンが等身大の自分とスクリーンの美化された姿との乖離に動揺し、
逆に劇中で馬鹿にされたことを怒ったいじめっ子の子分を唐突に殴り飛ばすなんて、
一般の水準でみれば感情の流れとしてあり得ないほど突拍子のない展開である。
必要なシーンを脈絡なくくっつけまくるという戦略。
結果、作品の全貌はゴダール作品のそれと限りなく近似することになった。
実際、本作と「気狂いピエロ」とを比較すれば、
単なる印象に止まらない細部の類似がいくらも見つかるはずだ。
150分の尺をもつ90分映画であり、
スピルバーグが監督したゴダール映画。
そんな新作に出くわして、涙をしないわけがない。
こんなに誰にも向けられていない映画が当たるはずがないのは、スピルバーグも承知している。
その好き放題をみたらばこそ、こんなに心は晴れやかだ。
〝予感〟だけでこれだけ魅せてくれるなんて‼️
6歳の時に初めて連れて行ってくれた映画館。
さあ、どんな映画、どんなシーンと出会うんだ?
6歳のスピルバーグよ!
おおっ!あれだったのか❗️(←見たことないくせに、訳知り風)
あれが15歳の時に作った戦争映画だと⁈
凄すぎる❗️(←プライベート・ライアンの素地が既にあったのですね←誰でも分かる)
少年5〜6人による自転車での街中疾走❗️(←ETのあのシーンに繋がるのか!←誰でも分かる)
列車の衝突シーンの再現、眩しいヘッドライトでドレス(ネグリジェ?)が透ける視覚効果、編集力で際立たせるイケメンスポーツマン(←眩し過ぎる自分を見て虚構虚飾で成り立っていることを悟らせる。視覚効果の陰影だけでなく、演出・編集による人の心の陰影
まで映画は表現できるのだということを既に会得していたのか、凄いぞスピルバーグ⁉️)
理系の天才である父は冷静で現実的で理屈っぽいところもあるけれど、人としてはとても寛容。
プロを目指せるほどのピアノ奏者である母は、子どもたちをあるがまま優しく受け入れるけれど、自身の情熱的な感性にもとても素直なだけに精神的には不安定な人でもある。
さまざまなきっかけや家庭環境、人間関係…
そのどれもが、後にジョーズやETやインディ・ジョーンズ、その他数えきれないほどの感動や影響を生み出すスピルバーグを予感させるのです。
この映画、どのエピソードをとっても、後のスピルバーグへの〝予感〟だらけなのです。
2時間半の最初から最後まで、〝予感〟だけで構成されています。
なのに飽きないし、面白い‼️
思い起こせば、未知との遭遇もETも、鑑賞中ずーっと、これから何か驚くべきことやいいことが起きるという予感に包まれて見ていた気がします。
その予感が的中したのか、どうやってそこにもっていくのか。スピルバーグ監督の映画は、そういう自分の予感が映画の中でどうなっていくのかが気になるから、飽きたり見逃してるヒマは無いのです。
いやーな予感〝恐怖編〟の代表が、激突やジョーズだとすれば、ワクワクドキドキの予感〝そういうのが見たかった編〟の代表がETやインディ・ジョーンズ❗️
1970年代から2020年代の今に至るまで、本当に感謝の言葉しかありません。同時代に生まれてくれて、ありがとうございます。
【忘れちゃいけないシーン】2023.3.5 追記
あと3日も経つと忘れてしまうので、記録しておこうっと。
少しのネタバレも許すまじ❗️という方は、以降、ご遠慮いただくほうが無難です。
ジョン・フォード監督が、若きスピルバーグに伝えたこと。
その絵を見て解説してみろ。
えーと、馬が二匹遠くを見ている⁈
人が◯人いて…
違う❗️地平線はどこにある?
地平線は、上にあっても下にあっても面白い絵になるが、ずーっと真ん中にあったら退屈で仕方ない。
さ、とっとと帰ってくれ❗️
ーThank you❗️
ーMy pleasure.
※戸田奈津子さんの字幕+私の拙過ぎる英語力なので、正確性は担保できません(←開き直りという)、悪しからず。
文句なし!スピルバーグの作品への思いが伝わる
スピルバーグの自伝期を作品にしたが、全然違和感がなく、フェイブルマンの成長期を垣間見る事が出来た。彼の成長期での出来事をもとにヒット作のヒントとなっているのかと肌で感じた。シーンはネタバレになるので省くが、一つ一つのシーンに作品のヒントがある。これを見つける楽しみが本作品にはある。また、作品を通じて家族との愛、絆、人種差別についてもう一度観客に考えてほしいとのメッセージも含んでいる。スピルバーグの半生期ながら色々考えさせられた映画。見事でした。
表現者へのエール
良い意味で思ってたのと違った!
勝手にノスタルジックな映画愛に溢れる作品だと思っていましたが、自分らしくあることへの犠牲と覚悟…スピルバーグ監督から、今この時代に“表現”しようとする全ての人たちに向けてのエールでした。
そして、観客の私たちにも…ラストショット。カメラを覗く作り手の目線に「これから作られる映画たちをお楽しみに!」と言われた気がしました。
全編、光と影がとても印象的です。
映画は光と影の芸術だからですね。
映画の持つ光と影、良い影響があれば悪い影響もある。
そして人間の持つ光と影。
光だけのものはない。両方あるから複雑で美しい。
自分自身に正直に生きること、自分自身を表現することは、誰かを犠牲にしたり、傷つけてしまうこともある。
「でも、それを怖れないで。」
同じくアカデミー作品賞にノミネートされている『イニシェリン島の精霊』にも通じるテーマだと感じました。
世の中には自らを表現せずには生きられない人間と、表現しなくても生きられる人間がいる。どちらも良くてどちらも悪いけれど、自己表現や自己主張には区別と選択が伴う。
何かを選ぶということは、何かを捨てるということ。
『イニシェリン島…』はかなりストイックに突きつけてきますが。笑
女性問題から多様性ダイバーシティへ。環境問題からSDGsへ。
この数年で社会は成長した。
お互いに認めあう世の中で、自分の思いを表現することは、時として配慮が足りないと指摘されることもあるだろう。
「でも、それを怖れないで。」
『フェイブルマンズ』は悲しんでいる家族を前にカメラワークを考えてしまうような…どうしようもなく表現する側の人々を勇気づける作品だったと感じます。
映画がもたらすドキドキやワクワクに魅了された少年は、映画でメッセージを伝えることができることに気づきます。
役者の演技はもちろん、編集や様々な技法で表現された映画は、人々の心に深く入り込み、非常に影響力を持ちます。
なかでも興味深かったのは、虚像に対する苦悩。
これは観客にも責任があり、社会が成長したように、観客も成長しなければならないと感じました。
一昔前だとドラマの敵役はファンから嫌われたりしました。
さすがに今どき、悪役だから悪い人だと思う観客はいないでしょうが。
映画マジックが生んだ虚像を、演じる人に重ねてしまうこと自体は、今もなおあるのではないでしょうか?
あまりにもリアルな演技だと、あたかもその人自身のように感じてしまいますが、
正義のヒーローを演じた役者に、プライベートでも同じイメージを求めていないでしょうか?
人間なので間違うこともあるのに、ガッカリしすぎたり、必要以上に注目して大騒ぎしすぎていないでしょうか?
さすがに昔のゴシップやパパラッチほどタチの悪い暴かれ方は無いにせよ、逆にSNSなどで縮まった距離からの過剰な反応には、いくら夢を売る商売の人とはいえ精神がもたない。
観客も分別を持って作品とは切り分けて見るように、成長しなくてはいけない気がしました。
使い捨ての消費社会も描かれていて、今の感覚からすると本当に衝撃です。
今とは全く違う社会の価値観の中で生まれた作品たちは、その当時のテーマを当時の尺度で描いている。
昔の映画で描かれる価値観や倫理観を責めて作品を排除するのではなく、見る側の観客がきちんと作られた時代を加味することで学ぶべきテーマが見えてくると感じます。
今までに作られた映画へのリスペクトと、これから作られる映画へのリスペクト。
引き算の余韻に巨匠の余裕を感じました。
おまけ
ある学生から「映像を作る時に、自分の作品が誰かを傷つけるのが怖い。どうしたらいいでしょうか?」と質問され
「そんなことなら作るな。それが怖いなら作る資格がない」と答えたのは、大島渚賞の審査員である坂本龍一さんです。
スティーブン・スピルバーグが映画監督になる夢を叶える「自身の自伝的作品」。映画が持つ陰と陽の両面を描くことに成功した名作!
本作は、第95回アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞(ミシェル・ウィリアムズ)、助演男優賞(ジャド・ハーシュ)など7部門にノミネートされています。
タイトルは意味不明な「フェイブルマンズ」となっていますが、これは本作の主人公サミー・フェイブルマンという名前からきています。
さて、本作を見る上で絶対に知っておきたいのは、本作はスティーブン・スピルバーグ監督が自分の記憶をたどり自身を描いている点です。
それを踏まえているかどうかで、物語の深みが変わってくると思います。
本作で上手いのは何といっても脚本でしょう。
単なる自伝的な作品ではなく、サミー・フェイブルマンという主人公を通して緻密かつ流れるように物語が構成されている一方で、キチンと伏線回収が上手くなされ、かなり練り上げられた脚本に仕上がっています。
才能ある「映画監督」というと華やかな世界のように感じますし、実際にそういう面はあるのでしょう。
ただ、本作では、映像表現に潜む「陰」の部分にも焦点を当て、厳しい現実も映し出すなど圧倒的なリアリティーがあるのです!
本作は現時点で76才のスピルバーグ監督が初めて挑んだミュージカル映画「ウエスト・サイド・ストーリー」の次に作った作品だからなのか、前作のセルフパロディのようなシーンがあったり、笑えるシーンもあります。
本作を見ると、スピルバーグ監督が20代にして撮った「ジョーズ」が世界歴代興行収入1位を記録するメガヒットになったのも納得できるでしょう。
「映画とは?」を考える上でも見ておきたい名作の誕生です!
映像マジックに抗えなかった名監督
スティーブン・スピルバーグの自伝的要素を含みつつ、これまで撮ってきた映画とダブるようなシーンがあるあたり、彼の映画をずっと観てきた人はより楽しめると思う。おもちゃの列車をただ走らせるのではなく、“衝突”というプラスアルファを付け加えてドラマにしてしまう主人公サム。彼の監督デビュー作が車とトラックの対決を描く『激突!』なのも偶然ではない。もっとも、『未知との遭遇』のロイも、『ジュラシック・パーク』のアラン・グラント博士も、『宇宙戦争』のレイも全部スピルバーグの分身といえる。
映像のマジックに魅せられていく一方で、知りたくなかった真実を自ら撮ってしまうサムは、一度は映画を捨てる。映画は功罪をもたらす。でも抗えない魅力がある。
鑑賞前は期待薄だったが、結果的にスピルバーグ作品の中でもベスト5に入れたくなった(どの作品が1位とかは決められないけど)。サム=スピルバーグの才能がさらに開花していくであろう続編が観たくなったほど。
あと、ラストでゲスト出演的に登場した某監督が、実に美味しいとこ取り。
遅ればせながら鑑賞😓
巨匠スピルバーグ監督の自伝映画。
きっと、ずっとこの映画を撮りたくて、温めて温めて作製した熱量が伝わります。
スピルバーグはやはり天才的ですが、一歩間違えたら人生を破滅型の人間であり家族の存在や周囲の人間がいなければ現在のスピルバーグがいなかった可能性もあるだろうなーって思わされました。
母親の存在も、小さい子供がいながら恋をしている母を大好きなフィルムを通して知ってしまう。ワガママで自由放漫に映る。しかし、自分の人生を生きろと後押しする母親を軽蔑する反面、愛する存在であると言う事が映像を通して心に刺さる。
相反する存在で、真面目で絵に描いたような父親。
終盤にお互い交わる事は無くても終わりではないと。切ないです🥹
好きを貫いて行く事は犠牲を伴う事。スピルバーグは若い頃から理解していて葛藤している姿をシンプルに写し出されているのが引き込まれる。常に自分を俯瞰していて、映像のフィルムの中に自分の人生を覗いているんだろうなーと思ってしまいました。
いつまでも、心は青年のままでいるんだろうと思ってしまいます。本当に自分を曝け出した映画なんだろう。
素晴らしい映画です。
自伝というよりは、シリアスなファンタジー
テーマは「許容」
スピルバーグが父性を描けない理由がわかるが、
結局父性(男らしさ)は描けていない。
ジョン・フォード役はデヴィッド・リンチ。
本作品こそ王道のアメリカ映画。
(2023年は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』がアカデミー賞6部門を獲得)
ちなみに本作で言及された映画は
『地上最大のショウ』(1952)
『第十七捕虜収容所』(1954)
『大脱走』(1963)
ジョン・フォード監督
『リバティ・バランスを射った男』(1962)
『駅馬車』(1939)
『わが谷は緑なりき』(1941)
『男の敵』(1935)
『捜索者』(1956)
『三人の名付親』(1948)
『黄色いリボン』(1949)
『怒りの葡萄』(1940)
『静かなる男』(1952)
91点
8ミリは真実を焙り出す魔法
芸術家の血
スピルバーグの幼少期から青年期のストーリー。
史上最大のシヨウを見てから夢中になるカメラを通してストーリーが進む。彼の繊細さと大胆さが垣間見える映画。1回目より2回目さらに3回目見るうちにスヒルパーグがまた好きになる。
父親は天才、母はそんな父を愛すも、心は親友の愛情を欲していた、まさかの内容。
カメラでキャンプの様子を取るうちに、母と父の親友の愛情を知る。知った後の少年の心が良く描かれる。
母の相手役がまさかのセスローゲン、これがとてもいい味出しており、見ていて納得する程に。
可能ならば映画撮影前迄の導入部まで見たかった。父や叔父の血を、の天才を、受け継いたスピルバーグをもっともっと見ていたい作品でした。
ある監督との会話の中、絵が未知との遭遇を匂わす。
スピルバーグの映画がもっと見たい!
やっぱり太陽の帝国が好き
天才はかく誕生すべし
コンピューター技術と芸術との間に生まれた”映画の子”
かつて名物司会者のJ.リプトンが番組で「お父様はコンピューター技師でお母様は音楽家。『未知との遭遇』で電子音楽(シンセサイザー)を使って宇宙人と交信しようとした理由もそこにあるのでは?」との指摘をしたことがある。確かにスピルバーグの映画人生において、<最新技術と芸術性の融合>は切っても切れない。その着火点というか、喜びや悲しみと共に体内に刻まれた本質のようなものが、本作には詰まっている。ただし直球の自伝ではなく、創作上の人格を借りた形式で。この辺りも実にスピルバーグらしいところで、印象的な場面にあるように、映像は事実以上に物を言うし、見せたくない部分はカットすれば良いのだ。勢いに乗せて颯爽と捲し立てるのでなく、穏やかな光と共に親身に語りかけてくるような作りがいつも以上に心地よい。名作群の発想の原点とも思しきちょっとした描写も見逃せない。何度も観て、映画術の源泉を読み解きたくなる名作である。
宝石のような小さな映画
自伝的作品だという。映画を初めて観る日から始まり、どのようにしてスピルバーグを模した主人公サミー・フェイブルマンが、映画を撮ること、ものごとをフィルムに収めることに夢中になっていったかを、丁寧に紡いで行く。
家族や友だちなどとの関わりも描かれるが、通常の成長物語りとは違う。
サミーはレンズを覗き、フィルムを編集することで、世界のありようを認識する。撮影されたものの善悪より前に、彼はその美しさに魅了されてしまう。そこに映画づくりの魔力があり、それはとても恐ろしいものでもあるのだろう。
スピルバーグは今でも映画の魔力にとらわれたままなのだと、観るものは思い知る。
彼の目はすなわちカメラのレンズであり、世界は映画なのであろう。
ならば身も心も映画に捧げた状態のこの巨匠こそが映画そのものなのではないか、そんなふうに独りごつ。
ビンテージ感溢れるフィルムの色、俳優陣の演技のゆったりとしたうまさ、被写体のありようを最大限に捉えるカメラワーク。それらのすべてが、ただただ美しい。
映画に囚われてしまった少年。そんなこととは無関係に迫る、心の外にある現実という世界。
それといかに折り合いをつけるか、それとも折り合うことを拒絶するか。
映画という武器を手にした主人公が、実際にどうやってそれと戦っていくか。その先は、この映画では描かれない。
あくまでも小さな心に映画が満ちる美しさだけを、これ以上ないほど丹念に描く。
だれにでもあった少年少女の日々の夢。もう記憶の向こうにかすれて消えていきそうな小さな日々。
それをもういちど見せてくれる宝石のような映画だ。
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