正欲のレビュー・感想・評価
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「多様性」と言いながら一つの方向に導こうとするのは誰か
原作は未読だが、朝井リョウらしさを感じさせる群像劇。「噴出する水に性欲を感じる」という超少数派な性的指向を持った孤独な人間たちが、ようやく繋がりを見出すものの、不運な出来事が彼らに起こって、といった話。
「普通の人たち」の悪気のない傲慢さや、彼らの「普通」な姿を見る時の夏月(新垣結衣)の肩身の狭さが繰り返し描写される。立ち入ったことを聞いてくる職場の妊婦の先輩、売り場でたまたま出会う親子連れの同級生。大也(佐藤寛太)のダンスサークルの女の子が主張する「型通りの多様性」。寺井(稲垣吾郎)が家族に対して繰り返し示す、子供の教育の「普通」。
「普通」に固執する(ように描写される)寺井が最後には家族を失う一方、佳道と異端の絆で結ばれた夏月は対照的に、佳道の元から「いなくならない」ことを「当たり前のこと」として寺井の前で宣言する。まるで、同調圧力で「普通」を押し付けてくる多数派への、少数派の意趣返しのようだ。
「性欲の対象が水」という設定は、ちょっと綺麗すぎて、あまりグサっと刺さってこなかった。夏月と大也の自慰描写がかなり抑え目だったこともあり、見た側が受け入れられるか問われてつい逡巡し、己を振り返ってしまうようなインパクトには欠ける。「水への欲情」は、マジョリティの「人への欲情」となんら干渉しないので、変わってるなあとは思うが、拒否感は起こらない。
既存の倫理観から逸脱するかどうか紙一重の指向の方が、観客が試されたのではないか。超マイノリティの疎外感といえば「流浪の月」を思い出すのだが、あちらの孤独の方がヒリヒリしていた。
寺井の家庭の描写はどう解釈するか迷う部分があった。
確かに、頭ごなしに否定するかのような寺井の態度はよくない。しかし一方で、息子は不登校の理由もよく分からないし(父親への説明の第一声が子供YouTuberからの影響、動画を見せるだけで自力で説明しない)、妻は夫を責めてやたら感情的になるわ息子に片付けのしつけもしないわ、安易に右近先生に依存するわで、何だかどっちもどっちのように見えてしまった。
私が寺井の立場だったら、最初は彼に近い反応をしてしまうかな。息子が学校に行きたくない理由をまず確認して、妻の話も聞くようにはしたいけど。YouTubeで有象無象の視聴者のリクエストに答えるよりは、学業を修める方が大事だから。学校が無理ならフリースクールで。
終盤、水を愛でる集まりに紛れ込んだ性犯罪者の逮捕に佳道(磯村勇斗)たちが巻き込まれ、検察官の寺井は彼の主張した「水への関心」を誰かの入れ知恵と決めつける。しかしこれはある意味仕方のない展開にも見えた。
何故なら、仲間の1人の矢田部が性犯罪者であることは事実で、その矢田部から子供の映った画像を受け取っていることも残念ながら事実だからだ。同じ場面で「子供に関心はありません、大人の女性が好きなので」とマジョリティ的な受け答えをしたとしても、上記の状況がある以上寺井は簡単には信じなかっただろう。
だから、終盤の流れは彼ら超マイノリティへの世間の風当たりを表現する方法としてはちょっとずれている気がした(違う意図があるのかな?)。
「時流に乗って多様性を称揚しているあなたたちは、こういった人々のことまで想像して多様性を論じているか?」という問いかけが、本作の眼目ということだろうか。しかし、そもそも少数派へ想像力を持つとか、知ってどうすべきかという発想自体、自分は多数派であるという認識、そう思いたいという願望から来るものだという俯瞰の視点も必要なのかもしれない。
これは私の個人的な考えなのだが、「多様性を肯定する」とは自分と違う人間を否定しない「わきまえ」を持てばそれでいいと思っている。言い換えれば「多様性を”否定する態度を取らない”」「他人が多様であることを邪魔しない」くらいでいい(とはいうものの、相手が身近な人間だったり、自分の価値観と干渉する時はこんなことでさえ難しい)。互いの生き方の邪魔さえしなければ、内心で「水に興奮するとか変わってる……わからんわ」とか、逆に「セックスってトレーニングみたい……滑稽だ」程度のことは考えたって別に問題ない。そこで「理解しなきゃ、受け入れなきゃ」と内心を押し殺す時、あるいは「理解しろ、受け入れろ」と変容を強要する時、多様性賛美は欺瞞に変わる。
ガッキーの新境地的役柄が話題の本作だが、私は東野絢香の「こういう人いる」感が印象的だった。あと、磯村勇斗は「月」のさとくんからのこの役でなかなかヘビーな仕事の流れだなと思った。「月」の撮影終了後5日ほどで本作の撮影に入ったそうだ。さとくんで得たものが佳道に通じるところもあり、それをベースにして役に入っていったという。
メンタルコントロールも俳優の技術のうちなのだろうが、何だかすごい。
基本原作準拠
原作は割と発表して直ぐに読んだが、流石に細かい部分は覚えて無い。まぁ、基本的には原作準拠。ただし、当然、映画の尺に合わす為も有るんだろう、カットしている部分が有り、それが妙に違和感に感じるカットだったかなぁ。まぁ、原作未読だったら気にならないと思う範囲。
しかし、マジョリティ、マイノリティ双方みんな変なのばっかりだなぁ。と言うか、皆が自分が正しい(性欲に限らず、日常的な部分も)と思い込み、他者に切れるキャラばっかり。唯一マトモなのが、稲垣吾郎演じる検事の補佐である検察事務官が傍観者的立場だからか、彼くらいだった。
水に性的興奮をする人間の苦悩の話だけど、(まぁ、その感覚はやはり理解出来ない)確かにとても他人と自分の違いを感じるし、キツいなぁとは思うんだけど、あそこまで隠す事なのかなぁとも思う。むしろ、他人には水アートが趣味だよと開き直って嘘混ぜて言った方が楽だろうなぁ(それが出来ないのが当事者なんだろうけど)。
その水フェチ仲間を見つけて、男三人で集まって動画を撮影。その時にたまたま子供たちも遊んでいたので動画に入った。でっ、三人の中の一人が小児性愛者(男児)で、少年への買春で逮捕。そこから他の二人まで逮捕?身柄拘束。まぁ、刑事・裁判物では無いけど、あれだけで二人まで捕まるか?最初の一人は買春(途中からハードな要求をして、嫌がるのを無理矢理)現場を撮影してたから問答無用だけど、二人は水遊びに子供が交じっただけの動画。まぁ、起訴まではされないだろうけど。
原作を読み終えた時は、なんか凄い物を読んだ気がしたんだけど、映画にすると・・・・こんなもんかぁ感。
まぁ、一番の見所は、稲垣吾郎が上記の買春動画を見ている所か・・・・去年公開・・・・あの騒ぎの少し沈静化した頃。演じてる時も色々思う事は有ったろうなぁ。
多様性というのかな
色々な性癖があるのはわかるが、水に性的興奮するというのはフィクションなのか、なかなか理解できないが。。
そういうものもあるなら、そういうのがあるのは受け入れないととは思うがなかなか理解できない。
稲垣吾郎が演じる男の家庭。正直、私は稲垣吾郎に賛同しかなく、子供がユーチューバーの影響で学校行きたくないとか言い出しても受け入れることはできない。
多様性という言葉がでてからなのか、マイノリティの事を全面的に受け入れてそちらに寄り添うのが、自分の考えを押し殺してでも我慢するのが良いとされてる空気感のある昨今。わたしはあまり乗れてない。
個々が少なからずの自分のエゴを押し殺して生きている。その我慢によって世の中が成り立ってると思う。
素直に受け入れられない映画であった。もう一度見直したくはある。
1人じゃ無かったらいいね
本でも読んだことがあったが、映像化された作品を観てまた違った印象を感じました。性欲というのは、あまり人に話す事が無いので何が正しいのかなんて誰にも判断するのは、難しい事だと思います。自分が感じていることが全て正しい訳でもなく、間違っているのでもなくそれを捉える人による部分が大きいのかなって思いました。
誰かを傷つけてやることは違うのかもしれない。
それを隠して生きてけば、誰からも変な目で見られることもなく世間が言う普通というもののはいていけるかもしれません。
自分の呼吸を止めて生きていくような人生になるかもしれない。
だけど、この映画で良かったと思うのは最後に主人公に救いを与えてる部分がとても良かった。
「いなくならないから」
普通に生きているはずなのになぜかぶつかってしまった検事と異常者として世間から白い目を向けられてしまった夫との対比が見事でした。
普通のはずなのに
相手は異常者なのに
なぜ、分かりあえない
何故、分かり会えるのか
言葉では、表しづらい部分を表現した作品だなと思いました。
考察不足
普通とは幻想であり、いわゆる普通に合わせているフリをしている方が多いのではないかと思っているのだが、この映画は色々と不十分だと感じた。
まず普通の人の描写がズレている。
冒頭で描かれる仕事中にズケズケと個人的な領域に立ち入って人は「普通の人」ではなく、「普通に迷惑な人」でしかなく、一般的に見ても主人公は良くある被害者に過ぎない。
普通を志向する警察の人の発言も、子供の不登校の原因が不明なので一理あるというか正論に聞こえてしまう。片付けも教えず、子供の自主性=正しいという幻想に取り憑かれた母親の方に危なっかしさを感じる。
次に致命的なのは世間知らずと言っても良い設定の甘さだ。
Youtubeとは最新情報、専門知識の発信や作り込まれた企画もの、過激なエンタメでなければ視聴は稼げない。件の不登校児(過去形だが)も有名人とのコラボ、過激なパフォやボクシングなどがあるから視聴者を稼げたのであって、この映画のように不登校児が二人で普通に遊んでるだけで順調に登録者が増える事はない。
また、警察が閲覧履歴やチャット内容を調査するのは常識であり、それで二人の容疑者の疑いは晴れるはずだがその形跡はなく、思い込みで捜査を進めて行く不自然さ。これらは作品からリアリティを奪ってしまう。
新垣は美人であるし演技も悪くないのだが、流石にセックスを経験したいと言いながら服着て試すのは無理があるのではないか?この辺りは制約があるのだろう。
それと各々の性癖を追求する権利を主張しながら、児童買春を行う者との線引きについても踏み込まずに終わるのも考察不足と言わざるを得ない。
己の嗜好の追求は是だよねというフワッとした感覚で作られているようで物足りなさを感じた映画だった。
人を選ぶ作品
面白い面白くないは抜きにして、今の時代にあるべき映画だとは思いました。見る価値はあると思います。
「多様性」の言葉を使う現代に対しての注意喚起というか、「私たちは私たちでやってるからほっといてくれ」と言われているような感覚でした。
最初の方の家族のいざこざに関しては、本当に見てていい意味で不快、リアルでした。見てて辛くなるというよりはイライラします。母親役の方と子供役の方が素晴らしい。夕食を一緒に食べない、話し合うときに絶対に2対1の構図になる、母親が泣いてからの「お母さんにいじわるするな!」など、ありきたりといえばありきたりですが一番リアルなのかもしれません。
見てよかったとは思いました。
ついでだけどガッキーの喪女っぷりは素晴らしい
この映画での個人的な驚きとは
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
※重要作品なのにレビュー漏れしていて今更ですが‥
この映画『正欲』で個人的な小さくない驚きは以下でした。
映画の中で、検事の寺井啓喜(稲垣吾郎さん)が、息子たちのYouTube動画配信に関して、いわゆる小児性愛者のような人間もいるから気をつけろという場面があるのですが、個人的にもその懸念はもっともだと思われました。
妻の寺井由美(山田真歩さん)は、そんな事より不登校の息子がせっかく生き生きし始めた楽しみのYouTubeの撮影配信を奪うのかと怒っていましたが、個人的には検事の寺井啓喜の懸念の方がもっともだと見ていました。
映画は進み、検事・寺井啓喜の懸念の通り息子のYouTubeのコメント欄に小児性愛者の影を感じることになります。
ところが、この映画は小児性愛者の心情を否定していないのです。
主人公・桐生夏月(新垣結衣さん)は、中学の同級生の結婚披露宴でかつての中学での同級生の佐々木佳道(磯村勇斗さん)と再会します。
主人公・桐生夏月と佐々木佳道とは、水が噴き上がることに対していわゆる性的な欲動を感じる共通点があります。
映画の最終盤で佐々木佳道は、動画コメントで知り合った、同性愛者の大学生・諸橋大也(佐藤寛太さん)と小学校の非常勤講師・矢田部陽平(岩瀬亮さん)と、水フェチの共通点で会うことになります。
そしてその後に小学校の非常勤講師・矢田部陽平が児童買春で逮捕され、佐々木佳道も関係性を疑われ警察に連行されます。
寺井啓喜はこの事件の担当検事となり、主人公・桐生夏月も検事の寺井啓喜から参考人として事情聴取されます。
そしてこの時も(もちろん他者を傷つける児童買春は否定していると思われながらも)内面に持ってしまう小児性愛の感情については、この映画は否定していないのです。
私を含め、恐らく大多数の人々は受け入れられない(内面としての)小児性愛の感情の肯定は、ある種の踏み越えとも感じ、逆にこの映画の重要さを物語っていると思われました。
そんな大多数の人から理解されない性的な欲動を持っている人間は確かに存在すると、主人公・桐生夏月はその存在を否定する検事の寺井啓喜を非難し、この映画は文字通り閉められます。
私個人は、同性愛者や水フェチのような存在までは理解できても、小児性愛の感情まで肯定することはなかなか困難だと思われます。
なぜなら小児性愛の心情は、容易に許されない小児や未成年者の性的虐待にそのままつながると思われるからです。
であるので、個人的には検事・寺井啓喜の懸念に対する立場に近い存在です。
そういう意味では、非常に踏み込みある、小さくない衝撃を内包した映画になっていると思われました。
題材的には重く傑作的な展開ある作品とまでは思われませんでしたが、同性愛者の諸橋大也と男性恐怖症の神戸八重子(東野絢香さん)との大学教室での感銘を受ける場面など、映画的なシーンも数多くあり、見事な秀作になっているとは一方で思われました。
極端過ぎやしませんか
原作も同じ結末なのかもしれないが、多様性の欠落を問題し過ぎた結果としてこのような作品になったのかと思う。
多様性を理解しない一般人は家族崩壊で不幸になっていき、特殊な性癖がある人は犯罪者か社会落伍者と紙一重という結末は、なにかを導く結論になるのだろうか。それを考えさせるための作品かもしれないが、後味だけが悪くて好きになれない。
性欲ではないのか?Gの方を差別しないが、僕は髭面が嫌い
千葉学園都市って駅があったか?なかったか?覚えていないが。
懸垂型モノレールに乗っていたので共感するが、その他はどうかなぁ?
兎に角、この映画は絶滅危惧種大和民族が絶滅する理由の様なお話。
大昔からの邦画の手法を継承した伝統的な映画。
『PLA◯75』と全く同じ流れを組む
次期、カン◯国際映画祭に入選しそうな演出家の映画。
但し、この映画よりも現実の方が過酷だと思う。大和民族がいよいよ絶滅したら、昔を偲んで見てみるのも良いと思う。
注意
絶滅危惧種の絶滅の意は文化的な絶滅って事です。
注意2
ペド◯◯◯◯とLGBTは分けて考えよう。妄想を抱く事は良くても、実行はすべきでは無い。(この類の話で凄い作家は町田ひら◯先生かなぁ?)
欲望にもタブーはあるし、全員が同じ価値観がある訳では無い。
注意3
地球温暖化を考えると、水を無駄に使用する行為は、乾燥地帯に住む人達に対する感情を無視している様に感じる。
正しさに押しつぶされそうな人たちへのメッセージ。タイトルが秀逸。
原作は未読だけど、タイトルの「正欲(せいよく。正しい欲望)」ってこれ以上ない秀逸なタイトルだなと観終わってみるとわかる。
メインとなる登場人物たちが世間的に「正しい欲望」とされているものを持てずに苦しんでいる部分が肝となるのが本作だ。
本作は群像劇的に色んな人物の視点やパートにわかれて話が進んでいく。
佐々木くんや夏月さんのパートはずっとヒリヒリする内容だった…。そして田舎町に対する解像度(同級生のつながり、両親の家父長制的価値観、イオンの存在感)がエグい…。あと夏月さんの同僚の妊婦の女性の態度は普通に殺意が湧くレベル。本人が望んでない不要すぎるおせっかいはもはや暴力なんだよ。
世の中には色んな性的嗜好を持つ人がいる。
そしてその嗜好がマジョリティの人々に理解されないとわかっているからこそそれを秘めて暮らしている人もたくさんいるんだろう。
でも、そのことで誰かを傷つけたり犯罪を犯したりするわけではないのなら、そういった欲望や性的嗜好に対し「へえ、そうなんだ。そういう人といるんだ」という感想で終われる人でありたいと思うし、理解はできなかったとしても否定はしたくないと思う。
否定によって追い詰められる人がいるということを忘れちゃいけない。ここはお互いさまだ。
口にだすなら配慮は必要になるけど「こう思っちゃいけない」ことなんてないんだよな。
人と違うからといって誰とも繋がらない、繋がれない、一人で絶望する人がいなければ良いと本作を見て私も改めて思った。
明確なメッセージを持つ作品だ。
しかしこんなにキラキラ成分を削ぎ落としたガッキーは久しぶり。
そして磯村くんは良い役者さんだなと改めて思った。
何か普通か、何が偏っているのか。
検事の自分は正しいと思い込み、それを分かろうとしないのは異常なのだという見方を通して偏った見方、ダイバーシティとは何か、それを突き詰められたような感覚になる。
自殺願望のある夫婦。まっとうに生きようとしているように見せかけている。
検事の子。不登校だがyoutubeで生きる証を見つけようとするものの、世間一般の小学生とは違うことを受け入れない。
ダンサーの大学生。水フェチなのと、外見だけで判断されることを激しく嫌う。
ここまでは犯罪のラインは超えていないものの、溶け込めずいる悶々とした感じが伝わってくる。ガッキ―のあんな陰のある演技は新鮮だった。
私の中にも皆一人一人の中にもある、唯一無二の“正欲”
タイトルの“正欲”とは、“性欲”を捩った造語。
人の“3大欲”である“食欲”“睡眠欲”“性欲”。“性欲”だけ恥じらいの印象あるが、これだって人の正しき大事な欲求。
そもそも“正しい欲”とは何なのか…?
そこに正しいとか正しくないとか線引きがあるのか…?
各々異なる問題や悩み。関わる人々。
多様性が叫ばれる今の世に、疑問を投げ掛け、考えと在り方を問う。
検事の寺井。真面目で正義感強い…であるが故に、
不登校の小4の息子。同じく不登校の友人とYouTubeを始めたい息子の方針を巡って、妻と意見がぶつかる。
子供なんだから学校に行き、学び、友達と遊ぶ。大多数が寺井と同じ意見だろう。それが普通。
学校に行かなくても学ぶ事は出来るし、遊ぶ事も出来る。学校が全てじゃない。やりたくない事を強制するより、やりたい事をやらせて自立や個性を伸ばす。
子供の教育。大多数的に見れば学校に行くのが正しいのだろうが、今はそれだけじゃない自由もある。
寺井は釘を差しながらも、妻と息子はYouTuberとして始まり、チャンネル登録者数も増やしていくが…。
大学3年の八重子。学祭実行委員。ダイバーシティフェスを計画。同大学のダンスサークルに企画を依頼。
サークルでも実力者でコンテスト準ミスターにも選ばれた大也が気になる…。
八重子は極度の男性恐怖症。男性に触れられる事は勿論、男性が女性を性的に見るだけでも…。
そんな中、唯一触れられても大丈夫だったのが、大也。
しかし大也は八重子が自分に興味を抱くのは、皆と同じ準ミスターに選ばれた容姿だけと怪訝。
そんな大也も他者と分かり合えない秘密を持っていた…。
ショッピングモールで寝具販売員として働く夏月。
毎日の生活も性格も全く生気を感じられないが、他者と分かり合えない秘密を彼女も持っていた。
ある日同級生の結婚で、中学時代仲の良かった佐々木が地元に帰っている事を知る。
中学時代、他者と分かり合えない秘密を唯一、分かり合えた人物。
記憶に思い出す。水飲み場の水を勢いよく噴出し、水をいっぱい浴びてびしょ濡れになって、恍惚の表情…。
水フェチ。水に性的興奮を感じる。特異な性的嗜好。
以来、誰とも分かり合える人と会った事などない。
久しくの再会。その時二人は、自殺を図ろうとしていた。
唯一の分かり合える人。やがて二人は結婚。
そこにあるのは愛とかじゃなく、夜の営みなどもない。分かり合える事が出来る居心地の良さ。
付加として、佐々木から夏月へのプロポーズの言葉が秀逸だった。
家庭問題、恐怖症や容姿、性的嗜好…。
皆が持つ、人とは違う“何か”。
私にだってある。皆さんにだってあるだろう。
時にそれは少数嗜好かもしれない。つまり、世間大多数一般から見れば、“ヘン”。
少数派は肩身の狭い思いをする。自分を隠し、悩み苦しみ…。
それを声を上げて言う事が出来ない“普通”の社会。社会や大多数の考えや価値観が“正しい”とでも言うように、言えない風潮になっている。
大勢の意見がそうだから、正しいのか…? 普通なのか…?
少数派の意見は“異常”なのか…?
極端な例え。戦時中、大多数が戦争肯定。一部の者が否定派で、逆賊。当時はそれが正しかったが、今は…言うまでもない。
犯罪的な少数嗜好は理解出来ないが(と言うか大多数の意見でさえ正しいとは限らない)、人は何に魅せられるか、誰を好きになるか、人それぞれ。
“十人十色”。こういういい言葉もある。もっと言うなら、世の中、百人百色、千人千色、万人万色、億人億色なのだ。
全く同じなんて、それこそあり得ない。
少数であっても自分の趣味嗜好、選択の自由…。
そういう社会や世界でありたいと願うが…。
ある事件がまた彼らの境遇を苦しめる…。
チャットを通じて同じ水フェチの人と会う事になった佐々木。
一人は大也。大也も水に性的嗜好を感じていた。
もう一人は会社員の谷田部。
3人共、かつて公園の蛇口を盗んで水を出しっ放しにして、逮捕された際に「水がいっぱいなのが嬉しかった」と供述した人物の同調者。
3人で子供と水遊びをする動画を撮る。他にもいた分かり合える人たち。が…
谷田部にはもう一つ性的嗜好が。小児性愛者。
その場の映像も押さえられ、逮捕。
佐々木と大也も小児性愛の関与を疑われる。
それを取り調べるのは、寺井。
谷田部の罪を厳しく言及。
が、他の二人は…。
水が好き。
何を言っているんだ…?
お前らも子供に性的欲求を感じるんだろう?
僕たちは水が好きなんです…。
全く理解出来ない。ヘン。異常。
寺井にとって“普通”から逸脱し、理解出来ないものは理解しようともしない。
自分が正しい。
寺井は悪い人間ではないが、大多数のものの見方、考え、価値観のまさにそれ。
決め付け、押し付ける。
寺井と佐々木らの対峙は社会の縮図のようだ。
原作は『桐島、部活やめるってよ。』で知られる朝井リョウの小説。
その小説を読み、衝撃を受け、マイノリティーへの理解の浅はかさを痛感したという岸善幸。
『あゝ、荒野』の脚本家・港岳彦と再び組み、誇張する事なく、社会のマイノリティーの苦しみ悩み、分かり合える喜びや尊さを、彼らの視点に立って寄り添うかのように。
『あゝ、荒野』『前科者』など力作続くこの監督に、また一本。
稲垣吾郎が威圧すら感じさせる。
いつものスマイルを封印したガッキー。
磯村勇斗の巧みさ。
躍動感あるダンスも披露する佐藤寛太。
映画初出演ながら印象残す東野絢香。
皆が魅せる名アンサンブル熱演。
水がモチーフにもなっており、効果的に用いられている。
開幕、コップに溢れる水。夏月が横たわるベッドに溢れる水。川のせせらぎ、蛇口から噴出する水…。
美しい流れや幻想的な流れ、象徴的な流れ。
佐々木の面会に訪れた夏月。
寺井と夏月はこれが初対面ではない。
夏月が暴走自転車と接触した際、助けたのが寺井。
その時「奥さん」と呼んだ寺井。夏月があまりにも自然体だったから。分かり合える佐々木と出会い、人並みの幸せ。
その頃寺井は…
YouTubeの事で問題が発生し、妻や息子がやってる事に未だ一切理解を示さない寺井。
家族関係が修復し難くなり、妻と息子は家を出…。
世間大多数派だった寺井が人並みの幸せを無くし、少数派だった夏月と佐々木が人並みの幸せを手に入れ…。印象的な対比。
佐々木の小児性愛関与について、夏月に厳しく言及する寺井。
夏月の口から出たのは、小児性愛嗜好などない。水が好きなだけ。
そんな彼女に対し寺井が言い放ったのは、世の中の大多数の偏見者を表すような言葉。
あり得ない。
佐々木への伝言として、最後に夏月が言った言葉はアンチテーゼとも読み取れる。
いなくならないから。
待ってるとか信じてるとかじゃない。いなくならないから。
世の大多数に疎外されても、あなたと同じ人は必ずいる。
決して一人じゃない。
私たちはいなくならないから。
綺麗事を掲げて他者を理解してるつもりになっているだけかも…と。
周りには打ち明けられない、性や欲に関する秘密を抱えた人たち4人が登場する。(最後の方の小児性愛者を含めると5人。)この映画は果たして、多様性に関する問題提起をしているのか、はたまた別の何かを伝えたいのか、考えてしまった。
吾郎ちゃん演じる検事の寺井や、諸橋が所属するダンスサークルの仲間高見は一見「普通の人」として描かれているのかと思いきや、そうでもない。多様性を認めたり発信しようとするものの、その正しさはどこか独りよがりでバイアスがかかっているものだった。
私たちもそうではないだろうか?
ダイバーシティを快く受け入れているつもりが、この4人のようにいざ自分とは異なる考え・感じ方の人が目の前に現れたらどう接するだろうか。あるいは関わらないように遠ざかるだろうか。人は誰しもが何かしらのマイノリティで、何かしらの変なところは持っていると思うのになぁ。自分なりの正しさフィルターを外すことは結構難しい。
個人的に八重子の特徴に共感するところはあって。「性欲とか恋愛とか結婚とか、全部関わらずに生きていけるならそうしたい」って、そう思う時、ある。でも人との関わりは求めてしまうんだよなぁ。
正欲を見終わった後、そばかすという映画を見たのだが、そこでも同じ感情を抱いた。でも、そういう考えって変なのかな?
夏月は言った。「私は地球に留学している気分。私にとっての辛いことが、他の人にとっては楽しいことなんだ」って。他の人が楽しめることを、何で自分は楽しめないんだろうって、そう思うことたくさんあるよね。それが恋愛とか結婚の話になると、どうしてちょっとおかしいって思われる?(自分でも思っちゃうし。)多様性を認めてほしいわけじゃなくて、色んな考えがあってそれを発すること(というかその感情そのもの)が許される世の中になってほしいと思った。あっちゃいけない感情なんてないからね。
夏月と佳道が見に行った水の放水シーン。落ちてゆく水と反比例するように高揚していく心が描かれていて見事だったなぁ。
あと、新垣さんのお芝居が素晴らしかった。お寿司を食べるシーン、食べ物の噛み方ひとつでその人の内面が滲み出てるなぁと思って感心しました。
プロポーズの言葉が良かった!!
現代日本の生きづらさを詰め込んでいて、他の映画にはない空気感がありました。実際の、不登校小学生YouTuber「ゆたぽん」は、ヤンキーの父親がやらせていたので、あまり持ち上げるのは良くないと思いました。「手を組みませんか」という、プロポーズの言葉が良かったです。稲垣吾郎は、ほんの少し前の父親像を演じて適役に感じましたし、二組のカップルの明暗が分かるラストが印象的でした。
正欲=イナクナラナイデ
大昔からいたと思う。
こういった、作中「普通」と称される、学校を楽しみ社会人を楽しみ恋愛結婚出産育児して種を残す地球人とは、嗜好の異なる人間が。大量に。
それは集団嫌いかもしれないし対象が同性だったり子供だったり水だったり、多岐に渡る。
その、少数の人達の、同種を見つけにくい生きづらさを、「社会のバグ」「ありえない」と一蹴して、孤独に追いやりたいとは思わない。
一方で、異性愛でフラれる確率以上に、対象と両想いが存在する確率が低い嗜好の時、孤独と共に、一方的加害が存在しやすいのもまた事実だと思う。
この作品は、
・どんな嗜好や思考であれ抱く寂しさや孤独
・1人でない、仲間がいると思える安心
・それが一方的な場合に被害者が生まれる
という複数の視点で、マイノリティに対する意識を問いかけてくる。
長い長い目で、人類を生物学的な種族としてみた時に、成人異性愛でない嗜好は、種を残す可能性が低く、人類という目線では淘汰される運命にあるのかもしれない。
でも、「俺たち、藤原悟チルドレンだったんだ!」と作中で水が好きな偽装夫婦が話すように、マイノリティな人達も繋がりを求め、時代を超えて存在している事実もまたある。
仲間が見つかって、良かったなと思える。
反面で。
今度は、
この水好きの対象が子供だったら、つまり小児性愛だったらどう思いますか?と投げかけられる。
作中、「普通のど真ん中」の思考で法に基づき人に刑求する検事を演じる稲垣吾郎の普通の生活は、学校に行きたがらない息子をめぐって簡単に揺らぐ。
そして、普通ど真ん中な男の息子は、YouTubeに顔を出し、すぐそこに小児性愛の狩りの目があるところに生きている。
嗜好などで分けずとも、多数派にも少数派にも、自分勝手で害のある人はいて、そのような人達とは、お互いに自由の名の下に、共存も隔離も難しいが、どのようにすれば良いのか。
答えが簡単に見つからないからこそ、できた作品なのだと思う。
普通ど真ん中役の検事が、小児売春男児を見て、「されたことを理解するより前」と話すのが印象的だった。稲垣吾郎が言うからこそ、そうだよねそのような事態にいたと後から理解したとしても深い傷を負うのだから、そのような環境に子供を置いてはならないと心底からの警鐘になっていたと思う。
昔の被害のトラウマを抱える大学生女子の、やっと言葉にできた悲痛な叫び。それを、狡いと捉える人。どう受け取っても、言葉も表現も感情も嗜好も自由だけれど、それだけの深い傷がある人と話して、自分も人を傷つけていないか気をつけようと思う心だけは、共通であって欲しいなと思う。
「いなくならないよ」のガッキーのセリフに、どんな人でも最後はそこだよねと思った。
理解されて、そばに居たいと思ってもらえる。
これはなにもマイノリティやLGBTQに限った話ではなくて、作中の「普通」の人でも、案外難しいことだと思う。
子供達が不登校をしながら始めるYouTubeチャンネルにNPOとして支援を入れてくる右近さんが実は小児性愛者だったらどうしようと、途中まで怖かった。
検事の危機意識を持つ夫と、子供が楽しそう、子供を理解していたいという気持ちで顔出しYouTubeチャンネルを楽しむ妻では、合わなくて当然ではないか?夫のコミュニケーション不足もかなりあるとは思うけど、ちゃんと話しても、取り調べみたいとか怖いとか言う妻には、伝わらないよね多分。。と、なーんで結婚したのこの2人?と思った時に、「いなくならないで」の感情だったんだろうなぁと思った。
孤独の心細さは、結婚すらさせる力がある。
結婚しているだけで、あらまこんなに独特な方でも、理解者がいて家族を築けているのねという、見方をされる。実際理解者がいる安心感だけで、まとう雰囲気が変わったりする。
それだけ大きなことだから、誰だって、家族を欲しがるよね。打ち明けられる家族なら。
それは種の存続に繋がる、人間としての本能でもあると思う。
そしてできるだけ多くの種を存続させようとしたら、傷つけ合わない平和のために、「社会」が必要になる。
社会の基準として、「法律」ができあがる。
法律を侵してなくても、法律にそぐう生き方をしようと思ったら、大多数の「普通」ができあがる。
そうするとこの文の振り出しに戻る。
とても難しい。
でも、どーーーーんな生物でも、
イナクナラナイデという欲があって、それは独房にでも入れられない限り許される、正しい欲。普通。
そこは嗜好が異なるどんな人にも共通なんだなと啓蒙する作品。
自分の内側にある欲求
世間の常識とは異なった欲望があるということがテーマだったと感じた。
何を思うか、何を感じるかは自由である一方で、それを受け入れるかどうかは他人の尺度に任せられる。そこが生きづらさを感じるポイントなのかと感じた。
受け入れる側である寺井は、子どもの不登校とYouTube活動に歩み寄りを見せなかったことで家族との仲が破綻したように、相手を自分の価値観に当てはめずに理解する姿勢が重要だといえるのではないか。
多様な性…
水フェチ、確かに初めて聞いたし、発想自体ないが当然犯罪ではない。異性同性に限らず、人には無関心だが、水に性的なものを感じる異常性に生きることの苦しさを感じている人々を描き、ラストは児童への性犯罪と間違えられてしまい、中途半端に終わる。全体的に暗い。
不思議な感情
自分の知らない世界がここにありました。
題名の感じからLGBTQに関してのお話だと勝手に思い込んで見ていたので、水に性欲をいだいているお話だということに驚きましたが、この映画を見て、人には理解してもらえない人、自分だけが疎外感を感じて生きている人は、この世に沢山いるんだろうなと考えさせられました。
生きづらい世界の中でも光を見つけて、理解し合える人と生きている2人は素敵な関係でした。
あの学生の男の子は、男性が好きなのかと予想してみていましたが、水フェチだったんですね。
学生の女の子も、兄からのトラウマ(?)で男の人が嫌いだけど、それでも男性を好きになってしまう。
唯一藤原くんと話せたのは彼が女性に対して性的な感情が無いことを、彼女なりの本能から気づく感覚的な安心感があったのでしょう。
わりと冒頭で、新垣さんが寝ていてベッドに水が溢れ出てくるシーン、性的興奮を表現する絵の撮り方なのはなぜかなぁ?と思ってみてましたが、あとになって理解できました。
最初はよくわからず、水でうなされてるのか?けどなぜか性的シーンに見えるけど、どういう表し方なのだろうって見てました。
思い返せば食事から帰ってきてすぐに滝の動画を見ていたり、コップから水が溢れ出ているのにその水を止めないシーンがあったり。
全て分かった上でもう一度見返すと、より一層ところどころで色々な感情を汲んで見ることのできる作品だなと思いました。
学生の女の子の役者さんの演技力が群を抜いて素晴らしくて驚きました。初めて見てお名前を存じ上げませんでしたが、すばらしかったです。
ここにいていいって言われてる気がすると新垣さんが映画中何度も言っていました、SEXの擬似体験をしてみたいや、いとおしいとおもう気持ちや、(ふつう)なことを経験してみたいということも、なんだか胸に刺さりました。
覆い被されたあと、新垣さんが感じた気持ちの中には、愛おしさもあったんじゃ無いかって思えました。
けどそれは私がそう思うだけで、本当に水フェチの人はあの状況でも、理解し合える人を失いたくないや、ここにいていいって言ってもらえてる気持ちのみだったのかもしれません。
正しい欲って、なんでしょうね。
普通ってなんですかね。
あなたの普通はその人にとって普通じゃないし、
理解できなくても、理解しようとする気持ち自体の大切さや、歩み寄る心が欠落していた稲垣さんがこの世界の世間の目を表しているように思えました。
私は滝を見るのがすごく好きです。
ですが性的に興奮したことがなく、例えば同じ動画を好きで見ている人同士でも、着眼点や視点が違ったり、全く同じ見え方をしていなくて、もしかしたら真反対なことを見ていることもあるのかもしれないなと思いました。
色んな人がいるってより思う作品だったとともに
自分を、自分の感性や気持ちを、すごく大切にして生きていきたいって思いました。
明日を生きるためのものしかない、
そうじゃないひとのものがないとか、
なんだか、色々考えさせられる作品でした、見てよかったです。
ゴローちゃんの目が一番普通じゃないところが良かった😀
まず映画とは何かを考えさせられました(テーマとはもう一段深いというか、関係ないところですが!)。一つ一つの映画が一人一人の人間、もしくは人間たちの物語に例えられるとして、それら映画の面白さや面白く無さは映画自体の存在になんら影響を与えないのではないかと。
と、、回りくどくなってしまったがこの映画解像度が低い?のか高すぎるのか?単に私の波長に合わなかったのかのめり込めなかった。
正常と異常というテーマの難しさ、いやシンプルだからこそ、深みのある議論がむつかしいのかな。いやこのテーマで深みのある映画は多々あるではないか(以下省略)。
ところでこの映画、日本の田舎の風景描写がなかなか良かった。主人公の男の住んでる道路沿いの山の麓の一軒家とかとても良かった。
また、やはり吾郎さん、ガッキー、磯村さんの華、もしくは俳優力(人間力?)で最後まで見てしまった。でもこの淡々とした脚本は故意か?いやそれは当たり前か、でもこのお三方の芸風?(=演技指導?)にとても合ってた。それはテーマの"水"のようにということかもだが、ぼーっとこの映画を見てたらそれはそれで心地良かった。
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