「常守朱(つねもりあかね)はシビュラ支配下で自らの正義の為何を選択するか。」劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE 葵須さんの映画レビュー(感想・評価)
常守朱(つねもりあかね)はシビュラ支配下で自らの正義の為何を選択するか。
自分はアニメ1~3期と映画二本を元々見ており(サイコパス Sinners of the System3作は見ていない)、最近知人がサイコパスに嵌ったのを知ったり見直そうかなとちょうど最近思っていた所カレンダーに以前入れていた公開初日通知で思い出し、時間もあったので映画館で視聴。
公開初日の週末の金曜日だったこともあっただろうが、レイトショーでも思ったより人が多く驚いた(若めの夫婦や大学生くらいの友達連れがそれなりにいた)。一言で感想を言うと悪くないという程度。2hrは若干長く感じた。そうなった原因としては、自分がサイコパス3あたりの内容を忘れていてストーリーや人物関係をしっかり把握できていなかったことが一つあると思う。詳しく言うと、この作品は登場人物が多めなのだが、特にサイコパス3に出てきたダブル主人公慎導灼(しんどうあらた)と炯(けい)・ミハイル・イグナトフについては、彼らの家族背景等が頭から抜けていた。自分の理解力や集中力、記憶力の足りなさもあるが、今作を楽しむには最低でも公式サイトで人物関係を把握し、できたらwikipediaでも今作以外のあらすじを読んでおいたほうがよいと思う。
内容に対する感想としては、まず雑賀譲二(さいがじょうじ)に関してで、残念の一言を言いたい。作中でダンディな声で落ち着いて話す彼の声を聞いていると何でも知っていて答えを教えてくれる感じがして、彼が作中で出てくるといつも安心感があるようなとても味のあるキャラだった。次点で視聴中に感じた事としては、全体を通して常守朱(つねもりあかね)と狡噛慎也(こうがみしんや)の絡みや描写が多くファンサービス的な描写もあるように感じたが、彼らのリアリティあるビターな心の触れ合いには少し物足りなさも感じてしまった。アニメ1,2期のシリーズ中では主人公常守朱に寄り添った描写を行うので彼女への感情移入が強くできたのだが、今作では一人に感情移入して見るというような見方はできず、常守と狡噛が中心ながら一歩引いた視点から公安や行動課の方々の様子を見ていた。戦闘シーンについては、特典の小冊子に書かれているように確かに描写に力が入れられていたのを感じることができたが自分としてはそれなりな印象。
今作の内容でわかりにくかった所二点。一つ目は、ピースブレイカーの隊長砺波告善(となみつぐまさ)がストロンスカヤ文書(各国の紛争係数を予測できるもの)を欲していた理由は何なのかというのがいまいち分かりにくかった。シビュラが対応できない紛争国の問題を、文書を利用していち早く察知できるようになり、ピースブレイカーという武力を使って解決しようとしていたのかな?と思った。もうひとつは、慎導篤志(しんどうあつし)の意図について。彼は家族を守るため、いやいや命令に従っていたのか、それともピースメイカーを潰すため、代償を払いながらもその道筋を作ろうとしていたのか?自分では分からなかった。
内容以外に対する感想。冒頭のピースメーカーによるミリシア・ストロンスカヤが乗る船への襲撃シーン後に『凛として時雨』の劇中曲がTVアニメのOP曲的にMVと共に流れたが、個人的にはあれで没入感が削がれた。なぜ没入感が削がれたか自分でも疑問に思った。なぜなら家でアニメを視聴するときはOP曲があっても何も思わないからだ。考えて思い浮かんだ理由は①多くの上映作品ではOP曲が無い②家ではOP曲は早送りして見ている③今作の冒頭のシーンがテロが行われた後狡噛が海で呆然としているシーンであり、その後の展開への視聴者の意識への誘引(没入感)が高まった状態の所にシーンのテンションと少し乖離して感じられた劇中曲を入れてしまっていたので現実に引き戻されてしまうから等が理由だと思う。
今作のテーマに係わる事で感じた事を一つ。最後の常守朱(つねもりあかね)の選択について。個人の裁量で社会を変革するには、自分の命を代償にメディアを利用して市民の面前で公安局長=シビュラを殺し自らの色相によってシビュラシステムの矛盾を示す必要があると思ったのだろう。形として理解できるその行動はしかし、それまでシビュラ独裁に対抗する法律の存続を訴えてきた常守にとって、彼女自身が法を破るという事になり、矛盾してみえるが、狡噛の影響を受けたと考えると自然にも思える。彼女は自己矛盾しながらも自らを犠牲にテロを行うことで、シビュラの矛盾(人を殺しても常守の犯罪係数は低い)を示せすことができた。彼女のその選択は、最近の日本で二度起こった総理大臣へのテロに対する国民の意識とリンクしていると感じた。
最後に、話の内容とは関係ないが、映画という創作手法の限界や適正についてちょっと考えた。映画は90分~2時間あたりで映像による描写をしなければいけない制約があるため、戦闘シーンの多い作品等密度の多い描写が多様される作品では急展開の多い描写で物語中で起こる事件の変遷を結ぶ描写を多様することが多く、度が過ぎるとリアルとの乖離感、短い時間で展開が早すぎるだろ感が出てくる。国民的アニメ全てを含め、その時代時代で人気となったアニメの映画作品でもそれが顕著に見られると思う。今作品に対しては、可能ならシリーズ物としてもう少し薄めてゆっくり常守や狡噛、慎導篤志の視点に立って、事件の進行を見てみたいという思いがある。