福田村事件のレビュー・感想・評価
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起きたこと自体は重要なんだけれども
劇映画としては微妙だった。なんちゅうかnhkとか日曜の夜とかにテレビで流れてそうなドラマ。
『七人の侍』や、『山椒大夫』に出てくる百姓たちは百姓にしか見えなくて、本筋には関係ない、演じてる役者のことなんか考えてしまう暇も無かったんだけどもな。現代の役者が演じる一昔前の人々は、コスプレっていうと言い過ぎなんだけども、頑張って寄せに行ってるけど、やっぱりズレてる感じがしてしまう。それは多分、演技の巧拙ではなくて、ある程度年月が経つと、時代感が鈍ってしまって、当時のリアリティを演出するのが難しくなる、ということなのかもしれない。
あとは細かいところで「自分には合わないな」と何度も感じてしまった。セリフとか、カットのつなぎ。映画のリズム。
東出君が演じてる役が、本人の過去を想起させるような中々に意味深な役だった。
人物像がややステレオタイプ
関東大震災秘話とも言うべき悲劇を描いていて見応えは充分。
ただ、人物の描き方がややステレオタイプに感じる。
監督は「普通の人が豹変する恐ろしさを描きたい」と言っておられたが、映画の中で凶行に走るのは、普段から「ネトウヨ」的言辞を弄する連中や、性格に難のあるような人物ばかり。
逆に、冷静で普段から内省的であったり開明的な人物は虐殺を止めようとする。
これでは「普通の人が豹変する」のでは無く、普段から問題の多い人物が事件を起こしているようにしか見えない。
普段勇ましいことを言っておきながらいざとなったら怖くて逃げ出す人物や、普段から開明的な人物が疑心暗鬼で凶行に走る姿を描くべきだったと思う。
その意味で、犠牲者の薬売りがペテンをしたり、夫の帰りを待ちわびるおとなしい若妻が凶行の先鞭をつけるところは良かった。
また、正義感溢れる女性新聞記者が登場するが、周りの混沌ぶりに比べ、浮いた存在になっているように感じた。
被災者の中には邦人・鮮人の区別無く火事場泥棒を働いた者も実際居たのだから、朝鮮人暴動を否定する彼女の前に、実際に悪事を働いて捕まった朝鮮人を一人でも登場させ、『もしかして暴動説は本当だったのか?』『自警団は必要なのか?』と迷わせ、悩み傷つきながらも彼女自身の体験を通じて暴動がデマであることに辿り着けば、人物造形に深みが出たと思う。
映画では「報道の正義」を振りかざし、最初からおのれの信念に一片の疑念も持たない純粋さに危うさを感じてしまった。
映画を見る限り、登場人物の善悪が明瞭過ぎるのが気になった。
とはいえ力作だし、「朝鮮人大虐殺は無かった」なる言説が大手を振り、「私人逮捕」YouTuberが閲覧数を稼いだりする昨今、必見の映画だと思う。
正義感と集団の恐ろしさ
この映画がなければ、この事件があったこと自体を生涯知ることはなかったでしょう。
私は散々ホロコーストの映画を観て、アメリカの黒人奴隷がまかり通っていた時代の映画を観て、その残酷さを嘆いていたのに、こんなに近くで起きていた、歪んだ正義感と集団心理によって引き起こされた残酷な事件を知らなかったのです。
もうそのこと自体が恐ろしいです。
一触即発の雰囲気の中にあっても、冷静に待てと言う人、その人を知っていると言う人、止める人がいるのに止められなくなっていく様子がとてもリアルで、瑛太が放った「朝鮮人なら良いのか」という、中でも際立って冷静で中立で公平な言葉が沁みました。
しかしだからこそ夫を亡くしたと勘違いして絶望の中にいた女性が我を忘れ振り下ろしてしまった凶器が、その狂気がとても悲しかった。
あの言葉が結果、引き金となってしまった演出はとても光っていました。
村長さんがもっと頼りになったら…
あそこで扇子なんて出さなかったら…
新聞に事実が掲載されていたなら…
あとからならいくらでも、ことが起きなくて済んだ可能性を言えるのに、渦中の人は止まらない。
現代ではネットの中で私的制裁や私人逮捕などで暴走している人がたくさんいます。
これも含め一番タチが悪いのは、本人が「正しい」「正義」「何かのため」と信じていることです。
自戒も込めて、正しい情報を得ること、自分の正義感だけで突き進まないこと、冷静さを失わないことの大切さを痛感させられました。
ラストにかけての事件の部分はものすごく不快なシーンでしたが、この事実を広めたことと、メッセージが素晴らしい作品でした。
事件は過去だが今向き合うべき佳作
関東大震災という当時未曾有の大惨事において混乱のドサクサに紛れて起こった惨劇。
事件当時より遥かに情報伝達が早い現代であるからといって過去の事件としてただ胸を痛めて鑑賞すればいいという作品ではない。
物語は最初から閉鎖的な村社会、差別、暴力を、登場人物達は映画だからと綺麗な言葉ではなく直接的な言葉で表現しあっている。雑な言葉を使わせてもらえばひたすら胸糞が悪い。
この映画において加害者は少なくとも映画の中では普通の人だ。赤ちゃんや幼児まで殺してしまうような異常性を最初から剥き出しにしてるような人物は1人もいない。しかし一度殺戮が始まると相手が子供だろうが何度も竹槍を突き刺す。普段何気なく暮らす我々にそうならないという絶対的な何かが果たしてあるのだろうか。
私はこの作品に1番戦慄したのはそこである。
理性が感情を抑えることができないのではないかという不安である。
永山瑛太さん演じる新助にノイローゼ気味の女性が棒で無機質に殴り、新助は絶命。これで日常は壊れてしまい後は不安、不審の波に流されて大量惨殺。穏健派の村長も何も言葉を発せられない。ただ雑な暴力への本能的な恐怖。これを抑えられる理性が本当にあるのだろうか。
惨劇の直接的、間接的となった災害、デマ、差別、世相、そして集団心理。これらは全て現代においても当時と何ら変わらない危険性を伴っている。だからこそ他人事ではなく自分が加害者にも被害者にもなり得る可能性を感じながら鑑賞しなければならない。
日本人なら必ず見るべき秀作。二度と見たくない。
公開後もレビュー点が高止まりしており、ずっと気になっていましたが、公開後3週間で漸く鑑賞。
公開館数も限られているためか、ほぼ満席状態。観客層は30代以上が多く、意外にも女性が多い印象。
⚪︎史実としての福田村事件
(多くの人がそうだと思いますが)この映画で初めてこの事件を知りました。
戦争関連の歴史は、ほとんど被害者としての史実を教え込まれます。しかし、過去の日本(政府、軍、国民)が行った「不都合な真実」を知る機会は殆どありません。
映画を通して、集団心理の恐ろしさ、を知ることができます。
⚪︎映画としての福田村事件
観客は当然、映画のラストに何が起きるかを知った状態で映画を見ることになります。
性描写が強め。「そうなるの?」と思うシーンあるもののどんな共同にも人間模様があり、それが正常(当たり前)であることが示されています。
映画前半に、そこにある生活、人間関係を写した後に、あの事件が起きてしまいます。あの事件のシーンでは、リズムの良い太鼓のシーンが流れ、「不謹慎では?」と感じましたが、これは映画。考えてみると太鼓音がなければ、もう見ていられない程の残虐なシーン。
瑛太の「朝鮮人なら殺して良いのか」、田中麗奈の「貴方はここでも何もしないつもりなの」、讃岐行商の男の子の「何でえ」の3つのセリフが胸に刺さってやまない。
過去の失敗をかみしめることは未来にとって不可欠
2023/9/6に鑑賞した。
見終わって気づいたけど、福田村事件が起きたのは1923/9/6で、ちょうど百年前のことだった。
百年は、遠い昔のようでそうでもない。
1923年は大正12年で、私の父方の祖父母は大正6年あたりに生まれているから、彼らはもう生きていた時代なんだな。
東出昌大と永山瑛太が小競り合いを始めたあたりからの、凄惨で愚かな描写には強いショックを受けた。
加害者は無知で偏見があり、毎日必死で生きているどこにでもいる人たちだった。
私も、不安定な状況に追い込まれれば、あのような凶行を起こしうると思った。
あるいは、澤田(井浦新)のように何もできずに、誰かが誰かを殺すことを傍観してしまうと思った。
永山瑛太達の行商団は、被差別部落出身者だったらしい。パブではあえて伏せられていたようにも思った。
彼らも出自によって差別されることもある。差別されるものが、より”下”を設けて憎悪をぶつける。
愚かしいことだけど、今の世でもよく見る光景で、瑛太はにがにがしく思ってるようだった。
らい(ハンセン病)の患者に適当な口上で薬を売り、その罪悪感を別のらい患者への小さな施しですこしだけ慰める。
仲間が発する朝鮮人への憎悪をそらすために、朝鮮飴を売る女の子からたくさん飴を買って、女の子から扇子をもらう。この伏線すごいなと思った。
柄本明とその息子夫婦のくだりはなくても本編に支障はないけど、田舎の閉塞感、親子の微妙な関係が生々しく、印象に残った。
狭い村で、娯楽も社交も思想もぜーんぶ共有するしかない。村の空気にそぐわないことはできない。
あの感じ、地元を思い出す。
東出昌大と浮気する豆腐屋の嫁は、コムアイだったらしい。初めましてだった。
コムアイが豆腐に指輪を仕込んで井浦新・田中麗奈夫妻に波紋を投げかけたところで、東出・田中の船上のまぐわいを恨んで何かやばいことしないか心配してしまったけど、そっちは杞憂でよかった。
水道橋博士がすごいいやな役をしていて、学がある村長への劣等感、そんな中で在郷軍人会の会長?という、肩書ができて少しは劣等感をかき消せると躍起になってる感じがすごーく出てて、よかった。
新聞社でのやり取りも緊張感があって、脚本もすごくいいと思うし、役者も豪華でよかった。
永山瑛太を殺したのは、乳飲み子を背負っている出稼ぎ夫が朝鮮人に殺されたと信じてしまった若い女だった。
彼女を断罪すればいいとは思えない。
世の中の悪事は大体(共産)主義者、不逞鮮人がやってるとの言説が流布し、実際に共産主義者と朝鮮人をいじめ倒しているから恨まれてるって分かってるし、真偽を確かめる術がない。
その状況で、反抗できるわけないよね。
でも愚かしい差別や、差別を燃料にした虐殺は起きてほしくない。その防止には何ができる?
教育?大事だけど万能じゃない。格差是正?富める者が既得権益を手放すとは思えない。
人間の歴史は、美しい面と福田村事件のような惨たらしい面があり、特効薬はない。
ので、現時点で道半ばなのは致し方ないのだけど…
鑑賞後にニュース動画を見たら、松野官房長官が、朝鮮人虐殺は記録がなくて確認不能と言っていて、びっくりした。そういえば小池都知事は、虐殺被害者追悼集会への追悼文を出さないし、南京大虐殺もやっていないって考えるひともいるし…何を見るとそんな見解になるのか理解できない。そんな意見の人に政治を担われたくないと思った。
映画『福田村事件』を観て、「鮮人」という蔑称を初めて知った。まだまだ知らないことが多いんだなと思った。
朝鮮人なら殺してもええんか!瑛太さんの魂の叫び
まさに心の叫び、魂の叫びだ。
この魂の叫びが殺戮の引き金になった。
何とも皮肉な何とも残酷な何とも救いようのない展開。
思わず監督を恨んだ。
過ちを歴史から学びたいと思う
「朝鮮人なら殺してもいいんか!?」
という台詞が全てを物語る。
史実に基づいた『福田村事件』を鑑賞した。
静かに暮らしていた福田村の住人が
関東大震災の不安とデマに煽られて、
讃岐から訪れた行商人を「センジンだ!(朝鮮人)」と勘違いをして、(妊婦の胎児含めて10人)を大殺戮を起こす、あまりにも酷い事件。
殺戮に発展した理由は
・行商人たちの讃岐弁が聞き慣れず、移民と思った
・行商の頭人が朝鮮の扇子を持っていた
というあまりにも短絡的判断だ。
インテリ少年が
「何のために生まれたんだ!」
と叫んで滅多刺しにされるシーンは目を覆った。
その瞬間は自分が正しい、と加害者の集団的心理が働く。
一瞬で真実と正義が湾曲され、最悪の不幸に巻き込まれていく。
噂は正しいのか?確認することもなく、
観ていて辛くなりますが、現代に通じるところがあって深く考えさせられます。
この時代は閉鎖的で軍国主義だから起きた残忍性だ、と片付けてはいけない。
100年経った今も
誹謗中傷に絶望して命を絶つ人間がいたり
震災や、コロナ禍でも差別が見受けられるのだから、骨の部分は変わってないのかも。
自分は被害者に立つわけがない、と思っていながら実は加害者になりうる危うさ。
思い込みではなく、真偽を確認する冷静さを失ってはならない。
声上げられない弱い立場の人を必要以上に叩く正義は、憂さ晴らしではないか?
色々立ち止まって考えたくなる作品だった。
評価されて欲しいが、やはり内容のせいか、あまり上映回数や映画館は少ないのが残念だ。
いつも尖った内容ではっとさせる森達也監督。
よくぞ作品にしてくださいました。
少年と二人の少女
朝鮮人の少女は何故殺されなければならなかったのか。
福田村事件を今此処に生きる私の目前に現実として蘇らせるため、脚本に様々なエピソードが多角的な視点で練り込まれ、生の人間の営みが描き出される。朝鮮の少女は飴を買って貰ったお礼に、可憐な扇子を讃岐の部落から来た薬売りの親方に引渡す。母国語の自らの名前を告げる悲痛な叫び声が新宿の映画館に鳴り響く。
ドキュメンタリー「放送禁止歌」で森達也のことを初めて意識した。その時から岡林信康の「手紙」は私にとって忘れられない歌となった。森達也にとって一貫したテーマである集団と差別の問題は、映画の中で繰り返し言及される。提岩里教会事件で朝鮮人が殺されるのを目撃し加担した教師の恐怖と悲しみ、亀戸事件で惨殺された労働運動家の無念、エタと呼ばれる行商人が癩病患者に薬を売りつける残酷さに意識が覚醒させられる。
渡し守が煙管をくゆらせ、閉ざされた村の境界線である利根川を見つめている。軍隊で酷い目にあった男の横には、シベリア出兵で夫を亡くした豆腐屋の未亡人が寄り添っている。密通を働いている男と女は村の因習からつまはじきの存在であり、同時に村を支配する軍国主義を諦観する役割を担う。
聡明な親方が率いる行商団はおおらかに旅を続ける。故郷讃岐を後にする際、少女は少年の首にお守りを掛ける。そこに入れられた水平社宣言の紙片によって、少年は「エタである事を誇り得る時が来た」ことを知る。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」流言に村人は惑わされ混乱を極めていく。「朝鮮人なら殺してええんか」親方は真実を投げかける。村の女は亭主が朝鮮人に殺されたと疑心暗鬼に囚われ、赤ん坊を背負ったまま何の感情も無く親方の頭に鳶口を振り下ろす。神社の前で自警団に針金で縛られた行商団の女子供はお経を唱え、それはいつしか水平社宣言の抵抗の言葉へと変わっていく。ある集団が恐怖から自らを守るため、自分たちとは異質の集団を排斥して抹殺しようとする。愚かな人間が生きるこの社会の現実が映し出される。
お守りの力で少年は生き延びた。故郷の橋の上で少年を待ちわびた少女がただ黙って立っている。醜い世の中にほのかに瞬く光のように。
闇に葬られた負の歴史に愕然唖然
劇場で予告編を観た時から鑑賞意欲をそそられ、ポスターを観て、絶対観たい!と思っていた今作をやっと鑑賞しました。
で、感想をと言うと…凄いヤバい。
頭をガツンとやられた感じで面白い、面白くないの次元で語れないぐらいの衝撃。
観る人を確実に選ぶ作品だけどこういった事件が過去にあったと言う事を知るべき作品として個人的には鑑賞すべしと言う感じ。
様々な社会派ドキュメンタリー作品を手がけてきた森達也監督はエッジの効いた作品を多数発表してきたが今回はよりエッジが効き過ぎかつ、意義の高い作品を出してきた。
関東大震災時にどさくさに紛れた朝鮮人狩りと称した自警団による粛清により、薬の行商の一団が濡れ衣、誤解、行き違いから暴行、殺害されると言うのが生々し過ぎる。
もう、クライマックスの暴行、殺害シーンは衝撃的過ぎて、観る側に重いショックを与える。
人権的差別に暴行に一気に頭が沸騰し、数の暴力による行動に観る側の加害者への報いを衝動的に念じてしまい、ショックと「目には目」の暴力衝撃を起こさせてしまう。
それだけでもヤバいのに映倫区分ではPG12指定だけど、下手なホラー映画やバイオレンス映画よりも違う意味でタチが悪い。
だけど、近年まで意図的に闇に葬られた負の歴史を知る意味でもとても意義の深い作品なだけに観る側のある程度の覚悟と情報が必要かと。
役者陣の熱意の高い演技で最初から異様に高いテンションにドキドキしてしまう。
特に水道橋博士さん演じる自警団軍人は当時の歪んだ日本人の象徴のような存在で怪演過ぎる怪演。
難点があるとすると本来の福田村事件に井浦新さん演じる澤田智一と田中麗奈さん演じる澤田静子の夫婦が京城から帰郷した事で物語が始まるが、ストーリーテラー的な澤田夫婦が流れを作っていても何処か余計な伏線も入っていて、少し蛇足感がある。
特に静子の倉蔵との情事は物事の伏線を膨らますポイントになるが、その後の智一と静子の関係性があっさりし過ぎていて余計に感じるし、物語の本質を濁らしている様にも感じる。
いろんな伏線を張り巡らせている分、本質に至るまでに少し中弛みが感じられているのとなんでもかんでも詰め込め過ぎるかなと思うのが個人的な一意見。
様々な災害に便乗した事件や事故は今も昔も変わらないが情報の錯乱による流言蜚語が怖すぎるが特に政府に意図的な情報操作がヤバすぎる。
軍国主義真っ只中で愛国心に溢れた国民がわんさか。
様々な国の事情や情勢が分からないから仕方ない部分があるにしても、それが情報統制の結果の部分も多分にあり、そこに人権・人種差別が組合わさり、いろんな伏線が張り巡らせ、大きな流れになっていく。
まるで幾つかの小さな亀裂が起こり、大きなひびとなってやがて決壊していくような様を見ているかのような錯覚に陥る。
また集団暴動の心理は現在でもあるが、ここまでのご都合主義の排他的主義に至るのはもう口あんぐりどころではない感じ。
時代が古い、悪かったとかの問題ではなく、集団心理による人間に潜む内なる悪意と衝動、排他的願望が怖すぎて、様々な誤解と罪もない人達への凄まじ過ぎる暴行が本当に悲しい。
また、この事件が被害当事者が二次被害を怖れて、口を噤んでいたことから、半世紀以上経ち、被害者側からの連絡が来るまで明らかにならなかったと言うのが怖すぎる。
加害者たちは極刑にならず、恩赦により直ぐに釈放となり、挙げ句の果てにはその内の者がその後に選挙にも出馬しているとは…
面の皮が厚いとか、喉元過ぎれば熱さを忘れるの問題ではなく、自身の中の正義がこんなにも利己的に解釈されるのかと思うと今の情報過多であっても平和な日本である事を有り難く思います。
数年前に公開された同じく関東大震災をきっかけに起こった朝鮮人排除事件を題材にした「金子文子と朴烈(パクヨル)」は韓国側の視点で描かれてけど、この作品は日本人側から負の歴史を暴いている分、何処か生々しい。
この作品とセットで観るとより意義が高いかと思いますが、大阪は十三のシアターセブンで福田村事件の上映に合わせて金子文子と朴烈の再上映されるとはごっつうええ感じw
関東大震災から約一世紀とタイミングとしてはバッチリで観れば観る程、調べれば調べる程に闇に葬られた負の歴史に目が離せなくなる。
怖いもの見たさではありませんが、覚悟を持って鑑賞するのであれば、十分に価値と意義のある作品かと思います。
レッテル。
関東大震災直後に起こった福田村事件の話。
香川から千葉県東葛飾郡福田村に薬を売りに来た15人の行商人(大人の男女から幼い子供、妊婦)、薬売りの途中、飴を売る朝鮮人の元で足を止め飴を購入…その購入のお礼にと朝鮮人から扇子を貰った行商人の新助(永山瑛太)、その扇子を貰ってしまった事で起こるストーリー。
悲しい事件ですね~この時代ならではの事件って感じですよね。
スマホや何かしらの素早くとれる連絡手段があれば起こらなかった事件なのかな?あと薬売りの行商人が怪しいと疑われて、行商人は日本人と確認とれるまではどの位の時間が掛かったのだろう…作品上は数分だったけど。
それともリアルでは怪しいだけで何の確認もなく殺されてしまったの?あの扇子にまつわる話はフィクション?どこからどこまでが本当か嘘かは分からないけど、貰った扇子を使用して、「この扇子は朝鮮の物だ」で殺されてしまった方達はホント可哀想だし観てて悲しかったです。
上手い脚本と演出による貴重な作品
映画の前半に描かれる、村人たちの関係性。それが、狂気へと繋がる伏線だと最後に分かる構成。
更に、出征中の夫の留守に他者と関係を持ったとされる、コムアイ演じる未亡人と、事実を明らかにしようとする木竜麻生演じる新聞記者への周囲の反応を通して、作中の人種、部落差別と並び、当時の女性差別まで描いた脚本は本当に上手いと思った。
惨劇を眼の前にして、人は立ち竦むだけになるという演出も、ドキュメント出身の森達也だけあって、リアリティを感じさせる。
ただ、外から来て事件を客観的に目撃する役だったと思われる、主演の井浦新、田中麗奈の印象が少し弱かった。
逆に前出のコムアイ、木竜麻生に加え、船頭役の東出昌大、行商団の頭役の永山瑛太らが強烈な印象を残すのは、正直に、必死に生きようとする役柄の為かもしれない。
最後に、惨劇の後、水道橋博士演じる事件の象徴の様な人物が吐露する台詞は、今もネットに蔓延っている、偏った思考の人間たちの愚かさ、卑劣さ、弱さを痛烈に感じさせられた。
日本人なら、一度は鑑賞すべき貴重な作品なのは、間違いない。
大正12(1923年)年の初夏の頃、智一(井浦新)と静子(田中麗奈...
大正12(1923年)年の初夏の頃、智一(井浦新)と静子(田中麗奈)の澤田夫妻は智一の生まれ故郷である千葉県福田村に戻って来る。
ふたりは日本統治下の京城で知り合い、結婚したのだった。
村長の田向龍一(豊原功補)は、智一とは師範学校時代の同窓で、龍一は親の跡を継いでの新米村長だった。
一方、沼部新助(永山瑛太)を親方とする売薬行商の一行は、故郷の讃岐を出発し、利根川の先を目指していた。
彼らは、被差別部落の出身で、その素性は固く隠していた。
そんな中、9月1日、関東大地震が発生し、世情が混乱する中、彼らの人生が交差する・・・
という話で、大正デモクラシーの民主主義と明治維新からはじまる帝国主義、さらにはそれ以前から続くムラ社会の因習、民衆の鬱屈不満などが綯交ぜになった力作。
関東大震災の5日後に発生した村民たちによる行商人一行の虐殺事件をタイトルにしているが、事件が起きるのは終盤。
映画は、それまでの過程(というか社会状況)を平時も含めて丹念に描いていきます。
巻頭から、震災→事件の展開を期待している向きもあろうかと思いますが、背景を描かないと、単なるキワモノ映画になってしまいます。
この前半で興味深いのは、殺害される行商の一行を被差別部落の出身としたことで、震災のデマに乗じて殺害された朝鮮人たちとおなじく、同時代において卑賤視されていた立場(かれらからは、鮮人と同等もしくはそれ以上の蔑称も口にされる)。
この設定により、卑賤視され、殺害された側の心情がより深く描かれることになる。
(これは新助の最期の言葉「鮮人やったら殺してもええんか」に色濃く出てている。この言葉には「わしら〇〇も殺されて当然なのか」という意味が隠されている)。
さて、映画を深めているのは行商の一行だけでなく、映画の中心となる人物のほとんどが福田村のムラ社会からみれば部外者、アウトサイダーであること。
澤田智一・静子夫妻は京城からの帰国者、村長の田向龍一も一旦村を離れて大学へ進学している。
かれらは、またムラには存在しないインテリである(付け加えるなら、モダンでもある)。
さらに、東出昌大演じる倉蔵は、隣国とを結ぶ船頭。
彼らは外の世界を知っているゆえに、ムラの慣習や考え方を冷静に第三者的にみることが出来る立場であり、かれらは時代を隔てて事件(及び当時の状況)を目撃する観客と同じ(もしくは近しい)価値観を有している。
しかしながら、ムラ的な既存の価値観と対峙するものはムラ社会からは嫌悪される立場である。
穏当派のインテリふたりは、ムラ社会の理屈からはみ出し(一段上から見下しているように村民からはみえる)、かつ男性性的でないがゆえに、最終的には「軟弱」と罵倒され、静子は、モダンな装いな京城帰り、ということで、「採れないブドウは酸っぱいブドウ、もしくは腐ったブドウ」と評価される。
さらに、倉蔵に至っては出征兵士の妻・咲江(コムアイ)と情交をかわした掟破りでもある。
この第三者的視点は、関東大震災そのものにおいては女性新聞記者(木竜麻生)に引き継がれており、より俯瞰的に事件を目撃することになる。
ということで、ここまでは割とわかりやすい図式なのだが、企画・共同脚本の荒井晴彦らしい視点が含まれており、根っこの部分が事件以上の妙な生臭さを感じます。
(脚本ビリングは、佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦 の順)
福田村事件の直接の口火を切るのは、本所に亭主が出稼ぎに行って待っている、乳飲み子を背負った若い母親。
ムラ社会を震災前から不穏に陥れるのは、咲江と倉蔵の不貞。
さらに貞次(柄本明)を長とする馬喰の井草家でも、亭主(貞次の息子)出征中に不貞が行われ・・・といった具合。
荒井晴彦は、よっぽど女性が怖いのかしらん、などとへんに勘繰ってしまう。
ま、これは個人の勝手な想像。
映画は、傑作と呼ぶに相応しい出来。
本作を観ながら/観終わって思い出したのは、『菊とギロチン』とマイケル・チミノ監督『天国の門』。
前者は本作と同時代を描いたこととキャストが重なる部分があってのことだが、後者はある種の構図が酷似している。
封印された黒歴史を描くだけでなく、インテリは事件を止めることはできず、ただ傍観するだけというあたり(『天国の門』ではジョン・ハートの役どころ)。
どちらも大作だが、見比べると興味深いと思います。
無力感の共有
井浦新氏演じる智一と田中麗奈氏演じる静子の夫婦が主役級なのに、観ている限りではなかなか行動のつながりの理解ができなかった。進行上、大きな役割を果たしているようにみえるのは、智一の友人である豊原功補氏演じる龍一と水道橋博士氏演じる秀吉と、永山瑛太氏演じる新助で、さらに東出昌人氏演じる倉蔵とコムアイ氏演じる咲江が、主役級の夫婦と対抗したカップルながら、それぞれ夫婦の生活に関わりができたり、虐殺事件への対応で静子と同様、止め役を果たそうとするところが鍵処だと感じた。集落において茶色の軍服を着ているのは憲兵かと思っていたが、在郷軍人会の制服だということがわかった。映画『キャタピラー』でも、よくみられていた。村長が民主主義思想をもち、理性的に行動したとしても、暴走を止めることができない無力感が漂っていた。
上映後に田中麗奈氏と森達也氏による舞台挨拶があり、田中氏は、覚悟をもって引き受け、参考文献に挙げられているものをできるだけ入手しながら役づくりに励み、森氏が監督になったことで、同じ所属事務所の井浦氏とも、ドキュメンタリー作家だから、自然に撮り進めるのではないかとも話し合っていたけれども、画をきっちり決めて撮影を進め、演出の意見もよく出されたという。森氏は、この作品はあまりヒットしないのではないかと心配していたけれども、NHK『クローズアップ現代』で取り上げられ、これだけ多くの観客が来ているということは、現代の時代の動きに危機感をもってこの作品に重ね合わせて注目している人がそれだけいるのだろう、初めての劇映画だけれど、プロデューサーの荒井晴彦氏等の企画も進んでいて、故若松孝二氏の関係者が集まって、主演に井浦氏がすでに決まっていて、そこに転校生のように自分がはいっていって、大集団スタッフのなかで初めて仕事をすることになった、脚本の歴史考証は、佐伯俊道氏がかなりやっていた、群像劇なので、観客がそれぞれ自分に重ね合わせて観ることができ、何度でも観返してほしい、田中氏からの配役の質問には、恋愛のような直感だと答えていた。
これまでの自分自身が直面してきた様々な理不尽においても、結局力及ばず無力感に苛まれることはよくあったし、ましてや異性から愛想を尽かされることもありがちだったので、智一の立ち位置が自分には相応しいのであろうし、研究者としても、様々な壁に阻まれて断念してきたことがたくさんあるので、これだけのエネルギーをかけて実相に迫ろうとした努力には敬意を表すべきであろう。
突発的に広がる狂気と悲劇
事件が起こる物語の後半までは、本当に何の変哲もない、ただ、どことなく危うい人間関係や、差別される生まれの上に生活している人々の日常が描かれる。
四国の行商が震災後の緊張状態になっている福田村を訪れ、訛りや態度が反抗的なことから村人に朝鮮人ではないかと詰め寄られるが、行商のリーダーの対応がケンカ腰で、見ているこっちとしては、そんなに煽ったら余計揉めるのにな~朝鮮人ではないことをちゃんと言って、大人しくしておけばいいのにな~という心理になる。しかしそれこそが、無関係を装い良くないことを放置してしまう心理ではないかとハッとさせられた。
部落出身者である行商の人々が村人に縛り上げられ、逃げ出した仲間の死を見ながら殺されようとしているとき、念仏の横で水平社宣言を唱えるシーンに心を揺さぶられた。
水道橋博士の、おどおどした自信なさそうな、「こうであるべき」と思い込んでる感じの軍人キャラがすごくはまっていた。
今の時代がどこへ向かうのか考える契機とすべき作品
高い期待を持って鑑賞いたしましたがその期待を十分クリアーする作品でした。正直見ていて涙が出ました。
映画レビュー初めてですのでネタバレになったらすみません。
「鮮人」と間違われて虐殺された事件ですが、「朝鮮人なら殺していいのか」という発言が虐殺実行のきっかけとなるところ、幼い子供が初動に及ぶところなどメッセージが込められていると感じます。
ラストシーンの船上からの問いかけも、簡単に解釈するのではなく、その深い意味をじっくり受け止めたいと思います。
久留米在住です。田中麗奈さんを今まで地元出身のかわいい女優さんと認識するだけでしたが、今回舞台挨拶もお聞きして、役作りに対する真摯な取り組みとそれが確かに作品に活かされていたことを感じ、今後の作品にも継続して注目していきたいと思いました。
森監督の今後のご活躍も期待いたします。
100年前の過ちを繰り返さないために
日本が軍国主義へと急速に傾いて行った時代。まだ閉鎖的なムラ社会がいたるところに見られた時代。
そして部落出身者や在日朝鮮人に対する差別が堂々と罷り通っていた時代。
100年前と今とでは社会状況は大きく違うが、これを過去の歴史の記録としてだけ捉えて良いのだろうかと考えさせられた。
コロナ禍もそうだが、非常事態に陥った時に人は冷静な判断力を失う。
そして混乱に乗じて国は権力者に都合の良い法律を通そうとする。
関東大震災では何の根拠もない流言飛語によって多くの在日朝鮮人が犠牲になった。
そしてそれを焚き付けたのは国であり、報道は言論の自由を奪われ、国に都合の良い情報しか発信しなかった。
今はそうではないと果たして言い切れるだろうか。
コロナ禍でもデマによって在日の外国人が襲われたというニュースが流れていた。
どれだけ情報が得られる世の中になったとしても、それを正しいものかそうでないかは個人個人がしっかりと見極めなければならないのだ。
この映画を観て、どのようにして拡散されたデマによって人々にイメージが植えつけられるか、そして集団心理によって人が凶暴化するかをまざまざと見せつけられた。
とてつもない不幸が襲いかかってきた時に、人は知らず知らず敵を作り出してしまうものだ。
そしてその敵はマイノリティな存在であることが多い。
弱いものがさらに弱いものを虐げる社会の構造は、今もそれほど変わらないのだと思う。
福田村事件で犠牲になった行商人の一行も部落出身者だった。
「日本人と同じように良い朝鮮人もいれば悪い朝鮮人もいる」
報道記者の恩田が部長に対して放った言葉だが、これが本来正常な人間の考え方だ。
しかし国や民族という呼称ですべてを一括りにしてしまう人間もいる。
それが緊急時であれば尚更だ。
国のお達しにより自警団を築き上げ、瞬く間に凶暴化していく村人の姿は恐ろしかった。
もちろんその土壌はずっとあったのだろうが。
そして彼らはそれを正義と信じて疑わない。
一度火がついた村人たちは信じたいものしか目に入らなくなる。
どれだけ村長が止めようと、どれだけ日本人であると説明しても、行商人の一行を包囲して村人たちは聞く耳を持たない。
そんな中で包囲された行商人の親方である沼部が口にした「朝鮮人なら殺していいのか」という言葉が耳に突き刺さった。
村人たちは物事の本質を何も理解していないのだ。
そして沼部の言葉がきっかけとなり暴動はエスカレートしてしまい、子供も含めた9人の尊い命が失われてしまう。
そして彼らが日本人だと分かっても、村人たちは村を守るための正当な理由があったのだと主張する。
これも国による洗脳なのだと強く思った。
関東大震災の混乱に乗じて、社会主義思想の人々を弾圧する軍の姿にも寒気を感じた。
日本の戦時体制が加速化するきっかけとなった関東大震災から100年、また同じ過ちを繰り返してはならないと強く感じると同時に、自分の頭でしっかりと情報を判断する力を持つことの重要さを実感させられた。
群集心理の怖さ。
ピエール瀧・東出昌大・永山絢斗の兄の永山瑛太と、世間に賑わせている人が出ていることは吹っ飛ぶくらい引き込まれ、今年の中で衝撃度1番の作品になった。
関東大震災のあと数日間の千葉県福田村で起こった出来事。
混乱の中、香川から来た行商のグループが朝鮮人に間違われて10人(そのうち1人はお腹の子ども)殺された事件を再現した作品である。
朝鮮人だったら殺してもいいのか!
このセリフに尽きる。
震災の大きさ、同和問題、朝鮮人を差別する、なんでもお国のため体質、群集心理の怖さ、それらがギュッと詰まっていて、●かもしれない→●に違いない!にすり替わる怖さ、決めつける怖さがビンビンに伝わってくる。
最後の30分くらいは小さく声が出てしまうほど衝撃だった。
回想シーンで出てきて、今回の事件とも関連する提岩里教会事件(ていがんりきょうかいじけん)も忘れてはならない。
永山瑛太さんが
最後に言った言葉が全てですね。
少年が名前を呼んでいくところが一番心に残りました。
私にとっては、この作品はもうひとつだったのですが、この作品がちゃんと完成されたことと意外に話題になっているのはよかったです!
この作品に関わり合われたみなさん、お疲れさまでした。
田中麗奈さんが歳をとったのが、とてもショックでした。(「がんばっていきまっしょい」の田中さんがいつまでも心の中にあるもので・・・)
恥
自分の安っぽい感想を綴るのもおこがましいと
感じるほどに痛烈で衝撃的な作品でした。
震災の混乱期に起きた。
否
いつの時代にも、どの市町村でも起こりうるもので
集団心理の恐ろしさもさることながら
自分を保つために、自分より下の者を攻撃する習性に
嫌悪しつつ、己の中にもある差別感情にも
気が付かされ不快になります。
正直、いままで韓国という国は好きじゃなかったし
(エンタメや食文化は大好き)
いつまで反日感情をむき出しにするんだ。
だったら日本に来るなよ。まで思っていたのです。
でも、本作を観て、事件を知って
涙が止まりませんでした。
申し訳なさに、その非道さに、無常さに
このレビューを書いているいまも泣きそうです。
誰しもが見えない恐怖に抗えないとは思う。
集団となった時の安堵が狂気に変わる集団心理を
まざまざと見せつけられた思いです。
国のため、村のため、家族のためと言い訳を
していた在郷軍人会の面々には反吐が出そうです。
とはいえ、自分がその場にいて、目の前で繰り広げられる
狂気の沙汰を止める事が出来たか。
答えは「できる」と言いたい。「できる」人になりたいと思います。
物語上、不必要だなと思うシーンもいくつかあります。
ただ、どの出演者の皆さんも辛い役回りを
見事に演じていると思い、また多くの若者、これからの
日本を担っていく人たちに観て欲しいなと思う
日本の闇、負の歴史です。
映画は💦と思ったなら、せめてどんな悲惨な事件が
起きたのか、なぜいまこの事件が映画化されたのかを
調べて観て欲しいと思います。
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