福田村事件のレビュー・感想・評価
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虚しい…
映画を見て身体が震えたのは初めてだった。
身体が震える程の恐怖は、東日本大震災の津波の映像を見た時以来だ。
「本当に怖かった。」
この事件を私は知らなかった。
以前、別映画鑑賞時に本映画の予告を見たことがきっかけでこの事件を知ることとなった。
とても惹きつけられる予告映像だったので、強く印象に残ったことを覚えている。
その時、この映画は絶対に観なくてはならないという謎の使命感を抱いた。
と、大袈裟に書いたが、実のところは
「この企画は、森達也監督がNHKや各配給会社にこの企画を提案したところ全て突っぱねられたから、自分で映画を撮ってやろうと始まった」という制作秘話がある。
もしかしたらDVD化もサブスク配信もされないんではないかという焦りから、急いで映画館へ駆け込んだというのが本音だ。
事前に予習をしていた為、大まかな事件内容は知っていたが、これを映像で見せられるとなるとかなりの覚悟が必要だと思った。
この上映が終わった後、自分がどんな感情を抱くのか予想した。
「憤怒」か「悲壮」か…
そして「熟考」した後に何かしらの言葉を紡ぐのだろうと…
そう思っていた。
その結果は「虚無」だった。
鑑賞中、急激に血の気が引いて行く感覚に襲われた。
様々な感想が頭の中を駆け巡っていく。
「完全にディストピア…」
「どうして、村人達は駐在の確認を待てなかったの?」
「本当に朝鮮人が怖かったの?人を殺す為の大義名分が欲しかっただけじゃないの?」
セリフにもこだわりを感じた。
事件前に登場人物達が発したセリフが、事件発生から事後に起こった事の皮肉になっている。
例えば、「教育は大事」と言っておきながら、風評を疑いもせず、怖いという理由だけで無抵抗な人間を殺したり、
「天皇は俺たを助けてくれない」のようなセリフがあったが、大正天皇が崩御すると福田村事件の逮捕者は皆釈放されたりと
なんとも胸糞悪い…
登場人物に誰一人清廉潔白な人物は居らず、皆が生きていく為に、家族を守る為に、欲望を満たす為に、自分たちの主義主張を正当化する為に何かしらの悪い部分を持っている。
中にはまともな意見を持っている人もいたけれど、残念な事に100年前の世界線では、その価値観はマイノリティだったようだ。
「俺は待てと言った」とどんなに主張しても殺された人達は戻って来ない。
「どんなに自分達を正当化しようと、朝鮮人であろうと人を殺してはいけない。」
事件から100年経った今、このような発言をしたとしても非国民だと罵られたり、逮捕されることは無いし、その価値観は殆どの日本人に共有されている。
【私は、今の日本に生まれたことを心の底から幸せだと感じている。】
最後に一つだけ言いたい。
この映画は絶対「PG12」では無い。。。
不穏な空気感、惨殺シーン、所々のエロ要素など含めるとR15以上は必要だろ!
というクレームを1件入れて、今回のレビューを終わりにしようと思う。
狂気化する群衆心理は人間の本性(追記有)
関東大震災から100年という日に公開された実話に基づくストーリー
1923年9月1日は、関東大震災から100年の節目。関東大震災の直後、多くの朝鮮人が犠牲になった。朝鮮人たちが「放火している」、「井戸に毒を混入している」、「略奪をしている」などの流布やデマを信じきった民衆の行動が招いた惨劇だ。この映画で犠牲者の中心として扱われているのは、朝鮮人ではなく日本人である。現在の千葉県野田市にあたる当時の野田村に香川県から来た行商が朝鮮人と間違えられて惨殺されたのだ。この事件を本映画では被害者側からだけの視点ではなく加害者側からの視点で描く。正直、筆者が映画を見る前に思ったのは、日韓関係が改善に向かっている時期に、韓国人の反日感情を再燃させるようなものを日本人が作ったのかと直感したが、その直感は事件について無知な筆者の的外れなものであった。100年前に発生したこの事件は、特殊な環境で起きた異例の事件ではない。現代の世界中のあちこちで現在進行形で起きていてもおかしくないことであり、我が国もその例外ではない。どこでも起こり得る、誰もが被害者にも加害者になり得ると訴えているように思えてならない。
野田村という半ば閉ざされた空間で生きようとした3種類の加害者
この映画で加害者として扱われている野田村は、震災で大きな被害を受けたわけではなかった。しかし未曾有の災害、というより災害に乗じて根拠のない噂を信じた結果、在郷軍人会などが中心となって自警団を組織し、朝鮮人に対する差別意識、恐怖心に加え、最高潮に達した警戒心のあまり、たまたま香川から来て村に入ろうとした行商人を朝鮮人と決めつけ殺害してしまったのである。ただ、村の中の全ての人がそのような人達であったとはしていない。筆者は映画の中で殺害現場にいた人たちは3種類に区分した。1つ目は、前述の表現がそのまま当てはまる人たちだが、村の中で周りの人たちと支え合い村の中で生きていく人たち、つまり村の中心層である。2つ目は村を出入りする人たちを渡す船頭と自由や民主主義思想で村の人たちを啓蒙しようとする村長、すなわち、村で生きながらも村の外の世界に眼を向け、中心層をある種冷めた目で見ることができる人たちで、3つの層と中心層の中間層である。3つ目は村で生まれ育ちながらも村には馴染まず村の外の人となったもの(朝鮮に行って帰ってきた)と新聞記者であり、ほとんど外側で村を客観的に見ている外層である。
殺戮に手を下していな人も加害者として描写
この事件で起きた殺戮で、第一の中心層の人々は当然直接の加害者として描かれている。ただ、第二層、第三の層の人たちも加害者と見ている。第三の層は、朝鮮人がこの機に乗じて放火や略奪などしてるなどということが事実でないことや政府や新聞までもがデマの流布に加担していることを知りながら、歯止めを掛けられなかったという意味での責任である。第二の層は、第三の層ほどの確信は持っていないが、第一の層より外の世界との接点があり、デマや流布を鵜呑みにしないで良心に基づいて行動しようとするが、結局は村人として生きていかなければならない境遇に囚われて、目の前で起きている殺戮を止められなかった責任である。
悪意ある情報に脆弱な中心層
冷静に考えれば、日本に滞在している朝鮮人たちも同時に被災して困窮しているはずだから、そのようなことは起こらないだろうし、そのような噂が立っても広がらないだろう。しかし、行政やメディアまでもが根拠のない噂を拡散した。そうした情報を鵜呑みにして、忠実に守ろうとする人たちが野田村の人々だった。彼らは農村として団結して生活し、お国が兵隊を出せと言えば命を投げ出す志願者を出す。伝統を守って生活し、なかには色事などで揉め事も起こるが、最後は村民として団結して生きる。昔も今も変わらない自分の置かれた境遇に反発心もありながら、受け入れ必死に生きていく決して特殊とは言えない人々なのだ。これを特殊だと言えばみんながそれぞれ特殊であるということではないか。不貞など今でもあるし、これからもなくならない。普通選挙も始まっていないから政治は上の人がやることで自分たちは従うしかない、変えられないと思っているし、実際に変えられない。今の人々にも選挙権は持っているが行使しないで、自分たちは変えられないと思っている点で当時の人とは全く違うと言い切れるだろうか。
(追記)
他の方のレビューを拝見していると行商の親方の最後の言葉に反応しているものが少なくない。確かに平等を訴えている言葉を発した後に自分の夫が朝鮮人に殺されたと思い込んでいた女性に殺され、それが堰を切ったように虐殺の場に発展したのは衝撃的なシーンであった。ただこの部分は実話だろうか?裁判の証言記録を見たりして書き上げられたのだろうか。混乱した状況で何がトリガーになったのかが検証されたのか。映画を通じてメッセージを伝えたい思いが出ているのはわかるが、割り引いて冷静になって考えてみても良い気がするのだ。
人間の命は平等である!
集団心理、先入観、そして相手を卑下して自分が優位に立とうとする醜い自尊心。
この話はもっとキチンと後世に伝え続けなければならない事件だと思いました。
そもそも、いくら国益だからって殺しても良い人間なんていません。戦争反対。
朝鮮人なら殺しても良いのか?まさにそう思った
1923年、澤田智一は日本統治下の朝鮮から、妻の静子とともに故郷の千葉県福田村に帰ってきた。澤田は日本軍が朝鮮で犯した虐殺事件の目撃者であり、それ以降妻を抱けなくなっていた。静子は離婚すると家を出て、船頭と浮気ををしたが、見ていた智一は自分のせいだと妻を責めれなかった。その日は9月1日で、関東大地震が発生し、多くの人びとが大混乱となり、朝鮮人が日頃の腹いせに女性を襲ったり、井戸に毒物を投げ込んだりして日本人を殺しているというウワサがが飛び交っていて、福田村でも朝鮮人対策のため自衛団を結成していた。9月6日、香川から関東に来ていた、沼部新助を親方とする行商団15名は次の地に向かうために利根川の渡し場に到着し、そこで、沼部と船頭との渡し賃に関する口論が発生した。その騒動により自衛団や軍隊、村長などが駆けつけた。日本人の証明書を役場で鑑定してもらってる間、沼部がたまたま飴売り少女に貰い、持っていた朝鮮の扇子によって朝鮮人と決めつけられ、1人の女性が斧を振り下ろした事をきっかけに、村民の集団心理に火がつき、大虐殺が起こってしまった。という実際に起きた事件の話。
確かに朝鮮人による犯罪も何件かは有ったようだが、日本人も火事場泥棒していただろうし、朝鮮人や中国人を特別視するほどの率では無かったらしい。なのに、朝鮮統治下で独立運動などをテロとして取り締まった日本軍の朝鮮での行動、日本に来ていた(連れて来られた)人たちに対する差別、またこの行商人たちのように被差別部落出身の人たちに対する差別、そんな差別が当たり前の時代に起きた悲劇だという事を知っておかないといけない、と思った。
朝鮮人なら殺しても良いのか、というごく当たり前の疑問さえ持てなくなるほど村八分を恐れ、集団心理や腰抜け新聞社の様子など、リアリティが有った。
日本人が殺されたから事件で、朝鮮人や中国人が殺されても事件にならなかったのか、やはり疑問が残る。
自分たちの先祖による過去の過ちを知り、今後に活かしていきたい、と強く思った作品です。
本当に多くの人に観てもらいたいと思います。
出演者では、澤田夫妻役の井浦新、田中麗奈、行商団の親方役の永山瑛太、船頭役の東出昌大、いつもの柄本明など、素晴らしかった、
朝鮮アメ売りの少女役の碧木愛莉が可愛かったのと、、井草マス役の向里祐香が色っぽかった。
多様な人物は善悪に色分けされず配されて、「悪人を作らない」という演出が、かえって現代の誰にも起こり得るかもと提起してくるのです。
わたしが住んでいる千葉県の流山のすぐそばで、妊婦、婦女子を含む日本人9名が地元の自警団に殺されたという史実に衝撃を感じました。
まず、この事件を掘り起こした制作陣の気概を買いたいです。今年110年を迎えた関東大震災では「朝鮮人暴動」のデマが広まり、各地でいわれなく朝鮮人や日本人が殺傷されました。その一つ、千葉で実際に起きた福田村事件を題材としたフィクション。ドキュメンタリーを主戦場とする森達也監督が劇映画を初めて演出した作品です。地元に住む自分でも知らなかった歴史の闇に埋もれた惨劇。ここでは当時の世相を浮き彫りにし、殺されたものたちの名前と顔を取り戻し、当事者の目から語り直す力作です。
■ストーリー
物語は、香川県から被差別部落の薬売りの行商団が関東に向かうところから始まります。沼部新助(永山瑛太)を親方に初体験の少年も加えた総勢15人。
一方、日本軍による朝鮮独立運動の弾圧に心を痛めて、日本統治下の朝鮮から戻った元教師の澤田智一(井浦新)と妻の静子(田中麗奈)。古里の千葉県福田村(今の野田市)に戻って農業を営み始め、再出発を目指します。
そんな村では、シベリアで夫が戦死した咲江(コムアイ)は、夫の留守中に村の船頭、倉蔵(東出昌大)と関係を持っていました。そのほか、老いた父親井草貞次(柄本明)と妻のマスの関係を疑う息子の茂次(松浦祐也)など小さな村の中にも愛憎が蠢いていました。、
また軍の威信をかさに、のさばる在郷軍人会の分会長長谷川秀吉(水道橋博士)と民主主義を信奉するインテリの世襲村長田向龍一(豊原功補)とはことあるごとにぶつかっていたのです。
そこに大地震が発生。避難民からもたらされた「朝鮮人蜂起」のうわさに、村は騒然となります。
「朝鮮人が日本人を襲っている」とのうわさが日増しに大きくなり、村では自警団を組織。地震から5日後の6日。村に入った行商団のリーダー新助と船頭の倉蔵の言い争いをきっかけに自警団の一人が行商団を問い詰めるのです。朝鮮人ではないのか!と。
その結果朝鮮人と誤解された香川の行商団の15人のうち、妊婦や幼児を含む9人が殺害され、6人が生き残ってしまいました。後に全員が日本人、香川の被差別部落出身者だったことが分かるのです。
■解説
デマは日韓併合に始まる朝鮮人への差別意識が招いたものですが、被害者側の部落差別の関係者が口を閉ざし、その後の検証を難しくした面があります。映画ではほかにも職業や性別など重層的な差別の構造を通じて、一見のどかな村落共同体の排他性をあけすけに描かれます。
背景に、韓国併合以来の韓国での独立運動の高まりと、反日感情を警戒する日本で強まった朝鮮人差別があります。地元紙の記者楓(木竜麻生)は、震災後の凶悪事件発生を報じる記事を、犯人は“主義者か鮮人か”という決まり文句で結ぶことに抵抗します。多様な人物は善悪に色分けされず配されて、一人の中に差別も偏見も、善意も持ち合わせるように描かれているところが、森監督のこだわったところ。
森監督は、「悪人を作らない」演出に神経を配ったそうです。加害者となった自警団も、村や家族を守ろうとした市民であるという視点を忘れたくないからです。「あくまで、普通の人がなぜやってしまったのかに焦点を当てた。その場にいたら、自分は加担しないと言えるのだろうか」という森監督のインタビュー記事は、胸に迫りました。
ドキュメンタリーではなく、劇映画を選んだのは当時の資料が乏しかったこともあるようです。事件は長年タブー視されてきましたが、たとえ劇映画の形でも歴史の闇に光が当てられたことは、意義があることでしょう。
地震を契機に不安と恐怖が噴出し、流言飛語に点火されて惨劇に至ったのはどんな状況だったのか。平凡な人間がいかに集団的な狂気に至るか。資料の隙間を想像力を駆使して埋め、真実に肉薄できるのが虚構の力。製作、俳優陣の気迫と覚悟も感じられます。
主演の井浦も「目を背けたくなるような歴史を知ってこそ、良い方向に変わっていく未来がイメージできる」と強調しています。
■いまの日本につながること
私たちは、この作品が、いまの日本の当面している問題とそっくりかかわっていることに愕然とします。
たしかに差別で集団殺戮は起らないでしょう。
しかし森監督出発点となった、オウム真理教の教団内部を撮ったドキュメンタリー「A」(1998年)を思い出すとき、本作のようなことが現代でも起りかねないことを想起させます。
監督が接した信者の一人一人は善良で穏やかで、「凶悪集団」と いうイメージから、かけ離れていました。「でも同時に、命じられていたら、地下鉄にサリンを撒いていただろうな」と信者たちは語るのです。「なぜ普通の人が、こんなことやったのか。その問いが自分の中にずっとあった」と森監督は語ります。
ましてネット社会となった今日。この事件が起こった当時よりも、デマの拡散は一層容易に起こりやすくなっています。それを一層顕著にしていることが活字離れと思考力の低下。ネット動画を倍速で視聴し、情報源にしているとセンセーショナルなデマに感情的になりやすくなるのもも当然でしょう。
根拠のないデマの流布だけでは、炎上する人物や集団のいのちをとられることはありませんが、社会的に抹殺されて、名誉回復は困難になってしまいます。
それが本作の事件のように、たったひとりの囁いた不確実なコメントが拡散されて、大炎上を招くのです。
そういう集団心理の狂気を描いた本作の決して100年前の出来事ではないという主張は強い説得力を持つのです。歴史の闇を掘り起こしただけの迂遠な作品ではないゆえんです。
■最後に
本作は群像劇をうまくさばいています。
まずは「顔」が見えます。加害者も被害者も顔をしっかり映すのです。とりわけ、在郷軍人や自警団、村人一人一人、村長らの顔が見えます。多くの人物が登場する群像劇でありながら個々の内心を想像させるのです。それは、事態の緊迫度が増すにつれて強い震動の源となって押し寄せるのです。
また行商の薬売りを朝鮮人と誤解した村人の擦り半鐘で、在郷軍人や自警団らが集まってくるシーンでは、地元の警官は、署に帰り身元照会をするから待てと村民を落ち着かせますが、在郷軍人の面々や自警団は収まらず、押し問答を経て、意外な人物が虐殺のきっかけとなります。
祭り囃子のような太鼓の音がとどろく中、本能で逃げ、本能で追う両者を、それまで固定カメラで撮っていたのから、手持ちカメラに切り替えて緊迫した映像で映し出します。 その瞬間は、善悪の構図だけで捉えきれない。一種のトランス状態でした。
手持ちカメラながら画が大揺れすることはありません。いかにもドキュメンタリー監督の劇映画らしさを裏切る手法が、新鮮に感じました。
■繊細なディテールは特筆もの
救いようのない結末に向かう物語は、行商団と朝鮮飴の売り子の交流など繊細なディテールに満ちています。犠牲者の一人は臨月の妊婦でした。お胎の子が生きる時代には平等な社会になるよう、一同が願う場面があります。100年後の現実は果たしてどうなっているのでしょう。
まだ歴史は続いている
何回か書いたけど
うまく言えない・・・
この事件が続いている訳では無いが、基本集落(に居たことがある)は
狭いコミュニティで過ごすのでこの様な吊し上げはある
教会の惨劇は実在し、井浦新夫婦役は実在しない
夫婦役は俯瞰で見るためには必要だったのだろう
パンフレットは台本が組み込まれているので”買い”だと思います
タイトルなし(ネタバレ)
この映画は、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件を背景にした、朝鮮人と間違えて行商グループのニホンジン(被差別者)を殺してしまった話であり、また左翼運動家も混乱に紛れて殺した話も付け加えられているので、歴史的事件をモチーフにした、ニホンジンの、あるいはニンゲンのどうしようもない愚かさを描いた映画だと考えるのが正しい見方だと思います。所謂「朝鮮人差別」とは少し距離をおいた方がいい。
ただ、ドキュメンタリー作家らしい、容赦のない厳しい演出が期待される中に、正義感の強い新聞記者は必要だったのか、また、ミソジニーを肯定するかのような、妻の姦通の物語は必要だったのかと言う疑問は残りました。もっとソリッドに演出するべきではなかったかと思います(でもある程度エンタメ性を加えないと商売にならないか)。
しかし、この映画は観るべき映画だと思います。皆さんも是非。
「あったことは無かったことにしてはいけない」
この映画、エキストラ参加したこともあって話のスジ、キャスト、スタッフなどある程度の予備知識をもって見ました。見終わった後、感じたことは「全ての人が見ておかないと、知っておかないといけない映画」だと言うことです。
あったことをあったこととして捉えて将来に活かす役目・使命をもった映画だと感じました。
加害者の視点から集団心理をもとにヒステリー状態への流れを描き「きっかけさあれば自分も普通に加害者になってしまうであろう」という恐怖を感じました。と同時に「どのような社会でなければならないか?」という示唆も受けることができました。
生き残った行商人が正に絶望の淵に死を覚悟したその時に自然発生的に浄土真宗の『正信偈』(しょうしんげ)を大声で唱和されました。我が家も同じ宗派で日常的に唱えている正信偈を耳にして驚きました。舞台挨拶の場でそのことを森監督に質問すると「史実です」というお返事でした。
頭の片隅で「惨劇が起こる前にこの正信偈を唱えていたら日本人と証明されたのでは?」と思い残念でした。
「映画には人生を変える力がある」そんな映画でした。
軍国主義
100年前関東大震災後、千葉県福田村での事件。震災後、人々は数少ない情報源の元、色々な不安や先が見えない中で生活をしていた。
香川県の行商団、薬売りの一行がこの村に訪れる。丁度その頃世の中では、朝鮮人が井戸に毒を
入れたとか暴動を起こしたとか嘘が飛び交いはじめた。
内務省から自警団を促されたが落ち着きはじめ、戒厳令も解かれたのに大正デモクラシーの最中の軍国主義。
行商の方々の方言もあり朝鮮人と間違われ村人と衝突。歴代天皇を言えとか15人を取り囲む卑劣な行為。
誰かが正論を唱えても一人一人の感情が私から、我々に膨れ上がると無力になってしまう。
集団心理は恐ろしい。事件後、犯人達は特別赦免
され、謝罪は一切無し。
根本は戦争から始まった。
国と国との争いお国の為、お神の為、命を差し出す忠誠心。洗脳的になり集団だったら、何をしても良いと。国家の為と言うが自分の為ではなかろかと思う。今のネット社会も同様。
現在も何が起きるか分からない時代。
脳裏に焼き付け胆にも命じておく。
差別が暴力を生み、私が我々になって行く時の群衆が恐ろしいという事を。
普通の善男善女が集団心理で虐殺を行う恐怖。今でもあり得る。現代の日本で、世界で、大都市で、そして僕も善良なあなたも加害者になる。
今でも起こりうる集団心理による普通の善人が行った虐殺の物語。1人ひとりは善男善女なのに(善き夫、善き父親、善き息子、善き妻、善き母親、善き娘)なのに、群衆になるとその場の雰囲気にのまれたり、同調圧力に逆らえず殺人さえ起こしてしまう恐怖を感じた。
とても他人事とは思えない。ほんの30分前までは、まさか人を殺すなんてことは考えたこともない善人が、デマと群衆心理で虐殺をしてしまう。
最近ではコロナの自粛警察、アメリカの連邦議会襲撃があった。
群衆心理の怖いところは2つある。
1つは、暴動や虐殺している人々に悪意がないどころか善い行いだとさえ思っていることだ。個々人は普段はフツーの善男善女なのに、群衆になったとたん殺人さえ行ってしまう。
もう1つは、反対したいのに同調圧力で反対できずに暴走に加わってしまうことだ。群衆心理で暴走が始まってしまうと、同調圧力にのまれなかった人が反対しても、もう暴走が止められない。止めようとしたら普段は仲良しの隣人も敵とみなされ殺される危険もある。傍観するだけだ。
100年前の福田村事件の原因は、国家権力による情報操作と、殺らなければ殺られてしまうという恐怖と、朝鮮人と部落を見下している差別だ(今回の映画は部落出身ということで殺された訳ではないが、行商に出なければならない状況に置かれていにたということで間接的にではあるが原因となっている)。
朝鮮人差別は全然無くなってない。映画の台詞でもあったが「朝鮮人は日本に居れるだけでも感謝しろ」は大久保での在得会のヘイトスピーチにつながる。
(蛇足)
よくある誤解だが、日本は外国よりも同調圧力が高いというのは、データに基づかない個々人の単なる感想で全くの俗説だ。ネット記事やビジネス誌で、「日本人は同調圧力が強いと思いますか? YES 70 %、 NO 30 % 」なんていう個人の感想や、長く外国に住んでた人や帰国子女が、「日本に来ると同調圧力が強いと感じる」という主観による感想が、さも正しい定説のようなふりして一人歩きしてるだけだ。
日本人は集団主義、アメリカ人は個人主義というのも同じで単なる個人の主観による感想だ。データに基づく話ではない。
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