福田村事件のレビュー・感想・評価
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掘り下げが足りない
史実を元に描いてるのに、リアリティーを全く感じさせない構成だった。
知りたかった部分である何故そうなってしまったのか(どういう心情で殺害が行われたのか)殺害した人にはスポットが少ししか当たらず、きっかけとなった最初の殺人がぽっと出の端役だったりで残念な作品。
堤岩里教会事件を取り扱うなら朝鮮動乱についても触れて欲しかった。
結果には必ず原因がある。流言の流布の恐ろしさを描いてるのは分かるが、何故そうなるのかまで描かないと人間の本質とは言えないのではないか。
色々と公平ではなく、切り取った描き方をしている印象。
何分100年前に起こった事件なので詳細は分からない部分が多い。それだけに期待していたのだが、キャラクターの動機の部分に粗が目立っていた。
そこまで大正時代の一般人は頭が悪かったのだろうか?
現代人の自分から見たら映画「福田村事件」の加害者達はサイコパス以外の何者でもない。
映画を見ていた人たちがもしあの場にいたとしたら、ほぼ全員が行商団を庇うだろう。
「『集団』、そして『不安と恐怖』。この2つが揃ったときに、人は変わってしまう」と監督は言っているが、あの村の状況からは不安と恐怖は読み取れない。セリフだけで具体性が無い。この監督の言葉は映画の補足にしかなっていない。
「あの場にいたら自分もそうなっていたかもしれない。でも殺してはダメだ」という気持ちにさせてくれないと、少なくとも現代性とは言えない。
不幸な出来事に対する傍観者にしかなれない。
100年経っても進歩出来ないニッポン
今日の日本で本作が制作されこうして鑑賞出来る事に感謝し、一縷の望みがまだある事を信じたい。本作の内容はもちろん脚色は当然ですが、全て事実です。何の証拠もないなどと、馬鹿な官房長官と同じ嘘八百を言ってはなりません。証拠はたっぷり公式に残されております、歴史修正主義者なんぞ調べる気はさらさらなく、都合のいいことしか言いません。低能だからだけでなく、それが「楽」だからに他なりません。
本作で再現された構図は過去完了どころか、さらに増大して今も私達の直ぐ側に大口開けて待ってます。現政権はもちろん知事レベルにおいてすら、無かったことにしましょう、が今日ですから。謝ってばかりはもうウンザリ、もうとっくに金で決着になってるでしょ、俺たちは前だけを見て一丁前に正論を吐きたいのだよ、と被害者側への想像力ゼロで平気で出鱈目を言う。そんな勢力に入っていれば楽だし威勢がいいからね、真に正しい事を言い出す奴等には、速攻突っ込み入れて叩きのめしますよ、金も貰えるかもね。正しい事は面倒臭せぇ、そんなのはフタすりゃ楽だろが。って皆様ご存じの通り。
映画の中の福田村の村民・憲兵たちと何にも変わっちゃいないのです。100年経っても全く進歩どころか、後退しているのが今の日本なのだと言う現実を、本作は観客に突きつけてくる。日本人の精神構造がオカシイのではなく、真の反省を避け続けた結果であり、戦後においても集団行動優先の教育がなされ、出る杭は打たれる意識構造ゆえ、忖度が蔓延り今に至る。「朝鮮人は出ていけ~」と叫ぶ奴等が朝鮮半島に大金を貢ぎ続ける奇怪さ。公文書改竄からもろもろの人権軽視、国会機能不全、各種国際指標の著しい低下、などなど。だからジャニーズ事務所も安泰、汚染水も処理水と呼ぶ欺瞞を公然とミスリード、映画の内務省と全く同じ。
人間はその字の通り、人と人の間と書く、すなわち群れを成して生きる動物なのです。忠実な集団行動で回り続け、それが正しい方向に向かっていればいいけれど、そうとも限らない。そこで異論が出る、生まれながらに多数派に属せない人もいる、そんな異分子は切り捨てるのが楽って考え。1ミリも少数派の身になって考える事が出来ず、ひたすら金の論理のみで行動する。障害のある方やLGBTQだって悪用のリスクばかり強調して苦しみを想像なんて一切しない。嗚呼、没落国家まっしぐら。
映画は一種の群像劇の様相で、福田村を立体的に描いてゆく。井浦と田中の崩壊夫婦とその秘密、永山の薬売りの集団エネルギーの発露と裏側にある被差別、東出の船頭の欲情と孤立、カトウの左翼言論、木竜・ピエールの新聞報道の苦悩と忖度、そして戦争未亡人の立ち位置から憲兵達の単細胞愚直。ことにも水道橋博士の元軍人の造形が白眉の出来。何故なら彼の総てのセリフはそれだけを聞けば至極真っ当で、村をひたすら護る意識に満ち溢れる、だからこそそれを取り巻く状況の危うさが、実に恐ろしいのです。間男役に挑む東出昌大は本当にいい役者に成熟したもので、今村昌平ムードに男の色気が充満です。それぞれにトップスター級を配し、製作者の意欲と参加したスタッフ・キャストのレベルの高さが心強い。
いよいよの震災シーンに至るまでがやや冗長ですが、9月1日を境にカウントダウンを踏んで悪魔の惨劇クライマックスに突入する。流言飛語、付和雷同、思考を停止し大勢に流れる人間の愚かをこれでもかと描く。しかし、現実はこんなもんじゃないだろうと推測、もっとここだけは嫌と言うほどの強烈が欲しかった。朝鮮人と日本人、どちらが偉いか? なんてナチスドイツと全く共通する。竹槍で突かれる恐怖と痛みを思い知る。
そもそも当時日本に何故朝鮮人がかくも居るのか、国家は何をしたいのではなく、何を隠したくて、スケープゴードを操作しようとするのか。人間の弱点を悪用した国家の犯罪は、どこまでも糾弾せねばならないでしょう。人は見下す相手がいれば安泰と思う習性がある。下には下があるのだと、上には上があることは隠したがるのに。
みるべき。
現代社会が透けて見える
面白い作品だった。クセのある俳優をこれだけ集めたのも監督の意図があったのだと思う。しかし、ドキュメンタリー作家としての作り方が仇となっているきらいがある。先ず俳優に台詞として、自らの思いを語らせ過ぎている。その所為でカットしても良いシーンが多い。柄本明のシーンは必要がない。東京の社会主義者のシーンも必要がない。次にエピソードを詰め込み過ぎている。その分、長くなり少しだれる。そんな夾雑物とも言えるものを削ぎ落として、せっかく演技が出来る俳優を揃えているのだから、演技で語らせるべきだ。監督は言わば長編映画は素人であるから、俳優の可能性を知らないのかもしれない。そして、映像が語る見せ方と演出を知らないのかもしれない。ドキュメンタリーではないのだから、語らせてばかりでは見劣りがする。面白い作品ではあるのだが、集中力を阻害する要因が散らばっている分、少し残念である。閉鎖的な村社会の実情を語るのに時間をかけ過ぎたようだ。もう少し整理して、削ぎ落とすことで、更に良い作品になったと思う。次回の映画作品に期待をしたい。
目をそらさない人でいたい
関東大震災の直後、多くの朝鮮人が虐殺されたのは明らかな史実だ。この歴史の怖いところは、殺したのが自警団を結成した一般の日本人市民たちだということ。ヒステリックな集団心理の怖さを感じる。
そんな震災後の朝鮮人虐殺が行われた中での日本人殺害を描いたこの映画。序盤は地震発生までの福田村の姿と香川から出発する行商一行が淡々と描かれる。それが結構長いのに不思議と飽きない。仕事をし、飯を食い、セックスする。今で言う不倫や浮気もあったりする。時代だなーと思うところもある。でも、時代は違えど彼らが普通の人々だということをうまく描いていた。
そこで地震が発生。不穏な空気に一変する。そこで活きてくるのが、今まで描いてきた普通の人々の中にある朝鮮人への差別意識。福田村には朝鮮人がいない中、行商で訪れていた薬売りの一行を、村を襲いに来た朝鮮人だと勘違いする流れ。とても緊迫感のあるシーンだったが、朝鮮人だろ?日本人だ!のやり取りを聞きながら、猛烈な違和感を覚えていた。そこじゃないよと。そのモヤモヤを、永山瑛太演じる行商の長が振り払う一言を放ってくれた。あの展開はハッとさせられる。
説教くさくなるのを極力抑えたように思える作りだったが、それでもインパクトは絶大だ。悲しいシーンもあるのに、その悲しさよりもショックのほうが強くて泣けなかった。最後の字幕も含めてやるせなさと憤りを強く感じてしまう。なんて映画だ。これは目をそらさずに観ておくべきだ。
映画の創作意欲
この実際の事件を映像化しようと思う活動は、義憤か興味か?
集団心理を扱った実験は古今東西色々な文献で探ることが出来る しかしそれはあくまで"実験"であり、現実に起った事象に対して分析を補強するに過ぎない
複雑な原因がレイヤーとなって沈殿する時、その暴発点迄に辿り着く過程は文章化しようにも困難を極める
文脈の間に読む人の想像力、経験値、そんな曖昧模糊を網膜の裏に表現してゆく "創作活動"である
勿論、フィクションであり、100人いれば100通りの表現が存在する その中には上記の持ち併せているモノ以外に、思考や主義、宗教観、そして感情度合いも左右されるだろう
でも、出来事はいつも繰り返される ループ物なんてSFの世界じゃなく現実に行なわれているのである
いつの時代でも、どの場所でも悲劇は同様の結果で着地する そしてその結果が要因となり、誘発され又繰り返される・・・
繰り返す輪廻の中で、生きるということ 希望とか絶望とかを体現せず産まれる事が叶わなかった"望"ちゃん
疑心案義、しっぺ返しの恐怖、ヒエラルキーの安心感、面白いように人間に湧き出るこの思い 次々と書き換えられていく感情に苛まれるのが"生きる"ということ
しかし人間は最後の安全装置を装備してしまっている 『死ぬことが恐い』 安全なのか危険なのか、他者を殺めても自分を殺めない、この"都合"をこねくり回し続ける 消し去ることなど不可能なのに・・・
観たい度◎鑑賞後の満足度✕ これだけの凄惨な事件だから如何様にでも作劇出来たのにこんな脚本では駄目である。演出も平板。何が普通の農民を「鬼」にしたのか、なれたのか、誰でもなるのか、掘り下げが足りない。
①戦後生まれの身としては(といっても1961年生まれだから戦後から16年しか経っていなかったとは、戦後78年目の今から見ると不思議な感じ)、戦前の日本が何故にあれ程挙国一致的に戦争へと突き進んで行ったのか、国民は何を思い考えていたのか、抗う気はなかったのか、抗えなかったのか、流されただけなのか、いつも疑問に思っていた。
母親が戦中派、といっても当時は小学生だったので竹槍の訓練には早かっただろうと思っていたら、なんとチャンと訓練の時間が有ったという。「敵が来たら本当に刺し殺す気やったん?」と訊いたら「そうや。でもその前にパンパンと撃ち殺されるやろなぁ、と友達と笑い合ってた」、とのお話。
子供らしい無邪気さと言えばそれまでだが、戦後生まれとしては何となく笑えない話。
その当時の空気とか時代の雰囲気とかが分からないとなかなか理解しづらいんだろうなぁ、と思う。
そういう戦前の時代相と“福田村事件”の背景の時代相とには通底するものが有るように思う。
しかし本作は、起こったことを表面的に描いているだけ。‘昔、こんなことがあったですよ、ひどいですねぇ、怖いですねぇ’というだけ。100年も封印されてきた(私には何故に100年も封印されてきたのか、という方がより深刻で向き合わねばならない問題のように考えるが本作では最後のプロップで紹介されるだけ)だけに、断片的な出来事しか分かっていないから映画としてはフィクションの部分(人物とか、その人の行動とか)を設けて話の間を埋めなければならないのはわかるが、そのフィクションの部分がいかにも作り物っぽく+不必要(というかもっと上手作れなかったのか)で興ざめる。
②関東大震災の時に関東で何百人という朝鮮人や中国人が流言飛語のせいで虐殺されたのはよく知られた話である。
”流言飛語”が東京内だけでなく関東一円に拡がっていたためである。
この流言飛語(震災の混乱に乗じて朝鮮人が日本人を殺そうとしている等々)が何故出てきたか広がったか、人々が信じて自警団まで作ったか。
現代はそんなことはもう起こらないと言い切れるのか。SNSでフェイク情報や流言飛語が当時より拡散しやすくなっている現代、その怖さは全くないとは言えますまい。
③あげつらいたい欠点は山ほどある本作なので、どこから言えば迷うところだが、今(2024.02.12)本作を思い出しながら頭に浮かんだことを先ずは書こう。
本作は基本的に井浦新と田中麗奈の視点から描かれている。つまり、部外者・第三者からの視点だ。
視聴者の大部分と同じ立ち位置であり、言い方は悪いが安全圏にいる者たちの視点である。
当事者の視点はない。だから生々しさがない。
資料が少なく百年前の話だから、当事者の観点から描きようがない、という意見も有るかもしれないが、そこが想像力が有るかどうかの分かれ目であり、フィクションにする意味があると思う。
要りもしないSEXシーンなど挿入せずに、もっと描くことがあった筈だ。映画には兎に角濡れ場が必要だと思う制作側のあまり上品でない下心が透けて見えるようだ。
④
中学、高校で差別、偏見の授業として観せるべき
大正時代、朝鮮人差別が日本人に蔓延っていた。
関東大震災の発生をきっかけにデマが流れ、朝鮮人が拘束されまた見つかり次第殺害されるように。
軍国主義下、敵視された者は殺される悲惨さと殺らなければ殺られる不安、現代人が観ると何で?と思うだろうが今現在ウクライナでも同様なことが起こってるだろうし、災害時にフェイクニュースがSNSで瞬く間に広がりを見せたりアメリカでの人種差別による暴行や殺人もこの福田村事件と何ら変わらない。
ネット社会で匿名を良いことに好き勝手に有ることないこと発信し誹謗中傷する世の中。またそれを見聞きし信じてしまう現実は殺害までしなくても死に追い込むことは誰もがしうることです。
近所の住人の噂話、地域でもデマや新聞報道、ロシアや中国のように情報統制や発信の規制、岸田政権はこの事件の記録がないので確認できないとしているが確認しようとしないのが現実。
この映画はありとあらゆる多種多様な差別、偏見が度を越すと悲惨な結末しかないことを伝えている。
クラウドファンディングもあって作品が完成し役者達のリアルな演技に良くぞここまでの作品を制作してくれて有難うと言いたいです。
必見です
怖いのは集団心理
見ていてなかなかの辛さだった。これが脚色はあれど実際にあった事件と思うと、ただただいたたまれない。
集団心理の怖さ、風評被害の怖さ、差別意識の怖さ。
他のレビューの人が、日本人が〜と言ってる人もいたが、日本人が、なのかなと。どの国でも、どの人種でも起こりうる話なのではと。日本人が〜と言う考えかたこそが、このような差別から起こる惨劇を産むのではないのかと。
怖いのは差別、集団心理、風評被害、そして自分は正義と思う思い込み。
これらが重なると人は人を殺めることすら簡単にしてしまう。
自分があの場にいたら、、
東出君をあのキャラクターにしたのは、適役なのか、悪意なのか!?このキャラをこの人にやらせるんだ!という配役があった。
思い込みの激しい、自分の正義を振り翳し、偏った思想の自警団を水道橋博士に演じさせたのは、なんとも言えない配役だった。
人間は恐ろしい生き物だ
まさに、人間の愚かさが凝縮したかのような映画『福田村事件』。出来事は、関東大震災の大正期だけど、いまだってたいしてかわらない。人間の本質なんて今も昔も同じだ。だから、同じ過ちを繰り返さないためには、過去の出来事の正しい認識が必要となる。
関東大震災の人災
それは、1923年の関東大震災後に起きた。
いわゆるデマがゆきかい、人々の不安を煽った。
社会主義者や朝鮮人、あるいは不定の輩が、混乱に乗じて井戸に毒を入れたとか、乱暴をはたらいたとか。
なぜ、マスコミがこんなデマを流したのかが大事だ。
真相が、今の時代に正確に伝えられているとは思えない。
映画は、そんなデマに振り回される千葉県東葛飾郡福田村の出来事。
この事件の顛末を、映画は、丁寧に描いてゆく。
デマが、本当のことになってゆく
そんな過程が、怖い。
疑えばきりがないのに。
ある方向に集団が向いてしまうと、修正がきかなくなる。
その過程が、おそろしい。
時代背景の要因も大きい。
富国強兵からはじまる、軍国主義国家日本。
そして、大正時代にはいり、自由を謳歌する大正デモクラシー。
社会主義の台頭。
これらを手動するのは、インテリ層。
当然おもしろくないのは、農民層と取り残された人たち。
政府の政策の失敗からくすぶる市民の不満。
市民の対立を上手く利用したのが、政府とそれに加担したマスコミ。
一度言い出すとあとに引けない怖さ
そんな、関東大震災とその後の動乱を凝縮したのが、『福田村事件』
嘘も、100回言い続ければ、真実になる。
そんな人間の怖さが、よく出ている。
一度言い出したことを訂正できない、修正できない変なプライド。
なんなんだろうこれって。
軍国主義国家のいびつな倫理観が、アチラコチラに出てくる。
怖い話だ。
今の時代は、大丈夫なのか
これもあやしい。
東京都知事なとは、関東大震災の慰霊に書簡を送るのをやめた。
もう、この日本人に都合の悪い出来事を消し去りたい勢力がいる。
政府の閣僚にも。
これが、今の日本社会の一つの流れになっているのが、怖い。
そうではないはずだ。
過去の過ちをちゃんと正確に認識することが大事だ。
さらに、事実を歪曲するのでなく、事実を事実として認識する。
でないと、同じことの繰り返しだ。
人間の愚かさだけで済む問題ではない。
東出昌大
村人も薬屋も馬鹿ばっかと涙した
今だからこそ観るべきか
6,000 余名の無念と恐怖
終盤に向かうに連れ、小さなシアターの8割近くを埋めた観客が、息を潜めてスクリーンを見つめていました。
森達也監督の強い思いと熱量、井浦新さん、永山瑛太さん、豊原功補さん、田中玲奈さん、東出昌大さん、木竜麻生さん、他全ての演者の皆さんの圧巻の演技に圧倒されました。
僅か100年前に日本が、日本人が犯した罪深い蛮行は、胸が苦しくなる程でした。
是非、多くの人々に観て頂きたい。政治家の皆さんにも。
ドイツの方々が、どんな思いでヒトラーやナチスに関する映画を作り、どんな思いで観ていらっしゃるのかを、初めて理解出来た気がしています。
映画館での鑑賞
流言飛語が飛び交う怖さは描かれたのか?!
満員の映画館に入ったのは何十年ぶりだろうか、いや、この映画はそれだけで意義のあることかもしれない、
しかし映画を見入っていくうちに疑問ばかりが湧き出てくる、この映画で最も肝要なテーマは流言飛語の実態とその原因、人間の持つ狂気では無いか?!
全般いろいろなドラマが説明的に描かれるがその後、空前絶後の大震災が関東地方を襲った。福田村で行商をしていた、薬売りの行商団は何とか生き延び、帰路の船着場に到着する、そこで福田村の日本人自警団による日本人の薬売りの行商団襲撃が始まり、大殺人劇が描かれる、しかし観客の僕には、なぜ殺すのか?!何の説得力も持たない、つまり流言飛語の怖さは全く描かれない、それが描かれなければこの映画は存在しないと僕は強く思う。だから、演出家に指示されて踊っている俳優にしか見えない、つまり登場人物がこんな状況で殺すのか?と言う疑問しか出て来ない、9月1日空前絶後の震災の悲惨さ、木々は倒れ火災が発生し多くの命が失われていく、政府の失政やマスコミの腐敗、はたまた不逞の輩の仕業か?また、社会主義の弾圧か?など。
それらの描き方に説得力は全く無い、それ故にこの映画の本質は僕には浮かび上がらない、
舞台上で演ずる舞台劇ならば、初めから俳優の演ずる劇と捉えることが出来る、しかしそれとて本質は同じだろう、しかし映画は、特に現実的に見てしまう、
資料映像も使わない、資金の問題もあったのかも知れない、それらは、作り手もポリシーでもあろう、しかし何故使わないのか強い疑問が残った、
震災の悲惨さがもっと強く伝われば、映画の感想は大きく変わったであろう。
この映画の主役は俳優にあらず、時代と状況であろう、
多くの監督が企画し諦めて行ったのは、その震災の状況は描けないと思ったのかもしれない、
しかし、この映画を企画し問題提起したこと自体は称賛に値する。
あまりに、絶賛評が多くてびっくり
あまりに、絶賛評が多くて少しびっくりしている。
もう少し賛否あってもいいかなと思ったのですが…。
香川県で生まれ育って、関東大震災での朝鮮人虐殺について教科書程度に、その騒動で
香川などの関東から離れた地域の人が言葉が違うとゆう理由で朝鮮人と間違われて犠牲になっていることは知っていたので、戦時下の人種差別や虐殺について知りたいと思って観たのですが。
映画で描かれているのは福田村での日本人虐殺についてだけ朝鮮人の殺害シーンは1人だけで
事件の背景として存在しているのみでした。
日本で起こったデマや差別意識が元に起こった虐殺を
朝鮮人ではない日本人も巻き込まれて、殺されたエピソードを入り口に多くの朝鮮人の人が殺されたことを描いて欲しかったなと思います。
ですが、そもそもこの事件を知らなかった人に
こうゆうことがあったことを伝える為に作られた意義はあると思いますし、朝鮮人虐殺はナイーブな話題なので避けたのかもしれません(避けるなら作る意義は果たしてあるのかと思いますが)
と色々思う所があるけれど
映画として上手く出来ていたのなら、考え方の違いとそてもう少し受け入れられたのですが、
映画としての出来もちょっとどうかと思いました。
前半の村人たちのメロドラマのどろどろ恋愛劇を延々と見せられてだいぶうんざり、いざ地震が起こってからの展開ものろまだし、わざとらしいセリフも多く
結果として暴走していく“男らしさ”に溢れた人物もレッテル的な描き方で深みがないから心底不快なだけ。
他人に足を踏まれる立場の人だからこそ、
より弱い立場の人。足を踏まれることの痛みが分かるとゆうのは、分かるけど、、、
ぐちょぐちょのメロドラマしてた人達が最後の虐殺のときに唯一香川の行商人達を庇おうとするのはなんか違う気がするんだよな、テレビのワイドショーで不倫スキャンダルされてネットリンチに泣いた人が、差別に敏感になるのか?みたいな腑に落ちなさ。
新聞記者の女性の取ってつけたような、正義感セリフとかも、韓国人女性が目の前で殺されたときの反応とか抵抗や葛藤も描かれないから空虚なものに見えるし。
香川行商人一行が、朝鮮人かと問い詰められて
ウンザリしたような様子でやおら、瑛太が朝鮮扇子を出して仰ぎだしたときは、バカなのかと思いました。
案の定「これは、朝鮮の扇子や!やっぱりこいつらは朝鮮人だ〜!」とか言い出して
馬鹿と馬鹿が会話してんのかと思った。
演出が露骨すぎでしょう。揉み合ったときに落ちるとかでいいじゃん。
色々な細かい部分で引っかかっているので
「じゃあ朝鮮人なら殺してええんか?」
と叫ばれても、当たり前なこと何言ってんだって思ってしまった。
そもそも人に囲まれた自分も家族も殺されそうになっている人は、命を守るのに必死でそんな人権的なこと叫ばないと思う。
衣装も、どこのコミュニティの人か分かりやすくしてるのだと思うけど、この時代の人たちのリアルな着こなしにみえなくて、そこも気になってしまいました。
言葉も、なまりキツくって朝鮮人に間違われた
とかいう割にちゃんと通じてそうだったし
あんまり香川の方言感もあるようなないような微妙な感じがしました。(千葉方面は分かりませんが)
映画としてよかったとこは、コムアイさんの演技はじめてみたけど自然かつ可愛いらしい人物に見えて素敵だった。
虐殺の始まりの一撃がショッキングさがあったこと。
学びとしてよかったことは
犠牲になった、香川行商人たちが部落差別を受けている人達だったと知れた。
こちらの方では差別が根強く、まだ問題が残っているので自分自身の差別意識とも改めて向き合えたこと。
この映画では、朝鮮人虐殺について分からないことが多いので自分できちんと勉強したいなと思いました。
私は映画や文化的なものは、共通点のない人物にも共感や興味が持てたする力があることだと思うので
被害者が日本人でなければ観ていなかった人にも
きの映画の犠牲の奥にもっともっと多くの犠牲があったことをはっきり描くべきだったと思います。
この映画を観て感動した考えさせられたと語っている人の中には
日本人が被害者にいたからこそ、共感できた人がいて、さらに一歩この事件を入り口に違う人種への差別、虐殺にも共感できる様な描き方ができると期待していたので、やっぱりこの映画の出来にはがっかりしてしまった。
今に通ずる事件の教訓とは?
odessaで鑑賞(前売り鑑賞券使用)。
原案は未読。
福田村事件については本作の製作が発表されるまで全く知らなかった。発表後にウィキペディアで調べ、その凄惨さに衝撃を受けた。公開されたら絶対に観ようと決めていた。
不安と恐怖が歪んだ正義感を増幅させ、最悪の事態へ発展する。実話故の重みが心にずっしりのしかかって来た。
事件の起こるまでのドラマがやがて訪れる悲劇的な出来事へ向け、その下地となる人間心理や空気感を詳らかにする。
「朝鮮人ならば殺してもいいのか!?」と云う永山瑛太演じる行商人の言葉から惨劇へ移行するシーンがおぞましい。
猜疑が殺意に変わり、目を背けたくなる所業が繰り広げられた。日本人による日本人の殺戮。ただただ悲惨すぎた。
しかしそこで、私はハッとさせられたのである。自警団が行商人たちを朝鮮人ではないかと疑い詰め寄るシーンを観ながら私は、「この人たちは朝鮮人じゃない、日本人だから殺しちゃいけないよ!」と(劇映画だから悲劇が起こることは分かっていても)惨劇が回避されるように祈っていた。だが、上記のセリフを聞いて、この祈りは裏を返せば「朝鮮人ならば殺してもいい」と云う意味になるのではないかと気づかされ、無意識の内にそう考えていた自分に恐怖し、そして嫌悪を覚えた。
SNSが発達した現代社会にも通ずる情報・印象操作や集団心理の危うさに、周囲に踊らされず自分の頭でしっかり考えることの大切さを痛感させられた。
当時よりもさらに情報が氾濫する世の中において、どこまで己を貫くことが出来るか。おかしいことに声を上げねば新たな福田村事件が容易に生まれてしまう。
しかしながら、傍観者になっていないかと問われれば、否と言える自信の無いことにも気づかされた。井浦新演じる教師のように、果たして前に出られるかどうか…
※修正(2024/11/29)
悲しいけどあの御守り役に立ちましたね。
【"関東大震災時の流言蜚語に踊らされた人々、利用した人々。"今作は、人間の愚かさ、醜さ、集団心理の恐ろしさを描いた作品であり、この国が且つての様な過ちを起こす国にならない事を切に願った作品でもある。】
- 関東大震災時の朝鮮の民や、社会主義思想者が六千人虐殺された事は知っていたが、福田村事件に付いては、恥ずかしながら知らなかった。
何故に、東京ではない、千葉の福田村であのような虐殺が起こった理由を、今作品では、人間の愚かさ、弱さ、醜さ、集団心理、同調圧力の恐ろしさの面から嫌と言う程、見せつけるのである。-
◆感想
・大正12年に、朝鮮語教師だった澤田(井浦新)が妻の静子(田中麗奈)と共に故郷の福田村に戻って来る。
更に、同じ列車に乗っていた夫を亡くした咲江(コムアイ)が骨壺を持って戻って来る。
ー 大正デモクラシーが隆盛を誇っていたが、一方では日本が、第二次世界大戦に邁進していく時期である。
現代の日本が、大正時代に似ていると何人かの政治学者及び歴史学者が指摘している事はご存じの通りである。
朝鮮で、日本人による朝鮮人虐殺に不本意ながら通訳として関わった澤田は、
故郷に戻っても教職についてくれと頼む村長(豊原功補)の言葉を聞きながら、農家になると呟くのである。-
・澤田は、事件のショックで性的不能者になり、妻を抱くことができず、静子は不満を持つ。そして、わざわざ作った朝鮮料理の夕餉の際に夫に家を出ると告げるのである。
ー 静子は、渡し船の船頭(東出昌大)と船上で関係を持つが、その姿を船頭と昔、良い仲で会った咲江と澤田は黙って観ているのである。
澤田は、朝鮮でも日本でも”傍観者”なのである。豆腐屋を営む、咲江の表情は複雑だ。ー
■そして、同年9月1日に関東大震災が起こる。作品は当日とその後の日々を一日ずつ、描いて行く。
二日目には既に”鮮人が建物に火を付けた。””鮮人が女を犯している。”鮮人が水に毒を入れている。”という流言蜚語が流れている。”見たのか?”と言う問いかけには、皆が”嫌、噂で・・。”と言うばかり。
社会主義者の平澤計七(カトウシンスケ)は、その噂を流していた男の顔を見て”警官だ・・。”と呟くのである。
当時の政府が、関東大震災に乗じ、朝鮮人撲滅、社会主義者撲滅を画策していた事は衆知の事実だが、正にこの頃から日本は不寛容な国家になって行ったことが良く分かる。
又、日本国民がその流言蜚語に踊らされていた事も・・。
・東京に戒厳令が施行される中、福田村には四国の讃岐から穢多でもある薬売りの一団がやって来る。そして、彼らは讃岐弁が分かりにくい事もあり、鮮人ではないかと疑われるのである。
薬売りの団長(永山瑛太)が"朝鮮人なら、殺しても良いのか!"と叫ぶ言葉も重い。
ー このシーンは恐ろしい。団長が薬剤販売免許の紙を警官に渡し、警官が本物かどうか確認しに行った際に、夫が東京に出稼ぎに行って鮮人に殺されたと思い込んでいた女が無表情のまま手にした鎌を、団長の頭に突き立てるのである。
その後は国粋主義者の若者が日本刀で女や幼子に切りつけていく。
正に誤った集団心理の恐ろしさが、如実に描かれているシーンであろう。
河原に逃げたインテリの薬売りの若者が絶望の表情で呟いた言葉は、忘れ難い。
”何のために、生まれて来たのか・・。”
そして、彼は村人たちの竹槍でめった刺しにされるのである。
更に、罪無くも殺された薬売り達は、川に流されるのである。
日本人が流言蜚語に踊らされ、同じ日本人を9人(お腹の赤子を入れると10人)殺めたのである・・。-
・残りの薬売り達は針金で縛られている。そこで、漸く澤田は”傍観者”の立場を振り払い”彼らは日本人だ!”と且つて妻、静子に薬を売りに来た少年を見ながら叫ぶのである。
ー 澤田が、過去の呪縛を自ら解き放ったシーンである。
そして、静子の澤田を見る表情が、少しだけ変わっているのである。-
<この作品は、実に恐ろしい。
人間の持つ様々な”業”が赤裸々に描かれているからである。
マイノリティに対して、不寛容な言葉を発する国会議員が居る日本。
ヘイトスピーチが無くならない日本。
今作は、この国が、かつての様な過ちを起こす国にならない事を切に願った作品でもある。
そのためには、マスメディアがキチンと真実を掴み、政府に忖度せずに、国民に正しい情報を流す機能を維持すること事が、必須なのである。
私たちは、過去の負の歴史を、今一度学ばなければいけない時が来ていると思うのである。>
<2023年9月10日 刈谷日劇にて鑑賞>
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