福田村事件のレビュー・感想・評価
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100年前の過ちを繰り返さないために
日本が軍国主義へと急速に傾いて行った時代。まだ閉鎖的なムラ社会がいたるところに見られた時代。
そして部落出身者や在日朝鮮人に対する差別が堂々と罷り通っていた時代。
100年前と今とでは社会状況は大きく違うが、これを過去の歴史の記録としてだけ捉えて良いのだろうかと考えさせられた。
コロナ禍もそうだが、非常事態に陥った時に人は冷静な判断力を失う。
そして混乱に乗じて国は権力者に都合の良い法律を通そうとする。
関東大震災では何の根拠もない流言飛語によって多くの在日朝鮮人が犠牲になった。
そしてそれを焚き付けたのは国であり、報道は言論の自由を奪われ、国に都合の良い情報しか発信しなかった。
今はそうではないと果たして言い切れるだろうか。
コロナ禍でもデマによって在日の外国人が襲われたというニュースが流れていた。
どれだけ情報が得られる世の中になったとしても、それを正しいものかそうでないかは個人個人がしっかりと見極めなければならないのだ。
この映画を観て、どのようにして拡散されたデマによって人々にイメージが植えつけられるか、そして集団心理によって人が凶暴化するかをまざまざと見せつけられた。
とてつもない不幸が襲いかかってきた時に、人は知らず知らず敵を作り出してしまうものだ。
そしてその敵はマイノリティな存在であることが多い。
弱いものがさらに弱いものを虐げる社会の構造は、今もそれほど変わらないのだと思う。
福田村事件で犠牲になった行商人の一行も部落出身者だった。
「日本人と同じように良い朝鮮人もいれば悪い朝鮮人もいる」
報道記者の恩田が部長に対して放った言葉だが、これが本来正常な人間の考え方だ。
しかし国や民族という呼称ですべてを一括りにしてしまう人間もいる。
それが緊急時であれば尚更だ。
国のお達しにより自警団を築き上げ、瞬く間に凶暴化していく村人の姿は恐ろしかった。
もちろんその土壌はずっとあったのだろうが。
そして彼らはそれを正義と信じて疑わない。
一度火がついた村人たちは信じたいものしか目に入らなくなる。
どれだけ村長が止めようと、どれだけ日本人であると説明しても、行商人の一行を包囲して村人たちは聞く耳を持たない。
そんな中で包囲された行商人の親方である沼部が口にした「朝鮮人なら殺していいのか」という言葉が耳に突き刺さった。
村人たちは物事の本質を何も理解していないのだ。
そして沼部の言葉がきっかけとなり暴動はエスカレートしてしまい、子供も含めた9人の尊い命が失われてしまう。
そして彼らが日本人だと分かっても、村人たちは村を守るための正当な理由があったのだと主張する。
これも国による洗脳なのだと強く思った。
関東大震災の混乱に乗じて、社会主義思想の人々を弾圧する軍の姿にも寒気を感じた。
日本の戦時体制が加速化するきっかけとなった関東大震災から100年、また同じ過ちを繰り返してはならないと強く感じると同時に、自分の頭でしっかりと情報を判断する力を持つことの重要さを実感させられた。
現代に通じるメッセージ
常識の向こう側
美醜善悪清濁。
世間の認識の反対側に、
常にカメラを置く森監督。
『A』と続編では教団側、
『FAKE』では本人。
本当に濁なのか、
世間がいうように悪なのか、
観客のみなさん、どうですか。
と。
本作は、
善悪清濁を並べて、
整理しないでそのままを観せる。
ラブシークエンスも、
整理しない、
醤油工場での経験に基づくセリフや、
通訳をした経験のセリフ、
のような、
活きたセリフのシークエンスを基準にプロットの整理もしない、
どこかに書いてあった事件をそのままセリフにしても活きないがそのまま。
ハンセン病患者が住処を追われるのは、
『砂の器』でもあった。
そんな清濁善悪美醜全部乗せ、
さあ、直列繋ぎで召し上がれと。
国籍による、
仕事や住処による、
病気などによる、
この直列繋ぎを、
五部作くらいの、
ドラマのような、
映画のような、
作品にすれば、
最近でいうと『三体』や『ダーウィン事変』のような、
エンターテインメントの
ちょっとしたパラダイムチェンジの、
可能性も孕んでいる。
もちろん、
パラダイムチェンジといっても、
古今東西の作り手にとっては、
普遍的な内容だが、
観客にとって、
繰り返し起きている現実に、
見ないふり、
知らないふり、
では済まなくなってきてるのでは?
という危機感が迫ってきているのかもしれない。
『i 新聞記者』の評はyoutube にアップしています。
何故、朝鮮人の生活を描かない??
マイナス面もある
多くの方が既にコメントされているので、そのプラスの評価には私も同意する。朝鮮人や部落出身者差別は決してあってはならないし、反面教師として現代社会でも十分留意していく必要があり、そこに一石を投じた作品として極めて高い価値がある。ただし、一方で気になる描写もあり、その点だけ述べさせていただく。例えば当時の官憲が朝鮮人犯罪を捏造流布したとの単純な前提があるが、果たしてそうなのか?実際犯罪はあったがために注意喚起が
されたという可能性はないのか?この映画やレビューではそこは完全に所与のもの(官憲による捏造犯罪)として取り扱っているが、疑問が残る。またうら若き朝鮮人女性一人を名前が朝鮮人名だというだけでいきなり警護団員が竹やりで突き刺すというのは、過剰表現ではないのか?これは韓国や中国の反日映画の日本人像そのままであり、こんな表現に異を唱えるスタッフはいなかったのか?更に朝鮮人被害者数が6000名としているが、これは諸説あり数百人~なかには6000人という説まで明確にはわかっていない数字であるが、これまた最大値の6000人が所与のものとなっている。これでは南京虐殺10万人のフェイクの数字(中国共産党の一方的発表の数字でこれは当初の数字から年々拡大していった)と扱いは同レベル。テーマや問題意識は素晴らしく決して否定するものではなし、福田村事件そのものは悲惨な事実として忘れてはならないが、このような周辺部分の表現はサブリミナルに鑑賞者に事実として刷り込まれてしまうリスクがあり、懸念が残る。その点恐縮ながら星一つマイナスである。
なかったことにはできないぜ
100年前の史実を基にしたドラマで、特別な筋書きはないのがドキュメンタリー監督の森達也らしい。それゆえ、どのように虐殺が起きたのかと、地震が起きてから次第に高まる不穏さに息苦しさが増していく。
政府(内務省)の意向に沿って偽情報を拡散するメディア。国や村を守るとイキって人々を扇動する男と軍人。不安に過敏で付和雷同で行動する民衆。弱い者がより弱い者を見つけて安心する心理。日本と日本人のクソな部分が100年前の事件に凝縮されている…と、実はそれらはすべて現代にも通じている話なのだった。
そんななか、当時としては奔放なコムアイや田中麗奈と、私生活から当て書きしたのかと思われるモテモテの矢切の渡し?東出君の姿には、事件と対照的な平和さがあってホッとしてしまう。
「地震のあとには戦争がやってくる」と阪神淡路大震災の後に清志郎が書き遺しているけど、東日本大震災から干支が一回りした今、Jアラートが無駄に鳴り響き、台湾有事が喧伝される…。負の歴史を繰り返さないためにも、まずは大年増の厚化粧(by石原慎太郎)や官僚のメモを読むだけのメガネに朝鮮人虐殺の歴史をうやむやにさせるべきではない。
群集心理の怖さ。
ピエール瀧・東出昌大・永山絢斗の兄の永山瑛太と、世間に賑わせている人が出ていることは吹っ飛ぶくらい引き込まれ、今年の中で衝撃度1番の作品になった。
関東大震災のあと数日間の千葉県福田村で起こった出来事。
混乱の中、香川から来た行商のグループが朝鮮人に間違われて10人(そのうち1人はお腹の子ども)殺された事件を再現した作品である。
朝鮮人だったら殺してもいいのか!
このセリフに尽きる。
震災の大きさ、同和問題、朝鮮人を差別する、なんでもお国のため体質、群集心理の怖さ、それらがギュッと詰まっていて、●かもしれない→●に違いない!にすり替わる怖さ、決めつける怖さがビンビンに伝わってくる。
最後の30分くらいは小さく声が出てしまうほど衝撃だった。
回想シーンで出てきて、今回の事件とも関連する提岩里教会事件(ていがんりきょうかいじけん)も忘れてはならない。
暴走正義
忘れ去られる歴史
忘れてはいけない教訓として
森監督のドキュメンタリーではない作品という事で非常に興味を持って鑑賞しました。内容的には演出的に少し理解しにくい部分もありましたが、とても社会的意義のある素晴らしい作品でした。
今年は関東大震災100年という年で多くの震災関連の作品や出版物が出されていますが、特に本事件を中心としたデマ流言飛語による朝鮮人や共産主義者等への惨殺、殺害事件と関東大震災の死者10万人のうち4万人近い死者を出した本所被服所跡地の火災事故は今でも語り継ぐべき教訓です。人数の問題ではないのですが遠い昔や戦時中などと比べ現代では事故や事件などで数名亡くなるとニュースになってたりしますが、人の命の重さってなんだろうなあと思います。
福田村事件の判決は、田中村の1名のみ「懲役2年、執行猶予3年」の第二審判決を受け入れたが、あとの7名には大審院で懲役3年から10年の実刑判決が出された。しかし、受刑者全員が、確定判決から2年5か月後、昭和天皇即位による恩赦で釈放された。事件について調査を行った石井雍大によれば、出所した中心人物の一人は後に、選挙を経て村長となり、村の合併後は市議会議員を務めたという。今では想像もつかない時代です。
永山瑛太さんが
最後に言った言葉が全てですね。
少年が名前を呼んでいくところが一番心に残りました。
私にとっては、この作品はもうひとつだったのですが、この作品がちゃんと完成されたことと意外に話題になっているのはよかったです!
この作品に関わり合われたみなさん、お疲れさまでした。
田中麗奈さんが歳をとったのが、とてもショックでした。(「がんばっていきまっしょい」の田中さんがいつまでも心の中にあるもので・・・)
釘付けでした
ラスト20分はスクリーンに釘付けでした。映画ファンとして今までたくさんの映画を観てきましたが、釘付けなんて相当久しぶりかもしれません。外的要因で節度・モラル・良識などが通じなかった時代がたった100年前にあったということを改めて感じる映画です。久しぶりに書き込みをさせてもらいます。
監督の森達也さんの作品である新興宗教を題材にした映画が話題になったころ、監督がテレビ討論会にたくさん出演していて、「(思想が)右や左やではなく、もはやどっちでもいい」のような発言を始めとした監督の考え・理屈にとても共感したことを覚えています。現在も監督の名前が出てくれば自然と身体が反応してしまうので、今回この映画に遭遇することが出来ました。
この映画の根底にある「差別・集団心理」というテーマにとても関心があります。第二次大戦下でナチスのゲッペルスが「嘘も百回言えば真実となる」と発言したそうですが、ITの普及で「嘘か真か」が早急かつ簡単にわかる現代とは違い、当時の思想下で大震災後という強烈なストレス・心労下だと誰かが大きい声で同じことを延々と繰り返せば、容易に嘘が真実化してしまう・・そんなことを考えながら観賞し、特にラスト20分に釘付けになったのだと考えます。またこの映画のテーマの一つである「非差別部落と在日朝鮮人」について、これらを身近に感じながら齢を重ねてきた私にとってこの映画を観ないという選択肢はなく、またこれらが映画のなかで繋がったストーリー展開になっていることが新鮮で衝撃でした。
恥
自分の安っぽい感想を綴るのもおこがましいと
感じるほどに痛烈で衝撃的な作品でした。
震災の混乱期に起きた。
否
いつの時代にも、どの市町村でも起こりうるもので
集団心理の恐ろしさもさることながら
自分を保つために、自分より下の者を攻撃する習性に
嫌悪しつつ、己の中にもある差別感情にも
気が付かされ不快になります。
正直、いままで韓国という国は好きじゃなかったし
(エンタメや食文化は大好き)
いつまで反日感情をむき出しにするんだ。
だったら日本に来るなよ。まで思っていたのです。
でも、本作を観て、事件を知って
涙が止まりませんでした。
申し訳なさに、その非道さに、無常さに
このレビューを書いているいまも泣きそうです。
誰しもが見えない恐怖に抗えないとは思う。
集団となった時の安堵が狂気に変わる集団心理を
まざまざと見せつけられた思いです。
国のため、村のため、家族のためと言い訳を
していた在郷軍人会の面々には反吐が出そうです。
とはいえ、自分がその場にいて、目の前で繰り広げられる
狂気の沙汰を止める事が出来たか。
答えは「できる」と言いたい。「できる」人になりたいと思います。
物語上、不必要だなと思うシーンもいくつかあります。
ただ、どの出演者の皆さんも辛い役回りを
見事に演じていると思い、また多くの若者、これからの
日本を担っていく人たちに観て欲しいなと思う
日本の闇、負の歴史です。
映画は💦と思ったなら、せめてどんな悲惨な事件が
起きたのか、なぜいまこの事件が映画化されたのかを
調べて観て欲しいと思います。
集団のヒステリー
さすが森さん!と言いたい。
冒頭すぐの「戦争にいい戦争も悪い戦争もない」というセリフ。
山場(と言ってもいいのか?)虐殺の場面の「朝鮮人なら殺していいのか」
そして終わりに近いところでの「みんなそれぞれ名前があった」というセリフ。
どれも重たいけれど、とても大切な言葉。
見るべき映画…それも若い人に観てほしい。
それ以上に絶対見てほしいのは、腐り切った日本のマスメディアに携わる人。
女性記者の言葉を一つひとつ噛み締めて、みずからを律してほしい!いや、律せよ!
ジャニーズのチカラある人が犯した犯罪を死んでから騒ぎ立てる姿は、まるで福田村の人々の集団ヒステリーとどう違うのか?と、ジャニーズファンではないけれど、ふと思ったり。
最後の最後に、ナタ?で瑛太を一撃にした妻の夫が帰るシーン…とても残酷と思った。私がその妻だったら気が狂うなと思った。
朝鮮人なら殺してもええんか?!
今年の邦画ベスト1はこれで決まりだろう。関東大震災からきっかり100年に狙いを定めての公開、折しも政府が「朝鮮人虐殺の記録は見当たらない」としらばっくれる中でかつての軍国日本のみならずまさに今の「新たな戦前」に向いつつある日本を痛烈に糾弾する社会派エンタテイメントの傑作である。「記録が無い」は全く大ウソで震災の2か月後に神奈川県が「朝鮮人を145人殺しました」と内務省に詳細に報告した文章も残っている(東京新聞9/5)らしく、そもそも内務省が「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり・・各地に於て充分周密なる視察を加へ鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし(横浜市史)」と地方長官に打電し警察が率先してこのデマを流布したとされる。今作の切り口が鋭いのは、数千人にのぼるといわれる朝鮮人虐殺を正面から描くのではなく千葉県福田村での行商一行9人が「朝鮮人と間違われて殺された」という事件にスポットを当てた点であろう。真っ先に殺される行商のリーダー永山瑛太が言うように「朝鮮人なら殺してもええんか?」という叫びがこの映画の全てである。讃岐から来た行商一行の言葉がおかしいので「朝鮮人だろう」と疑われ、村の警官が行商人が示した「鑑札」を調べるからそれまで手を出してはならんと言う。つまり間違って日本人を殺してしまってはまずいけれども、朝鮮人なら殺してOKだというのだ。行商一行は香川県の被差別部落の出身であったことから公に告発をせず、事件は80年近く闇に埋もれていた。ずっとこの件を世に出そうと企画していた森達也と若松プロの荒井晴彦がタッグを組んだ奇跡的作品。撮影の桑原正が素晴らしく森達也のハンディカメラでは到底描けなかったであろう一級の名作が生まれた。
幸せになりたかった
恐怖と残虐性
ドキュメントの森監督が撮る映画ってどうなんだろうと言う興味と、見なければいけない題材という責任感とで最近みたい映画No. 1でした。
お客の入りもよいようで良かった良かった。
実際にあった事件を元にしたフィクションとは言え、当時の事はかなり調べられているようで、小さなエピソードの積み重ねが説得力に繋がる良い例だと思いました。様々な境遇、経験、立場の普通の人達が淡々と日常を積み重ね、それが突然狂っていく恐ろしさが描かれてます。役者達の熱量も半端なく、東出君はかなり初期から監督に参加のラブコールしていたそうです。あとコムアイ美しい!
結局、じわじわ広がる恐怖に火をつけたのは国からの伝令であり、それに乗じて思想弾圧をカモフラージュする目的だった?という、、なかなか映画化されずらい日本の黒歴史を描いた事だけでもこの映画の価値があります。
実際に亡くなった朝鮮人は各地でたくさんおったわけですが、本件の間違って殺された行商人が四国からだという事で勝手に東京西側の話かと思っていましたが、実際は千葉県で起きた事件なんですね。
自分がやった事が仕返しされるのでは、、という恐怖。
それが論理や倫理性を飛び越え感情的な行動になる過程をしっかりと見て、心に焼き付けて帰りました。
二度と同じ過ちを繰り返さないように。
掘り下げが足りない
史実を元に描いてるのに、リアリティーを全く感じさせない構成だった。
知りたかった部分である何故そうなってしまったのか(どういう心情で殺害が行われたのか)殺害した人にはスポットが少ししか当たらず、きっかけとなった最初の殺人がぽっと出の端役だったりで残念な作品。
堤岩里教会事件を取り扱うなら朝鮮動乱についても触れて欲しかった。
結果には必ず原因がある。流言の流布の恐ろしさを描いてるのは分かるが、何故そうなるのかまで描かないと人間の本質とは言えないのではないか。
色々と公平ではなく、切り取った描き方をしている印象。
何分100年前に起こった事件なので詳細は分からない部分が多い。それだけに期待していたのだが、キャラクターの動機の部分に粗が目立っていた。
そこまで大正時代の一般人は頭が悪かったのだろうか?
現代人の自分から見たら映画「福田村事件」の加害者達はサイコパス以外の何者でもない。
映画を見ていた人たちがもしあの場にいたとしたら、ほぼ全員が行商団を庇うだろう。
「『集団』、そして『不安と恐怖』。この2つが揃ったときに、人は変わってしまう」と監督は言っているが、あの村の状況からは不安と恐怖は読み取れない。セリフだけで具体性が無い。この監督の言葉は映画の補足にしかなっていない。
「あの場にいたら自分もそうなっていたかもしれない。でも殺してはダメだ」という気持ちにさせてくれないと、少なくとも現代性とは言えない。
不幸な出来事に対する傍観者にしかなれない。
100年経っても進歩出来ないニッポン
今日の日本で本作が制作されこうして鑑賞出来る事に感謝し、一縷の望みがまだある事を信じたい。本作の内容はもちろん脚色は当然ですが、全て事実です。何の証拠もないなどと、馬鹿な官房長官と同じ嘘八百を言ってはなりません。証拠はたっぷり公式に残されております、歴史修正主義者なんぞ調べる気はさらさらなく、都合のいいことしか言いません。低能だからだけでなく、それが「楽」だからに他なりません。
本作で再現された構図は過去完了どころか、さらに増大して今も私達の直ぐ側に大口開けて待ってます。現政権はもちろん知事レベルにおいてすら、無かったことにしましょう、が今日ですから。謝ってばかりはもうウンザリ、もうとっくに金で決着になってるでしょ、俺たちは前だけを見て一丁前に正論を吐きたいのだよ、と被害者側への想像力ゼロで平気で出鱈目を言う。そんな勢力に入っていれば楽だし威勢がいいからね、真に正しい事を言い出す奴等には、速攻突っ込み入れて叩きのめしますよ、金も貰えるかもね。正しい事は面倒臭せぇ、そんなのはフタすりゃ楽だろが。って皆様ご存じの通り。
映画の中の福田村の村民・憲兵たちと何にも変わっちゃいないのです。100年経っても全く進歩どころか、後退しているのが今の日本なのだと言う現実を、本作は観客に突きつけてくる。日本人の精神構造がオカシイのではなく、真の反省を避け続けた結果であり、戦後においても集団行動優先の教育がなされ、出る杭は打たれる意識構造ゆえ、忖度が蔓延り今に至る。「朝鮮人は出ていけ~」と叫ぶ奴等が朝鮮半島に大金を貢ぎ続ける奇怪さ。公文書改竄からもろもろの人権軽視、国会機能不全、各種国際指標の著しい低下、などなど。だからジャニーズ事務所も安泰、汚染水も処理水と呼ぶ欺瞞を公然とミスリード、映画の内務省と全く同じ。
人間はその字の通り、人と人の間と書く、すなわち群れを成して生きる動物なのです。忠実な集団行動で回り続け、それが正しい方向に向かっていればいいけれど、そうとも限らない。そこで異論が出る、生まれながらに多数派に属せない人もいる、そんな異分子は切り捨てるのが楽って考え。1ミリも少数派の身になって考える事が出来ず、ひたすら金の論理のみで行動する。障害のある方やLGBTQだって悪用のリスクばかり強調して苦しみを想像なんて一切しない。嗚呼、没落国家まっしぐら。
映画は一種の群像劇の様相で、福田村を立体的に描いてゆく。井浦と田中の崩壊夫婦とその秘密、永山の薬売りの集団エネルギーの発露と裏側にある被差別、東出の船頭の欲情と孤立、カトウの左翼言論、木竜・ピエールの新聞報道の苦悩と忖度、そして戦争未亡人の立ち位置から憲兵達の単細胞愚直。ことにも水道橋博士の元軍人の造形が白眉の出来。何故なら彼の総てのセリフはそれだけを聞けば至極真っ当で、村をひたすら護る意識に満ち溢れる、だからこそそれを取り巻く状況の危うさが、実に恐ろしいのです。間男役に挑む東出昌大は本当にいい役者に成熟したもので、今村昌平ムードに男の色気が充満です。それぞれにトップスター級を配し、製作者の意欲と参加したスタッフ・キャストのレベルの高さが心強い。
いよいよの震災シーンに至るまでがやや冗長ですが、9月1日を境にカウントダウンを踏んで悪魔の惨劇クライマックスに突入する。流言飛語、付和雷同、思考を停止し大勢に流れる人間の愚かをこれでもかと描く。しかし、現実はこんなもんじゃないだろうと推測、もっとここだけは嫌と言うほどの強烈が欲しかった。朝鮮人と日本人、どちらが偉いか? なんてナチスドイツと全く共通する。竹槍で突かれる恐怖と痛みを思い知る。
そもそも当時日本に何故朝鮮人がかくも居るのか、国家は何をしたいのではなく、何を隠したくて、スケープゴードを操作しようとするのか。人間の弱点を悪用した国家の犯罪は、どこまでも糾弾せねばならないでしょう。人は見下す相手がいれば安泰と思う習性がある。下には下があるのだと、上には上があることは隠したがるのに。
全364件中、221~240件目を表示