福田村事件のレビュー・感想・評価
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朝鮮人なら殺しても良いのか?まさにそう思った
1923年、澤田智一は日本統治下の朝鮮から、妻の静子とともに故郷の千葉県福田村に帰ってきた。澤田は日本軍が朝鮮で犯した虐殺事件の目撃者であり、それ以降妻を抱けなくなっていた。静子は離婚すると家を出て、船頭と浮気ををしたが、見ていた智一は自分のせいだと妻を責めれなかった。その日は9月1日で、関東大地震が発生し、多くの人びとが大混乱となり、朝鮮人が日頃の腹いせに女性を襲ったり、井戸に毒物を投げ込んだりして日本人を殺しているというウワサがが飛び交っていて、福田村でも朝鮮人対策のため自衛団を結成していた。9月6日、香川から関東に来ていた、沼部新助を親方とする行商団15名は次の地に向かうために利根川の渡し場に到着し、そこで、沼部と船頭との渡し賃に関する口論が発生した。その騒動により自衛団や軍隊、村長などが駆けつけた。日本人の証明書を役場で鑑定してもらってる間、沼部がたまたま飴売り少女に貰い、持っていた朝鮮の扇子によって朝鮮人と決めつけられ、1人の女性が斧を振り下ろした事をきっかけに、村民の集団心理に火がつき、大虐殺が起こってしまった。という実際に起きた事件の話。
確かに朝鮮人による犯罪も何件かは有ったようだが、日本人も火事場泥棒していただろうし、朝鮮人や中国人を特別視するほどの率では無かったらしい。なのに、朝鮮統治下で独立運動などをテロとして取り締まった日本軍の朝鮮での行動、日本に来ていた(連れて来られた)人たちに対する差別、またこの行商人たちのように被差別部落出身の人たちに対する差別、そんな差別が当たり前の時代に起きた悲劇だという事を知っておかないといけない、と思った。
朝鮮人なら殺しても良いのか、というごく当たり前の疑問さえ持てなくなるほど村八分を恐れ、集団心理や腰抜け新聞社の様子など、リアリティが有った。
日本人が殺されたから事件で、朝鮮人や中国人が殺されても事件にならなかったのか、やはり疑問が残る。
自分たちの先祖による過去の過ちを知り、今後に活かしていきたい、と強く思った作品です。
本当に多くの人に観てもらいたいと思います。
出演者では、澤田夫妻役の井浦新、田中麗奈、行商団の親方役の永山瑛太、船頭役の東出昌大、いつもの柄本明など、素晴らしかった、
朝鮮アメ売りの少女役の碧木愛莉が可愛かったのと、、井草マス役の向里祐香が色っぽかった。
多様な人物は善悪に色分けされず配されて、「悪人を作らない」という演出が、かえって現代の誰にも起こり得るかもと提起してくるのです。
わたしが住んでいる千葉県の流山のすぐそばで、妊婦、婦女子を含む日本人9名が地元の自警団に殺されたという史実に衝撃を感じました。
まず、この事件を掘り起こした制作陣の気概を買いたいです。今年110年を迎えた関東大震災では「朝鮮人暴動」のデマが広まり、各地でいわれなく朝鮮人や日本人が殺傷されました。その一つ、千葉で実際に起きた福田村事件を題材としたフィクション。ドキュメンタリーを主戦場とする森達也監督が劇映画を初めて演出した作品です。地元に住む自分でも知らなかった歴史の闇に埋もれた惨劇。ここでは当時の世相を浮き彫りにし、殺されたものたちの名前と顔を取り戻し、当事者の目から語り直す力作です。
■ストーリー
物語は、香川県から被差別部落の薬売りの行商団が関東に向かうところから始まります。沼部新助(永山瑛太)を親方に初体験の少年も加えた総勢15人。
一方、日本軍による朝鮮独立運動の弾圧に心を痛めて、日本統治下の朝鮮から戻った元教師の澤田智一(井浦新)と妻の静子(田中麗奈)。古里の千葉県福田村(今の野田市)に戻って農業を営み始め、再出発を目指します。
そんな村では、シベリアで夫が戦死した咲江(コムアイ)は、夫の留守中に村の船頭、倉蔵(東出昌大)と関係を持っていました。そのほか、老いた父親井草貞次(柄本明)と妻のマスの関係を疑う息子の茂次(松浦祐也)など小さな村の中にも愛憎が蠢いていました。、
また軍の威信をかさに、のさばる在郷軍人会の分会長長谷川秀吉(水道橋博士)と民主主義を信奉するインテリの世襲村長田向龍一(豊原功補)とはことあるごとにぶつかっていたのです。
そこに大地震が発生。避難民からもたらされた「朝鮮人蜂起」のうわさに、村は騒然となります。
「朝鮮人が日本人を襲っている」とのうわさが日増しに大きくなり、村では自警団を組織。地震から5日後の6日。村に入った行商団のリーダー新助と船頭の倉蔵の言い争いをきっかけに自警団の一人が行商団を問い詰めるのです。朝鮮人ではないのか!と。
その結果朝鮮人と誤解された香川の行商団の15人のうち、妊婦や幼児を含む9人が殺害され、6人が生き残ってしまいました。後に全員が日本人、香川の被差別部落出身者だったことが分かるのです。
■解説
デマは日韓併合に始まる朝鮮人への差別意識が招いたものですが、被害者側の部落差別の関係者が口を閉ざし、その後の検証を難しくした面があります。映画ではほかにも職業や性別など重層的な差別の構造を通じて、一見のどかな村落共同体の排他性をあけすけに描かれます。
背景に、韓国併合以来の韓国での独立運動の高まりと、反日感情を警戒する日本で強まった朝鮮人差別があります。地元紙の記者楓(木竜麻生)は、震災後の凶悪事件発生を報じる記事を、犯人は“主義者か鮮人か”という決まり文句で結ぶことに抵抗します。多様な人物は善悪に色分けされず配されて、一人の中に差別も偏見も、善意も持ち合わせるように描かれているところが、森監督のこだわったところ。
森監督は、「悪人を作らない」演出に神経を配ったそうです。加害者となった自警団も、村や家族を守ろうとした市民であるという視点を忘れたくないからです。「あくまで、普通の人がなぜやってしまったのかに焦点を当てた。その場にいたら、自分は加担しないと言えるのだろうか」という森監督のインタビュー記事は、胸に迫りました。
ドキュメンタリーではなく、劇映画を選んだのは当時の資料が乏しかったこともあるようです。事件は長年タブー視されてきましたが、たとえ劇映画の形でも歴史の闇に光が当てられたことは、意義があることでしょう。
地震を契機に不安と恐怖が噴出し、流言飛語に点火されて惨劇に至ったのはどんな状況だったのか。平凡な人間がいかに集団的な狂気に至るか。資料の隙間を想像力を駆使して埋め、真実に肉薄できるのが虚構の力。製作、俳優陣の気迫と覚悟も感じられます。
主演の井浦も「目を背けたくなるような歴史を知ってこそ、良い方向に変わっていく未来がイメージできる」と強調しています。
■いまの日本につながること
私たちは、この作品が、いまの日本の当面している問題とそっくりかかわっていることに愕然とします。
たしかに差別で集団殺戮は起らないでしょう。
しかし森監督出発点となった、オウム真理教の教団内部を撮ったドキュメンタリー「A」(1998年)を思い出すとき、本作のようなことが現代でも起りかねないことを想起させます。
監督が接した信者の一人一人は善良で穏やかで、「凶悪集団」と いうイメージから、かけ離れていました。「でも同時に、命じられていたら、地下鉄にサリンを撒いていただろうな」と信者たちは語るのです。「なぜ普通の人が、こんなことやったのか。その問いが自分の中にずっとあった」と森監督は語ります。
ましてネット社会となった今日。この事件が起こった当時よりも、デマの拡散は一層容易に起こりやすくなっています。それを一層顕著にしていることが活字離れと思考力の低下。ネット動画を倍速で視聴し、情報源にしているとセンセーショナルなデマに感情的になりやすくなるのもも当然でしょう。
根拠のないデマの流布だけでは、炎上する人物や集団のいのちをとられることはありませんが、社会的に抹殺されて、名誉回復は困難になってしまいます。
それが本作の事件のように、たったひとりの囁いた不確実なコメントが拡散されて、大炎上を招くのです。
そういう集団心理の狂気を描いた本作の決して100年前の出来事ではないという主張は強い説得力を持つのです。歴史の闇を掘り起こしただけの迂遠な作品ではないゆえんです。
■最後に
本作は群像劇をうまくさばいています。
まずは「顔」が見えます。加害者も被害者も顔をしっかり映すのです。とりわけ、在郷軍人や自警団、村人一人一人、村長らの顔が見えます。多くの人物が登場する群像劇でありながら個々の内心を想像させるのです。それは、事態の緊迫度が増すにつれて強い震動の源となって押し寄せるのです。
また行商の薬売りを朝鮮人と誤解した村人の擦り半鐘で、在郷軍人や自警団らが集まってくるシーンでは、地元の警官は、署に帰り身元照会をするから待てと村民を落ち着かせますが、在郷軍人の面々や自警団は収まらず、押し問答を経て、意外な人物が虐殺のきっかけとなります。
祭り囃子のような太鼓の音がとどろく中、本能で逃げ、本能で追う両者を、それまで固定カメラで撮っていたのから、手持ちカメラに切り替えて緊迫した映像で映し出します。 その瞬間は、善悪の構図だけで捉えきれない。一種のトランス状態でした。
手持ちカメラながら画が大揺れすることはありません。いかにもドキュメンタリー監督の劇映画らしさを裏切る手法が、新鮮に感じました。
■繊細なディテールは特筆もの
救いようのない結末に向かう物語は、行商団と朝鮮飴の売り子の交流など繊細なディテールに満ちています。犠牲者の一人は臨月の妊婦でした。お胎の子が生きる時代には平等な社会になるよう、一同が願う場面があります。100年後の現実は果たしてどうなっているのでしょう。
まだ歴史は続いている
何回か書いたけど
うまく言えない・・・
この事件が続いている訳では無いが、基本集落(に居たことがある)は
狭いコミュニティで過ごすのでこの様な吊し上げはある
教会の惨劇は実在し、井浦新夫婦役は実在しない
夫婦役は俯瞰で見るためには必要だったのだろう
パンフレットは台本が組み込まれているので”買い”だと思います
この映画は、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件を背景にした、朝鮮人と間違...
この映画は、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件を背景にした、朝鮮人と間違えて行商グループのニホンジン(被差別者)を殺してしまった話であり、また左翼運動家も混乱に紛れて殺した話も付け加えられているので、歴史的事件をモチーフにした、ニホンジンの、あるいはニンゲンのどうしようもない愚かさを描いた映画だと考えるのが正しい見方だと思います。所謂「朝鮮人差別」とは少し距離をおいた方がいい。
ただ、ドキュメンタリー作家らしい、容赦のない厳しい演出が期待される中に、正義感の強い新聞記者は必要だったのか、また、ミソジニーを肯定するかのような、妻の姦通の物語は必要だったのかと言う疑問は残りました。もっとソリッドに演出するべきではなかったかと思います(でもある程度エンタメ性を加えないと商売にならないか)。
しかし、この映画は観るべき映画だと思います。皆さんも是非。
「あったことは無かったことにしてはいけない」
この映画、エキストラ参加したこともあって話のスジ、キャスト、スタッフなどある程度の予備知識をもって見ました。見終わった後、感じたことは「全ての人が見ておかないと、知っておかないといけない映画」だと言うことです。
あったことをあったこととして捉えて将来に活かす役目・使命をもった映画だと感じました。
加害者の視点から集団心理をもとにヒステリー状態への流れを描き「きっかけさあれば自分も普通に加害者になってしまうであろう」という恐怖を感じました。と同時に「どのような社会でなければならないか?」という示唆も受けることができました。
生き残った行商人が正に絶望の淵に死を覚悟したその時に自然発生的に浄土真宗の『正信偈』(しょうしんげ)を大声で唱和されました。我が家も同じ宗派で日常的に唱えている正信偈を耳にして驚きました。舞台挨拶の場でそのことを森監督に質問すると「史実です」というお返事でした。
頭の片隅で「惨劇が起こる前にこの正信偈を唱えていたら日本人と証明されたのでは?」と思い残念でした。
「映画には人生を変える力がある」そんな映画でした。
軍国主義
100年前関東大震災後、千葉県福田村での事件。震災後、人々は数少ない情報源の元、色々な不安や先が見えない中で生活をしていた。
香川県の行商団、薬売りの一行がこの村に訪れる。丁度その頃世の中では、朝鮮人が井戸に毒を
入れたとか暴動を起こしたとか嘘が飛び交いはじめた。
内務省から自警団を促されたが落ち着きはじめ、戒厳令も解かれたのに大正デモクラシーの最中の軍国主義。
行商の方々の方言もあり朝鮮人と間違われ村人と衝突。歴代天皇を言えとか15人を取り囲む卑劣な行為。
誰かが正論を唱えても一人一人の感情が私から、我々に膨れ上がると無力になってしまう。
集団心理は恐ろしい。事件後、犯人達は特別赦免
され、謝罪は一切無し。
根本は戦争から始まった。
国と国との争いお国の為、お神の為、命を差し出す忠誠心。洗脳的になり集団だったら、何をしても良いと。国家の為と言うが自分の為ではなかろかと思う。今のネット社会も同様。
現在も何が起きるか分からない時代。
脳裏に焼き付け胆にも命じておく。
差別が暴力を生み、私が我々になって行く時の群衆が恐ろしいという事を。
普通の善男善女が集団心理で虐殺を行う恐怖。今でもあり得る。現代の日本で、世界で、大都市で、そして僕も善良なあなたも加害者になる。
今でも起こりうる集団心理による普通の善人が行った虐殺の物語。1人ひとりは善男善女なのに(善き夫、善き父親、善き息子、善き妻、善き母親、善き娘)なのに、群衆になるとその場の雰囲気にのまれたり、同調圧力に逆らえず殺人さえ起こしてしまう恐怖を感じた。
とても他人事とは思えない。ほんの30分前までは、まさか人を殺すなんてことは考えたこともない善人が、デマと群衆心理で虐殺をしてしまう。
最近ではコロナの自粛警察、アメリカの連邦議会襲撃があった。
群衆心理の怖いところは2つある。
1つは、暴動や虐殺している人々に悪意がないどころか善い行いだとさえ思っていることだ。個々人は普段はフツーの善男善女なのに、群衆になったとたん殺人さえ行ってしまう。
もう1つは、反対したいのに同調圧力で反対できずに暴走に加わってしまうことだ。群衆心理で暴走が始まってしまうと、同調圧力にのまれなかった人が反対しても、もう暴走が止められない。止めようとしたら普段は仲良しの隣人も敵とみなされ殺される危険もある。傍観するだけだ。
100年前の福田村事件の原因は、国家権力による情報操作と、殺らなければ殺られてしまうという恐怖と、朝鮮人と部落を見下している差別だ(今回の映画は部落出身ということで殺された訳ではないが、行商に出なければならない状況に置かれていにたということで間接的にではあるが原因となっている)。
朝鮮人差別は全然無くなってない。映画の台詞でもあったが「朝鮮人は日本に居れるだけでも感謝しろ」は大久保での在得会のヘイトスピーチにつながる。
(蛇足)
よくある誤解だが、日本は外国よりも同調圧力が高いというのは、データに基づかない個々人の単なる感想で全くの俗説だ。ネット記事やビジネス誌で、「日本人は同調圧力が強いと思いますか? YES 70 %、 NO 30 % 」なんていう個人の感想や、長く外国に住んでた人や帰国子女が、「日本に来ると同調圧力が強いと感じる」という主観による感想が、さも正しい定説のようなふりして一人歩きしてるだけだ。
日本人は集団主義、アメリカ人は個人主義というのも同じで単なる個人の主観による感想だ。データに基づく話ではない。
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