「「普通」を自認する人と、それ以外の人たちの居場所をめぐる争い」正欲 テレビウォッチャーつばめさんの映画レビュー(感想・評価)
「普通」を自認する人と、それ以外の人たちの居場所をめぐる争い
「普通」には幅があります。その幅をどこまで許容するか考える作品です。
稲垣吾郎演じる検事は、「普通」を自認し、身の回りの人にも「普通」を強要します。でも、その「普通」は相当幅が狭く、創造性や想像力を感じません。こんな「普通」がはびこったら、多様性がなくてつまらない社会になるでしょうね。
一方、稲垣吾郎以外の主たる登場人物は「普通」じゃないとされる人なので、「普通」を求められる社会での生きにくさ感じています。生きにくさに対抗するために、同じ「普通じゃなさ」を持つ人同士で連帯して、人生に明るさを作ろうとします。
新垣結衣や磯村勇斗は水を性癖とする設定でしたが、これはありとあらゆる個性や性癖、趣味、趣向を当てはめて考えを巡らせるというのが観客に求められているんでしょう。
世の中色々な個性や性癖、趣味、趣向があるので、「普通」の幅はけっこうあるはずなんですが、創造性や想像力が無い人はそうした幅が分からず、自分の基準のみを「普通」だと考えてしまい、結果として他人に対して手前勝手な「普通」を強要することになるという警鐘を鳴らす内容だと思いました。
児童をターゲットにする性癖の持ち主が逮捕されるシーンがありましたが、これは性癖を理由に逮捕されたのではなく、子供に対して危害を加えたり、人権を侵害したから逮捕されたのです。しかし、それにしても現行法では罰が軽すぎます。
最後、「普通」を自認する検事稲垣吾郎が家族に見放されたことを聞いた水フェチ新垣結衣は、逮捕状態にある同じく水フェチの磯村勇斗への「いなくならない」というメッセージを「普通」のこととして伝達を依頼します。
家族にいなくなられそうになっている検事に、お前は「普通」ではないと暗に伝えてイジワルしたわけです。
スカッとしました(もちろん水フェチ新垣結衣は、家族に見放されるのも「普通」の幅の中の話だと思っているとは思いますが、あくまでも検事稲垣吾郎に対する嫌みとして)。
いわゆる男女の結婚だけでなく、生きにくさに抗うためのパートナーというのもアリだよなだと感じられました。