熊は、いないのレビュー・感想・評価
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監督にとって、熊は、権力のあるイラン政府?
この映画はイラン国内で監督(政府に監督業はできないと言われてる。)として自分の生き方を強く主張している作品になっていると思う。なぜかというと:1)アザリ語(Azari)を話すイラン北部の村で、トルコとの国境に足を一歩踏み入れたシーンがある。その時、ここは密輸だけの問題でなく、武器や軍需品や薬品などのコントロール( contraband) するところで、ここが国境いだよと言われて、パナヒ監督は足を一歩咄嗟にイランがわに引っ込め
た。これが物語っていると思う。恐怖からのようにも観察できるが、それより何があってもイランを出ないよという強い意志の表れだと思う。
2)また、アザリの村で、パナヒ監督は優柔不断そうな動きを何度か示す。例えば、村の長や警察長に『撮った写真を証拠として見せろ』と言われ........見せた。私はここでひと段落かと思ったらが、イヤイヤ、村長たちはコーランに誓えと。そのための儀式をするから、そこへ来て証明せよと。パナヒ監は強烈な即答を控えて、村を出ようとするが、途中である村人に捕まり、おちゃを飲んでいけと言われる。断れないようで、茶屋で、ご馳走になる。そこで、ある村人は大変かしこいアプローチをする。記憶から書いてみるが、『熊がいるから危ないよ、一緒に行きましょう.......写真を撮ったって問題ないよ。嘘の誓いだってできるんだよ』と。『この村には迷信の問題があり、町の人の考えとは違う。....... 熊なんていないんさ。ただ、怖がらせるための作り話さ!』このある村人のアプローチと言おうか、交渉術にはアッパレ。このシーンが好き。
偏見かもしれないが、イランの監督の素晴らしさはこのような交渉術にある。パナヒ監督の師匠、アッバス・キアロスタミ監督もそうである。手綱を引いてうまく緩めて、人をその気にさせる。この交渉法に感激。
そこで、パナピ監督は宣誓の場所に戻っていって『アザリ村の伝統を尊敬するために』きたという。このように、イランのアザバジャン人の村の人々の伝統からくる意見や助言を聞いて尊敬し、パナヒ監督は一歩止まって考えるシーンがよくある。しかし、最後のシーンはパナヒ監督は早くテヘランに帰れとの村人の忠告で(車の故障の合図???これがわからない)若者の死(Gozal/ Soldooz)の現場を通り過ぎそうになるが、車をとめて考え、立ち向かうように我々に見せてくれる。これが、また、パナヒ監督の政治・社会体制に立ち向かう意志と同じ姿勢であると思う。事実をこの目で見据えるという意思も。このパナヒ監督の判断の仕方が大好きだ。
別件だが、そのほかに、パナヒ監督の迷信や伝統にとらわれない(テヘランの町の人と言われているが)思考が冴えている。ここは明らかで、パナヒ監督の論理的な判断はごもっともと思える。
Gozal/ Soldoozの二人が胡桃の木の下にいたという。パナヒ監督はその二人の写真を撮ったか村長に聞かれる。その追求の執拗さはよく聞くと村の伝統から来ていて女の子が生まれた時、臍の緒は将来の夫となる人に切ってもらうと。Gozal が生まれた時、Yaghoob がそれを切ったから、もう年頃の二人は結婚するべきだと。しかし、テヘラン大学に通っていて、デモに一回参加しただけで、退学させられた、Soldooz がGozal に恋していると。二人でいる写真をSoldooz の親に見せて証明し諦めさせることができると。
テヘランの町の人、パナヒ監督は自分をここから出させたいからそんな手を使うんだなと解釈する。そこに、Soldooz が無礼に許可を取らず監督の部屋に入ってきて、彼の見解を伝える。『もう一度やり直そうとして村に戻ってきた。それに、Gozal に会いたかった。彼女を愛しているから二人で村を出ていく』と。問題はYaghoob (臍の緒を切った男)で、写真を村人のみせないでと頼む。監督はなぜ村長に話さないのかと。(当然だね)しかし、Soldooz は監督の名前を言葉に出して使ってパナヒ監督にかかっているよと。
村長・警察がまた訪れる。ここからが笑っちゃう! パナヒ監督が写真を撮っているときにいた賢そうな少年がパナヒ監督が写真を撮ったと細かく証言する。(へえ....なぜよく覚えてるの?)パナヒ監督は子供が状況を説明してるのになぜ私の写真がいるの?と。(誠に!)そしたら、『9歳の子供だよ、証拠にならないよ』と。(エエエ.....)パナヒ監督『じゃあ、なぜ子供の証言を私の証拠にするの』と。(爆笑!最も)
伝統にハマっていると、それに囚われ、現状維持になってしまい思考能力を失い、論理的な欠けるところがある。問題意識があるパナヒ監督はそれに気づいて言い返すという形でこの映画は作られている。
これだけの説明では不十分かもしれないから、この映画のポイントを説明する。イランの北部の村で、アザリ語を話すアザバジャン人とパナヒ監督は言葉で交渉している(戦っている)。これはパナヒ監督が国内にいてイラン政府という組織と戦っているのと同じ。テヘラン大学中デモに参加したSoldooz はパナヒ監督と同じ立場の人。でも彼はGozal と国境を越えようとして国境コントロールに殺される。偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女をパナヒ監督がズーム?か何かで間接監督?をしている映画撮影(直接のカメラクルーはトルコにいるらしい。)が挿入(二層になってる?)されている。パナヒ監督は国境を超えないで、主義主張を(上手に隠して?)映画に盛り込んで世界に発信。アッパレ!
じゃあなぜ、『熊は、いない』熊は、なの?これは比喩だとわかるが、なんの比喩?村人が怖がっているから、かわいい熊じゃなさそうだ。想像すると、『権力』イラン政府? 熊が怖いから行かなく、何もできないんじゃないよと。権力(熊)に挑戦する姿勢が、映画の最後で車を止めて考えてるところでわかる。
絶対好きだ好きなはずだしかしぐっすり寝ている
自分が分からなくなった。眠たいとにかく眠たかった
国外へ出ることが正しく生きる道でもフランスに行っても本当に幸せになれるのだろうか イラン→トルコ→フランス
イラン人は恰幅が良くて立派大昔この地域はシルクロードの真ん中世界で一番文明が栄えていた所 トルコイランペルシャの今と暮らしへの興味、彼らに対して尊敬の念が芽生えた
密売などであればトルコと自由に行き来できるのだが
個人の幸せを求めて移住するのは許されないようだ
村の掟伝統守られなかったと主張し戦う男 大学を出て彼女を見つけ二人で生きるため国外へ出ようとする男 村にいる男たちはとにかく群れる
世界から取り残されているイランだからこその現代で起きてる問題
国境線を踏んでいる トルコとイラン
彼らの家は中国の田舎のようで砂だらけ土を固めた家に住んでいる
「熊」がいるのは外じゃない
映画自体はドキュメンタリーではないものの、内容は限りなくドキュメンタリー寄り。
劇中で監督が撮っているトルコのカップルのドキュメンタリー映画と本作と、監督自身の境遇のドキュメンタリーが入れ子構造になっているようです。
トルコから国外逃亡を望むカップル、村の因習から逃れるために国境を超えたいカップル、二組のカップルの悲劇もさることながら、国境の村の、ヒトが良さそうな村人たちの抱える闇が不気味と思っていたら。
密輸で生計立てていたら、政府の監視対象の映画監督は招かざる客。監督が注目されたら村ぐるみの密輸発覚の危険が高まってしまうので。
村人たちが監督の行動を監視するのは当然でした。
「熊」は外にはいない。内側のようです。
不謹慎ながら、劇中で監督の下宿先のお母さんがつくっていた料理が美味しそう、ナンのようなパン(?)のついたワンプレート料理をみてから、頭の中がインドカレーでいっぱい。
ツレもそうだったようで、映画終わってからふたりで近くのインドカレー屋さんにダッシュ、美味しくいただきました。
食べたいと思ったときに、何の障害もなくそれを食べに行ける
命がけで作った映画も、映画館を出たら、ただの「作品」として流せてしまう自分たち
どれほど稀有で幸せなことなんだろうかと思いました。
潜行パナヒ
劇中劇をトルコで撮ってリモートで指示しているのは、パナヒ監督がイランで映画制作を禁じられているのと、なおかつ出国もできないからだと思うが、実際にはイランの国境付近の村のシーンも撮っているわけで、結構な数のイラン人が監督に加担していることになるが、その辺の事情はどうなのだろうか(似たような事例では収監中に刑務所から指示を送って映画を完成させたトルコのユルマズ・ギュネイがいる)。
イランの映画監督と言えば、独自の切り口で人生の不条理を描くアスガー・ファルハディがいるが、彼には制作上の障壁はないのだろうか。どういう基準でどのあたりまで政府の介入があるのかが知りたいところである。
因襲にとらわれた田舎の人々の無気味な怖さというのは、イランに限ったことではなく、アメリカ映画でも日本映画でもたびたび見てきた。理屈の通じない暗黙の圧力というのは、じわじわ腹わたに効いてくる。昨今のどうにも理不尽なニュースの数々に接していると、地球全体が大きな村のようにも思えてくる。
いろいろめんどくさい
君は行く先を知らないに続いてまたイラン映画。なんか似たような内容だなと思ったら監督親子だそうで イランの閉鎖的な現状を描く、こちらの方がちと分かり易い
田舎は確かに変わったしきたりが多い、すぐに噂になるし、砂で何処に行ったかバレるなんて良いんだか悪いんだか...映画を撮るのも命懸け、それでも撮り続けるのは映画がやっぱり救いだからかな
こんな映画の作り方があるんだと感心した。
設定の面白さの裏にある現実
23-119
命懸けの映画撮影🎥🎤
日本ではわかりにくい点はあるが、仕方がない一作。遠く離れたある国の実情。
今年337本目(合計987本目/今月(2023年10月度)2本目)。
(参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで))
映画館をチェンジしてこちらの作品に。
本映画は先月だったか「君は行く先を~」と同じイランを扱った映画で、国による検閲等が厳しい、また、日本からでは文化などを知ることが難しいといったいろいろな事情があり(特に前者のほう)、何を言いたいかよくわからない部分はかなりあります(この点は「君は行く先を~」と同じ)。
そうした事情(検閲逃れ)が背後にあるため「熊」が何か「いない」とは何か等は明示的に描かれることはなく、また映画を見ると、イランにおけるいわゆるフェミニズム思想について「日本からの見方ではおよそありえない」ような実態が語られているシーンが存在する(ただ、このことも否定的に描くと検閲にひっかかってアウトなのだろうと思われます)など、論点が多岐にわたる映画です。
こうした事情があるため、一見しただけで趣旨を理解しがたく、この点はただただ車をぐるぐるあっちこっち運転する「君は行く先~」と似た部分はどうしてもあり、この点、イランの検閲を避けて通ることはできないので、日本においてはどうしてもそれを通してしか見ることができず、どうしてもわかりにくいという部分もあります(なお、この地域の映画の特性としてイスラム教があげられますが、本映画でも「コーランがどうだの」といった語句以上のことは出ません)。
個々わかりにくい部分が多く、減点幅をどうするのかすら決められないという特殊な映画ではありますが、「遠く離れた、日本の戦前、戦中の検閲制度をはるかに超越した制度が今現在でも残っている国」における「せいいっぱいの妥協としてできた作品であろう」と思われる以上、多くは引けず、フルスコア切り上げにしています。
なお、映画の中ではやはりわかりにくい部分があり、どう見ても答え(映画の趣旨)がわからない部分がどうしても出てきますが、それは検閲によっていろいろカットされたり修正を余儀なくされたものであろうことから、「3回みたらわかるか?」とかというようなものではないので要注意です(多分、6割も理解できるかどうかも怪しい?)。
採点においては上記のような特殊な事情があること、また、特段それ以外でも差し引く要素まで見当たらないのでフルスコアにしています。
4寄り3.5
熊はいらない
凄い社会派サスペンス
初めて観た時はドラマかと思ったが、観るにつれてサスペンス、ドキュメントも含まれる作品になって驚きもあり、言葉が出ない。また、監督自身も作品に参加するが、イスラム教社会の現実、イスラム社会に巻き込まれ監督自身も大変だったなと感じた。イスラム教、イスラム社会の現実を知る上で適切な作品。最初は戸惑うかもしれない。
全49件中、21~40件目を表示













