福田村事件のレビュー・感想・評価
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恥
自分の安っぽい感想を綴るのもおこがましいと
感じるほどに痛烈で衝撃的な作品でした。
震災の混乱期に起きた。
否
いつの時代にも、どの市町村でも起こりうるもので
集団心理の恐ろしさもさることながら
自分を保つために、自分より下の者を攻撃する習性に
嫌悪しつつ、己の中にもある差別感情にも
気が付かされ不快になります。
正直、いままで韓国という国は好きじゃなかったし
(エンタメや食文化は大好き)
いつまで反日感情をむき出しにするんだ。
だったら日本に来るなよ。まで思っていたのです。
でも、本作を観て、事件を知って
涙が止まりませんでした。
申し訳なさに、その非道さに、無常さに
このレビューを書いているいまも泣きそうです。
誰しもが見えない恐怖に抗えないとは思う。
集団となった時の安堵が狂気に変わる集団心理を
まざまざと見せつけられた思いです。
国のため、村のため、家族のためと言い訳を
していた在郷軍人会の面々には反吐が出そうです。
とはいえ、自分がその場にいて、目の前で繰り広げられる
狂気の沙汰を止める事が出来たか。
答えは「できる」と言いたい。「できる」人になりたいと思います。
物語上、不必要だなと思うシーンもいくつかあります。
ただ、どの出演者の皆さんも辛い役回りを
見事に演じていると思い、また多くの若者、これからの
日本を担っていく人たちに観て欲しいなと思う
日本の闇、負の歴史です。
映画は💦と思ったなら、せめてどんな悲惨な事件が
起きたのか、なぜいまこの事件が映画化されたのかを
調べて観て欲しいと思います。
集団のヒステリー
さすが森さん!と言いたい。
冒頭すぐの「戦争にいい戦争も悪い戦争もない」というセリフ。
山場(と言ってもいいのか?)虐殺の場面の「朝鮮人なら殺していいのか」
そして終わりに近いところでの「みんなそれぞれ名前があった」というセリフ。
どれも重たいけれど、とても大切な言葉。
見るべき映画…それも若い人に観てほしい。
それ以上に絶対見てほしいのは、腐り切った日本のマスメディアに携わる人。
女性記者の言葉を一つひとつ噛み締めて、みずからを律してほしい!いや、律せよ!
ジャニーズのチカラある人が犯した犯罪を死んでから騒ぎ立てる姿は、まるで福田村の人々の集団ヒステリーとどう違うのか?と、ジャニーズファンではないけれど、ふと思ったり。
最後の最後に、ナタ?で瑛太を一撃にした妻の夫が帰るシーン…とても残酷と思った。私がその妻だったら気が狂うなと思った。
朝鮮人なら殺してもええんか?!
今年の邦画ベスト1はこれで決まりだろう。関東大震災からきっかり100年に狙いを定めての公開、折しも政府が「朝鮮人虐殺の記録は見当たらない」としらばっくれる中でかつての軍国日本のみならずまさに今の「新たな戦前」に向いつつある日本を痛烈に糾弾する社会派エンタテイメントの傑作である。「記録が無い」は全く大ウソで震災の2か月後に神奈川県が「朝鮮人を145人殺しました」と内務省に詳細に報告した文章も残っている(東京新聞9/5)らしく、そもそも内務省が「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり・・各地に於て充分周密なる視察を加へ鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし(横浜市史)」と地方長官に打電し警察が率先してこのデマを流布したとされる。今作の切り口が鋭いのは、数千人にのぼるといわれる朝鮮人虐殺を正面から描くのではなく千葉県福田村での行商一行9人が「朝鮮人と間違われて殺された」という事件にスポットを当てた点であろう。真っ先に殺される行商のリーダー永山瑛太が言うように「朝鮮人なら殺してもええんか?」という叫びがこの映画の全てである。讃岐から来た行商一行の言葉がおかしいので「朝鮮人だろう」と疑われ、村の警官が行商人が示した「鑑札」を調べるからそれまで手を出してはならんと言う。つまり間違って日本人を殺してしまってはまずいけれども、朝鮮人なら殺してOKだというのだ。行商一行は香川県の被差別部落の出身であったことから公に告発をせず、事件は80年近く闇に埋もれていた。ずっとこの件を世に出そうと企画していた森達也と若松プロの荒井晴彦がタッグを組んだ奇跡的作品。撮影の桑原正が素晴らしく森達也のハンディカメラでは到底描けなかったであろう一級の名作が生まれた。
幸せになりたかった
恐怖と残虐性
ドキュメントの森監督が撮る映画ってどうなんだろうと言う興味と、見なければいけない題材という責任感とで最近みたい映画No. 1でした。
お客の入りもよいようで良かった良かった。
実際にあった事件を元にしたフィクションとは言え、当時の事はかなり調べられているようで、小さなエピソードの積み重ねが説得力に繋がる良い例だと思いました。様々な境遇、経験、立場の普通の人達が淡々と日常を積み重ね、それが突然狂っていく恐ろしさが描かれてます。役者達の熱量も半端なく、東出君はかなり初期から監督に参加のラブコールしていたそうです。あとコムアイ美しい!
結局、じわじわ広がる恐怖に火をつけたのは国からの伝令であり、それに乗じて思想弾圧をカモフラージュする目的だった?という、、なかなか映画化されずらい日本の黒歴史を描いた事だけでもこの映画の価値があります。
実際に亡くなった朝鮮人は各地でたくさんおったわけですが、本件の間違って殺された行商人が四国からだという事で勝手に東京西側の話かと思っていましたが、実際は千葉県で起きた事件なんですね。
自分がやった事が仕返しされるのでは、、という恐怖。
それが論理や倫理性を飛び越え感情的な行動になる過程をしっかりと見て、心に焼き付けて帰りました。
二度と同じ過ちを繰り返さないように。
掘り下げが足りない
史実を元に描いてるのに、リアリティーを全く感じさせない構成だった。
知りたかった部分である何故そうなってしまったのか(どういう心情で殺害が行われたのか)殺害した人にはスポットが少ししか当たらず、きっかけとなった最初の殺人がぽっと出の端役だったりで残念な作品。
堤岩里教会事件を取り扱うなら朝鮮動乱についても触れて欲しかった。
結果には必ず原因がある。流言の流布の恐ろしさを描いてるのは分かるが、何故そうなるのかまで描かないと人間の本質とは言えないのではないか。
色々と公平ではなく、切り取った描き方をしている印象。
何分100年前に起こった事件なので詳細は分からない部分が多い。それだけに期待していたのだが、キャラクターの動機の部分に粗が目立っていた。
そこまで大正時代の一般人は頭が悪かったのだろうか?
現代人の自分から見たら映画「福田村事件」の加害者達はサイコパス以外の何者でもない。
映画を見ていた人たちがもしあの場にいたとしたら、ほぼ全員が行商団を庇うだろう。
「『集団』、そして『不安と恐怖』。この2つが揃ったときに、人は変わってしまう」と監督は言っているが、あの村の状況からは不安と恐怖は読み取れない。セリフだけで具体性が無い。この監督の言葉は映画の補足にしかなっていない。
「あの場にいたら自分もそうなっていたかもしれない。でも殺してはダメだ」という気持ちにさせてくれないと、少なくとも現代性とは言えない。
不幸な出来事に対する傍観者にしかなれない。
100年経っても進歩出来ないニッポン
今日の日本で本作が制作されこうして鑑賞出来る事に感謝し、一縷の望みがまだある事を信じたい。本作の内容はもちろん脚色は当然ですが、全て事実です。何の証拠もないなどと、馬鹿な官房長官と同じ嘘八百を言ってはなりません。証拠はたっぷり公式に残されております、歴史修正主義者なんぞ調べる気はさらさらなく、都合のいいことしか言いません。低能だからだけでなく、それが「楽」だからに他なりません。
本作で再現された構図は過去完了どころか、さらに増大して今も私達の直ぐ側に大口開けて待ってます。現政権はもちろん知事レベルにおいてすら、無かったことにしましょう、が今日ですから。謝ってばかりはもうウンザリ、もうとっくに金で決着になってるでしょ、俺たちは前だけを見て一丁前に正論を吐きたいのだよ、と被害者側への想像力ゼロで平気で出鱈目を言う。そんな勢力に入っていれば楽だし威勢がいいからね、真に正しい事を言い出す奴等には、速攻突っ込み入れて叩きのめしますよ、金も貰えるかもね。正しい事は面倒臭せぇ、そんなのはフタすりゃ楽だろが。って皆様ご存じの通り。
映画の中の福田村の村民・憲兵たちと何にも変わっちゃいないのです。100年経っても全く進歩どころか、後退しているのが今の日本なのだと言う現実を、本作は観客に突きつけてくる。日本人の精神構造がオカシイのではなく、真の反省を避け続けた結果であり、戦後においても集団行動優先の教育がなされ、出る杭は打たれる意識構造ゆえ、忖度が蔓延り今に至る。「朝鮮人は出ていけ~」と叫ぶ奴等が朝鮮半島に大金を貢ぎ続ける奇怪さ。公文書改竄からもろもろの人権軽視、国会機能不全、各種国際指標の著しい低下、などなど。だからジャニーズ事務所も安泰、汚染水も処理水と呼ぶ欺瞞を公然とミスリード、映画の内務省と全く同じ。
人間はその字の通り、人と人の間と書く、すなわち群れを成して生きる動物なのです。忠実な集団行動で回り続け、それが正しい方向に向かっていればいいけれど、そうとも限らない。そこで異論が出る、生まれながらに多数派に属せない人もいる、そんな異分子は切り捨てるのが楽って考え。1ミリも少数派の身になって考える事が出来ず、ひたすら金の論理のみで行動する。障害のある方やLGBTQだって悪用のリスクばかり強調して苦しみを想像なんて一切しない。嗚呼、没落国家まっしぐら。
映画は一種の群像劇の様相で、福田村を立体的に描いてゆく。井浦と田中の崩壊夫婦とその秘密、永山の薬売りの集団エネルギーの発露と裏側にある被差別、東出の船頭の欲情と孤立、カトウの左翼言論、木竜・ピエールの新聞報道の苦悩と忖度、そして戦争未亡人の立ち位置から憲兵達の単細胞愚直。ことにも水道橋博士の元軍人の造形が白眉の出来。何故なら彼の総てのセリフはそれだけを聞けば至極真っ当で、村をひたすら護る意識に満ち溢れる、だからこそそれを取り巻く状況の危うさが、実に恐ろしいのです。間男役に挑む東出昌大は本当にいい役者に成熟したもので、今村昌平ムードに男の色気が充満です。それぞれにトップスター級を配し、製作者の意欲と参加したスタッフ・キャストのレベルの高さが心強い。
いよいよの震災シーンに至るまでがやや冗長ですが、9月1日を境にカウントダウンを踏んで悪魔の惨劇クライマックスに突入する。流言飛語、付和雷同、思考を停止し大勢に流れる人間の愚かをこれでもかと描く。しかし、現実はこんなもんじゃないだろうと推測、もっとここだけは嫌と言うほどの強烈が欲しかった。朝鮮人と日本人、どちらが偉いか? なんてナチスドイツと全く共通する。竹槍で突かれる恐怖と痛みを思い知る。
そもそも当時日本に何故朝鮮人がかくも居るのか、国家は何をしたいのではなく、何を隠したくて、スケープゴードを操作しようとするのか。人間の弱点を悪用した国家の犯罪は、どこまでも糾弾せねばならないでしょう。人は見下す相手がいれば安泰と思う習性がある。下には下があるのだと、上には上があることは隠したがるのに。
みるべき。
現代社会が透けて見える
面白い作品だった。クセのある俳優をこれだけ集めたのも監督の意図があったのだと思う。しかし、ドキュメンタリー作家としての作り方が仇となっているきらいがある。先ず俳優に台詞として、自らの思いを語らせ過ぎている。その所為でカットしても良いシーンが多い。柄本明のシーンは必要がない。東京の社会主義者のシーンも必要がない。次にエピソードを詰め込み過ぎている。その分、長くなり少しだれる。そんな夾雑物とも言えるものを削ぎ落として、せっかく演技が出来る俳優を揃えているのだから、演技で語らせるべきだ。監督は言わば長編映画は素人であるから、俳優の可能性を知らないのかもしれない。そして、映像が語る見せ方と演出を知らないのかもしれない。ドキュメンタリーではないのだから、語らせてばかりでは見劣りがする。面白い作品ではあるのだが、集中力を阻害する要因が散らばっている分、少し残念である。閉鎖的な村社会の実情を語るのに時間をかけ過ぎたようだ。もう少し整理して、削ぎ落とすことで、更に良い作品になったと思う。次回の映画作品に期待をしたい。
目をそらさない人でいたい
関東大震災の直後、多くの朝鮮人が虐殺されたのは明らかな史実だ。この歴史の怖いところは、殺したのが自警団を結成した一般の日本人市民たちだということ。ヒステリックな集団心理の怖さを感じる。
そんな震災後の朝鮮人虐殺が行われた中での日本人殺害を描いたこの映画。序盤は地震発生までの福田村の姿と香川から出発する行商一行が淡々と描かれる。それが結構長いのに不思議と飽きない。仕事をし、飯を食い、セックスする。今で言う不倫や浮気もあったりする。時代だなーと思うところもある。でも、時代は違えど彼らが普通の人々だということをうまく描いていた。
そこで地震が発生。不穏な空気に一変する。そこで活きてくるのが、今まで描いてきた普通の人々の中にある朝鮮人への差別意識。福田村には朝鮮人がいない中、行商で訪れていた薬売りの一行を、村を襲いに来た朝鮮人だと勘違いする流れ。とても緊迫感のあるシーンだったが、朝鮮人だろ?日本人だ!のやり取りを聞きながら、猛烈な違和感を覚えていた。そこじゃないよと。そのモヤモヤを、永山瑛太演じる行商の長が振り払う一言を放ってくれた。あの展開はハッとさせられる。
説教くさくなるのを極力抑えたように思える作りだったが、それでもインパクトは絶大だ。悲しいシーンもあるのに、その悲しさよりもショックのほうが強くて泣けなかった。最後の字幕も含めてやるせなさと憤りを強く感じてしまう。なんて映画だ。これは目をそらさずに観ておくべきだ。
映画の創作意欲
この実際の事件を映像化しようと思う活動は、義憤か興味か?
集団心理を扱った実験は古今東西色々な文献で探ることが出来る しかしそれはあくまで"実験"であり、現実に起った事象に対して分析を補強するに過ぎない
複雑な原因がレイヤーとなって沈殿する時、その暴発点迄に辿り着く過程は文章化しようにも困難を極める
文脈の間に読む人の想像力、経験値、そんな曖昧模糊を網膜の裏に表現してゆく "創作活動"である
勿論、フィクションであり、100人いれば100通りの表現が存在する その中には上記の持ち併せているモノ以外に、思考や主義、宗教観、そして感情度合いも左右されるだろう
でも、出来事はいつも繰り返される ループ物なんてSFの世界じゃなく現実に行なわれているのである
いつの時代でも、どの場所でも悲劇は同様の結果で着地する そしてその結果が要因となり、誘発され又繰り返される・・・
繰り返す輪廻の中で、生きるということ 希望とか絶望とかを体現せず産まれる事が叶わなかった"望"ちゃん
疑心案義、しっぺ返しの恐怖、ヒエラルキーの安心感、面白いように人間に湧き出るこの思い 次々と書き換えられていく感情に苛まれるのが"生きる"ということ
しかし人間は最後の安全装置を装備してしまっている 『死ぬことが恐い』 安全なのか危険なのか、他者を殺めても自分を殺めない、この"都合"をこねくり回し続ける 消し去ることなど不可能なのに・・・
観たい度◎鑑賞後の満足度✕ これだけの凄惨な事件だから如何様にでも作劇出来たのにこんな脚本では駄目である。演出も平板。何が普通の農民を「鬼」にしたのか、なれたのか、誰でもなるのか、掘り下げが足りない。
①戦後生まれの身としては(といっても1961年生まれだから戦後から16年しか経っていなかったとは、戦後78年目の今から見ると不思議な感じ)、戦前の日本が何故にあれ程挙国一致的に戦争へと突き進んで行ったのか、国民は何を思い考えていたのか、抗う気はなかったのか、抗えなかったのか、流されただけなのか、いつも疑問に思っていた。
母親が戦中派、といっても当時は小学生だったので竹槍の訓練には早かっただろうと思っていたら、なんとチャンと訓練の時間が有ったという。「敵が来たら本当に刺し殺す気やったん?」と訊いたら「そうや。でもその前にパンパンと撃ち殺されるやろなぁ、と友達と笑い合ってた」、とのお話。
子供らしい無邪気さと言えばそれまでだが、戦後生まれとしては何となく笑えない話。
その当時の空気とか時代の雰囲気とかが分からないとなかなか理解しづらいんだろうなぁ、と思う。
そういう戦前の時代相と“福田村事件”の背景の時代相とには通底するものが有るように思う。
しかし本作は、起こったことを表面的に描いているだけ。‘昔、こんなことがあったですよ、ひどいですねぇ、怖いですねぇ’というだけ。100年も封印されてきた(私には何故に100年も封印されてきたのか、という方がより深刻で向き合わねばならない問題のように考えるが本作では最後のプロップで紹介されるだけ)だけに、断片的な出来事しか分かっていないから映画としてはフィクションの部分(人物とか、その人の行動とか)を設けて話の間を埋めなければならないのはわかるが、そのフィクションの部分がいかにも作り物っぽく+不必要(というかもっと上手作れなかったのか)で興ざめる。
②関東大震災の時に関東で何百人という朝鮮人や中国人が流言飛語のせいで虐殺されたのはよく知られた話である。
”流言飛語”が東京内だけでなく関東一円に拡がっていたためである。
この流言飛語(震災の混乱に乗じて朝鮮人が日本人を殺そうとしている等々)が何故出てきたか広がったか、人々が信じて自警団まで作ったか。
現代はそんなことはもう起こらないと言い切れるのか。SNSでフェイク情報や流言飛語が当時より拡散しやすくなっている現代、その怖さは全くないとは言えますまい。
③あげつらいたい欠点は山ほどある本作なので、どこから言えば迷うところだが、今(2024.02.12)本作を思い出しながら頭に浮かんだことを先ずは書こう。
本作は基本的に井浦新と田中麗奈の視点から描かれている。つまり、部外者・第三者からの視点だ。
視聴者の大部分と同じ立ち位置であり、言い方は悪いが安全圏にいる者たちの視点である。
当事者の視点はない。だから生々しさがない。
資料が少なく百年前の話だから、当事者の観点から描きようがない、という意見も有るかもしれないが、そこが想像力が有るかどうかの分かれ目であり、フィクションにする意味があると思う。
要りもしないSEXシーンなど挿入せずに、もっと描くことがあった筈だ。映画には兎に角濡れ場が必要だと思う制作側のあまり上品でない下心が透けて見えるようだ。
④
中学、高校で差別、偏見の授業として観せるべき
大正時代、朝鮮人差別が日本人に蔓延っていた。
関東大震災の発生をきっかけにデマが流れ、朝鮮人が拘束されまた見つかり次第殺害されるように。
軍国主義下、敵視された者は殺される悲惨さと殺らなければ殺られる不安、現代人が観ると何で?と思うだろうが今現在ウクライナでも同様なことが起こってるだろうし、災害時にフェイクニュースがSNSで瞬く間に広がりを見せたりアメリカでの人種差別による暴行や殺人もこの福田村事件と何ら変わらない。
ネット社会で匿名を良いことに好き勝手に有ることないこと発信し誹謗中傷する世の中。またそれを見聞きし信じてしまう現実は殺害までしなくても死に追い込むことは誰もがしうることです。
近所の住人の噂話、地域でもデマや新聞報道、ロシアや中国のように情報統制や発信の規制、岸田政権はこの事件の記録がないので確認できないとしているが確認しようとしないのが現実。
この映画はありとあらゆる多種多様な差別、偏見が度を越すと悲惨な結末しかないことを伝えている。
クラウドファンディングもあって作品が完成し役者達のリアルな演技に良くぞここまでの作品を制作してくれて有難うと言いたいです。
必見です
怖いのは集団心理
見ていてなかなかの辛さだった。これが脚色はあれど実際にあった事件と思うと、ただただいたたまれない。
集団心理の怖さ、風評被害の怖さ、差別意識の怖さ。
他のレビューの人が、日本人が〜と言ってる人もいたが、日本人が、なのかなと。どの国でも、どの人種でも起こりうる話なのではと。日本人が〜と言う考えかたこそが、このような差別から起こる惨劇を産むのではないのかと。
怖いのは差別、集団心理、風評被害、そして自分は正義と思う思い込み。
これらが重なると人は人を殺めることすら簡単にしてしまう。
自分があの場にいたら、、
東出君をあのキャラクターにしたのは、適役なのか、悪意なのか!?このキャラをこの人にやらせるんだ!という配役があった。
思い込みの激しい、自分の正義を振り翳し、偏った思想の自警団を水道橋博士に演じさせたのは、なんとも言えない配役だった。
人間は恐ろしい生き物だ
まさに、人間の愚かさが凝縮したかのような映画『福田村事件』。出来事は、関東大震災の大正期だけど、いまだってたいしてかわらない。人間の本質なんて今も昔も同じだ。だから、同じ過ちを繰り返さないためには、過去の出来事の正しい認識が必要となる。
関東大震災の人災
それは、1923年の関東大震災後に起きた。
いわゆるデマがゆきかい、人々の不安を煽った。
社会主義者や朝鮮人、あるいは不定の輩が、混乱に乗じて井戸に毒を入れたとか、乱暴をはたらいたとか。
なぜ、マスコミがこんなデマを流したのかが大事だ。
真相が、今の時代に正確に伝えられているとは思えない。
映画は、そんなデマに振り回される千葉県東葛飾郡福田村の出来事。
この事件の顛末を、映画は、丁寧に描いてゆく。
デマが、本当のことになってゆく
そんな過程が、怖い。
疑えばきりがないのに。
ある方向に集団が向いてしまうと、修正がきかなくなる。
その過程が、おそろしい。
時代背景の要因も大きい。
富国強兵からはじまる、軍国主義国家日本。
そして、大正時代にはいり、自由を謳歌する大正デモクラシー。
社会主義の台頭。
これらを手動するのは、インテリ層。
当然おもしろくないのは、農民層と取り残された人たち。
政府の政策の失敗からくすぶる市民の不満。
市民の対立を上手く利用したのが、政府とそれに加担したマスコミ。
一度言い出すとあとに引けない怖さ
そんな、関東大震災とその後の動乱を凝縮したのが、『福田村事件』
嘘も、100回言い続ければ、真実になる。
そんな人間の怖さが、よく出ている。
一度言い出したことを訂正できない、修正できない変なプライド。
なんなんだろうこれって。
軍国主義国家のいびつな倫理観が、アチラコチラに出てくる。
怖い話だ。
今の時代は、大丈夫なのか
これもあやしい。
東京都知事なとは、関東大震災の慰霊に書簡を送るのをやめた。
もう、この日本人に都合の悪い出来事を消し去りたい勢力がいる。
政府の閣僚にも。
これが、今の日本社会の一つの流れになっているのが、怖い。
そうではないはずだ。
過去の過ちをちゃんと正確に認識することが大事だ。
さらに、事実を歪曲するのでなく、事実を事実として認識する。
でないと、同じことの繰り返しだ。
人間の愚かさだけで済む問題ではない。
東出昌大
村人も薬屋も馬鹿ばっかと涙した
今だからこそ観るべきか
6,000 余名の無念と恐怖
終盤に向かうに連れ、小さなシアターの8割近くを埋めた観客が、息を潜めてスクリーンを見つめていました。
森達也監督の強い思いと熱量、井浦新さん、永山瑛太さん、豊原功補さん、田中玲奈さん、東出昌大さん、木竜麻生さん、他全ての演者の皆さんの圧巻の演技に圧倒されました。
僅か100年前に日本が、日本人が犯した罪深い蛮行は、胸が苦しくなる程でした。
是非、多くの人々に観て頂きたい。政治家の皆さんにも。
ドイツの方々が、どんな思いでヒトラーやナチスに関する映画を作り、どんな思いで観ていらっしゃるのかを、初めて理解出来た気がしています。
映画館での鑑賞
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