フェイブルマンズのレビュー・感想・評価
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【映画ジャンキー誕生の軌跡】
スピルバーグ監督の映画讃歌、もっと言えば人間讃歌。時に愉快で、時に理不尽な人生の一頁を、意図した表現で撮ることの出来る醍醐味と、翻って図らずも真実を撮影し対峙せざるを得ない憂いも引っ括めて、映画の虜になった熱烈な想いが伝わってくる。
保守的で現実主義の優秀なエンジニアの父親と自由奔放で情熱家の音楽家の母親を、対立構造で描くのではなく理屈や理想だけで割り切れない人間の滑稽さと愛おしさで表現していて、ジョン・フォード監督と対面するラストシーンのカット割りテクニックに留まらない含蓄のある台詞にグッとくる。
★★★★☆
#映画
#映画鑑賞
映画しかない男が映画の職を掴むまでのお話なんだけど・・・
映画の事故シーンが怖かったトラウマを映画を撮ることで克服させるって、フィクションの裏側を教えると言う意味では良い方法だと思うが、バリバリの技術者の父親ではなく芸術系の母親が勧めたことが興味深く、のちにジョーズやプライベートライアンなど血まみれの映画を撮ることとの対比としても面白いエピソードだと思った。
母親は家族のために我慢していたが最後は自分に正直になり好きな人の元へ行くが、夫が見ている前でも構わずイチャつき、自由人として家庭を崩壊させる原因のように描かれており、スピルバーグ自身本当は心から許していないのではないかと思った。
父親は一見すると被害者者のようだが、家庭を守りたいが為にそれに気付かないふりをし平静を装い解決を先延ばしにするなど責任の一端は十分にあると思った。
実は嫌われてたおじさんが両親よりも一番サムのことや世間の事を良くわかっている。
プロムの彼女可愛いけどどうしたかったのか良くわからなかった。
高校のいじめっ子が映像を観て泣き喚いていたのは面白かったが、大したことではない現実でも映像で素晴らしく見せるという才能が開花した瞬間があれだったのかもしれない。
そしてアメリカ映画のイジメシーンはいつ見てもエゲツない。
スピルバーグの自伝的映画だが、ユダヤ人家庭の内向的な少年と言うこともあり、広い交友関係があるわけでもなく、ほぼ家族、特に母親と自身との関係を描いた部分が多く、もっと映画制作、作風、方向性に影響を与えたきっかけみたいなものを見てみたかった。
撮影でリアリティを出すための色々な工夫は面白かったけど。
デビッド・リンチ演じる何故か血だらけのジョン・フォードは笑えたが、なんかよくわからない地平線の話はサムには刺さったみたいで、これが史上最高の映画監督誕生の大きなきっかけとなったとしたら最高のエピソードだと思った。
タイトルなし
完成度の点で、消化されきれてない感。が、文学性という点では素晴らしかった。ミシェル・ウィリアムズはとても好きな女優さんで、癖もある人だけれど、違う人かと思うほど、役に融け込んでいた。非常に難しい役だった。天才でもあり、天才になれなかった落伍者でもあった。その苦しさが伝わる。あれだけ手放してはいけないとし、愛してるとした夫では満たされなかった彼女のあり方はとても複雑。
スピルバーグは、恋愛要素は弱い人で、母親の影も感じていた。小さいときの母との秘密のやり取りは、とてもセクシー。
少年の恋愛もめちゃめちゃ。面白い。
そして、彼が高校で撮った映画の、スポーツ少年とのやり取りの物語も深い。
最初の衝撃の映画、女の子がキャーキャー言う映画、精神分析的解釈もありだろう。
やっぱりスピルバーグは正統派。自伝的作品も【虚も実も正統派】映画そのものの力を示す。敬意で星つけた。
ワシ、変な人で
【ジョーズ】テレビで繰り返し観て
【プライベート・ライアン】大シネマで圧倒され
【シンドラーのリスト】はVHS📼→DVD📀で何度も分割鑑賞で奥の深さに感動した
でも【E.T.】(点が打ちにくい)【インディ・ジョーンズ】は何だかなぁ❓❓
という「自称スピルバーグ通」だから、ほとんどの作品見てる
【レディ・プレイヤー1】は未だ観てないけど・・・
最近、映画そのものの作品、インドの少年、イギリスの中年女性
と多いのだけれども
やっぱりスピルバーグは別格でした。
既にオスカー、アカデミー作品監督2回の【大人の余裕のある】スピルバーグ
キチンと正しく、【半分事実、半分フィクション】で、
映画の虚と実。映像の残酷さと素晴らしさ を 家族の物語でうまくまとめてて
誰でも共鳴できる心の機微
ボリス大叔父さんの映画的存在感も
ハイスクールカースト上位の性格の悪い同級生の心の動き【騙されないぞ、しかし、負けた悔しい】
技術者のお父さん と ピアノ芸術派 のお母さん の複雑
全てうまく咀嚼された人間ドラマ。
スピルバーグ的には、あまり盛っていない 等身大の主人公
家族の軋轢、失恋等、非常に正統派すぎる描き方で共感できる。
とは言っても、初日、2日目、3日目に映画館に来る客は【スピルバーグ値・・がかなりある人ばかり】とお見受けしたから
【そうですよねぇ、スピルバーグは押さえないといけないですよねぇ・・】的な、「同志、戦友」雰囲気が半端ない。
皆、そこそこ笑い、そこそこ(共感、心の中で泣ける)好作品
撮影 ヤヌス・カミンスキー 音楽 ジョン・ウイリアムズ の鉄壁の布陣を理解できる人に取って最高の作品
【無料小冊子 シネコン・ウォーカーによると】スピルバーグは1946年アメリカ・オハイオに生まれる。
そのスピルバーグが 人生の集大成的な作品。確実に【日本的には🇯🇵戦後は終わりつつある】実感した。
アメリカはベトナム🇻🇳とか中東あるから感覚わからんけど・・・
どうでもいいけど 理系技術者+音楽家 というのは 天才スピルバーグ を生んだ 最高の組み合わせ
だったと思う。
スピルバーグができるまで
今作は映画に魅入られた少年が青年になるまでのエピソード。
あの作品が出来上がる過程が…とかは無く、映画愛に溢れた作品ってよりかはいかにしてスピルバーグが出来上がったかに主眼が置かれている。だからちょっと退屈だなぁと思った。
ただ、所々ユーモアがあって最後なんかは好き。
家族との関係であったり、学友との恋と衝突であったり、なかなか辛いことが多めではあったが、それらが名作を生み出した背景にもあるのかぁと関心。
スピルバーグがシンドラーのリストを作った理由も伝わってきた。
それぞれの形で子供への愛情を表現する母父のミシェルウィリアムズとポールダノの好演が良い。
それと子供の時観た映画で気持ちがいっぱいになって、ずっとシーンを反芻する…自分だとハリーポッターがそんな作品だったなぁ。普通はそこで止まるけど、そこからシーンを再現して映画を撮り始める。やっぱりその原動力って大切だよなぁと思った。
ポール・ダノ
最初1時間30分ぐらい、かなり退屈…
眠かった…
ポール・ダノが、いい演技してました、いい俳優だと思いました。
デヴィッド・リンチがチョイ役で出てきますが、
「地平線が~」の話は、リンチが言うと説得力ありました(笑)
演技もセリフも全部アドリブじゃないのかな?
すごい貫禄(笑)
持っていきました(笑)
映画としては、あまり良くない。
ポール・ダノありきで、出演5分ないデヴィッド・リンチ目玉の映画かと。
ガッカリ作(笑)
『エンパイア・オブ・ライト』
『バビロン』
『エンドロールのつづき』
『フェイブルマンズ』
映画愛あふれる最近の映画の中、この順番で最下位です(笑)
50年代60年代の昔のアメリカ文化は、オシャレでイカしてて良かったです。
地平線は下か上に!
巨匠スティーブン・スピルバーグの自伝的作品ということで、どんな内容なのかと期待して鑑賞してきました。
ストーリーは、家族と観た初めての映画のとあるシーンに強烈なインパクトを覚えた少年サミー・フェイブルマンは、自宅でおもちゃを使ってそのシーンを再現し、それを8ミリカメラで撮影したことをきっかけに、映像制作の魅力に触れ、数々の作品制作を通して、さまざまな人々と出会い、映像のもつ力に気づき、その道で生きていくことを決意するというもの。
映画の中の衝突シーンが脳裏に焼き付き、まだ幼いサミーが映像制作に一気に心を奪われていく様子が印象的でした。その後も友達を集めていくつもの作品を作っていくのですが、撮影のアイデア、編集の工夫、演者への指導など、すでに監督としての片鱗とその後の作品の素地をうかがわせる描き方がなされているところに巧みさを感じました。
一方で、映像のもつ力を経験として感じ取っていく様子もしっかり描かれています。サミーが巧みな編集で、母の浮気を隠したり、逆にカットしたシーンをつないで母自身に感じ取らせたり、級友を虚像で賞賛したり、逆に貶めたりしています。映画は、現実をベースにしながらも虚構を描き出し、人の心を大きく揺さぶり得るものだということを、経験則として学んでいったように思います。その撮り方、観せ方しだいで、いかようにも表現できるのだと訴えているようでした。それは、ラストの「地平線の撮り方」にも繋がっているように感じました。
本作は、スピルパーグの映画監督としての原点が知れるという点で、とても興味深い作品でした。ただ、残念なことに映画としてはおもしろみに欠ける印象でした。大した起伏もなくサミーの幼少期から青年期が描かれるだけで、スピルバーグ監督や彼の作品に関しての予備知識がないと楽しめないと思います。自分も、あとで他の方のレビューを読んで、スピルバーグ監督作品との関連がいろいろとわかりましたが、鑑賞中は退屈に感じる部分が多かったです。監督自身も、これが撮りたかったというより、映像作品として残しておきたかっただけなのかもしれません。
主演はガブリエル・ラベルで、多感なサミー役を好演。その母役にミシェル・ウィリアムズ、父役にポール・ダノと、実力派が顔を並べます。
「フェイブルマンズ(一家)」の話
さて、95回アカデミー賞までと10日を切り、日本での劇場公開も大詰めの今週ですが、本日は『フェイブルマンズ』です。
やはりスピルバーグ監督(製作、脚本)ということで否が応でも期待が高まります。その「(かなりの)高さの水準」を前提にしての感想ですが、正直「超えてくる」程ではないかなあ。。いや、普通に良い映画だとは思います。
サミュエル(サム、サミー)は幼いころから利発でやや老成すら感じる少年ですが、初めての劇場映画鑑賞の体験を機に抑えられない創造力に火がつき、母の後押しもあってビデオを手に取り映像を撮りはじめます。そこから(フィルム)カメラに持ち替え、編集をして映画を作ることにハマっていきます。
悪くないんですけどね、、、例えば同じように監督自身の自分懐古映画『リコリス・ピザ(22)』や『ベルファスト(22)』などに見るようなキラキラ感があまり感じられなくて、ちょっと残念。年齢を重ねるごとに「(ユダヤ人)差別といじめ」や「大学になじめない」などの苦悩もありますが、それらも映画を観る限りにおいては掘り下げも浅いせいか、挫折というほどの印象はありません。
とは言え、この映画はサムのことだけではなく「フェイブルマンズ(一家)」の話です。
サムの少年期、けして裕福ではない家庭環境ですが、父親は薄給を補うために副業をし、母もピアノでTVの仕事に携わるなど、真面目で献身的に子供たちに不自由を感じさせず、そして常に笑い声を絶えさせません。とりわけ、主演女優賞ノミネートのミシェル・ウィリアムズが演じる母親ミッツィはまさに「太陽」のような存在です。サムのアーティストとしての才能はこの「母方の血」を引くものなのですが、さらにそのミッツィの伯父ポリスを演じるジャド・ハーシュ。サムに「アーティストとしての生き方」を説いて将来に影響を与えるキーマンの一人で、出演時間こそ短いながら助演男優賞ノミネートされています。更には父親バート役のポール・ダノ。どんな役でもいい意味で個性をもたせて印象に残る万能且つ多才な役者で安定感抜群です。それ以外にセス・ローゲンも外せないし。。。
こうして書いていると、もう少し評価を高くすべきかと思いつつも、、、いやケチの付けようのない良い映画ですよ。
映画小僧やな。
僕も、ミクロの決死圏を子供の時に観て、映画小僧に
父の8mmフジカシングル8で撮りまくったね。
彼ほどの才能はなかったね。編集したね。カットして
テープで貼って。サウンド8がでてからは、トーキーになったけどね。ミシェルウィリアムスがいいね。
ポールダノも太って感じでてるよね。
みんな、活動が好きやね。デビットリンチのフォード監督僕は、ハワードフォックスかって思った。
音楽は、ジョンウィリアムスなんや。
もっと
33本目。
情報が多少入った状態で観たせいか、贔屓目だったりする。
ひとつひとつシーンに、監督の表情、感情が一緒なのかと思いながらの鑑賞。
全ての作品を観た訳ではないけど、ひょっとしてと思わせる所があったり、気付くと、あっと言う間に終わった。
もっと、と思ってしまう作品。
高評価のレビューが多いが、私には不思議でならない。
スピルバーグ監督が映画界に入る前までの自伝的映画である。メインは両親との関係を描く家族映画である。私には微温的で物足りない。母の不倫が中心となるが、食い込みが足りないと感ずる。
不倫相手と肉体関係は無いように匂わせているが、嘘っぽい。自分の母親だから、綺麗に描きたい気持ちはわかるけれどもね。妻の不倫を薄々感じている父親の苦悩も伝わってこない。
それと肝心な映画にのめり込んていく監督自身が十分に描かれているだろうか。足りないと私は思う。
ジョン・フォード監督とのエピソードは、本当だろう。幸運としか言えない。地平線の目線の話は面白かった。
スピルバーグ様、振り返りのお年頃、、、
家族愛、夫婦愛、初恋、不倫離婚、、、、これ全部入れなきゃダメですか?って思った。とにかく尺が長い。けど、ご本人が振り返る半生、全てに意味があって全てが繋がっているのでしょう。個人的には聡明で常識的な眼鏡の妹さんが好きだった。
理系天才肌の父親と自分大好き芸術家肌の母親から、存分なDNAを引き継いだこと、映画監督になるということは心がズタズタになる覚悟がいること、やりたいことが決まっていて才能にも恵まれている人は大学なんて行くだけ時間の無駄であること、はよくわかりました。
プロムパーティーで上映されたサミー手作りの映画の中で、かっこよく演出されていたのに「本当の自分と違う!」と怒り嘆いて泣き出した強面同級生のローガンの気持ちがヒリヒリと伝わってきて、あのシーンは自分なりの白眉だった。
リベラルイメージの強いカリフォルニア州だけど、あの当時はあんな風にユダヤ人いじめがあったのかとちょっとびっくり。構内の暴力沙汰に教職員も素通りしていたような、、、唖然。
寓話男
スピルバーグが家族ドラマを撮るのは初めてじゃないかな。
彼の良さは活劇の演出のうまさにあると思うので、本作で彼の良さが出ているとは思わないけど、巨匠らしく手堅く決めている。誰でも楽しめる良作。
ラストシーンで、顔に口紅付けたあの人が、ガーガー大声で訳の分からない台詞を言うシーンが面白い。エンドクレジットで、あの人が演じてたのかと分かってニンマリ。
西欧人の苗字は職業に由来することが多いけど、彼の苗字はfable man(寓話男)。物語を紡ぐ人。高校ででいじめられるシーンで、わざと名前を違って言うのにも意味がある。
出来事には全て意味がある
世界で最も愛される映画監督がその半生から教えてくれるストーリーを選び取ること。
ストリーミングサービスの台頭で劇場体験はもとより"映画の魔法"が消えつつある昨今の映画界を取り巻く流れだからこそ。Netflixオリジナル映画などが賞レースを賑わせ始めた当初、「映画じゃない」という旨の発言が取り沙汰されていたスピルバーグ。
そりゃ映画一本一本、鑑賞一回一回の重みがまるで違って特別だった昔を懐かしんで…。見た目は大人でも心は映画少年のままなスピルバーグ御大=フェイブルマン少年の半自伝的ドラマは流石に見応えがあった映画の力と家族のルーツ。芸術ジャンキーについて説く伯父→編集→演出の流れで完璧にやられた、心掴まれた。胸引き裂かれるような映画はいつだって"地上最大のショウ"だ!
科学 vs 芸術?サミーじゃなくてサムの母親譲りな性格(頑固&芸術好き)。自分でコントロールできるもの"衝突"を追い求めて、ジョン・フォードなど偉大なる先人たちが映画に魅せられて…。プロム辺りからはサムがスピルバーグに見えて仕方なかった。地平線が下にあれば面白い絵になる。地平線が上にあっても面白い絵になる。地平線が真ん中にあると死ぬほどつまらん。こちらこそ。最後の最後まで初心忘れない映画少年っぷりにニヤリ!
P.S. だからスピルバーグが、『トップガンマーヴェリック』はじめ映画の可能性と限界を追い続ける寝ても覚めても映画製作夢中男トム・クルーズを、戦友として「君が映画を救った」とハグするのも無理のない話なのだ。
※晩年自伝でも書くようにある種集大成的な本作を作ってもスピルバーグは引退しません。何より芸術ジャンキーなので!(ex. 宮崎駿?)
勝手に関連作品『ワイルドライフ』『Boyhood 6才のボクが大人になるまで』
主人公と父親の話。
フェイブルマンズは出自を顕わす家名だけど、主人公と父親の話だと思った。
導入からキャンプまでのテンポがいったんカメラを置くタイミングからスローになる。
ストーリーが母親のエピソードに引っ張られるけど、彼女は西海岸には戻らない話の方が良かったじゃないかな?父親は凄い人なんだけど、エピソードが少なすぎて消化不良だった。
ファン以外にはウケない?
スピルバーグが自身のルーツとなる体験を描いた自伝的作品。タイトルは主人公の姓由来である。
ぼくは『ジョーズ』を劇場公開時(10歳?)に鑑賞して以来のファンなので絶対に見逃せない作品だと思ったが、他の人にはそうでもなかったらしく、300人以上入る劇場には1桁の観客しかいなかった。
あくまでも“自伝的作品”なので、描かれていることがすべて真実だとは思わない。それでも彼の映画への熱い思いは伝わってくる。前半と後半で明らかにトーンが変わり、楽しいばかりの内容ではないのだがそれもまたいい。
残念なのは、創作上の秘密のようなものは冒頭の激突以外は感じられなかったこと。あの映画のあのシーンはこんなことが基になっていたんだというのがあればもっとよかった。気付かなかっただけかもしれないけど(^^;)。
映画の夢に与えられ、奪われる
上映時間2時間31分、さしたる事件もアクションもないストーリーなのに、まったく飽きることがない。
本作がスピルバーグの自伝的作品であることは予告編などで語られていたが、そのことを知らなくても十分面白い。
この映画の主人公はサミー・フェイブルマン。タイトルの「フェイブルマンズ」とは、“フェイブルマン家”という意味だ。
つまり、本作はサミーと家族を巡る物語を縦糸にしながら、同時に「映画を創るとはどういうことか」というテーマが縦糸として貫いている。この後者のテーマについて劇中、繰り返し語られていて、それが映画好きにはたまらない面白さ。
観終わって、珍しく脚本を読み返したいと思ったくらい。
映画とは嘘である。
サミーが西部劇を撮るエピソードがある。
フィルムを編集をしているサミーは銃撃戦のシーンが「嘘っぽい」と悩む。
そこで彼は工夫を凝らし、フィルムに穴を開けることで迫力あるシーンを創り出すのだが、これは嘘に嘘を重ねて現実感を創っている、と言える。
家族旅行を撮影したフィルムに写っているものは現実だが、編集することで、それは「現実」から遠ざかる。
サミーは偶然、母の浮気を撮ってしまう。だが、そのシーンは編集でカットして、無難な作品に仕上げた。
出来上がった映像は楽しい家族旅行が表現されているが、それはサミーが編集で創った「嘘」だ。そして彼は偶然フィルムに収めた「現実」に苦しむことになる。
ハイスクールのプロムナイトで、お楽しみ遠足の様子を収めた映像をサミーが上映するシーンも同様。
その直前にサミーは彼女にフラれてしまう。傷心のサミーだが、みんなを楽しませる映像を上映しなければならない。ショウ・マスト・ゴー・オン。
映像を撮った時点では、サミーは彼女とラブラブだった。その映像を撮ったカメラは、彼女の父親から借りたものだったし、カメラを貸すからとサミーは映像制作を彼女から勧められて引き受けたのだった。
つまりサミーにとって、その映像は彼女との思い出に満ちたものだ。同級生たちは映像を観て楽しんでいる。それなのに彼だけが傷ついている。
ここでも、サミーが創った映像の中の「嘘」(彼女とラブラブ)は、「現実」(フラれた)によって打ちのめされるのだ。
こうして、サミーは映画を創りたいという夢に導かれ、家族や周りの友人たちと8ミリカメラで映像を撮るのだが、ときにそれは残酷なまでにサミーを傷つける。
本作は幼いサミーが両親と初めて映画を観るシーンから始まる。
サミーは映画館の暗さやスクリーンの大きさなどに怖がっている。
だが、サミーはたちまち映画の魅力に取り憑かれ、その後、8ミリカメラを手に自分で映画を撮り始める。
この冒頭のシーンが本作のすべてを象徴している。
サミーは映画に夢中になるのだが、初めは怖がっているのだ。
そう、映画は怖い。映画人を苦しめるものだ。
ラストに登場するジョン・フォード監督(なんとデヴィッド・リンチが演じている)は映画の仕事を始めようとするサミーにこう言う。
「心がズタズタになる仕事だぞ」と。
両親が離婚しそうなときも、サミーは離れた高い場所に座り、そのやりとりを撮影することを想像してしまっていた。
祖母の臨終に際しても、彼はカメラを覗くかのように死にゆく祖母を観察している。
映画を創る者ゆえの習性であり、業(ごう)だ。
サミーは映画監督になるという夢に近付きながら、映画の夢に与えられ、そして奪われていく。
だがラストは、それでも、夢に向かって歩くのを止めないサミーの姿をカメラは捉える。
思いがけず出会ったジョン・フォードとの会話の余韻に高揚しながら、サミーはスタジオが立ち並ぶ撮影所の通路を歩いていくのだ。
本作の冒頭で「地上最大のショウ」に触発されてカメラを手に取り列車の衝突シーンを皮切りに映画を撮り始めた少年はやがて「激突!」を撮り、「未知との遭遇」や「E. T.」などで「破綻した家庭」をたびたび描いてきたことを僕たちは知っている。
スピルバーグが「スピルバーグになる」以前を描きながら、映画とはなにか、映画を創るとはどういうことか、そしてさらに、何かを創作するとはどういう意味を持つかを語った。
傑作である。
これは、150分の尺をもつ“90分映画”であり、スピルバーグが監督した“ゴダール映画”である。
誰もが驚いたであろう、あの嘘のように呆気ない終幕を目にした時の感情は、
「えっ、もう2時間半経ったの⁉」
という幸福を伴った困惑である。
この現象は、語り口の徹底した簡潔さにより時間感覚が失われたことに起因するのだが、
150分スクリーンを見続けた後に、もっと見たかった、という名残惜しさを感じつつ、
劇場を後にすること、これこそ映画における至上の幸福というものである。
スピルバーグの映画には、説話的持続から逸脱した異物的シーンが必ず存在する。
この新作はまさに、そんな突出部のみをくっつけてしまった滅茶苦茶な映画だ。
前後のシーンのつながりは非常に不連続であり、
数多の監督がその不連続をごまかそうと躍起になるのを尻目に、
その出鱈目さをこれっぽっちも隠そうとせずにガシガシとシーンをぶつけてゆく。
その強引さはしかし足枷となることはなく、軽快な簡潔さとして逆説的に語りを豊穣にしている。
語り口の徹底した簡潔さ。
初めから終わりまで、そのあまりの簡潔さに困惑し、ハラハラし、そして興奮したものだ。
思えばそれは1カット目から顕著であった。
夜の劇場の前に立ち並ぶ人々をカメラが下がりつつトラッキングし、会話する家族の前で停止する。
映画館に入るのを躊躇う息子を説得する両親の顔は、息子を俯瞰するカメラに未だ映らない。
息子に目線を合わせようと、父がしゃがみ、母もしゃがみ、
顔見せを終えて、劇場の入り口へと向かう3人をフォローパンしてカメラは、
今から息子を決定的な道へと誘うであろう作品が
セシル・B・デミル「地上最大のショウ」であることを明らかにする。
上質な長回しによって口火を切った映画はしかし、
みるみる過激になってゆく簡潔さによって観る者を困惑させる。
例えば、ようやく完成した新居を8㎜フィルムで撮っていた次の瞬間には、
両親の離婚が決定的なものとなっているし、
プロムでのいざこざから些か強引にサミーと母の和解のシーンが提示されたかと思うと、
画面はふいにホワイトアウトし、1年後の父とサミーが同居するアパルトマンへと飛ぶが、
どうしてサミーが父の元へ居候することになったのか、
サミーが就職活動でどんなに苦労していたのかといったことは一切具体的に提示されない。
滅茶苦茶なのはシーンのつなぎに止まらず、
カットのつなぎまでもあらゆる局面で混乱を来している。
雑なポン寄りが至るところで見られた。
前後のカットで人物の立ち位置が変わるところもあった。
デコボコなつなぎにドキドキして、しかしフォードのシーンでは、
マッチに着火→口元の葉巻に火を持っていく、というアクションつなぎが素晴らしく、
そこからさらに同軸上でカメラを引くつなぎもあったように記憶する。
安定しないカット割りは、次が予想できないために常にハラハラさせてくれる。
その心理状態の中、沢山のカットで心を揺すぶられた。
白い照明が大胆に使われた夜のキャンプ場の森なんて、50年代のニコラス・レイの森のようだし、
そこで自動車のライトを背にして踊る母は、「カビリアの夜」のジュリエッタ・マシーナではないか!
簡潔さとは、単純化では全くない。
説話的な持続が一向に不明瞭なままにも拘わらず、
語りたいテーマのために必要なプロットは強引に展開される。
あのプロムの上映で、イケメンが等身大の自分とスクリーンの美化された姿との乖離に動揺し、
逆に劇中で馬鹿にされたことを怒ったいじめっ子の子分を唐突に殴り飛ばすなんて、
一般の水準でみれば感情の流れとしてあり得ないほど突拍子のない展開である。
必要なシーンを脈絡なくくっつけまくるという戦略。
結果、作品の全貌はゴダール作品のそれと限りなく近似することになった。
実際、本作と「気狂いピエロ」とを比較すれば、
単なる印象に止まらない細部の類似がいくらも見つかるはずだ。
150分の尺をもつ90分映画であり、
スピルバーグが監督したゴダール映画。
そんな新作に出くわして、涙をしないわけがない。
こんなに誰にも向けられていない映画が当たるはずがないのは、スピルバーグも承知している。
その好き放題をみたらばこそ、こんなに心は晴れやかだ。
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