「「大丈夫」は大丈夫じゃない」The Son 息子 f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
「大丈夫」は大丈夫じゃない
The Son 息子
① 「大丈夫」は大丈夫じゃない
② 「大丈夫」と言う理由 ...父の場合 → 自己中心的な親の姿、社会的成功
③ 「大丈夫」と言う息子 →観客を安心させるために、映画も嘘をつく
誰かがあなたのことを心配して「大丈夫?」と声をかけてくれた時、本当は大丈夫ではないのに、「大丈夫」と返答した経験はありませんか?
何か問題を抱えていても、私たちは「大丈夫」と返事をすることによって、他者と自己との間に一線を引きます。あるいは、「外」と「内」との間に線を引くこと。壁を作ること。
私たちが「大丈夫」と嘘をつくのは、問題を自分でコントロールしたいから。あるいは、問題をコントロールできていることを示すため、という意味合いがあるでしょう。
「大丈夫ですか?」と心配している側は、「何か問題があるのか?」「どんな問題が発生しているのか?」「自分にできることはないだろうか?」といった純粋な善意から尋ねています。
一方、「大丈夫」と答える側の心理としては、「あなたの手を借りる必要はない」「あなたの手を煩わせる必要はない」「あなたに問題の存在を知られたくない」といった意図が見え隠れします。
「大丈夫」と返答するのは、本当に「大丈夫だから」なのではありません。
自分で問題をコントロールしたいという意思や、あるいは問題を共有したり相談したりする意思の表れなのです。
(複数人である問題について話し合っている時、無関係な第三者が「大丈夫?」と話しかけてきた時、「大丈夫」と返答して、話し合いに戻る、という経験もきっとありますよね?)
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誰と問題を共有するのか。自分1人で問題をコントロールするのか。他者には頼らないのか。他者に頼れないほどに追い詰められているのか。
「大丈夫」という返答ひとつで、「その人は今誰に心を開いているのか」それとも「誰かに頼れないほど追い詰められているのか」という心理を察知することができます。
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ヒュー・ジャックマン演ずる父親が、家庭に問題を抱えているにもかかわらず「大丈夫」だと応えるのは、家庭の「外」の世界に浸っていたいからです。
彼は、大統領選に出馬する議員から、選対チームの参謀という仕事をオファーされています。
彼は弁護士として優秀さを示してきましたし、その姿を世間に示し続ける必要があります。そうすることが彼の生きていくすべだからです。
それは単に「生活のために必要な最低限の賃金を稼ぐ」という枠を超えて、彼の社会的成功という「+α」の領域にまで及んでいます。
彼は「自分の成功」という欲を生きがいとしており、弁護士として得られる利益を守り、さらなる仕事を獲得するために生きています。
(その結果、家庭を犠牲にしているのですが、その姿は、『ゴッドファーザー』を彷彿とさせます。主人公マイケルは、家族を守るためにマフィアのボスとなりますが、敵と戦い、自らの名誉や利益を守るうちに、いつの間にか家族を犠牲にし、孤独を深めていきました。最初は父を守り、汚職警官と戦っていたのですが、地位を手に入れた彼は"ファミリー"を守っていたはずなのに、いつの間にか本当の家族を傷つけていたのです)
弁護士としてやりがいのある仕事に、高額な報酬。社会的な成功。世間からの評判。安定した地位。「いい人だ」と思われたい。そういった「+α」を守るために、彼は、息子に問題があることを隠して、「大丈夫だ」と世間にアピールするのです。
家庭に問題を抱えていることがわかったら、「あの人、本当に大丈夫なの?」「家庭のことを無視して仕事をしているの?」「仕事をしている場合なの?」という指摘に耐えることができません。
彼の生きがいである仕事と報酬を守るために、彼は「問題がないフリ」をしなけれなならないのです。
しかし、「問題がないフリ」をして仕事を継続することは、本当に問題が存在していないかのように振る舞うことにつながり、彼は問題と向き合う機会を逸してしまうのです。
(出産・育児と仕事の両立の困難さとも共通点がありますね。性別役割分業が徹底された社会・共同体においては、子供の問題は女性に一任されますが、男性は仕事に集中できる反面、育児を放棄し、それが理由で家庭内における立場を失う、という姿がよく見られました。「本当は子供の面倒を見たいのに、仕事が大変だから子供と向き合う時間がない」という人もいるのでしょうが、「男性は子供の面倒を見ることを免除する」という役割に甘えて楽をしているだけの場合もあるのです。)
男性である主人公は、自らの利益を守るため、家庭の問題が存在しないフリをします。
このような行動の背後には、「競争社会において一度存在感をなくしてしまうと仕事が回ってこないかもしれない」というリスク管理の側面があります。
家庭の問題と両立するために小さな仕事を継続する、というライフスタイルもあり得るのですが...
現在の社会は、共働きを前提とし、家事・育児を分担するor役割分担をそれぞれの忙しさに応じて負担する、という、個々人の事情に応じて最適化されたあり方を推奨する方向へと転換を図っています。
彼が大統領選のチームに所属したまま息子の問題にも向き合う、というライフスタイルもあり得たと思いますか?
また、彼が自分の成功と育児とを両立できるかどうかは、単に「世間にどう思われるか」「世間がどう受け止めるか」(彼に両立を許すかどうか)の問題だと思いますか?
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父と同様に、息子も「大丈夫」と嘘をつきます。
少年は、「学校へ行っている」フリをして、「もう自傷はしない」と嘘をつき、本当は大丈夫ではないのに「退院させてくれ」「家族で一緒に居させてくれ」と訴えたことが、結果的に彼の自殺を許してしまうことになります。
しかしこれらはいずれも、親を安心させるためです。
親が自分に期待しているイメージ通りにいるために、彼は嘘をつくのです。
同時に映画の中では、まるで「幸せな家庭」を期待する観客を安心させるかのように、父は理想的な親を演じ、親子の涙ながらのぶつかり合いがあり、最終的には離婚した両親と息子とで「安定」を象徴する三角形の構図が形成されます。
この「三角形」の構図は、ルネサンス絵画以降、安定感を演出されるために多用されてきたもので、聖母子像や聖家族像などの宗教絵画をはじめとして様々な作品の中で用いられているものです。
けれども、この「安定」を象徴する三角形の構図も、観客を安心させるために、映画がついた嘘です。
親を安心させるため。親の視界に入る自分の姿が、両親が息子に対して抱くイメージ通りであるため。親の理想でいるために、息子はその場しのぎの嘘をついたり、「ふり」をしたり、演技をしたりします。
それと同じように、映画自身が、心のどこかで理想的な家族像を願う観客のイメージ通りでいようと、その場しのぎの「ふり」をするのです。
父のいないところで、ふとした瞬間に息子の見せる本性。演技をやめた息子の姿には、どす黒い闇が感じられます。
そのドス黒さが、もはや虚言癖の域にまで達した彼の言動と相まって、物語は緊迫感をはらんでクライマックスへと向かうのです。
けれども、嘘に嘘を重ねるたびに、息子の心は傷つき、彼の「本当の姿」は押し潰されていきます。
「見せたいけれど隠したい」、そんな自傷の痕は、親から見える自分のイメージに付け加えられた傷であり、押し潰される内心への配慮への願いでもあります。
しかし父が、そんな息子の内心を配慮することはありません。
父にとっては、自分に見える息子の姿だけが全てです。
「外の世界」に適応し、内心を押し殺しても強くあることができる父は、「外の世界」を内面化し、それをそのまま息子にも適用しようとします。
けれども、息子の内心は、「外の世界」の重さに圧迫されています。
内面を「外の世界」(社会的成功)でいっぱいにした父親の中では「本音」がぺしゃんこになっていて、無視されています。父は、自らの「本音」、不安や心配、弱みを無視して「強さ」だけを見せており、それと同様に、息子の内面を回顧することがないのです。
父は、自分を眺める自分自身のあり方そのままに、息子を見ようとします。
それ自体が、「外界」と言うプレッシャーにより息子の本心を殺すことになります。
「外界」を内面化した父。
それは、かつて「なりたくない」と願った祖父の姿そのものでした。
男性性を象徴する、狩猟。
そこで使用される猟銃は、外界・外敵へと向かう男性の警戒心や闘争心、危機意識、暴力性の象徴でもあります。
(テロリストが学校を襲撃し、立ち向かう妄想をしたり、「護身用」と称して刃物を所持した経験が、あなたにはあるでしょうか)
祖父から父へと受け継がれた「猟銃」は、やがて息子へと受け継がれて、息子自身の身を滅ぼしてしまうのです。
ここに、脈々と継承されてきた男性の病を子供にも複製してしまうこと、そしてそんな男性の功名心や警戒心に基づいて形成されてきた競争社会のあり方、家族や自らの心をも犠牲にしてまで成し遂げられる「社会的成功」のあり方すら、見直しを迫られます。
あまりに表面的で、息子の本心が見えてこない。
息子に共感できない。息子の本当の問題が手にとるようにわからない。
それは、目に見えているだけの映像が、父の理想の世界であり、観客の期待に沿うハートウォーミングなドラマの「フリ」をした映画の姿です。