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NPO法人抱樸さんは、テレビやツイッターなどでコロナ以降知った。すごい人がいるなと思った。キリスト者だとは思ったがまさか北九州の教会の牧師さんとは存ぜず。
ここにある宗教は普遍で有り、どうしようもなくユニバーサルな真実のものである。
例えば、なぜ私が生まれたのか(生んだのか)生きたくないのになぜそんないらんことをしたのかと嫌がらせのように言われる。この映画に出てくる方々と比したら、さほど大きな苦しみこんきゅうはないだろう、くらべるものではないがさほどに真剣味も凄味もない、ましてや、私だって衣食足りているわけだが、なんで生きてるのかと思いながら長年生きてきた。
奥田牧師は、ごく自然なこととして、生まれたことそのことだけでもう罪は始まっており、生まれたものは、そこから罪を重ねて生きていくしかないのだ、と、おっしゃる。おお、と思わず声が出る。
極道やって何度も刑務所に入り、刑務所の中でこんな生き方は違うという気づきがあり、離脱書を書いてヤクザをやめ、その後も孤立孤独の苦労の中、縁があってこの教会に辿り着き、そして、今、堂々と、自分の言葉で丁寧に聖書を解釈しながら、まさに堂々とキリストを、キリストの受難を演じている男性。なぜ生きるか生かされか、意味がないとニヒルになりシニカルになったところでこの男性の堂々たるキリストの前には、誰もが屁理屈など言うことはできないだろう。文句を言わず謹んで、慎ましく、生きていくしかないだろう、そのように生きている人を光として眩しく見るしかないだろう。重力は強大で凶暴で、その重力のせいで気をつけてないと引き摺り下ろされ落ちてしまう、本当に今のおかしな世の中ではちょっとでも気を抜いたら重力のえじき。それはリアルだ。
重力に光。闇に光。心から祈る人々は普遍で有り、宗教とは本来普遍である。
混じり合うことがなかったような人々がこの教会で出会い、天使の羽根をつけて光の中で舞い闇の中で道を探す。
自分も、受け止めるしかない。この映画で出会うこともまた光である。