銀河鉄道の父のレビュー・感想・評価
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父でありすぎる父から見た息子・宮澤賢治
いやはや、宮澤賢治を子に持つと大変だ。それでも、そこに愛情があれば苦労が喜びに変わるのは、世間の親と同じなのかもしれない。
賢治は次から次へと行き当たりばったりで奇妙な行動に走るが、何故そうしたくなったのかという彼の内心の描写は、物語の中ではあまりされない。賢治が有名なこともあってつい物語の中心に置きたくなるが、主人公はあくまで父の政次郎だ。
賢治の動機に関する説明が少ない分、彼の行動はいっそう奇異に見える。胡散臭い商売(人造宝石)を思いついたり、宗教にのめりこむ。こんな家族が自分に実際にいたらもう大変だ。賢治の気持ちに同調するというより、政次郎の心労に同情する気持ちで見てしまう。
予告映像の雰囲気やテーマソングから受ける明るい印象に反して、中盤以降は死別の悲しみが繰り返し描かれる。祖父の喜助、トシ、そして賢治。「永訣の朝」が脳裏にあると、序盤にトシが登場した段階で死の気配を感じる。
これは、政次郎が肉親の死を介して生きることの意味に触れる、そんな物語でもある。子に先立たれる親の悲しみは、経験のない身には想像する術もないが、親子愛だけでなく、死の受容の物語であるように見えた。
賢治はもちろん強烈だが、トシの人となりがまた印象的だ。
賢治の進学を政次郎に進言するアプローチとして、ただゴリ押しのお願いをするのではなく、父をうまいこと持ち上げて納得させる。認知症の傾向が出はじめて暴れる喜助の頬を張り、「きれいに死ね」と言い放って抱きしめる。爽快感を覚えるほど、賢くて気丈だ。
インパクトのある「きれいに死ね」だが、原作のトシは喜助に面と向かってこう言ってはおらず、喜助宛ての手紙をしたためている。手紙の主旨を表す言葉として地の文に「きれいに死ね」という言葉が出てくるのだが、手紙の本文は実際に宮澤トシが祖父に宛てて書いた手紙の文章がそのまま全文引用されている。この文章が、祖父の心情への配慮も行き届いていて実に見事なのだ。
ちなみにこの手紙は、政次郎の意向により喜助に見せられることはなかった。
原作で手紙の要約として提示された言葉を、本作ではトシがずばり口にしたわけでちょっと複雑な気持ちにもなったが、映像化するならこうするしかないし、森七菜の演技がよかったので原作とは違うよさがあるシーンになっていた。実在の宮澤トシがこのメッセージを祖父に伝えたいと思ったその願いが、フィクションの中で叶えられたような不思議な感慨があった。
賢治が亡くなる場面で政次郎が「雨ニモマケズ」を朗読し始め、その後号泣という演出は、正直御涙頂戴感が強くてスーッと冷めてしまった。そしていきものがかりの流れるエンドロール……いきものがかりは予告で分かってはいたけれど、いきものがかりのファンの方には申し訳ないけれど、「星めぐりの歌」でも流してくれた方がまだ余韻にひたれたかな。
邦画にありがちなアレンジで最後に安っぽさが出たのは残念。
役所広司にしか表現しえないこの父親像
誰もが人生において宮沢賢治の詩や物語に心動かされるにつけ「賢治はどのような人だったのか」とは思うだろうが、その父親までは想像が及ぶまい。本作は偉人伝記において助演か脇役の存在に過ぎない「父の視点」で宮沢家の肖像を情緒豊かに綴った物語。やがて賢治が農業と並行して執筆を続け、彼の死後になって評価されるのは広く知られた話であるし、妹の存在が執筆活動を精神的に支えたという逸話も聞き覚えがある。それに比べて、父は文学的な素養があったようにも見えず、木訥で、平凡。賢治を精神的に力強く導いたわけでもなさそうだ。けれど役所広司演じるこの主人公は、賢治の創作世界を決して否定せず、自らがいちばんの読み手であり、理解者であろうとする。それがどれほど賢治の支えになったことか。常に浮遊するようなカメラワークが役所と菅田の化学反応を流動的かつ柔軟に捉え、彼らにしか築くことのできない父子の愛のかたちを実直に謳っている。
宮沢賢治についての知識と、観客自身の経験値によって評価が変わりそう
明治から昭和初期の時代を生きた作家・詩人、宮沢賢治の伝記映画は過去にもあるが、「銀河鉄道の父」は小説家の門井慶喜が賢治の父・宮沢政次郎を主人公に据えた直木賞受賞作の映画化。役所広司が演じる政次郎の視点から、賢治(菅田将暉)、賢治の妹・トシ(森七菜)ら家族の成長や試練を綴っていく。成島出監督と役所とのタッグは1月公開の「ファミリア」から2作連続で、「油断大敵」「聯合艦隊司令長官 山本五十六」を合わせて通算4度目。
宮沢賢治の代表的な詩や小説を読んでいても、生い立ちは知らないという人も多いだろうから、賢治の生涯をたどる入門編としての意義もある。波乱万丈に生きた人物なので、駆け足の紹介になっている点や、賢治の創作の真髄にまでは迫りきれない父親視点ゆえの限界など、物足りなさも。
政次郎が当時の父親としては異例なほど熱心に子育てに関わり、賢治やトシが病の折には献身的に世話をする様子も描かれるので、子育て経験のある親世代の観客には政次郎やその妻(坂井真紀)に感情移入しやすいだろうか。若い世代でいまいち話に入り込めなかったとしても、さまざまな人生経験を積んで遠い将来に再見したらまた違った評価になるのかもしれない。
日没のマジックアワーの時間帯を狙ってワンテイクで決めたという屋外の火葬シーンでの菅田と役所の熱演など、見応えある映像は確かに劇場の大スクリーンでの鑑賞にふさわしい。ただ、個人的には「ファミリア」の現代性の方がより響いた。
宮沢賢治を主役に据えるのではなく、宮沢賢治の父親を主役にすることで宮沢賢治を描いた実話。
本作は、宮沢賢治の父親を主役にする事で宮沢賢治を描いた実話・直木賞受賞作「銀河鉄道の父」の映像化作品です。
主演の役所広司は宮沢賢治が生まれたての時から、宮沢賢治が37歳の段階や、それ以降も(吉永小百合の如く)演じ分けているのは意外にも違和感がありませんでした。
本作の面白さは、何と言っても父親を主役に据えることで「宮沢賢治の一家」を通して宮沢賢治の立ち位置や家族からの影響などが分かる事でしょう。
実際に、これまで見た事がない視点で宮沢賢治が描かれていて、ようやく俯瞰して宮沢賢治という人物像が見えた気がします。
本作は基本は実話なのですが、ラストシーンの件は、史実とは異なります。
ただ、「宮沢賢治の一家」の家族愛の物語を描くには、史実とは少し違うラストもリアリティーがあって良いと思いました。
宮沢賢治の優しさ、過集中ゆえの脆さまで心に響く。宮沢賢治をこれまでにない視点で描いた傑作!
本作でメガホンをとった成島出監督は、「マルチな才能で資料が膨大すぎる宮沢賢治を1本の映画では描ききれないと思っていた」とおっしゃっていた。しかし本作の原作に出会い「これだ!」と動き出した原動力が、本編を最後まで見るとよくわかる。
長男である賢治の父親(政治郎)の「親っぷり」を存分に演出しながら、賢治の家族も丁寧に描かれており、賢治の様々な挑戦がダイジェスト版のように随所にちりばめられている。家族に焦点を合わせることで、あまり知られていない賢治と彼を支えた家族の物語を描くことに見事なまで成功させた。
質屋を営む両親が、自由な長男・賢治の数々の決心にその都度驚く表情や姿も見どころの一つとなるほど、些細な場面でも見逃せない演技が満載なのだ。
設定では岩手の花巻市が主な舞台なので、方言を学ぶところから役者は相当苦労しただろうし、何より主演の役所広司を筆頭に演技が素晴らしかった。
夜になると小さな灯りを頼りに執筆をしていた宮沢賢治を象徴しているように、町並みも街灯を抑えていたからか、星が特に美しい。これはランプの灯りを最大限に活かし、ライティングを徹底的にこだわり、高感度カメラを使用するなどの隠れた制作の苦労によって成り立ったものだ。明治、大正、昭和を感じる背景の雰囲気もどこか懐かしく、あたたかい気持ちになる。
このような様々な制作の苦労もあり本作の体温が伝わり、ラストの展開を含めて涙が止まらなかった。
雨ニモマケズに初めて泣かされた
父親は良かったが
明るい話だと思ったら、、
やはり自伝物は・・う~ん・・・
確かにエンディングは泣けた。がそれは役所広司と菅田将暉の演技のおかげ?演技と言えば物語の中で母役の坂井真紀が最後に見せた母親としての存在感。まさにあのワンショットの為に全編奉公人のような押さえた演技をしてたのかと思うと、驚きと感動があった。ストーリー的にはどうしても出来事だけをトレースしがちなちぐはぐさが鼻について気持ちが最後まで入りいらなかったが、最後賢治が逝くシーンは俳優たちに助けられた。
主人公は政次郎なのだ
この作品の主人公は宮沢賢治の父政次郎だ。しかし彼の出番自体は意外と少ない。
一見すると賢治や他の家族に振り回されているだけに見えなくもない。それでも政次郎が主人公なのである。何故か。それは政次郎がこの時代には珍しい革新的な人物に描かれているからである。
政次郎は「これからの男は…」と言う。
男が看病などしない時代に率先して看病をする。作中で看病をする場面が何度かあるが、そのほとんどを政次郎が行う。
新しいことをやりたがる子どもたちに家業の質屋をつげと古臭い堅物のように言うが、その実、子どもたちが新しいことにすぐ目を向けてしまうのは、新しい男である政次郎の影響なのではないか。
アンデルセンやらなんやら賢治たちは言う。それを政次郎は一切否定しない。本当に堅物であるならば、そんなものは読むなと言うだろう。賢治の改宗についても同じだ。
本当に駄目なことだけは駄目だと言って、それ以外は大体受け入れる。政次郎は子どもたちの自由意志を尊重しているといえる。
この時代にそんな価値観の男がどれだけいただろうか。
そんな新しい男政次郎の影響は賢治の作風にも表れているかもしれない。
宮沢賢治の作品は擬音が多い。他の人の作品と比べ少し変だと言えるだろう。言い換えるならば変人だ。
この時代に看病をする政次郎もまた変人だったのではないか。賢治が変人なのは父親譲りなのではないか。
そうかんがえると宮沢賢治という人物の構成に、妹のトシだけではなく政次郎も入っているのは間違いないだろう。少なくともこの作品の中では。
「雨ニモマケズ」のほんとうの意味
原作が未読で、どこまでが映画オリジナルのストーリーかどうかが分かりませんが、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩が、あの場面で、あの人があの人に語ることによって、初めてわかったような気がします。宮沢賢治の苦悩と父の深い愛が、美しい景色とともに描かれた作品です。
お父さんの苦悩と愛に心打たれた
原作本は読んでいた。レビューを見ると時代考証が甘かったり事実と異なる部分が色々あるようでそれを読むとちょっと残念な気持ちがしたが観終えた直後はものすごい余韻に浸った。特にラストの銀河鉄道の中で3人が居合わせるシーン、完全にファンタジーではあるが物語のオマージュであり私はとても好きだ。賢治は心が繊細だったのだなあ、親としての苦悩もよく分かるしそれを包み込む子供への愛は素敵だ。トシも賢治も先に逝ってしまうなんて、なんて非情な運命でしょう。ひとつだけ残念に感じたのはあのラストシーンからの主題歌がいきなり現代?ぽくてなんだかそぐわないなあと感じた。いきものがかりは好きなアーティストさんなんだけど。ごめんなさい。
賢治に思い入れのある身としては
正直菅田将暉さん演じる賢治に違和感があった。賢治というよりはただただ菅田将暉だった。確かに賢治は内に激しいものを持っていたと思うけど葬儀であんな振る舞いをするような激しさではないとか、脚本、演出上の違和感もめちゃくちゃあった。あとシンプルにつまらなく感じた。
宮沢賢治の父‼️
宮沢賢治の物語を父親の視点から見た伝記映画‼️家業の質屋を継ぐ、継がないで喧嘩が絶えなかったり、妹のトシが結核で亡くなってしまったり、作家活動が順調に行ったと思いきや、自らが結核になってしまったり・・・‼️どちらかと言うと家族との物語に時間が割かれ、賢治の作家としての側面はほとんど描かれない‼️ファンの方は有名な「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」の創作の背景をもうちょっと見たいのではないでしょうか⁉️結論としては可もなく不可もなく、あまり面白みのないフツーに感動できる宮沢賢治の物語‼️ただやはり父親役の役所広司さんの存在感は素晴らしい‼️それと役所さんと菅田将暉は父子に見えないけど、坂井真紀と森七菜は母娘に見える‼️スゴい、似てる‼️
永訣の朝
小学生の頃に国語で永訣の朝の一部分を習った。学習テープの今にも消え入りそうな声が今も耳に残っている。勝手に宮沢賢治とは貧しい出自なのかと思っていた。
優しいと言えば聞こえは良いが裕福な家の育った夢見がちなお坊っちゃんだった。沢山の取材をしたと聞いたし実話に近いのかな?
本人はもがき苦しんだのかも知れないが、親バカとも言える父の愛のなかでぬくぬくと育った。短命ではあったが彼は彼らしくひたすら彼らしく生涯を終えたのでしょう。
長生きしろよ。子を2人も見送らなくてはいけなかった父の気持ちを思うと胸が痛い。
役所広司さん好きです。娘に甘い父。まんまと娘の口車に乗り進学を許す。いつの時代も父とは娘に甘いものなのだとクスッとしました。
エンディング曲は、なんかどうだろう?ほんわかほのぼのしすぎでは?もう少し自然が映える壮大な曲がよかったな。
雨ニモ負ケズ
妹トシを思いながら物語を書きたいから別荘に行くのくだり、とても感動して涙しました。
雨ニモ負ケズで、南に死にそうな人がいれば、恐がらなくていいよと言い、がありますが妹トシが祖父に言った言葉でしたね。兄妹の絆をそこでも感じられた。
この父あっての「宮沢賢治」、そして言葉の温かみ
<映画のことば>
お前の作った物語が、トシには光だったべ?道だったべ?
だから、お前の言葉で導いてやらねば、トシは極楽浄土、行けねえべ。
若き日の賢治は、全力で父を乗り越えようと、奮闘努力していたのかも知れないと思いました。評論子は。
一見すると突拍子もない「人造宝石の発売」という考えも、商い(質屋)を営む父親・政次郎を超えるために、賢治なりに精一杯に考え抜いたアイディアだったのでしょう。
そう思い返すと、胸がいっぱいになるような思いです。
一方の政次郎にしても、賢治の才を信じてなのか、賢治の「見守り」に徹する姿が印象的でしたし、その度量が賢治を育てたことも、見逃すことはできないのだろうと思います。
政次郎の稼業が本当に質屋であったかどうか、寡聞にして評論子は知らないのですけれども。
質屋は、一見すると質物というモノを見てお金を貸す商売に見えるのですが、実際の質屋は借主というヒトを見てお金を貸す商売であり、それだけに、政次郎は賢治の非凡さに、ハナから気づいていたのではないかと、評論子は思います。
それ故に、賢治がおかしなこと(人造宝石)を言い出しても、学校の教員という安定した職をあっさり捨ててしまっても、家とは異なる宗派の宗教にのめり込んでも、政次郎は賢治を終始、温かい眼差しで見守ることができたのではないかとも思います。
結局やはり、本作の題名も、他ならぬ「これ」になっている…否、「これ」でなければならなかったのでしょう。
そして、充分な佳作であったと思います。
評論子は。
(追記)
ある県で、観光を売り込むセクションの職員を公募したときに、「標準語が話せる人」という条件をつけたことがありました。
観光プロモーターとしては、アカ抜けた話し方ができる人という思惑だったのかも知れません。
一方で、歴史的には拓殖地・開拓地であった(評論子の住む)北海道は、各地の「お国ことば」が混交するうちに、自然と標準語に近い言葉遣いになってきたようです(いわゆる「方言」はあっても、イントネーションは限りなく標準語に近い)。
しかし、本作のような作品を観ると、その土地その土地の「お国ことば」の温かさが、心地よく耳に伝わります。
その「温かみ」も、遺憾なく味わえる一本であったとも思います。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
これを標準語に翻訳してしまったら、なんの味わいもなくなってしまうことでしょう。
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