福田村事件のレビュー・感想・評価
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おかしなところだらけです
関東大震災時の朝鮮人虐殺はよく知られていますが、間違われて日本人が殺されたというのはあまり知られてなく、それを取り上げた点は評価できます。しかし‥おかしな描写だらけでした。
村に帰ってきてにわか百姓になった井浦新。まっ白なクワを振るってました。画面を見てドッチラケです。小道具係さんが今しがた近くのホームセンターから買ってきたような。あの当時なら中古のうす汚れたクワのほうがそれっぽいでしょう。その真新しいクワがその場でボキッと折れてしまうのもヘン。
「腰を入れろ!」と言いながらお手本にクワを執る在郷軍人の水道橋博士、全然腰がはいってない。そりゃしょうがないですよ、ここは慣れた人に下半身だけ吹き替えでやってもらうべきところ。
絶対ペシャンコになっていそうな小屋が倒れてもなく、村の建物などもまったく乱れたところがない。大地震で村中ごちゃごちゃになった様子は絶対必要だった。
きわめつけは、地震直後から官憲が一般人に変装して、朝鮮人が暴動していると故意にデマを流しているというところ。関東大震災のドキュメント本によると、警察当局は電話もラジオも寸断されて情報が閉ざされた。当局としては治安が乱れるのを最大に恐れていた(そりゃ当然ですよね)。それが自分から治安を乱すようなことするはずがないでしょ。自分で自分の首を絞めるようなものですよ。実際そういうデマは確かに流れ、警察は現場を調査しデマであるとして街に平静を呼びかけたようです(横浜から東京にかけての辺り)。
この映画は、官憲は悪、民衆は善、男は悪、女は善といったステレオタイプで、この悲劇の大事な点が素通りされていると思います。大災害時の情報遮断から噂ばかりがまかりとおり、民衆が疑心暗鬼になり、冷静だった者も少しずつ狂わされていき、最終的悲劇に至る。そういう点を描いてほしかった。
事実を形容して見せられる森監督の手腕に唸る
ひざを崩す博士
その怒号は勇気か人間としての矜持か
1923年いまからちょうど100年前
関東大震災の混乱と先の大戦へと向かっていく混沌とした空気の中、行き交う情報に惑わされ生存への不安や恐怖に煽られたとき、集団心理は加速し、群集は暴走する。いまにも破裂しそうなほど大きく膨れ上がった同調圧力に、命を賭してまで立ち向かえるだろうか。試されるのはなんだろうか。黙殺される正義に違和感を覚えるが、なにが正義かわからなくなる。人は人を蔑む。部落出身者は癩病感染者を軍人は農民を農民は朝鮮人を穢多非人はハンセン病患者を政府は社会主義者を。なにかを下を見ていないと恐怖に押しつぶされるかのように。
人間としての矜持はどこにあるのか。
「鮮人やったら殺してもええんか」
その怒号は勇気か人間としての矜持か。
その叫びには心の奥底から共感し震えるほどに同調できた。なによりカッコよかった。その気持ちも、あの場面で声を上げれることも。もちろん置かれてる時代も立場も全く異なるが現代でもその気持ちは大切に持ち、強く生きたいと思えた。
コロナウイルスが広まってまもない頃の世界を思い出すと案外100年前から根本は変わらず問題は地続きのままなのかもしれない。
我々はこの罪を通して、何を望み、何を望むか
ドキュメンタリー作家・森達也初の劇映画監督。
オウム事件、ゴーストライター、新聞記者…。常に社会に切り込む力作ドキュメンタリーを手掛けてきた鬼才が題材に選んだのは、これまた一筋縄ではいかない。
マーティン・スコセッシがアメリカ近代史の大罪を暴いたのなら、森達也は日本近代史の大罪を暴く。この監督だからこそ…いや、この監督でしか描けない。
福田村事件。
以前からこの事件については詳しくはないが、漠然と知っていた。
その映画化。また、森達也初の劇映画。非常に見たかった作品。
101年前。関東大震災が発生し、日本中が混乱する中、ある噂が飛び交う。
この機に乗じて、朝鮮人があちこちに火を放っている。井戸に毒を流している。日本人を強/姦し、なぶり殺している。…
朝鮮人へ憎悪感情が高まる中、それは起きた。
千葉県旧福田村で、朝鮮人の薬売りの一行が福田村の自警団に虐殺された。15人の内、9人が犠牲に。
が、15人は朝鮮人ではなく、香川県から来た一行。れっきとした日本人であった…。
何故、こんな事が起きたのか…?
流言蜚語、集団心理、差別偏見…。それらが絡みに絡み合って。
ドキュメンタリー作家だけあって、残された資料や証言を基に徹底取材。事件自体が描かれるのは終盤だが、かなり忠実に描かれているようだ。
事件の概要はこうだ。
船渡しの賃金を巡って、船頭と行商団団長が揉め事。そこに自警団が加わり、村人も押し寄せ、場は一触即発の雰囲気に。
村長は場を収めようとする。駐在が本署へ確認しに行く。それまでヘンな気を起こしてはならぬ。が…
讃岐の方言が村人には何を言っているか分からない。やはり日本人じゃないのか…? 朝鮮人じゃないのか…?
“じゅうごえんごじゅっせん”と言ってみろ。“天皇陛下万歳!”と言ってみろ。言えなければ朝鮮人だ。何と馬鹿げた事…。
一行が持っていた朝鮮の扇子。たまたま朝鮮人の物売りから貰ったもの。やはり朝鮮人だ!
一度そう思い込んでしまったら他の意見など耳に入らない。それが多くに浸透する。
村人の中には擁護派もいる。もし、日本人だったらどうする?
日本人のくせに朝鮮人を庇うのか? この売国奴!
行商団も噛み付く。朝鮮人なら殺してもいいのか!
殺気立った異常な興奮感情が頂点に達し…
血は流された。
9人の中には幼い子供もいた。
無慈悲にも子供を殺す描写もある。虫けらでも殺すような、鬼か悪魔の所業。
9人とされているが、厳密には10人。殺された妊婦のお腹の中には間もなく産まれる新しい生命が…。
創作と思ったが、これも史実らしい。
駐在が本署の者と戻るも、時すでに遅かった。
殺された彼らも日本人だと知らされた時、大罪犯した連中は何を思っただろう。
そんな筈はない。あって欲しくない。今更何言う! だって奴らは、朝鮮人だったんだ…。
許し難くもある。愚かでもある。哀れでもある。
辛うじて生き残った6人。余りのショックに地元に戻ってからも、この事件について話す事は無かったという…。
昔の人は馬鹿だなぁ。そんなデマに踊らされて。
そう思う人も少なからずいるだろう。
否! 昔に限った事じゃない。事実、東日本大震災時もデマが飛び交った。
動物園から肉食動物が逃げ出した。物質が無くなるから買い込め。
放射能で汚染されて福島には住めなくなる。
しかも今はSNS社会。瞬く間に広がる。
デマに踊らされる愚行は昔も今も変わらない。
そこに、集団心理だ。皆が一丸にそうと思い込む。決め付ける。
それが常軌を逸した行動へ駆り立てる。
10年ほど前、震撼の村八分事件もあったではないか…。
デマや集団心理の他にも要因はあった。
抑え込まれた感情。
国からのお達しで、朝鮮人を見つけたら各々で対処せよ。
拘束とかではなく、殺せ!殺せ!殺せ!
が、戒厳令が敷かれ、武力行使が解かれる。
この殺気立った感情を何処に向ければ…?
そんな時、村に“朝鮮人”が…。
事件後、自警団の一人が言う。
お国の命令でやった。お国の為に、村を守る為に、同胞を守る為に。
そう言うほとんどが、軍国主義の元軍人たち…。
デマや集団心理、突発的な感情で事件が起こったとは考え難い。
それに至るまでが、前半じっくり描かれる。
村は異様不穏な雰囲気に包まれていた。
創作もあるかもしれないが、
朝鮮に行っていた村出身者が村に帰って来る。朝鮮被れが!
ハイカラな装いのその妻にも批判や陰口が。
戦争へ行っている男の妻が若い船頭と関係を。アバズレ!間男!
デモクラシー? 軍国思想こそ絶対。
自由思想のプロレタリア作家。異端者は罪。罰せよ。
デマや朝鮮人虐殺について取材する女性記者。女の分際で!
余所者、異端者、反思想…。それらに対する差別偏見に火が付き、燃え広がって…。
差別偏見は見る目を曇らせる。
いつもなら監督の演出やキャストの演技について語る所だが、今回は敢えて書かない。
“作品”になってしまうからだ。これをありのままの“事実”として受け止めたい。
勿論、演出やアンサンブル熱演は非の打ち所が無い。
井浦新演じる朝鮮帰りの男。朝鮮で日本軍人による朝鮮人虐殺を目の当たり。ここでもそれに直面する。その時、何が出来るか…?
デマや虐殺の真実を書こうとする女性記者を、編集長は待ったを掛ける。権力に下る。記者が書かずしてどうするんですか…!?
事件後、村長が言う。書かないでくれ。俺たちはずっとこの村で生きていかなければならねぇんだ。
それでも記者は、書きます。
罪滅ぼしの為に。殺された朝鮮人、無念の犠牲者たちの為に。決して、忘れてはならない為に。
事件はその後、闇に葬られたという。
遺体は利根川に流され、加害者は逮捕されたものの、大正天皇崩御と昭和天皇即位の恩赦ですぐに釈放されたという。
この報われない気持ち…。不条理極まりない気持ち…。
半世紀経った1970年代~1980年代になって、やっと事件が認知され始めたという。
被害者を悼む会、慰霊碑なども2000年代になってから。
日本近代史上に残る凄惨な事件として今は記録が明かされ、こうして映画にもなったが、それでもまだまだ知らない人は多いだろう。
忘れてはならない。知らないままでは済まされない。いつ何処でもまた起こり得る。
我々はこの“罪”を通して、何を望み、何を望むか。
背景にある不安と群衆心理の怖さ
大きな災害が起こった時には、きまってデマの問題がクローズアップされます。
もちろん、中には「話題で関心を惹きたい」という、いわば愉快犯という確信犯もいないわけではないでしょうけれども。
しかし、多くは、背後に(被災してしまったことの)漠然とした不安があることは、間違いのないことと思います。
「災害時にデマが広まりやすい背景として、社会全体が不安に包まれていることが挙げられる」(2024年1月6日閲覧:東洋経済オンライン)という指摘もあり、「デマとの闘いにおいて、まず重要なのは自己省察である。つまり、私たちは容易にデマにだまされる可能性があることを自覚し、情報に対して謙虚な姿勢を保つべき、ということだ」(前同)という論者の指摘に、評論子も無条件に賛同するものです。
実際、その竿頭に立ったときに、同調圧力が決して弱い社会とは言えない中で、どれほどの「自己省察」ができ、「謙虚な姿勢」がとれるかどうかは、評論子自身もはなはだ心許ないところではありますけれども。
しかし、そういう知識や平素の心がけがあるか、ないかでも、また結果は違ってくるのではないかと思ったりもしています。
本作は、そういう実相を余すところなく描いた一本として、佳作の評価が適切と思います。
(追記)
生成AIの普及は、個人が容易に偽画像や偽動画を作成できる環境を生み出し 、ディープフェイクの大衆化が起こった。これは、偽情報や誤情報の爆発的な増加を意味し、「Withフェイク2.0」とも称される新たな局面に突入しているとも指摘されています。(前掲の東洋経済オンラインの論者)
そういう現実を前にして、人は本作によって浮き彫りにされるような無意識の深層心理から自由でないことを、改めて、常日頃から意識しておく必要を、本作は訴えかけているようにも思います。
評論子は。
(追記)
とくに、本作の場合には、この件に特有の背景があり、その背景が事件の直接の「引き金」になっているように思えてならないのです。評論子には。
それは、当時の在邦朝鮮人の方々は、社会の下層労働力として、平素も、日本人にいじめられ、酷使されていたことには、疑いがなかろうと思います。
(後の戦時中などは、略々(ほぼほぼ)強制的に日本に連れて来られた方々ということで、畑で日常の野良仕事をしているところを、無理やり軍のトラックに乗せて連れてきたりもしたらしい)。
だからこそ、大震災などの世情不安に乗じて、ここぞとばかりにそれらの朝鮮人たちが暴動を起こすのではないかと危惧した。否、むしろその現実化を確信してしまったという背景です。
ふだん、彼・彼女らを虐(しいた)げていることは、日本人自身も、明に暗に、認識はしてはいたことでしょうから。
その意味ではとても、とても切ない事件ですが、その反省の意味でも、そのことはしっかりと受け止めなければならないことだと思います。評論子は。
(追記)
本作を観終わって、公安条例でデモ行進を規整することの合憲性を論じた判例の一節が脳裏に浮かびました。
デモ行進は「動く集会」ともいわれ、もちろん表現の自由(憲法21条)の保障下にあることは、間違いのないことなのですけれども。
ある場合には、それを規整する(あえて「規制」とは書きません=届出制として、警察当局が必要な警備体制を敷くことを可能とする)ことは、やむを得ないのかも知れません。
この判決を下したときに、最高裁の裁判官たちの脳裏には、きっと本作のようなケースが思い浮かんでいたことは間違いのないことと思います。
「およそ集団行動は、学生、生徒等の遠足、修学旅行等および、冠婚葬祭等の行事を除いては、通常一般大衆に訴えんとする、政治、経済、労働、世界観等に関する何等かの思想、主張、感情等の表現を内包するものである。この点において集団行動には、表現の自由として憲法によって保障さるべき要素が存在することはもちろんである。ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとは異なって、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によって支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺激、せん動等によってきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であっても、時に昴奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によって法と秩序を蹂躙し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである」(最高裁判所昭和35年7月20日判決)とし、「本来平穏に、秩序を重んじてなさるべき純粋なる表現の自由の行使の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、暴力に発展する危険性のある物理的力を内包している」(前同)と心配したのは、まさに本作のような事態であったことは、疑いのないところだと思うからです。
理念で映画を作ってはいけないのではないか?
(ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
私的にも、この映画で描かれた、関東大震災での日本人による朝鮮人虐殺はあり得ない言語道断だと深く思われています。
また、極右思想の持ち主である(と私的感じられる)差別意識に満ちた一部自民党議員の全く反省の無い差別主張やその同調者に、個人的にも知性が底を抜けていると呆れ果てています。
個人的には今さら言うまでもない、民族差別など言語道断であることを前提にして、しかしこの映画『福田村事件』は、一方で同根の問題を抱えていて評価できないと思われました。
その理由は、(一人一人の人間でなく)相手をカテゴライズ(民族ごと、あるいは一部の集団ごと)でまとめて描く傾向を、この映画に感じてしまったところにあると思われています。
この映画『福田村事件』は、関東大震災時の流言(デマ)によって日本にいた朝鮮人の人々が大虐殺される事件の派生から、被差別部落民だった沼部新助(永山瑛太さん)が率いる香川県の薬売り行商人の日本人が、千葉県の福田村で朝鮮人と疑われて虐殺された実際の事件が題材になっています。
そして、他の関東大震災での朝鮮人虐殺事件も含めたこの事件は、流言(デマ)の集団意識によって、普通の人々が差別者と豹変し集団殺人に加担してしまうところに、恐ろしさの本質があったと思われます。
ところが、この映画の福田村の朝鮮人差別による集団殺人の集団意識を煽った人物(あるいはその考え)は、かなり偏った人物達(の考え)だと映画の初めから終わりまで描かれてしまっていました。
例えば、井草貞次(柄本明さん)はかつては日本軍での自身の敵殺害を自慢していた人物でしたが、実際は軍馬係で戦闘に参加しておらず単に部隊の戦闘に参加した人から聞いた話をしていただけで、さらに貞次の息子の井草茂次(松浦祐也さん)が戦争に行っている時に、息子の嫁の井草マス(向里祐香さん)を寝取って子供を作ったことが疑われています。
井草貞次を通して、戦地で相手の殺害を自慢しているような人物は、これほど元からひどい人物だったと描かれているのです。
また、長谷川秀吉(水道橋博士さん)は、常に軍服を着てかなり狂人的な振る舞いをしていて、最後には沼部新助たち薬売り行商人を朝鮮人だと決めつけ煽り集団殺害を率先する人物として、極端に描かれています。
つまり、福田村の朝鮮人差別による集団殺人は、このような鼻から極端に偏った人物によって率いられ発生したのだ、と描かれていたのです。
もちろん例えば、常に軍服を着て(私には狂人に思えた)極端な言動をしていた長谷川秀吉を、演じた水道橋博士さんは熱演だったとは私も思われました。
しかし一方で、水道橋博士さんはれいわ新選組の参議院議員だったことからも分かるように、元々は長谷川秀吉とは真逆の考えの人だと思われます。
その水道橋博士さんが長谷川秀吉を演じる時に、(自身が嫌っている極右のカテゴライズされたステレオタイプの人物描写でなく)しっかりと多面的な1人の人間として演じられていたのかは、正直言うと鑑賞中、甚だ疑問でした。
千葉日日新聞社の記者の恩田楓(木竜麻生さん)は、「悪い朝鮮人もいれば、良い朝鮮人もいる。悪い日本人もいれば良い日本人もいる。」との話をしています。そしてこのことは正しい面があると思われます。
しかし本当は、
<人間には悪い面もあれば良い面もある。そのどちらかを肥大化させて民族などの塊で良いも悪いも差別的に判断してはいけないのだ>
が人間理解の本質だと思われています。
関東大震災時での流言(デマ)による日本人による朝鮮人大虐殺は、良い面も悪い面も併せ持つ普通の人々(人間)が、流言(デマ)によって民族などのカテゴライズ認識を肥大化させ、相手を集団や塊で見て差別断罪するところに問題の本質があると思われます。
しかしこの映画『福田村事件』では、井草貞次や長谷川秀吉などに象徴させた偏った差別主義者やその考えを持った(普通でない)人達が、朝鮮人大虐殺を起こさせたのだ、との描き方におおよそなっています。
そして、彼らは偏った差別主義者であるとして、集団や塊で見て断罪する内容に根底ではなっていると思われました。
つまり、朝鮮人大虐殺で起こったカテゴライズ民族差別とコインの裏表である、井草貞次や長谷川秀吉などの描き方だったと思われるのです。
朝鮮人の人々は、残念ながらこの映画では具体的な多面性ある人物としては登場しませんでした。
同様に、井草貞次や長谷川秀吉らの人物も、良い面も悪い面も併せ持つ普通の人々(つまり人間)として描かれていたとは思えませんでした。
朝鮮人にしろ日本人にしろ、右派的考えの人物にしろ左派的考えの人物にしろ、1人1人を(カテゴライズの塊でなく)名前をそれぞれ持った人物、つまり良い面も悪い面も併せ持った多面的な人間として、描くのが映画の役割とも思われています。
しかしこの作品は残念ながら、そんな映画での表現において真逆の描き方、(多面的な人間でなく)カテゴライズ極端な塊表現になってしまっている、と私には残念ながら思われてしまいました。
映画『福田村事件』は、(おかしな極端な人物達が極端な差別殺人を犯したとの、コイン裏表の、カテゴライズ差別の描き方でない)全く私達と同じような多面的な普通の人々が、時にこのように極端化しひどいことを犯してしまう描き方である必要があったと思われました。
理念断罪先行で、多面的な1人1人の人間の描かれ方になっていなかったことに、私的には残念に思われ、今回の採点となりました。
(ただ、俳優の皆さんの演技はさすがと思われる場面も多く、個人的には、澤田静子を演じた田中麗奈さんと田中倉蔵を演じた東出昌大さんが特に印象に残りました。)
読み方が違うだけ
冒頭から軍国主義や田舎独特の空気感を感じつつ、生臭い人間模様が群像劇のように描かれていて笑うに笑えない、その中の人の愚かさとか滑稽さとか、そういうものを感じながら見ていた。
行商一行のストーリーが差別を受けながらもみんなで仲良く、逞しく生きていく様子を楽しく描いていて、映画全体にポジティブな風味を効かせていた。
お腹の中にいる「望」が彼らの希望として育っていた。
ここからのギャップがこの事件の悲惨さを大いに引き立てている。
漢字は同じ、読み方が違うだけ。
人間もこれ。どんな人種でもみんな同じ人間。文化や言葉が違うだけ。良い人もいれば悪い人もいる。
法治国家って、もろい
例えば、悪いやつが自分の村に来た場合、とっつかまえて、警察につき出す。そして、国がさばく。大正期でも日本は法治国家。なぜ、自警団が殺してもいいって事になるのか。
内務省が各地方長官などに、「朝鮮人は各地に放火」と打電(「爆弾を所持」という内容も書かれていたそう)した事実が描かれていた。
恐怖にかられ「村を守らねば」と考えたとしても、相手が武器をもたない少数者だったら、多人数で拘束できるでしょう。ましてや朝鮮人というだけで、みんなまとめて殺してしまえ、っていうのはどういう理屈。
そもそも、併合によって日本になった地域の住人、それって法的には日本人という事でしょう。15円50銭の発音が違う相手なら、倫理のストッパーを簡単に解除できるって、いろいろムリだらけ。
この映画を見て、そんな事に気付かされた。
「時代が人々をして、そうさせた」「現代の価値観で過去を裁くのは、いかがなものか」などと聞こえてきそうだけれど、映画の中で読み上げられた水平社宣言の一部分を聞けば、理想をかかげる心の純粋さに、時代など関係ないと思う。流されることなく、青臭い理想を謳いあげた言葉が、こんなにも美しいと感じられたことに驚いた。
わたしたちは個人なら倫理を求める一人一人だとしても、集団を守るための倫理は違う理屈で組み立ててしまう。オキシトシンが排他の心をあおり、アドレナリンが群集心理を高揚させ、行くところまで行ってしまう。そしてそれは、今、世界のそこかしこで行われている。自分の足元を見つめ直さねば、と思う。
劇映画は嘘をつかない
うーむ。。
こういう企画が通ったこと自体は朗報だし、単なる歴史のお話じゃなく、今だからこそ公開する意味があるってのもわかるんだけど、正直微妙。
まずキャスティングがありえないほど豪華。手頃な作品なら主役を張れるような面々がゴロゴロ。
ただ、当時としては教養があってリベラルな(現代の観客が感情移入できる)人はみんな現実ばなれした美男美女ばかり。
一方、近視眼的、短絡的な「普通の日本人」はリアルな日本人スタイル。宮崎アニメばりのルッキズム。モテまくりの東出くんはともかく、逆の方が効果的だと思うんだけどなぁ。。
本業の俳優じゃないコムアイは思いのほかよかったし、水道橋博士の熱演もよかったんだけど、あのキャラであんまり怖く感じられなかったのが残念。
実話とはいえ、あくまで劇映画として成立させるためには、得体の知れない空気に侵食されていく過程とか、ひょっとしたら自分も加担してしまうかも、というジワジワくる恐ろしさをもっと体感させないと意味ないのでは。
森達也の初監督作で、変なところはなかったけど、企画の荒井晴彦の意向に引っ張られたのか?ドキュメンタリー作品の方が緊張感あった。次に何が起こるか、この人が何を考えてるのか、ほぼ見たまんまで予想通りだもの。
そういう意味で脚本に難あり。
あんな男女のドロドロ、あそこまでボリュームなくても成り立つわけだし、それはそれで別の企画にできるはず。。柄本明のナゾの役得とか、中高年男性の願望強すぎない?
それより「福田村」の観客としては、事件に至る流れの描写に労力と呎を割いてほしかった。
音楽で惨劇を盛り上げようとするのも、いまいち上手くいってない印象。
せっかく国際的にも通用し得る企画なのに、肝心の部分が説教ってのは実にもったいない。お説ごもっともなんだけど、それ観客が脳内で思うやつだよね?
あと、どうせやるんならコムアイと東出くんのその後を見せてほしかった。てっきり2人が村を出るとこで終わるのかと思ったわ。
集団ヒステリーに矮小化。
観てから時間がたって、どうもすっきりしない。ある日、散歩をしていて気が付いた。虐殺のきっかけになる最初のひと振りをするのが、旦那が東京に行って朝鮮人反乱のうわさを聞いて、憔悴した主婦。それも、エキストラに毛の生えたような新人と思われる役者。シベリア出兵、三一事件等、徴兵で大陸に連れていかれて、女子供まで、殺戮してきた徴兵されたことのある男たちが中心となって殺戮が始まらなくてはいけなかったと思う。大陸で経験したことを画にしないでも、その元兵隊の話があればいいだろう。そこに、優れた俳優をつかえば、よかったのでは? 嫁とまぐわる爺さんとか、リベラル気取りの夫婦やら、舟の上のセックスやら、亀戸事件やら、散漫すぎるし、説明セリフオンパレードで2時間ドラマなみで残念。名のある俳優はいいが、新人俳優のセリフ芝居の間のなさ、しらける。千葉県も大震災の影響はあったのです、家々の瓦のきれいなこと。演出の不在、シナリオのていたらく。
本当の朝鮮人虐殺を描いた映画を望む。
無駄に女優を脱がせんな
差別を描く社会派ムービーじゃねえのか
なんで無駄に女優を脱がせて大御所俳優の顔に押し当てさせてんだよ
無駄な濡れ場もあります
ストーリー的に自然な流れで必要性を感じるならまだしも、「…は?」となるような極めて唐突で理解不能な場面での濡れ場
監督の性癖と男俳優への忖度しか感じねえ
てか、社会派ドラマを描く上で必要ねぇだろ
気持ち悪い
こういう男は女性への差別意識に全く自覚が無いのだろう
他者の尊厳を無視することが差別なら、この監督がやったことも女優に対する立派な差別だ
映画のため、というプロの役者に対して最も権威を振り翳す脅し文句があったなら、さらに悪質極まりない
映画自体は、福田村事件について学ぶきっかけになると思います
部落差別が100年の時を経て薄まったように、女性への差別もいつか無くなってほしい
肉体的、生理的なハンデを無視して同じ負荷の労働を強いるような男性的平等ではなく、きちんと区別を持った人間的平等がいつかなされますように
恐いのは、鮮人ではなく煽人
評価が高かったものの観そこねていたため、再上映で鑑賞。
残念ながら、映画作品としては刺さらず。
137分とやや長尺ながら、その大半に必要性を感じなかった。
静子が鮮人と疑われたり、倉蔵が間男故に信用されないなどは蛮行を止められなかったことに活きていた。
だが、口火を切ったトミを動かしたのは、台詞で触れただけの虐殺の流言である。
悲劇を描くには、“人”と“暮らし”を描いて実在感を与えなくてはならないのは分かる。
しかし、執拗な寝取り寝取られだの、貞次の隠し事だの、あんなに尺を使って描くようなものだろうか。
智一のトラウマ含め、すべて事実なのであればまだマシだが、もしそうでなければ過剰演出。
脚色しすぎては『史実』の重みが薄れるだけだ。
だったら時代背景の深堀りや、あるいは長谷川や村長の思想を見せるべきでは。
流言飛語の恐さ、偏見や差別の愚かさ、報道の意義など普遍的なテーマは理解する。
事件自体も非常に悲惨なものだったと思う。
ドラマ的にせず、焦点を絞って、虐殺の描写はもっとエグくしなければ題材にした意味がない。
個人的には事件の混乱も「バカだなぁ」としか思わないが、そう思える自分に安心する。
新助が訴えたように、“朝鮮人かどうか”を論じている時点でズレているのだ。
真実にどこまで迫ってるのか疑問?未曾有の災害と1世紀前の凄惨な出来事の関連性が今ひとつ伝わって来ない
真実にどこまで迫ってるのか疑問だ、実際に起こった凄惨な事件はこんなに軽いものでは無いかと思う。
約1世紀前に起こった凄惨な出来事、あまり語られて来なかった悲惨な歴史を紐解いた作品という事で当時どんな経緯で民衆が狂気の沙汰を行ったのか、その深層を知りたかった。
しかし、映画の中で表現された関東大震災からは民衆が狂気に走るほどの緊迫感は感じられず、なぜ人々が部落出身の者を襲うに至ったか伝わって来なかった。
日本統治時代の朝鮮では独立運動が勃興しており、本事件の4年前の1919年(大正8年)に起きた三・一運動では、デモが朝鮮全土に広がり朝鮮人は日本の言うことを聞かない「不逞の輩」として扱われていた事や部落民への差別などの背景があまり描かれていない、また行商人一行の方言と福田村の訛りの違いから朝鮮人と決めつけるに至った言葉使いなども考証に則しているのか不明瞭でこの作品がどこまで真実の事件に迫った内容なのかもわからない。
実際殺害を行う演技も迫真とは言えず全体的に芝居がかった演技な印象。朝鮮人と間違えて殺害を行ってしまった福田村住民への情状酌量感、その実は関東大震災の流言飛語で実際に殺害された朝鮮人・中国人・社会主義者などが大勢いたという事実はラストに流れる文章のみで、被差別部落民への根深い偏見なども合わせ当時の狂気の状況とは程遠いのでは無いかと思わざるを得ない作品かと思った。
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