「「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」」彼岸のふたり いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」
モチーフである"地獄太夫"は、まるっきり存じ上げていなかったのだが、wiki位での知識なので今作にどのように落とし込んだのかは分らず終いである 大坂、堺という土地が同じということ、うつし世と常世の境を、社会の生き地獄とアイドルの華々しいステージとにメタファーとして印象づけることとしてのモチーフであったのか・・・?
モチーフである"地獄太夫"はエピソードとして"一休"さんが登場するのだが、今作ではその役目を同じ名前の
"ソウジュン"(劇中では一度も名前は未出)というイマジナリーフレンドが出演されているが、別に一休さんのようなトンチが織込んでいなかったので、どこか関連するシーンがあるのだろうか?
もう少し丁寧にストーリーに溶かしたら奥行きがでるのはないのだろうかと思ったのは、制作上の意図を読み間違っているかもしれない私の勝手な吐露である
2つのストーリーが同時進行する群像劇だが、収束する訳でもなく、影響は受けるのだろうが、そこからの展開は描かない というより、実際地下アイドルが大挙して出演する企画なのだろう、ネガティブには描けない大人の事情は想像に難くない とはいえ、"商品に手を付ける"という凡そプロとしての職業意識の欠如したマネージャー、そして別筋である母親とそれが連れ込んだ男と、保護園の代表、強いて言うなら就職先のホテルのマネージャー、兎に角大人達の自己保身の数々を、ここまで列挙して少女達に襲わせるストーリーテリングは、もはや"ホラー"といっても疑えず、尚且つイマジナリーフレンドの様相もこれまた柄の悪いあんちゃんときたら、心の荒み様は半端ないことを心象として作劇しているのだろう 現実の汚さ、理不尽さを協調することで、アイドルのコンサートの煌びやかさに心酔し、ぼうだの涙を映す かくして群像劇が合流し、その感動を伝えたところ、妊娠によって引退することを打ち明けられ、またもや少女は不条理さに打ちのめされる そこで寄る辺ない彼女の選択は、死ぬことよりも敢えて逞しく生存する超転換の成長を遂げるのである ここが人間のマジックであり、作劇として表現するには、"発想の転換"は他人からは、ほぼ理解不可能なのではないだろうか なので、こうなると都合の良いストーリーテリングと評価され易くなってしまうのも詮無き事であろう だがその心変わりや、"窮鼠猫を噛む"的事象、身近なところでは"逆ギレ"といった行為は、幾らでも事件性を帯びながら社会に至るところで発生している 少女は大人を赦さないであろう だから冷酷に大人を観察、学習し、そして利用する そこにはもう、一片の情は差し挟まない その生存への飽くなき決意に祝福するかのような福引きの自転車 運は一気に少女に舞い込む序章だという予感を抱くのはカタルシスのなさる業か・・・ 但し、クライマックスでの母親への敬語が一気に消え、対等な言葉遣いを発した少女の、これからの女としての成長を、"地獄太夫"誕生のそれと重ね合わせたことをモチーフというのならば、自分の少々乱暴な解釈なのであろうか・・・
社会に出れば、信用ならざる者が外も内も数多だ 教訓めいたことを言うほど野暮ではないし、かといって世の中を憂いても解決策など皆無 さて、この世の地獄をどう成敗するのか、それとも自ら終わらせるのか、その境が『彼岸』なのである
"暑さ寒さも彼岸まで・・・"