「どう生きるということが主であった頃」ドキュメンタリー映画 岡本太郎の沖縄 完全版 redirさんの映画レビュー(感想・評価)
どう生きるということが主であった頃
ドキュメンタリーとして、岡本太郎の沖縄体験を追体験時発見する。
この映画.comサイトのフォトギャラリーの写真だけでも素晴らしい。
岡本太郎は飛行機に乗ったらあっという間に沖縄に着いてしまうのだ,そのあっという間から、久高島、久高ノロさんとの出会い,島独自の民俗、イザイホーとの出会いがとても深遠であったように思う。
久高ノロさんの生き様、存在感,太郎がカメラで捉えた命。
今なら逆説的と思ってしまうような、沖縄は日本の根っこだという太郎の鋭さ。沖縄は辺境ではなく日本の根っこだ、というふうに捉えておれば,特に政治の人が、その後50年ほど経過したこの国のテイタラクはなんとかなったのではないか。人がいきいきと生きる国になっていたのではないか。
久高ノロさんの家族遺族,何代も下の人たちにインタビュー。丁寧なに追いかけ、失われてしまったイザイホー,祈りのシステムを切り取り残そうとしている。
キヨカ喜如嘉の芭蕉布の里の人間国宝平良敏子さん。糸からつくる芭蕉布を折ることは全て真実でなければならないと。力強く語る。この布は全て真実であると。戦争で子や夫をなくした女たちも敏子さんも皆芭蕉布があるから生きてこれたと。
久高ノロさんのお孫のおじいさんのことば。祖母やイザイホーの神女たちの生き様を伝える。痩せて土地に住む島民,男は海に稼ぎに行くしかなく女が島の暮らしを守る。安全を祈り平安を祈る。男が現地妻に生まれた子を連れ帰れば隔てなく子を引き取り育てる、と。そして言う、昔は、この女たちは、どう生きるが主だった,今はどう生活するかが主でしょ?と辛辣に。
沖縄に日本を再発見する太郎。
沖縄に異物を押し付け素知らぬふりの日本政府。
生活力,生命力、関与しすぎず、サバサバと人と関わる。
太郎の言葉では、
こだわらない。
だが投げやりではない。
常に流れる。
岡本太郎が飛び込みぶつかり抱かれ溶け込んだ沖縄。太郎の超越した人間性。