「「バビロン」とは映画、「バビロン」とは宇宙」バビロン つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
「バビロン」とは映画、「バビロン」とは宇宙
ここ最近「映画愛」をテーマにした映画が続々公開されている。タイミング的に、コロナがあって、撮影がストップしたり、スタッフが揃わなかったり、公開が決まらなかったり、「このまま映画って終わっていくのかな…」なんて感じた人が、メチャメチャ多かったんだろうと思う。
映画の火が消える前に、映画という太陽が沈む前に、自分を魅了してきた「映画」について、どーしても形にしたい!あって当たり前だったものが、当たり前じゃなくなるかもしれない、その危機感が彼らを突き動かしている。
同じ映画愛でも、その表現方法は様々。「フエイブルマンズ」はスピルバーグの半生という形で映画への愛を語り、「エンパイア・オブ・ライト」は映画館に集う人々を通して映画と映画に魅せられる人たちに寄り添う。奇しくも2023年の冒頭に公開される映画愛の映画。
そして本作、紛うことなき傑作中の傑作、10年に1度、いや100年に1度の超伝説級スペクタクル映画「バビロン」である。野心的で革新的、過去を描いているのに斬新。ある所では粗野であり、ある所では繊細。外連味の極地でありつつ、侘び寂びも忘れない。
「バビロン」には映画の全てが詰まっているのだ。映画という名の宇宙、それが「バビロン」である。
ちょっと何言ってるかわからないと思うので、「バビロン」の凄まじさを書ける範囲で書くけど、文字数足りると良いな。
まず1つ目。「バビロン」は5本の映画で構成されている。冒頭のパーティからタイトルまでが1本目、ネリーが蛇に噛まれ、レディ・フェイに助けられるまでが2本目、ジャックの主演映画がバカにされ、エリノア女史と対峙するまでが3本目、メキシコに逃げようとするマニエルの前からネリーが消えてしまうまでが4本目、そして「バビロン」本編。
つまり、本編の中に4つの映画が含まれるのだ。その4本は明確に「キスシーン」で分割される。映画のラストといえばキスシーンだからだ。
そして、「バビロン」本編にラストのキスシーンはない。何故か?「バビロン」は、映画ってもんはまだ終わっちゃいないからさ!
そこで2つ目。「バビロン」は映画の過去だけでなく、現在も未来も描いている。舞台こそ1900年代初めのハリウッド、登場人物たちはサイレントからトーキーへと映画の質が変容していく中で、それぞれに表舞台から姿を消していくが、作品を観る観客たちはいつも必ず存在している。それは今も同じなのだ。映画が全て配信になっても、あるいは脳内に直接語りかけるようになっても、観客は常に存在し続ける。過去も今も未来も。
「バビロン」という映画は一旦189分で終わるが、映画という存在や概念自体は終わらない。形は変わっても、映画を支える技術が変わっても、役者が変わっても、映画は終わらないのだ。
デイミアン・チャゼルは「終わってしまうかもしれない」という危機感に明確にアンサーする。「終わったりなんかしないよ」と。
そして3つ目。「バビロン」には過去の映画作品がこれでもか!と詰め込まれている。ジャックやネリーのネタ元になった俳優たちや、劇中演じられる作品や、劇中流される実際の映像のことだけ話してるわけじゃない。カメオやオマージュの話でもない。
「バビロン」に内包される映画とは、あらゆる映画のあらゆるパーツなのだ。映画のコラージュなんて生易しいものじゃない。映画で構成されたモザイクが滑らかな映像となって飛び込んでくる体験、映画という時間と空間が爆発して膨れ上がる感覚、その中に確かに存在する「観客」という私、それら全てが「バビロン」なのである。
何で読んだかは忘れたが、白石和彌監督は「映画っていかがわしいものでしょ」と言っていた。その「いかがわしさ」を見つける事が出来る。マッケイの話す新作映画のアイデアに、「ベンジャミン・バトン」を垣間見たり、ジャックの映画のエキストラが後ろで走り回っているのを観て「影武者」を思い出したりすることが出来る。
過去の映画体験が一本の映画に凝縮され、一本の映画として存在する。189分を「長い」と言う気持ちはわかるが(大抵116分くらいだからね)、むしろよく189分に濃縮できたな、である。
4つ目。そんな大宇宙「バビロン」だからこそ、ダブルミーニングや暗喩、預言のようなセリフとシーンがメチャメチャ多い。これも挙げてくとキリがないのだが、ジャックが出演交渉するグロリア・スワンソンは実在の女優で、もちろん他にも実在の俳優や映画は山程出て来るのだが、彼女の代表作「サンセット大通り」はサイレント映画のスター女優が過去の栄光に執着して起こる悲劇を描いた傑作だ。
スターダムに駆け上がろうとするネリーや栄光の玉座に君臨するジャックを描いているパートでありながら、既に運命の末路が暗示されているのである。
アイスのトッピングの話題は、素材(つまりネリー)の味がトッピング(洗練された佇まいや言葉遣い)で台無しになることを拒否する話で、エリノアがジャックにかける言葉「20年前とちっとも変わらない」は、「魅力的」と同時に「古い時代の人間」を表している。
それらダブルミーニングと暗喩は「バビロン」というタイトルからしてそうだ。古代都市バビロンは多様性の象徴でもあり、奴隷都市でもあり、資本主義的享楽の源でもあり、知識と科学の楽園(つまり映画そのもの)でもあるのだ。
5つ目。動から静、光と闇、ハレからケの切り替えが凄い!1本目の映画撮ってるパートからしてそうなのだが、とにかく派手さ喧しさからの静謐、その緩急が凄すぎる。踊り狂っていたネリーが一転して涙を流す演技、サイレント映画の混沌とした撮影とトーキーの時計さえ許されない撮影の落差、夜通しパーティで踊り狂って、トランペットを吹きまくって、自宅では粗末なベッドや椅子にもたれて眠る夜と朝の差。
映画全体では、裸体や死体や汚物を徹底的に見せるところでは見せていくのに、ジャックやネリーが退場するシーンでは彼らの最期を全く見せずに観客の想像に任せる「演出の足し引き」がある。ただの露悪趣味ではなく、計算された演出なのだ。
その押しては引いていく波が、映画全体を進行させる波力発電となり、観客を映画の一部として引き込んでいく。もの凄いパワーが炸裂して一気に引きずり込まれ、あとは為す術もなく慣性の法則で流されていくだけだ。
6つ目。結局ここまで書いてきたことは、デイミアン・チャゼルの「映画愛」とその表現についてなのだ。ここから「何を受け取るか」は、受け手である観客に委ねられる。映画という存在の、「ねぇ、私のこと愛してる?」にどれだけ応えられたか、が「バビロン」観てどうだった?の答えになると言っていい。そういう意味では、「バビロン」が人生初映画の人にとっては「ねぇ、私のこと愛してる?」はかなりハードな質問かもしれない。
本編のラスト、マニエルが映画館で体験したことはマニエルの人生が確かに映画の一部だった、ということだ。映画作品だけでなく、映画製作に携わったすべての人たち、すべての観客、未来に映画を観る人たちも含めて、「映画という大きなものの一部」だ、という壮大な世界観。その世界観では、モノクロ映画も、サイレント映画も、役者がとっくに天国へ旅立っていても、そんなことは何の関係もない。
彼が最初に望んだ通り、自分は既に「映画っていう大きなものの一部」なんだ、という気づきの時なのである。しばらく映画から離れていても、一度映画を鑑賞すれば、「おかえり」、と温かく迎え入れてくれる。
それを目にした時、どう思った?
私は「まるで青い鳥じゃないか」と思いつつも、自分が映画の一部として存在していることにとても満足して幸せだった。一緒に観た旦那も「俺たちみんな巨大な映画の一部なんだ、俺も仲間なんだ」と思って感動したそうだ。
もう一度聞こう、「自分が映画の一部だと知ったとき、あなたはどう思った?」