「思想のように」正欲 タニポさんの映画レビュー(感想・評価)
思想のように
ぼくは小さな頃、碁石で遊ぶのが好きだった。
その碁石で囲碁をする訳では無かった。
碁石を並べ、人に見立てて、キャラクターとして動かして遊んだ。
母がぼくに言ったのは、「安上がりな遊びを見つけてくれてよかったわ…」ということだった。
ぼくは、ぼくの世界にとても満足していた。
という訳で、若干でも〝石遊びフェチ〟であったのかもしれない。…。
「正欲」は、変わったフェチズム、〝水フェチ〟の人々が、社会に受け入れられない自分たちの生き辛さを思いながら、繋がりを求める物語だ。
そしてその人々と関わる人々の話である。
ぼくは、劇中の人々が、どうして生き辛いのだろう、と、とても思った。
というのは、〝水フェチ〟ってとても安上がりじゃないの?という思いだ。
それはぼくの母が、石遊びに熱中しているぼくを見て言った言葉のその気持ちと、ほぼ同じであるように感じる。
ぼくには、その〝水フェチ〟さえも、作品作りにおける道具のひとつのように感じた。
屁理屈をもって理屈を語らないで欲しい。
〝水フェチ〟ならば、ふたりのベッドシーンも水を介するべきではと思う。
そうでなければ、じゃあ、あのふたりのとてもいい思い出として映っているのは、公園で水と戯れていること、そのシーンのみになる…。
まあ、それでいいのかもしれないけれど、観客としては物足りない気もしてしまう。
というのは、そのあえてしてみたかった〝普通〟の方が、劇中としても、変わったフェチズムより良いものに見えてしまっており、扱われていた多様性というテーマについての説得力が弱くなってしまう感じをもった。
そういう意味でも、見ていて、何だかなあ、と思ったけれども、多様性とは、というメッセージと、Vaundyの「呼吸のように」はとても心に残る曲だったと思う。
こうして思うと、いつしか、ぼくは〝石遊び〟をやめてしまっている。
それは〝その程度のもの〟であったのかもしれない。
しかし、それを本当に、逃れられないかのように、行い続けていたらどうだったのだろう。どうなるのだろう。
それでも他者への繋がりを求めるのだろうか。
ぼくは他者への繋がりの為に、いつの間にか〝それ〟も、放棄してしまったのかもしれない。
そう思うと、〝水が好き〟というもので人との繋がりを持とうとすることは、とてつもないことにも感じる。
それは最早、性癖というよりも思想のように、ぼくは思うんだけど。