福田村事件のレビュー・感想・評価
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背景にある不安と群衆心理の怖さ
大きな災害が起こった時には、きまってデマの問題がクローズアップされます。
もちろん、中には「話題で関心を惹きたい」という、いわば愉快犯という確信犯もいないわけではないでしょうけれども。
しかし、多くは、背後に(被災してしまったことの)漠然とした不安があることは、間違いのないことと思います。
「災害時にデマが広まりやすい背景として、社会全体が不安に包まれていることが挙げられる」(2024年1月6日閲覧:東洋経済オンライン)という指摘もあり、「デマとの闘いにおいて、まず重要なのは自己省察である。つまり、私たちは容易にデマにだまされる可能性があることを自覚し、情報に対して謙虚な姿勢を保つべき、ということだ」(前同)という論者の指摘に、評論子も無条件に賛同するものです。
実際、その竿頭に立ったときに、同調圧力が決して弱い社会とは言えない中で、どれほどの「自己省察」ができ、「謙虚な姿勢」がとれるかどうかは、評論子自身もはなはだ心許ないところではありますけれども。
しかし、そういう知識や平素の心がけがあるか、ないかでも、また結果は違ってくるのではないかと思ったりもしています。
本作は、そういう実相を余すところなく描いた一本として、佳作の評価が適切と思います。
(追記)
生成AIの普及は、個人が容易に偽画像や偽動画を作成できる環境を生み出し 、ディープフェイクの大衆化が起こった。これは、偽情報や誤情報の爆発的な増加を意味し、「Withフェイク2.0」とも称される新たな局面に突入しているとも指摘されています。(前掲の東洋経済オンラインの論者)
そういう現実を前にして、人は本作によって浮き彫りにされるような無意識の深層心理から自由でないことを、改めて、常日頃から意識しておく必要を、本作は訴えかけているようにも思います。
評論子は。
(追記)
とくに、本作の場合には、この件に特有の背景があり、その背景が事件の直接の「引き金」になっているように思えてならないのです。評論子には。
それは、当時の在邦朝鮮人の方々は、社会の下層労働力として、平素も、日本人にいじめられ、酷使されていたことには、疑いがなかろうと思います。
(後の戦時中などは、略々(ほぼほぼ)強制的に日本に連れて来られた方々ということで、畑で日常の野良仕事をしているところを、無理やり軍のトラックに乗せて連れてきたりもしたらしい)。
だからこそ、大震災などの世情不安に乗じて、ここぞとばかりにそれらの朝鮮人たちが暴動を起こすのではないかと危惧した。否、むしろその現実化を確信してしまったという背景です。
ふだん、彼・彼女らを虐(しいた)げていることは、日本人自身も、明に暗に、認識はしてはいたことでしょうから。
その意味ではとても、とても切ない事件ですが、その反省の意味でも、そのことはしっかりと受け止めなければならないことだと思います。評論子は。
(追記)
本作を観終わって、公安条例でデモ行進を規整することの合憲性を論じた判例の一節が脳裏に浮かびました。
デモ行進は「動く集会」ともいわれ、もちろん表現の自由(憲法21条)の保障下にあることは、間違いのないことなのですけれども。
ある場合には、それを規整する(あえて「規制」とは書きません=届出制として、警察当局が必要な警備体制を敷くことを可能とする)ことは、やむを得ないのかも知れません。
この判決を下したときに、最高裁の裁判官たちの脳裏には、きっと本作のようなケースが思い浮かんでいたことは間違いのないことと思います。
「およそ集団行動は、学生、生徒等の遠足、修学旅行等および、冠婚葬祭等の行事を除いては、通常一般大衆に訴えんとする、政治、経済、労働、世界観等に関する何等かの思想、主張、感情等の表現を内包するものである。この点において集団行動には、表現の自由として憲法によって保障さるべき要素が存在することはもちろんである。ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとは異なって、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によって支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺激、せん動等によってきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であっても、時に昴奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によって法と秩序を蹂躙し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである」(最高裁判所昭和35年7月20日判決)とし、「本来平穏に、秩序を重んじてなさるべき純粋なる表現の自由の行使の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、暴力に発展する危険性のある物理的力を内包している」(前同)と心配したのは、まさに本作のような事態であったことは、疑いのないところだと思うからです。
理念で映画を作ってはいけないのではないか?
(ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
私的にも、この映画で描かれた、関東大震災での日本人による朝鮮人虐殺はあり得ない言語道断だと深く思われています。
また、極右思想の持ち主である(と私的感じられる)差別意識に満ちた一部自民党議員の全く反省の無い差別主張やその同調者に、個人的にも知性が底を抜けていると呆れ果てています。
個人的には今さら言うまでもない、民族差別など言語道断であることを前提にして、しかしこの映画『福田村事件』は、一方で同根の問題を抱えていて評価できないと思われました。
その理由は、(一人一人の人間でなく)相手をカテゴライズ(民族ごと、あるいは一部の集団ごと)でまとめて描く傾向を、この映画に感じてしまったところにあると思われています。
この映画『福田村事件』は、関東大震災時の流言(デマ)によって日本にいた朝鮮人の人々が大虐殺される事件の派生から、被差別部落民だった沼部新助(永山瑛太さん)が率いる香川県の薬売り行商人の日本人が、千葉県の福田村で朝鮮人と疑われて虐殺された実際の事件が題材になっています。
そして、他の関東大震災での朝鮮人虐殺事件も含めたこの事件は、流言(デマ)の集団意識によって、普通の人々が差別者と豹変し集団殺人に加担してしまうところに、恐ろしさの本質があったと思われます。
ところが、この映画の福田村の朝鮮人差別による集団殺人の集団意識を煽った人物(あるいはその考え)は、かなり偏った人物達(の考え)だと映画の初めから終わりまで描かれてしまっていました。
例えば、井草貞次(柄本明さん)はかつては日本軍での自身の敵殺害を自慢していた人物でしたが、実際は軍馬係で戦闘に参加しておらず単に部隊の戦闘に参加した人から聞いた話をしていただけで、さらに貞次の息子の井草茂次(松浦祐也さん)が戦争に行っている時に、息子の嫁の井草マス(向里祐香さん)を寝取って子供を作ったことが疑われています。
井草貞次を通して、戦地で相手の殺害を自慢しているような人物は、これほど元からひどい人物だったと描かれているのです。
また、長谷川秀吉(水道橋博士さん)は、常に軍服を着てかなり狂人的な振る舞いをしていて、最後には沼部新助たち薬売り行商人を朝鮮人だと決めつけ煽り集団殺害を率先する人物として、極端に描かれています。
つまり、福田村の朝鮮人差別による集団殺人は、このような鼻から極端に偏った人物によって率いられ発生したのだ、と描かれていたのです。
もちろん例えば、常に軍服を着て(私には狂人に思えた)極端な言動をしていた長谷川秀吉を、演じた水道橋博士さんは熱演だったとは私も思われました。
しかし一方で、水道橋博士さんはれいわ新選組の参議院議員だったことからも分かるように、元々は長谷川秀吉とは真逆の考えの人だと思われます。
その水道橋博士さんが長谷川秀吉を演じる時に、(自身が嫌っている極右のカテゴライズされたステレオタイプの人物描写でなく)しっかりと多面的な1人の人間として演じられていたのかは、正直言うと鑑賞中、甚だ疑問でした。
千葉日日新聞社の記者の恩田楓(木竜麻生さん)は、「悪い朝鮮人もいれば、良い朝鮮人もいる。悪い日本人もいれば良い日本人もいる。」との話をしています。そしてこのことは正しい面があると思われます。
しかし本当は、
<人間には悪い面もあれば良い面もある。そのどちらかを肥大化させて民族などの塊で良いも悪いも差別的に判断してはいけないのだ>
が人間理解の本質だと思われています。
関東大震災時での流言(デマ)による日本人による朝鮮人大虐殺は、良い面も悪い面も併せ持つ普通の人々(人間)が、流言(デマ)によって民族などのカテゴライズ認識を肥大化させ、相手を集団や塊で見て差別断罪するところに問題の本質があると思われます。
しかしこの映画『福田村事件』では、井草貞次や長谷川秀吉などに象徴させた偏った差別主義者やその考えを持った(普通でない)人達が、朝鮮人大虐殺を起こさせたのだ、との描き方におおよそなっています。
そして、彼らは偏った差別主義者であるとして、集団や塊で見て断罪する内容に根底ではなっていると思われました。
つまり、朝鮮人大虐殺で起こったカテゴライズ民族差別とコインの裏表である、井草貞次や長谷川秀吉などの描き方だったと思われるのです。
朝鮮人の人々は、残念ながらこの映画では具体的な多面性ある人物としては登場しませんでした。
同様に、井草貞次や長谷川秀吉らの人物も、良い面も悪い面も併せ持つ普通の人々(つまり人間)として描かれていたとは思えませんでした。
朝鮮人にしろ日本人にしろ、右派的考えの人物にしろ左派的考えの人物にしろ、1人1人を(カテゴライズの塊でなく)名前をそれぞれ持った人物、つまり良い面も悪い面も併せ持った多面的な人間として、描くのが映画の役割とも思われています。
しかしこの作品は残念ながら、そんな映画での表現において真逆の描き方、(多面的な人間でなく)カテゴライズ極端な塊表現になってしまっている、と私には残念ながら思われてしまいました。
映画『福田村事件』は、(おかしな極端な人物達が極端な差別殺人を犯したとの、コイン裏表の、カテゴライズ差別の描き方でない)全く私達と同じような多面的な普通の人々が、時にこのように極端化しひどいことを犯してしまう描き方である必要があったと思われました。
理念断罪先行で、多面的な1人1人の人間の描かれ方になっていなかったことに、私的には残念に思われ、今回の採点となりました。
(ただ、俳優の皆さんの演技はさすがと思われる場面も多く、個人的には、澤田静子を演じた田中麗奈さんと田中倉蔵を演じた東出昌大さんが特に印象に残りました。)
読み方が違うだけ
冒頭から軍国主義や田舎独特の空気感を感じつつ、生臭い人間模様が群像劇のように描かれていて笑うに笑えない、その中の人の愚かさとか滑稽さとか、そういうものを感じながら見ていた。
行商一行のストーリーが差別を受けながらもみんなで仲良く、逞しく生きていく様子を楽しく描いていて、映画全体にポジティブな風味を効かせていた。
お腹の中にいる「望」が彼らの希望として育っていた。
ここからのギャップがこの事件の悲惨さを大いに引き立てている。
漢字は同じ、読み方が違うだけ。
人間もこれ。どんな人種でもみんな同じ人間。文化や言葉が違うだけ。良い人もいれば悪い人もいる。
法治国家って、もろい
例えば、悪いやつが自分の村に来た場合、とっつかまえて、警察につき出す。そして、国がさばく。大正期でも日本は法治国家。なぜ、自警団が殺してもいいって事になるのか。
内務省が各地方長官などに、「朝鮮人は各地に放火」と打電(「爆弾を所持」という内容も書かれていたそう)した事実が描かれていた。
恐怖にかられ「村を守らねば」と考えたとしても、相手が武器をもたない少数者だったら、多人数で拘束できるでしょう。ましてや朝鮮人というだけで、みんなまとめて殺してしまえ、っていうのはどういう理屈。
そもそも、併合によって日本になった地域の住人、それって法的には日本人という事でしょう。15円50銭の発音が違う相手なら、倫理のストッパーを簡単に解除できるって、いろいろムリだらけ。
この映画を見て、そんな事に気付かされた。
「時代が人々をして、そうさせた」「現代の価値観で過去を裁くのは、いかがなものか」などと聞こえてきそうだけれど、映画の中で読み上げられた水平社宣言の一部分を聞けば、理想をかかげる心の純粋さに、時代など関係ないと思う。流されることなく、青臭い理想を謳いあげた言葉が、こんなにも美しいと感じられたことに驚いた。
わたしたちは個人なら倫理を求める一人一人だとしても、集団を守るための倫理は違う理屈で組み立ててしまう。オキシトシンが排他の心をあおり、アドレナリンが群集心理を高揚させ、行くところまで行ってしまう。そしてそれは、今、世界のそこかしこで行われている。自分の足元を見つめ直さねば、と思う。
森監督へ最大の敬意を
この題材を取り上げるだけでも評価するべきだと思います。ましてやこの素晴らしい出来上がりに感動しました。人間の愚かさ、こんなにも無力ってことに悲しくてしかたがなかったです。
劇映画は嘘をつかない
うーむ。。
こういう企画が通ったこと自体は朗報だし、単なる歴史のお話じゃなく、今だからこそ公開する意味があるってのもわかるんだけど、正直微妙。
まずキャスティングがありえないほど豪華。手頃な作品なら主役を張れるような面々がゴロゴロ。
ただ、当時としては教養があってリベラルな(現代の観客が感情移入できる)人はみんな現実ばなれした美男美女ばかり。
一方、近視眼的、短絡的な「普通の日本人」はリアルな日本人スタイル。宮崎アニメばりのルッキズム。モテまくりの東出くんはともかく、逆の方が効果的だと思うんだけどなぁ。。
本業の俳優じゃないコムアイは思いのほかよかったし、水道橋博士の熱演もよかったんだけど、あのキャラであんまり怖く感じられなかったのが残念。
実話とはいえ、あくまで劇映画として成立させるためには、得体の知れない空気に侵食されていく過程とか、ひょっとしたら自分も加担してしまうかも、というジワジワくる恐ろしさをもっと体感させないと意味ないのでは。
森達也の初監督作で、変なところはなかったけど、企画の荒井晴彦の意向に引っ張られたのか?ドキュメンタリー作品の方が緊張感あった。次に何が起こるか、この人が何を考えてるのか、ほぼ見たまんまで予想通りだもの。
そういう意味で脚本に難あり。
あんな男女のドロドロ、あそこまでボリュームなくても成り立つわけだし、それはそれで別の企画にできるはず。。柄本明のナゾの役得とか、中高年男性の願望強すぎない?
それより「福田村」の観客としては、事件に至る流れの描写に労力と呎を割いてほしかった。
音楽で惨劇を盛り上げようとするのも、いまいち上手くいってない印象。
せっかく国際的にも通用し得る企画なのに、肝心の部分が説教ってのは実にもったいない。お説ごもっともなんだけど、それ観客が脳内で思うやつだよね?
あと、どうせやるんならコムアイと東出くんのその後を見せてほしかった。てっきり2人が村を出るとこで終わるのかと思ったわ。
集団ヒステリーに矮小化。
観てから時間がたって、どうもすっきりしない。ある日、散歩をしていて気が付いた。虐殺のきっかけになる最初のひと振りをするのが、旦那が東京に行って朝鮮人反乱のうわさを聞いて、憔悴した主婦。それも、エキストラに毛の生えたような新人と思われる役者。シベリア出兵、三一事件等、徴兵で大陸に連れていかれて、女子供まで、殺戮してきた徴兵されたことのある男たちが中心となって殺戮が始まらなくてはいけなかったと思う。大陸で経験したことを画にしないでも、その元兵隊の話があればいいだろう。そこに、優れた俳優をつかえば、よかったのでは? 嫁とまぐわる爺さんとか、リベラル気取りの夫婦やら、舟の上のセックスやら、亀戸事件やら、散漫すぎるし、説明セリフオンパレードで2時間ドラマなみで残念。名のある俳優はいいが、新人俳優のセリフ芝居の間のなさ、しらける。千葉県も大震災の影響はあったのです、家々の瓦のきれいなこと。演出の不在、シナリオのていたらく。
本当の朝鮮人虐殺を描いた映画を望む。
無駄に女優を脱がせんな
差別を描く社会派ムービーじゃねえのか
なんで無駄に女優を脱がせて大御所俳優の顔に押し当てさせてんだよ
無駄な濡れ場もあります
ストーリー的に自然な流れで必要性を感じるならまだしも、「…は?」となるような極めて唐突で理解不能な場面での濡れ場
監督の性癖と男俳優への忖度しか感じねえ
てか、社会派ドラマを描く上で必要ねぇだろ
気持ち悪い
こういう男は女性への差別意識に全く自覚が無いのだろう
他者の尊厳を無視することが差別なら、この監督がやったことも女優に対する立派な差別だ
映画のため、というプロの役者に対して最も権威を振り翳す脅し文句があったなら、さらに悪質極まりない
映画自体は、福田村事件について学ぶきっかけになると思います
部落差別が100年の時を経て薄まったように、女性への差別もいつか無くなってほしい
肉体的、生理的なハンデを無視して同じ負荷の労働を強いるような男性的平等ではなく、きちんと区別を持った人間的平等がいつかなされますように
恐いのは、鮮人ではなく煽人
評価が高かったものの観そこねていたため、再上映で鑑賞。
残念ながら、映画作品としては刺さらず。
137分とやや長尺ながら、その大半に必要性を感じなかった。
静子が鮮人と疑われたり、倉蔵が間男故に信用されないなどは蛮行を止められなかったことに活きていた。
だが、口火を切ったトミを動かしたのは、台詞で触れただけの虐殺の流言である。
悲劇を描くには、“人”と“暮らし”を描いて実在感を与えなくてはならないのは分かる。
しかし、執拗な寝取り寝取られだの、貞次の隠し事だの、あんなに尺を使って描くようなものだろうか。
智一のトラウマ含め、すべて事実なのであればまだマシだが、もしそうでなければ過剰演出。
脚色しすぎては『史実』の重みが薄れるだけだ。
だったら時代背景の深堀りや、あるいは長谷川や村長の思想を見せるべきでは。
流言飛語の恐さ、偏見や差別の愚かさ、報道の意義など普遍的なテーマは理解する。
事件自体も非常に悲惨なものだったと思う。
ドラマ的にせず、焦点を絞って、虐殺の描写はもっとエグくしなければ題材にした意味がない。
個人的には事件の混乱も「バカだなぁ」としか思わないが、そう思える自分に安心する。
新助が訴えたように、“朝鮮人かどうか”を論じている時点でズレているのだ。
真実にどこまで迫ってるのか疑問?未曾有の災害と1世紀前の凄惨な出来事の関連性が今ひとつ伝わって来ない
真実にどこまで迫ってるのか疑問だ、実際に起こった凄惨な事件はこんなに軽いものでは無いかと思う。
約1世紀前に起こった凄惨な出来事、あまり語られて来なかった悲惨な歴史を紐解いた作品という事で当時どんな経緯で民衆が狂気の沙汰を行ったのか、その深層を知りたかった。
しかし、映画の中で表現された関東大震災からは民衆が狂気に走るほどの緊迫感は感じられず、なぜ人々が部落出身の者を襲うに至ったか伝わって来なかった。
日本統治時代の朝鮮では独立運動が勃興しており、本事件の4年前の1919年(大正8年)に起きた三・一運動では、デモが朝鮮全土に広がり朝鮮人は日本の言うことを聞かない「不逞の輩」として扱われていた事や部落民への差別などの背景があまり描かれていない、また行商人一行の方言と福田村の訛りの違いから朝鮮人と決めつけるに至った言葉使いなども考証に則しているのか不明瞭でこの作品がどこまで真実の事件に迫った内容なのかもわからない。
実際殺害を行う演技も迫真とは言えず全体的に芝居がかった演技な印象。朝鮮人と間違えて殺害を行ってしまった福田村住民への情状酌量感、その実は関東大震災の流言飛語で実際に殺害された朝鮮人・中国人・社会主義者などが大勢いたという事実はラストに流れる文章のみで、被差別部落民への根深い偏見なども合わせ当時の狂気の状況とは程遠いのでは無いかと思わざるを得ない作品かと思った。
何年経っても成長していない
この事件のことは耳にしたことあったものの、映像化されたことによって、人間の恐ろしさを改めて知った。同じ日本人なのに格差感を持ち、朝鮮人に対する非情な差別は、今の日本でも変わっていないような気がする。
2023年No.1の邦画
これを観る前はパーフェクトデイズがNo.1だったが、今はこちらが間違いなくNo.1だと思う。
重い内容だが、柄にもなく深く考えさせられ、鑑賞後に心にズーンとくるものがあった。
どの国にも負の歴史はある。ただ、その負の歴史に目を背けてはならないと思うのだが、背けるどころか、小池百合子都知事を筆頭に、なかったことにしてしまう近年の日本社会には危うさを感じていた。
そんな折にこの映画。私は恥ずかしながら福田村事件を全く知らなかった。
群衆心理によって、殺人を犯してしまう愚かさ…だけではないと思う。映画にも出てくるが、日頃から新聞は事件が起きると「不逞の朝鮮人の仕業か?」などと差別意識を煽っていた。さらに国家までがその賎民思想にお墨付きを与えていた。この愚かな発想は未だに日本人には根付いており「中国人や韓国人が治安を悪化させている」などと言う者が多数存在する。
当時、賎民思想がなかったなら、いかに群衆心理といえど殺人まで犯しただろうか?「朝鮮人なら殺してもええんか⁈」というセリフに対する答えは、「いいのだ」であったのだから。
余談ながら、田中麗奈って、いい演技するんだなーって思った。
僕は『田中村第◯小学校』出身でーす♥
生まれは小岩だが、育ちは田中村である。福田村の友達も沢山いた。しかし、こんな話があるのは知らなかった。福田村の村長が民主主義を唱える革新的な村長と描かれているが、僕の時代の田中村、福田村、小金村、馬橋村はそんな行政だったろうか? そして、僕の時代の住民の気質もどうであったか怪しいモノダ。
なにしろ、房総族でしたから。
南葛飾郡 大島町の流言飛語の話は本当である。父方の祖父が自警団で駆り出されたが、友人が在日◯◯人だったので、断ったと曰わっていた。
「三・◯運動」に於ける「提◯◯教会事件」は「◯◯博文公」暗殺者の「◯重根」の謀殺と同様に今の韓◯人に於いても殉死者扱いされている事を日本人は知らねばならない。
我が親父は言っていた。
『”じんむ、すいぜい、あんねい
いとく、こうしょう、こうあん
こうれい、こうげん
かいか、すじん”くらいは言えないと日本人じゃないからな』って。
そんな流言飛語で僕は必死になって覚えた。本当だよー。
しかし、日本の軍国主義が育つのは、この後の事。
やがて、狂乱の昭和へと突入する。
来年は昭和100年。昭和が終わったとは思えない。
しかし、役者の本当の性分が良く活かされた、良いCASTINGになっていると思う。
『沈黙 立ち上がる慰安婦』を見るべし。
アカデミー賞
作品賞の中でこれだけなかなか映画館の場所とかタイミングが合わず見れてなかったが、このタイミングで品川でやってくれて感謝。
100年前に実際に起きた出来事。なかなかに衝撃的。みんないい演技で、考えさせられる。流言に流される怖さ、不安が生み出す狂気、差別、復讐。。普通の人が人殺しに変わる怖さ。よく描かれていたかなと思います。
噂や誹謗中傷で人は殺せる。今と変わらないじゃないか一。
噂や誹謗中傷で人は殺せる。今と変わらないじゃないか一。
昨年9月に公開され絶賛。
大手映画会社製作不可能な
日本の避けられていた黒歴史の映画化
関東大震災の後に起きた人種差別集団殺害。
今、物凄く心がどんよりと重い。
午前中に観るんじゃなかった。
でも日本人なら観るべき事実。
そして映画会社は動けないけど
役者達は立ち上がった。
素晴らしい俳優陣だ。
ちゃんとしたレヴュー書けないや、重くて。
まーでも、この感情も
レヴューのひとつか。
事件じみた俳優陣
危ういキャスティングに引き込まれる
TVの特集で、確信犯的キャスティングと言ってたが、その通りだった…
そのままの東出
普段着みたいな格好だった
似合いすぎて心に刺さる
船頭の王者ターちゃん?
そのまんま東出?
山小屋生活の賜物なのか?
鼻声で滑舌悪く、道徳的にアレだが、好きな俳優
抱かれたくは無い
そのままの水道橋
意外と小さかった
編集長ピエールさん
人生を編集中?
人生ぴえん…
もろ当事者である
削除しないで
コムアイが小雪に似てる気が
コユアイ?
そのままの役だった
なっちゃんが笠木忍に似てる気が
船の上で浮気する2人
船だけに浮かばれない…
激しすぎて大地震発生
削除しないで
木綿豆腐に指輪がキラリ
木綿に腕押し?
4人共浮かばれない…
昭和初期の戦争絡みの床事情
溜池ゴロー系? 爆
他の俳優陣も、危うくて怪しげで、濃厚で見応えあった
これだけでも観る価値がある
涙を流さず大泣きする脇役女優も居たが…
朝ドラ「らんまん」と同じ時代だが、らんまんは殆どフィクションドラマだった
らんまん実話はTVドラマ化は到底出来ない…
フィクションとしては満点なのかもしれない
脱線しないで
この映画と似てる部分もある気がする…
削除しないで
中盤やや失速
終盤、大地震からの大事件
政治・お国事情を書くと、間違いなくレビュー削除されるので書かない
この事件の証拠資料が殆ど残ってないらしいけど、それも恐ろしい事である
ヒリヒリした終盤の展開に再度、引き込まれる
F・ダラボンの「ミスト」の様な…
スコセッシの「沈黙 サイレンス」の様な…
昔レンタルビデオで観た「黒い太陽 七三一」を思い出した
人間が一番怖い
企画モノ邦画ホラーよりずっと怖い
最近の邦画にしては異色だが、観て良かった
いつでも起こり得る
福田村事件という事実があったことを教えてくれただけで、この作品は私にとって価値があります。
作中では、知識のなさが偏見を生むとの示唆もありますが、なによりも多数派に抗うことの難しさが描かれています。
多数派の者たちは、自分の考えで行動しているようでいて、何者かに扇動されていると気づいていません。
集団に抗えるのは、すでに何かしら「はみ出した者」だけです。
資産も特殊な技能もない者は、村八分にされると生きていけないので異を唱えることができません。
少数の「はみ出した者」たちは、多数派集団の暴走を止めることができません。
これは100年前の出来事ではなく、いつでも起こりうる事象だと教えてくれます。
ゆるやかにぎりぎりまで張り詰めていく緊張感は素晴らしかったです。
その分、虐殺シーンが安っぽくみえたのが残念です。
ここまできたなら容赦なく描いてほしかったです。
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