福田村事件のレビュー・感想・評価
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流言飛語が飛び交う怖さは描かれたのか?!
満員の映画館に入ったのは何十年ぶりだろうか、いや、この映画はそれだけで意義のあることかもしれない、
しかし映画を見入っていくうちに疑問ばかりが湧き出てくる、この映画で最も肝要なテーマは流言飛語の実態とその原因、人間の持つ狂気では無いか?!
全般いろいろなドラマが説明的に描かれるがその後、空前絶後の大震災が関東地方を襲った。福田村で行商をしていた、薬売りの行商団は何とか生き延び、帰路の船着場に到着する、そこで福田村の日本人自警団による日本人の薬売りの行商団襲撃が始まり、大殺人劇が描かれる、しかし観客の僕には、なぜ殺すのか?!何の説得力も持たない、つまり流言飛語の怖さは全く描かれない、それが描かれなければこの映画は存在しないと僕は強く思う。だから、演出家に指示されて踊っている俳優にしか見えない、つまり登場人物がこんな状況で殺すのか?と言う疑問しか出て来ない、9月1日空前絶後の震災の悲惨さ、木々は倒れ火災が発生し多くの命が失われていく、政府の失政やマスコミの腐敗、はたまた不逞の輩の仕業か?また、社会主義の弾圧か?など。
それらの描き方に説得力は全く無い、それ故にこの映画の本質は僕には浮かび上がらない、
舞台上で演ずる舞台劇ならば、初めから俳優の演ずる劇と捉えることが出来る、しかしそれとて本質は同じだろう、しかし映画は、特に現実的に見てしまう、
資料映像も使わない、資金の問題もあったのかも知れない、それらは、作り手もポリシーでもあろう、しかし何故使わないのか強い疑問が残った、
震災の悲惨さがもっと強く伝われば、映画の感想は大きく変わったであろう。
この映画の主役は俳優にあらず、時代と状況であろう、
多くの監督が企画し諦めて行ったのは、その震災の状況は描けないと思ったのかもしれない、
しかし、この映画を企画し問題提起したこと自体は称賛に値する。
あまりに、絶賛評が多くてびっくり
あまりに、絶賛評が多くて少しびっくりしている。
もう少し賛否あってもいいかなと思ったのですが…。
香川県で生まれ育って、関東大震災での朝鮮人虐殺について教科書程度に、その騒動で
香川などの関東から離れた地域の人が言葉が違うとゆう理由で朝鮮人と間違われて犠牲になっていることは知っていたので、戦時下の人種差別や虐殺について知りたいと思って観たのですが。
映画で描かれているのは福田村での日本人虐殺についてだけ朝鮮人の殺害シーンは1人だけで
事件の背景として存在しているのみでした。
日本で起こったデマや差別意識が元に起こった虐殺を
朝鮮人ではない日本人も巻き込まれて、殺されたエピソードを入り口に多くの朝鮮人の人が殺されたことを描いて欲しかったなと思います。
ですが、そもそもこの事件を知らなかった人に
こうゆうことがあったことを伝える為に作られた意義はあると思いますし、朝鮮人虐殺はナイーブな話題なので避けたのかもしれません(避けるなら作る意義は果たしてあるのかと思いますが)
と色々思う所があるけれど
映画として上手く出来ていたのなら、考え方の違いとそてもう少し受け入れられたのですが、
映画としての出来もちょっとどうかと思いました。
前半の村人たちのメロドラマのどろどろ恋愛劇を延々と見せられてだいぶうんざり、いざ地震が起こってからの展開ものろまだし、わざとらしいセリフも多く
結果として暴走していく“男らしさ”に溢れた人物もレッテル的な描き方で深みがないから心底不快なだけ。
他人に足を踏まれる立場の人だからこそ、
より弱い立場の人。足を踏まれることの痛みが分かるとゆうのは、分かるけど、、、
ぐちょぐちょのメロドラマしてた人達が最後の虐殺のときに唯一香川の行商人達を庇おうとするのはなんか違う気がするんだよな、テレビのワイドショーで不倫スキャンダルされてネットリンチに泣いた人が、差別に敏感になるのか?みたいな腑に落ちなさ。
新聞記者の女性の取ってつけたような、正義感セリフとかも、韓国人女性が目の前で殺されたときの反応とか抵抗や葛藤も描かれないから空虚なものに見えるし。
香川行商人一行が、朝鮮人かと問い詰められて
ウンザリしたような様子でやおら、瑛太が朝鮮扇子を出して仰ぎだしたときは、バカなのかと思いました。
案の定「これは、朝鮮の扇子や!やっぱりこいつらは朝鮮人だ〜!」とか言い出して
馬鹿と馬鹿が会話してんのかと思った。
演出が露骨すぎでしょう。揉み合ったときに落ちるとかでいいじゃん。
色々な細かい部分で引っかかっているので
「じゃあ朝鮮人なら殺してええんか?」
と叫ばれても、当たり前なこと何言ってんだって思ってしまった。
そもそも人に囲まれた自分も家族も殺されそうになっている人は、命を守るのに必死でそんな人権的なこと叫ばないと思う。
衣装も、どこのコミュニティの人か分かりやすくしてるのだと思うけど、この時代の人たちのリアルな着こなしにみえなくて、そこも気になってしまいました。
言葉も、なまりキツくって朝鮮人に間違われた
とかいう割にちゃんと通じてそうだったし
あんまり香川の方言感もあるようなないような微妙な感じがしました。(千葉方面は分かりませんが)
映画としてよかったとこは、コムアイさんの演技はじめてみたけど自然かつ可愛いらしい人物に見えて素敵だった。
虐殺の始まりの一撃がショッキングさがあったこと。
学びとしてよかったことは
犠牲になった、香川行商人たちが部落差別を受けている人達だったと知れた。
こちらの方では差別が根強く、まだ問題が残っているので自分自身の差別意識とも改めて向き合えたこと。
この映画では、朝鮮人虐殺について分からないことが多いので自分できちんと勉強したいなと思いました。
私は映画や文化的なものは、共通点のない人物にも共感や興味が持てたする力があることだと思うので
被害者が日本人でなければ観ていなかった人にも
きの映画の犠牲の奥にもっともっと多くの犠牲があったことをはっきり描くべきだったと思います。
この映画を観て感動した考えさせられたと語っている人の中には
日本人が被害者にいたからこそ、共感できた人がいて、さらに一歩この事件を入り口に違う人種への差別、虐殺にも共感できる様な描き方ができると期待していたので、やっぱりこの映画の出来にはがっかりしてしまった。
今に通ずる事件の教訓とは?
odessaで鑑賞(前売り鑑賞券使用)。
原案は未読。
福田村事件については本作の製作が発表されるまで全く知らなかった。発表後にウィキペディアで調べ、その凄惨さに衝撃を受けた。公開されたら絶対に観ようと決めていた。
不安と恐怖が歪んだ正義感を増幅させ、最悪の事態へ発展する。実話故の重みが心にずっしりのしかかって来た。
事件の起こるまでのドラマがやがて訪れる悲劇的な出来事へ向け、その下地となる人間心理や空気感を詳らかにする。
「朝鮮人ならば殺してもいいのか!?」と云う永山瑛太演じる行商人の言葉から惨劇へ移行するシーンがおぞましい。
猜疑が殺意に変わり、目を背けたくなる所業が繰り広げられた。日本人による日本人の殺戮。ただただ悲惨すぎた。
しかしそこで、私はハッとさせられたのである。自警団が行商人たちを朝鮮人ではないかと疑い詰め寄るシーンを観ながら私は、「この人たちは朝鮮人じゃない、日本人だから殺しちゃいけないよ!」と(劇映画だから悲劇が起こることは分かっていても)惨劇が回避されるように祈っていた。だが、上記のセリフを聞いて、この祈りは裏を返せば「朝鮮人ならば殺してもいい」と云う意味になるのではないかと気づかされ、無意識の内にそう考えていた自分に恐怖し、そして嫌悪を覚えた。
SNSが発達した現代社会にも通ずる情報・印象操作や集団心理の危うさに、周囲に踊らされず自分の頭でしっかり考えることの大切さを痛感させられた。
当時よりもさらに情報が氾濫する世の中において、どこまで己を貫くことが出来るか。おかしいことに声を上げねば新たな福田村事件が容易に生まれてしまう。
しかしながら、傍観者になっていないかと問われれば、否と言える自信の無いことにも気づかされた。井浦新演じる教師のように、果たして前に出られるかどうか…
※修正(2024/11/29)
悲しいけどあの御守り役に立ちましたね。
【"関東大震災時の流言蜚語に踊らされた人々、利用した人々。"今作は、人間の愚かさ、醜さ、集団心理の恐ろしさを描いた作品であり、この国が且つての様な過ちを起こす国にならない事を切に願った作品でもある。】
- 関東大震災時の朝鮮の民や、社会主義思想者が六千人虐殺された事は知っていたが、福田村事件に付いては、恥ずかしながら知らなかった。
何故に、東京ではない、千葉の福田村であのような虐殺が起こった理由を、今作品では、人間の愚かさ、弱さ、醜さ、集団心理、同調圧力の恐ろしさの面から嫌と言う程、見せつけるのである。-
◆感想
・大正12年に、朝鮮語教師だった澤田(井浦新)が妻の静子(田中麗奈)と共に故郷の福田村に戻って来る。
更に、同じ列車に乗っていた夫を亡くした咲江(コムアイ)が骨壺を持って戻って来る。
ー 大正デモクラシーが隆盛を誇っていたが、一方では日本が、第二次世界大戦に邁進していく時期である。
現代の日本が、大正時代に似ていると何人かの政治学者及び歴史学者が指摘している事はご存じの通りである。
朝鮮で、日本人による朝鮮人虐殺に不本意ながら通訳として関わった澤田は、
故郷に戻っても教職についてくれと頼む村長(豊原功補)の言葉を聞きながら、農家になると呟くのである。-
・澤田は、事件のショックで性的不能者になり、妻を抱くことができず、静子は不満を持つ。そして、わざわざ作った朝鮮料理の夕餉の際に夫に家を出ると告げるのである。
ー 静子は、渡し船の船頭(東出昌大)と船上で関係を持つが、その姿を船頭と昔、良い仲で会った咲江と澤田は黙って観ているのである。
澤田は、朝鮮でも日本でも”傍観者”なのである。豆腐屋を営む、咲江の表情は複雑だ。ー
■そして、同年9月1日に関東大震災が起こる。作品は当日とその後の日々を一日ずつ、描いて行く。
二日目には既に”鮮人が建物に火を付けた。””鮮人が女を犯している。”鮮人が水に毒を入れている。”という流言蜚語が流れている。”見たのか?”と言う問いかけには、皆が”嫌、噂で・・。”と言うばかり。
社会主義者の平澤計七(カトウシンスケ)は、その噂を流していた男の顔を見て”警官だ・・。”と呟くのである。
当時の政府が、関東大震災に乗じ、朝鮮人撲滅、社会主義者撲滅を画策していた事は衆知の事実だが、正にこの頃から日本は不寛容な国家になって行ったことが良く分かる。
又、日本国民がその流言蜚語に踊らされていた事も・・。
・東京に戒厳令が施行される中、福田村には四国の讃岐から穢多でもある薬売りの一団がやって来る。そして、彼らは讃岐弁が分かりにくい事もあり、鮮人ではないかと疑われるのである。
薬売りの団長(永山瑛太)が"朝鮮人なら、殺しても良いのか!"と叫ぶ言葉も重い。
ー このシーンは恐ろしい。団長が薬剤販売免許の紙を警官に渡し、警官が本物かどうか確認しに行った際に、夫が東京に出稼ぎに行って鮮人に殺されたと思い込んでいた女が無表情のまま手にした鎌を、団長の頭に突き立てるのである。
その後は国粋主義者の若者が日本刀で女や幼子に切りつけていく。
正に誤った集団心理の恐ろしさが、如実に描かれているシーンであろう。
河原に逃げたインテリの薬売りの若者が絶望の表情で呟いた言葉は、忘れ難い。
”何のために、生まれて来たのか・・。”
そして、彼は村人たちの竹槍でめった刺しにされるのである。
更に、罪無くも殺された薬売り達は、川に流されるのである。
日本人が流言蜚語に踊らされ、同じ日本人を9人(お腹の赤子を入れると10人)殺めたのである・・。-
・残りの薬売り達は針金で縛られている。そこで、漸く澤田は”傍観者”の立場を振り払い”彼らは日本人だ!”と且つて妻、静子に薬を売りに来た少年を見ながら叫ぶのである。
ー 澤田が、過去の呪縛を自ら解き放ったシーンである。
そして、静子の澤田を見る表情が、少しだけ変わっているのである。-
<この作品は、実に恐ろしい。
人間の持つ様々な”業”が赤裸々に描かれているからである。
マイノリティに対して、不寛容な言葉を発する国会議員が居る日本。
ヘイトスピーチが無くならない日本。
今作は、この国が、かつての様な過ちを起こす国にならない事を切に願った作品でもある。
そのためには、マスメディアがキチンと真実を掴み、政府に忖度せずに、国民に正しい情報を流す機能を維持すること事が、必須なのである。
私たちは、過去の負の歴史を、今一度学ばなければいけない時が来ていると思うのである。>
<2023年9月10日 刈谷日劇にて鑑賞>
とても考えてしまってます
公開館数が少なすぎませんか。
折しも、現行の官房長官が「朝鮮人虐殺の記録が見当たらない」などと、国内どころか世界中に恥を晒した年に、この公開が重なったのも何かの巡り合わせ。
小池都知事も政府も、この件は「無かったこと」にしたいらしい。
それなら我々は「あったこと」としての認識を共有していく必要がある。
作品はゆっくりとしたスタート。
「村」での生活を送っているそれぞれの人々が、当然まったく異なる境遇や思い、苦しみや悩みを抱えて生きている様子が描かれる。
地震を引き金に始まる事件だと知っている観客としては、「まだかまだか」なワケだが、この生活を描く1時間がすごく後に効いてくる。
そして…。
朝鮮人じゃないのに
朝鮮人じゃないのに
観客は、彼ら行商団が日本人であることが確認され、殺されずに済むことを願う中、それをまさに当事者として願うはずの、瑛太演ずる沼部新介が叫ぶ。
「朝鮮人なら殺しても良いのか!」
ハッとする。
私たちの心のどこかに「日本人だから殺さないで」という思いがなかったか。
「それが誰であっても殺していいはずがない」と考えられただろうか。
この事件に注目すべきなのは、「間違えて日本人が殺された事件だから」じゃない。
「一般市民が自らの意志で一般市民を殺す」という地獄が、あくまで善意を元に同時多発的に発生したこと。純粋な「善意」が、「良識」や「道徳」を抑え込んで「暴力」におよぶ可能性。それを意識的・無意識的に扇動する集団心理や政府の方針やマスコミの影響の恐ろしさ。
そして、今後は間違いなくSNSという場で繰り広げられる流言飛語とデマ、それに振り回される人々。
これは決して過去の悲劇ではない。
そして、これが群像劇なのも興味深い。
いろいろな考えが、同じ環境で複雑に混じり合い、加害と被害が生ずるのと平行して、混じり合わない人々の罪にも及んでいく。
「傍観者は加害者である」と。
敬遠されるほど「胸糞映画」などでは決してないし、最後に「光」も用意されている、テーマも分かりやすい、ちゃんとしたエンタメ作品だ。
今後増えていくとは思うが、有名俳優が名を連ねていて、他にたいした話題作もないタイミングで、なぜこんなに上映館数が少ないんだろう。
今後政府がこの歴史を書き換えてしまう前に、我々国民は当時、日本の各地で起こったこういった虐殺に関する事件を共有しておくべきだと思う。
そして、役者さんの熱演も見事。
水道橋博士は登場した前半は(役柄じゃなくて)ヤバい感じがあったけど、後半はすごく良かった。
特に田中麗奈・コムアイをはじめ、魅力的な女優さんがたくさん出てたな。
15円50銭って言ってみろ!
関東大震災100年目という節目で福田村事件映画化。知っての通り震災の混乱の中、流言飛語が大きくなり多数の朝鮮人、中国人、並びに日本人まで犠牲者を出した事象を追っていく。このタイトルはこれを言えるかで日本人か否かを試したとのこと(結果不十分ではあったのだが)
まずキャストの豪華さに驚き。水道橋博士の頑迷な感じはハマり役だし、東出くんの割と皮肉だなと思う配役、コムアイさんの佇まいもよかった。主役を張れるひとたちがたくさんいたのも凄いなと。衣装も美術も素晴らしいし、惨事が起こるまでの積み重ねるられるドラマもしっかりしていた。
もう少し公開規模が大きくしてほしいけれど、差別描写が多いので難しいのかなとも思います。当時とは比べるべきもない情報伝達が早い社会になってますが、自身の耳に心地よい情報しか選択しないひとが多くなっている気がします。これで教訓を得られるとは言い難いですが、一見の価値はあります
御茶ノ水博士、怪演
配役がすごいと思った。
ここに集まった俳優陣は、みんなが森監督にシンパシーを感じていることは間違いない。
井浦新と田中麗奈、戦争によって心が離れてしまった夫婦を。
東出昌大とコムアイ、戦争中の孤独感が結びつけた不貞関係の船頭と未亡人を。
ピエール瀧と木龍麻生、新聞の役割をめぐる金とメディアの矜持と確執。
永山瑛太、被差別部落を率いるブライド高きリーダー役を。
戦争中も、それぞれに感情があり生活がある。
その中でも、特筆すべき存在感を持っていたのが水道橋博士だ。
小さな体に大きめな軍服、なにかと現体制の論理を吐き出す歪んだ唇、思わずお前は朝鮮人に違いないと叫んでしまう右翼的言動。
だけど、少し前は彼も善良な農民だったのだ。
水道橋博士は、戦争という環境のなか強い自警団団長役になりきっていた。
現実には真逆の人なのに、そんな役をやった。
だからだろう、彼は鬱になり体調を崩し当選したばかりの議員をやめた。こんな状態では役に立たないだろうと。
ぼくだって、そんな環境に置かれたらわからないと思う。戦争によって、どんどん思考は狭ばり、しまいには考えることすら、やめてしまうのてはないか。
そんな恐ろしさを感じる映画でもあった。
評価85点
※映画としてみた時、詰め込みすぎたという印象も残った。
残すべきか、忘れるべきか
みてよかった、思ったことを散文につらつらと。
歴史を描く映画を観るといつも考えることがある。この歴史を、史実を、残したくない、忘れたいと思う人がきっと居るのだろう、と。今回の映画もそうだった。何が正解か、私にはきっと答えを出すことはできないけど、少なくともこの映画を見た方たちとこの議論はすべきなんだと思う。
一度誰も口に出さずになくなりそうだった歴史を映画に残すことの意味や、重さをもう一度考えたい。
讃岐三豊から出稼ぎに出てきた彼らに同族意識を持って観ていた。私は香川に生まれ育ち、全国水平社宣言を道徳の授業で劇にしてまで学習した。驚かれるかもしれないが、同和問題は私の学校では週一の道徳の授業の頻出トピックだった。(十数年前の話だし、私の生まれた場所も関係あるのかもしれない)それくらい私たちにとってそれらの問題は今でも関係がある話だし、祖父たちの代までは普通にその名を口に出していた。数年前、香川という田舎から出てきた私に立ちはだかった方言という壁が、当時の彼らを悩ましたのだと思うと、どうしても重ねてしまう部分がある。愛おしい故郷の言葉たちが耳に残り、映画を見た後も消えない。じょんならんね。
新聞記者はどうして最後真実を書くというのか。今世まで残らなかったということは、書かなかったのでは??嘘ではないのか…と思ってしまった。
一緒に見てくれた友人とは「人の弱さ」話になった。集団心理の中で、自分の思ったことを大きい声で伝える勇気はどこから生まれるんだろう。そんな人ほんとにいるんだろうか。人の弱さは集まっても弱いまま、汚い刃物になって誰かをボロボロにする。強さをもって、あつめて、それらから誰かや何かを守りたい。硬くありたい。その強さは教育から生まれる正しい知識からできるんではないか。そんなこんな。
観るべきと言うより観なくてはならない映画
これはもう観るべきとかのレベルでなく、観なくてはならない映画である。100年も前に起きたこの事件が、半世紀を過ぎてようやくその事件の存在が明るみに出て、100年後にこうして映画化されるまでの長い行程を経てきたことを重く受け止める必要があるのではないか?この映画には、今の日本が抱えているまだ表在化してない問題が数多く提起されている。
THE YELLOW MONKEYの「jam」の歌詞の中に、外国で飛行機が落ちてアナウンサーが嬉しそうに「乗客に日本人はいませんでした」、、、僕は何と言えばいいんだ?何を思えばいいんだ?と言う有名なフレーズがあって、この映画の終盤にこれを想起させるセリフがあり、まさにそれがこの不幸な事件のトリガーとなる。この映画のポスターの一見着飾ったおしゃれな男と女は、何の荷物も持たずに大きな川を今にもひっくり返りそうな小舟でどこに流れていくのかわからない様子だ。この景色こそ、豊かそうに見えて、実は貧しくて心許ない現代の日本を象徴しているようだ。
現在だからこそ必見
ドキュメンタリー出身の監督だからか事前の整理とセッティングがものすごく丁寧で、我々観客は登場人物達をそれなりに理解するのみならずちょっとした親近感すら抱くようになるが、後々何が起こるかはある程度知っているので前半から祈るような気持ちになる。
いざその日が訪れてからも事が重大化するまでは時間があり、なるほど官民結託した流言飛語はこうして一見悪意のない大衆によって街道沿いに広かったのだとよく分かる。(実際にどのように広がったのかを詳細に研究した書籍も最近出た。)
そしていざ事が始まる瞬間は呆気なく、誰もが「身を護る」「村を護る」とだけ思っている。そう。それは彼らの意思によるものではそもそもなく、それまでに国家権力とメディアによって周到に用意された分断と偏見と差別と、だからこそ「仕返し」されるのでないかという恐怖によって起こるべくして起こったことなのだと分かる…
そうした状況の前では、周到に配置されたいわゆる「リベラル」な人々が如何に無力かということも。
観れば分かる。これは「100年前に起こった僕らに関係ないこと」などではないと。誰もが今まさに思い当たるだろう、彼らの姿は僕らの姿だと。僕らはことほどさように、簡単に鬼畜に、殺人犯になり得るのだと。我々は差別主義者で虐殺者たり得るのだと…
こうやって白日の下に曝し記憶し反省することによってしかこの罪は贖えないんだと。
劇中、行商人一行が「日本人か否か」を誰何されるが、観客誰もが考える『朝鮮人なら殺してええんか!?』というセリフが虐殺の始まりとなるのもまた良く出来ている。
劇映画として良く出来すぎているためにすべてフィクションなのではないかと考えてしまいそうになるが、おそらく若干マイルドにされた事実なのだと心に刻む必要がある。
欠点があるとするなら、みな役者さんなので少々小綺麗に過ぎることと、朝鮮帰りの奥さん(田中麗奈)のエピソードが不要に思えたことくらい。
多分望んで出演されたと思しき豪華出演者の方々の演技も素晴らしいものだった。
震災100年目で、朝鮮人虐殺の『事実』を否定する政治家どもが大手を振っている現在だからこそ作られる意味があるし、必見の作品。
分断は悲劇を生む
恐ろしく激しい作品
そこじゃない気が...
弱さと愚かさを持つ人なら胸をえぐられる映画
凄い映画でした。
今年のマイベストワン。クライマックスでは身体が震えるほど泣いた。
関東大震災に乗じた日本人による朝鮮人の大量虐殺。しかも発端は内務省が流した誤報、つまりデマ。市井の人が朝鮮人を殺さないと自分たちが危険だと狂乱状態になり、朝鮮人とみるや竹槍や銃で次々に殺戮。しかも、日本人や中国人なども誤って殺されている。自衛意識もあったとは思うが、根本は差別意識。
しかも福田村事件は、香川県からきた薬の行商団が朝鮮人と勘違いされ、子どもや妊婦も含む10名が殺された無惨な事件。
自分たちが下に見ている人間は酷い目に遭わせてもやむなしみたいな、歪んだ選民思想は、現代も感じることがある。
本作が描き出す人間の弱さと愚かさは胸をえぐります。
あらすじの核は上述の行商団虐殺ですが、誤報を訂正しない地元新聞社と若い記者の対立や、共産主義の日本人の役者が斬首された話(これは史実)なども織り込まれ、当時の社会に巣喰う病巣を何層にも描いています。
作品は重苦しいだけではなく、エンタメ要素もバランスよく配合されているので、140分集中して見ることが出来ました。
もしお近くで上映中ならば、ぜひ劇場でご覧ください。
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