福田村事件のレビュー・感想・評価
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正義というものの定義がグラグラ 自分が信じてるものは自分に都合の良...
うーん。
日本で最も信用している
ジャーナリストのひとりが
森達也氏だ。
だからこれまでの作品は
すべて見てきたし、読んできた。
’
本作は、彼が初めて作った劇映画。
取り上げたのは、関東大震災直後に
実際に起こった虐殺事件だ。
心無いデマでたくさんの朝鮮人が
殺されたことは歴史に残っているが、
この事件は、朝鮮人と間違えて同じ
日本人を虐殺した、千葉県福田村で起こった。
’
40分に及ぶ虐殺シーンは人間の愚かさ、
同調圧力の怖さ、群集心理の酷さを
嫌というほど、教えてくれる。
善人でも人は殺せるのだ。
歴史の闇に隠されていたこの事件を知らしめた
だけでも、この映画の価値は十分にあると思う。
’
だけど、うーん。
劇としては前半の村の人間関係の話は長いし、
台詞も役者の演技もこなれていないものが多く、
むかーしの芝居を観てるようだった。
’
まぁ、子どもの頃最初に観た映画が「小林多喜二」
という環境に生まれた僕は、タッチが似てて
懐かしかったけど。
’
森さん、二本目、期待してます。
’
集団ヒステリー事件⁉️
男の面子とかいうもの
以前、アウシュビッツビルケナウ収容所を訪れた際に初めて知ったこと。それは、一番初めに収容所に入れられたのが、大学教授などのナチスに反対する知識人達ということでした。それが徐々に共産主義者、社会主義者、ユダヤ人、ロマ、同性愛者などに広がっていったそうです。だから、ホロコーストはユダヤ人の人種差別問題ではありません。
福田村では、朝鮮人だからという理由で村人による人殺しが正当化されていました。一方東京では、社会主義者だからという理由で国家による人殺しが正当化されていました。本作を鑑賞していると良く分かりますが、多数派や権力による人殺しが正当化される時には主たる理由は必要ありません。髪が長いからとか、髭をはやしているからとか、なんか怪しいからとかそんな感じです。
しかし、朝鮮人や社会主義者を直接的にも間接的にも殺した日本人は、後の第二次世界大戦では自分達が殺されることになりました。その頃には、澤田や田向の様な民主的な人間やファシズムを止める人間はもう居なくなっていたことでしょう。大衆は、日本軍の無茶苦茶な命令に従うことしかできず、300万人以上が犬死しました。これが、直接的にも間接的にも人を殺した結末です。
劇中、長谷川が村を守るために(朝鮮人を殺せ)と言ってましたが、あれは嘘です。軍隊は、権力の面子を守るためだけにしか動きません。長谷川は殺した旅人が朝鮮人ではなかったことに酷く動揺しましたが、これは殺した人間が日本人だと、自らの面子が保てないためです。
だから、私は男の面子というものが大嫌いだし、ホモソーシャルな集団も大嫌いです。
日本社会全体がホモソーシャルなので当たり前ですが、昨今でも東京五輪や大阪万博、その他たくさんのことが、ホモソーシャルな集団の面子を守るためだけに行われ、これからも行われようとしてます。そもそもの行動原理が面子のためと自分の利益なんで、このまま放置するとあの敗戦と似た様なことが何らかの形できっと起こると思います。だから、私は想像したいのです。劇中で殺された人達は、実は私の分身だし、彼らの面子のために酷い目にあうのは私なのだと。
コムアイさんと東出さん、大好きになりました。どんどん映画に出て欲しいです。
恐怖は常に無知から生じる。
この映画を観て頭に浮かんだのが、タイトルにした言葉「恐怖は常に無知から生じる。」("Fear always springs from ignorance.")でした。19世紀アメリカの哲学者、思想家のラルフ・エマソンが、ハーバード大学で行った講演の中で述べたというこの言葉は、人が未知の物や事に触れたときに生じる恐怖の理由を、端的に説明している名言だと思うのですが、この映画で広く明らかにされた事件についても、とても良く当てはまるように思えました。この事件を100年前の一部の人たちによる所業と片付けてしまうのは簡単で楽ちんですが、決してそうではないことは、卑近な例であれば今般のパンデミックで少なからず広がった流言飛語や非道な行いを鑑みれば、火を見るより明らかでしょう。パンデミック初期に生じた大きな恐怖も、時が進み件のウイルスに関する正しい知識が徐々に得られるのに従い薄まって行き、やがて平常心を取り戻したという一連の動きは、エマソンの言葉を体現しているのに他ならないと思います。これは決して他山の石ではなく常に身の周りに起きているということ、不断の学びと知識の獲得が恐怖を遠ざけるということを、改めて認識させてくれた見応えの有る作品でした。なお上述の講演の内容は、'The American Scholar'という表題で出版され、「アメリカの学者」という表題で和訳も出版されています。
日本人の弱さ、卑屈をよく撮ってくれた
”八つ当たり”の正当化
大正12年、関東大震災後のとある小さな村で起きた殺害事件。
なぜ公にされず、口を紡がれた事件なのか。
いつの時代も人間性は変わらない、と言うことぐらいにしか感じられない。
至極当たり前のことが起きる。
国際問題とかじゃない、人間の性質の問題。
映画から学びを得たい人には向かない作品。
日本の隠してきた事件を目の当たりにするという点ではアリ。
ただこの手の映画は映画館じゃないと集中できないから迷っているなら見た方がいい。
スマホ片手のながら見だと全く論点が見えてこないと思う。
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時に人は余裕がない時に、”八つ当たり”と言う行動を正当化する。
最後まで承認をかばった人間は、映画の序盤で一度は村八分同様の扱いを受けた者で
他者の痛みとある意味での”はけ口”を知っていた住民だったのよね。
こういうことに気がつけたのは、2時間半の長尺で一見意味のない人間模様を細部まで描いたからなんだろうな。
あの時代の人が現代にいたら、部落差別の現状を見て落胆するやろな。
今も昔もなんら変わっっちゃいねえ。
東出さんにあの役どころをオファーしたの中々強気だよね…w
黒歴史を知れる作品
人間が一番怖い
田中麗奈ちゃんをイジルな!
100年前の関東大震災という特殊な事情だけか?
今、そこにある危機‼️❓
ドキュメンタリーで関東大震災時の朝鮮人虐殺を観たら、内務省が朝鮮人の放火や井戸へ毒など監視するよう告示したのは有名だが、それ以前に新聞が同じ事を煽り記事にしていた。
人種差別等は日本では少ない歴史だが、イジメやハラスメントの自殺は世界でも指折り。
差別や迫害はなくならないが、誰もが認識して努力していかないと、酷いことになることはわかる。
殺す側の人間、この映画の中での傾向のある人間は、身近に沢山いる。
現実的には、君子危うきに近寄らず、だろうが、そんな悪と闘う気概は持ちたいと思う。
井浦新や東出の役柄のように、新聞記者役の女性まではいかなくても。
人種や歴史的差別の外にいても、我々のハラスメントの被害は切実です。
これは他山の石とせず、臥薪嘗胆で気をつけていきたい。
この映画が全国的に配給されるだけでも、まだまだ世の中捨てたものではない。
全ての人に、是非。
当時の空気にどこまで近づけたか
いずれにしろ、作品を取り巻く外野がダメ
100年前、戦時中の関東大震災のころの混乱、朝鮮人(誤認)虐殺の話...
人物描写に引っ掛かりを感じるところもあるが、劇映画として事件を描く意義を十分に証明した一作
1923年の関東大震災の最中起きた、自警団による一般人の集団殺害事件を描いた一作。
森達也監督は、『A』(1997)、『FAKE』(2016)などの切れ味の鋭い作品により、ドキュメンタリー映画作家という印象が強いのですが、学生時代から演劇などの創作劇の経験を積んできたという経緯があります。本作は確かに劇場公開長編映画としては初監督作品ということになりますが、物語の構成、そして演出の手際にはむしろ手練れ感が漂っています。
森監督であれば、震災時の恐怖心と疑心暗鬼が、ごく普通に生活していた人々を集団殺人に駆り立てた福田村事件を、もちろんドキュメンタリー作品としてつぶさに描くことができたでしょう。しかしなぜ本作をあえて「劇映画」として作らねばならなかったのか、その理由は、主演の一人である永山瑛太に、ある台詞を言わせるためだった、と言っても良いでしょう。
序盤からの比較的長い日常描写から、一転大震災によって混乱に陥る人々を、観客はいわば傍観者として居合わせることになります。そしておそらく観客のほとんどが震災時の集団殺害事件という許されない事態が起きたことも知っているわけですが、しかし混乱の渦中にある人々のやりとりを見聞きしているうちに、「良識的」と観客自らが思い込んでいた判断に、非常に危うい要素が入り込んできます。永山瑛太の台詞は、観客ですら、いつしか判断力を失ってしまっていることを、これ以上ないほど鋭い形で突きつけてきます。
題材上決して楽しい気分で鑑賞できる作品ではないのですが、震災時に何があったのかを忘れないためにも重要な作品です。
劇映画として完成度が高く、見応えのある作品であることには間違い無いのですが、登場人部の描き方、特に女性の描写(情緒的な側面を過剰なまでに強調する)は、現代の作品として適切なのだろうか、と少し引っ掛かりを感じました。
関東大震災から100年、加害者も被害者も傍観者も子孫や遺族に取り返しのつかない傷を残した狂気の沙汰。
関東大震災朝鮮人虐殺事件は、その当時にも非難の報道をした新聞が一部にあり、現在も地域によっては犠牲者の慰霊が行われたりしているようだが、永年の間“知る人のみぞ知る”事件だった。震災100年目の今年に向けて、テレビ、新聞、ネット記事などでとりあげられるようになり、少し知ることができている。
多くの朝鮮人や間違えられた中国人が犠牲になり、共産主義者もリンチにあった騒動の陰で、千葉県の福田村で起きた事件は、さらに闇の奥に封印されてきたようだ。
森達也監督初の劇映画だという。
かなり取材をされたようなので、なぜドキュメンタリーではなく劇映画にしたのか疑問に思ったのだが、それは観れば解る❗
これは、いわゆる再現ドラマではない。架空の人物で実際の事件をなぞったからこそ、犠牲となる行商集団の棟梁(永山瑛太)に「朝鮮人なら殺してもええんか!」と叫ばせることができたのだ。
この映画は、朝鮮人に間違えられた日本人が殺された…というセンセーショナルな事件を題材にしながら、朝鮮人虐殺事件そのものに照明を当てている。
当時の人たちの常識の非常識さが滑稽なほど顕になっていて、人間の本性とか行動原理とかを炙り出している。これがフィクションの効果だ。
我々観客は、その非常識な常識がどんな情報によって生成されたのか、その元凶が何だったのかを想像し、それが招いた事態に戦慄する。
千葉日日新聞社で、犯罪者は一律「不逞の鮮人」だと報じておけば良いという風潮が説明される。上司(ピエール瀧)と若い女性記者(木滝麻生)との会話だ。
木滝演じる記者は誤った報道が人心を惑わせるのだと、この事件に接してあらためて痛感する。ピエールはそんな事は知っていながら、この時代で新聞屋が生き残る道を歩んでいたのだ。
市井の人たちが「日本人は朝鮮人をいじめてきたから、朝鮮人の仕返しが怖い」といった会話をしていたりする。
折しも、日本統治下の朝鮮半島で朝鮮独立運動が活発化し、武力鎮圧によって大勢の朝鮮人が虐殺された。これを正当化するため朝鮮人は賊徒であるかのような報道がなされ、人々はそれを信じていた。
森達也監督が100年前の日本の恥部をさらけ出したのは、世界に向けてというより日本人に対して、ほんの3〜4世代前の祖先がこのような愚かで怖ろしい行いをしたことに目を背けるな…と、突きつけたかったからかもしれない。
そして、お前は何がおかしいと思うかと、問いかけられている気がする。
なぜなら、そこに絶対的な悪人は存在せず、人に疑問すら持たせなくする擦り込まれた先入観や、人から判断力を竜巻のように剥ぎ取っていく集団心理/群集心理の様子が描かれていて、元凶は画面に出てこないからだ。
本当の悪は何だったのか、この映画の中だけではなく、軍国主義日本帝国の歴史に、あるいは戦後から今現在までの日本人の中にも、どこかに本当の悪が隠れているのだと言っているのかもしれない。
井浦新演じる失意の元教師が朝鮮半島の赴任地で体験したとする事件は、朝鮮独立運動の中で起きた一つの事件にすぎない。同じような体験をした日本人は大勢いただろうが、彼のように自責の念に苛まれた者ばかりではなかっただろう。何を常識ととらえるかによって、人の判断は大きく隔たるのだから。
朝鮮側でさえ、独立運動に参加しない若者に対して主導者から暴力的な脅迫があったとも言われている。
この映画が見せる人間とは、群衆とは、そして国家とは…我々は何を見てどこに行くべきなのだろうか…。
敢えて今作られた意味を考える
関東大震災の後に朝鮮人に対する虐殺があったことは知っていたが、その裏でこんな事件が起きていたとは知らなかった。
当時の人々が大震災によるパニック状態にあったことは理解できる。平和な暮らしがよそ者に荒らされるかもしれないという恐怖が沸き起こるのも無理からぬ話である。しかし、不透明な情報に惑わされ、集団ヒステリー状態に陥っていく状況は異常としか言いようがない。差別と誤解と偏見が生んだ余りにも愚かしく、余りにも凄惨な事件である。
そして、こうも思う。もし自分が実際に福田村にいたらどうだろう…と。声の大きな誰かが「こうだ!」と叫び、それに追従する多数の人々を前にして、果たして自分は何ができるだろうか…。正直、こんなに殺気だった状況では周囲の同調圧力に抵抗できる自信はない。
劇中では、澤田が過去の贖罪のようにして暴動を鎮めようとしていた。その心中は察するに余りあるが、集団に対する一個人の声など”その程度”のものでしかないのであろう。あそこまでヒートアップしてしまったら、もう誰にも止めることはできない。それが事実なのだと思う。
これは現代のSNSにおける一斉叩きにも似ていると思った。誰が何のために情報を流布しているのか?裏ではどのような思惑が働いているのか?情報が氾濫している時代だからこそ、受け止める我々にも細心の注意、精査が必要だ。
本作は単に過去の事件を暴いて見せたというだけではない。現代に通じるメッセージを突きつけた大変意義深い作品だと思う。
監督は「「A」」、「A2」等の森達也。これまでドキュメンタリーを撮ってきたが、本作で初めて劇映画に挑戦している。
意外にと言っては失礼だが、演出は端正で大変観やすく作られていると思った。もっとドキュメンタリータッチで攻めてくるのかと思いきや、変に奇をてらうような箇所もない。
唯一、澤田が静子に過去のトラウマを告白するシーンは長回しで撮られており、従来のドキュメンタリーのような生々しさを感じられたが、そこ以外は至って正攻法な演出に徹していると思った。
他に、印象に残ったのは静子が倉蔵の船に初めて乗るシークエンスだろうか。ここは本作で最も映像的に凝ったカメラアングルになっていると感じた。
一方、開幕シーンとエピローグ・シーンについては少し面白みに欠ける気がした。映画は始まりと終わりが重要だと思う。もっと頓着しても良かったのではないだろうか。
脚本には、本作の企画も務める荒井晴彦が参加している。前半は、田舎の閉塞感、複雑に絡み合う村人たちの群像劇をじっくりと表現している。そして、クライマックスでは一転。それまでの抑制されたトーンを突き破るような瞬発力で事件に至る経緯を生々しく描写している。伏線の回収、村人たち夫々のドラマが帰結する構成が見事で、ベテラン作家の手腕に唸らされた。
また、貞次と嫁の関係には、いかにも荒井晴彦らしい”官能”が垣間見れてニヤリとしてしまった。ドラマ上ここまでの描写が必要とは思わなかったが、荒井晴彦らしい痕跡を確認できたという意味では面白く観れた。
更に、本作では「亀戸事件」についても少しだけ描かれている。朝鮮人だけでなく共産主義者も弾圧されたという歴史的事実は、意外に知ってる人も少ないのではないだろうか。また、事件の被害者となった行商人たちが被差別部落の出身者だったという事実も重要だと思う。こうしたサブドラマを盛り込んだことによって、本作は更に作品としての厚みが増しているという感じがした。
一方、一つだけ残念に思ったこともある。それは地元新聞社に勤める女性記者の描き方である。彼女の正義感丸出しなセリフが悉く説教じみて聞こえたのが残念だった。おそらく今の世のマスコミに対する批判から、こうした大上段な物言いになってしまったのだろうが、余りにもストレートで優等生すぎるため、かえって上っ面だけの言葉に聞こえてしまった。
キャスト陣は芸達者が揃っていて夫々に好演していると思った。
特に、静子を演じた田中麗奈が素晴らしい。退屈な田舎暮らし、不甲斐ない夫に対する不満を抱えながら、都会的な服に身を包み日傘をさして歩くという自らのスタイルを貫き通す所に、彼女の芯の強さがはっきりと見て取れる。本作には他にも女性キャラが複数登場してくるが最も複雑に造形されていて面白く観れた。
他に、倉蔵を演じた東出昌大、澤田を演じた井浦新、新助を演じた永山瑛太も適役である。
そして、意外だったのは、長谷川を演じた水道橋博士が中々に良かったことである。小柄な身体で虚勢を張る姿に、卑小さ、憐れさを覚えた。
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