「パノプティコン」熊は、いない レントさんの映画レビュー(感想・評価)
パノプティコン
イスラム法を土台とするイランの不条理な法制度の下、映画監督のパナヒは二十年間の映画撮影禁止と国外への出国禁止を命ぜられる。
国から監視されながらも国境近くの村でトルコでの撮影をリモートで試みる監督。このように国から不当な扱いを受ける監督が、この辺鄙な村で昔ながらのしきたりに縛られる村人たちと出会い、そして事件が起きる。
村の人々は昔ながらの迷信、しきたりに縛られていてそれに対して多くが疑問も抱かない。女性は生まれたときにへその緒が将来の結婚相手を決めるという。こんな迷信がもとで村では騒動が起き監督も巻き込まれてしまう。
村人は結婚相手が決まってる女性と駆け落ちしようとする男性を糾弾するために証拠写真を撮影した監督に提示するよう詰めかける。写真はないという監督に対して宣誓の儀式に出ろとまでいう。
馬鹿げたしきたりから逃れるために相思相愛の恋人たちは国境を越えて逃れようとするが警備隊に射殺されるという悲劇で幕を閉じる。折しも監督がトルコで撮影していたイラン女性もまたイランの不条理な法から逃れようとしていたが海に身を投げて亡くなってしまうという皮肉な結末に。
共に自由を求めて悲劇に見舞われた恋人たちの姿を通して、この国の理不尽なしきたりや法による支配を監督自らが演じて訴える。
イランはその革命以降、西洋文化を排除し厳格なイスラムの教えを国民に強いた。自由な言論も規制され女性の人権も制限された。それにより監督は撮影禁止となり、また女性の意思が尊重されない昔ながらのしきたりも残り続けた。
閉鎖的な村では昔ながらの掟とかしきたりというものが大抵残っていたりする。村を統制するためには住人をそのような共通意識の下で生活させた方が都合がいいからだ。確かにそれは秩序を維持するためにはいい面もあるが、その分個人の自由も制限する。バランスが重要となってくる。
劇中で訳知りの村人が監督に夜道はクマが出るから危険だという。これは村人がむやみに夜出歩かないようさせるための方便だという。
迷信やしきたりがこういう共同体では何かと重宝される。信仰などはその最たるものだ。天はいつもお前を見ておられる、そういわれたら人間は自分の行動を慎むようになる。
本当は見られていないのに、内心で自分を監視、規律する存在を人は作り上げてしまう。支配者側が秩序を維持するのにこれほど好都合なものはない。
パノプティコン、一望監視施設と訳される。日本では網走刑務所にも採用された放射状に独房が並んでる監獄の形態である。この放射状に並んだ独房の中心には監視塔があり、常に囚人はその監視塔から見られる状況に置かれ、逆に囚人からは監視塔の内部は見えないつくり。すなわち、監視塔に監視者がいなくても囚人たちはいるかいないかがわからない監視者に常に見られていると感じさせればそれでいいのだという。それで囚人たちは脱獄などできず刑務所内の規律は保たれる。
この手法が権力者が大衆をコントロールするために用いられていると提唱したのが哲学者のフーコーである。政府にとって都合の悪い者を見せしめに罰することで人々は自分もいつ同じ目に会うかわからない、いつも監視されているのではという恐怖を人々の意識に植え込む。いるはずもない監視者に監視されている気がする。見えないはずの熊が見える気がする。これにより権力者は自然と大衆に自粛を促すことができる。
日本でも政権批判をするニュースキャスターの降板が相次いだ時期があった。放送法の解釈を変えて電波を停止するという政治家の発言なんかも飛び出した。結果、マスコミは忖度を強いられ政権批判をできなくなった。日本の報道の自由度ランキングはだだ下がり。その理由は報道陣の自粛によるものだった。
目には見えない迷信やしきたり、目には見えない熊が人々を統制すると同時に委縮させる。昔ながらのしきたりや迷信に縛られて、それがおかしいとはほとんどの人間は気づかない。
果たしてこれはイランだけの問題だろうか。日本のような先進国といわれる国でも目に見えない圧力により言論封殺が行われてるのではないか。報道の自由度ランキングを見せられて初めてそれに気づく人がほとんどではないだろうか。
熊がいないとはっきり言える監督や犠牲になった恋人たちは村八分にされ排除されてしまう。そんなイスラムの社会を風刺しつつ、これはとても他人事ではない話だと思い知らされた。
ガンバルは最後まで監督のことを思い頑張っていた。
追記
本作は三つのパートで構成されていて、一つは監督が撮影対象に選んだトルコに潜伏する夫婦、一つは国境の村でしきたりに縛られる恋人たち、そしてトルコの夫婦をリモート撮影しながら、村の恋人たちの問題にかかわってしまった監督自身を描いている。
前述の通り二組のカップルたちはイランという抑圧的な国の被害者であるとともに、監督自身の被害者でもあることを描いているように思えた。
トルコの女性ザラは自分たちをありのまま撮影したいと言いながらヤラセを要求する監督に異議を述べる。夫を残して自分だけ脱出させる映像だけを撮影してそれで観客を満足させようと。しかし、夫と二人で脱出できなければなんの意味もない。二人でそうするために今まで苦労を重ねてきたのだと。そんな自分たちの気持ちも知らずにただ脱出の映像を撮影するために自分だけを出国させようとする監督を彼女は許せなかった。
国境の恋人たちも監督が彼らを撮影しなければ、あるいはそう取られてもおかしくない行動を取らなければ、証拠を突き付けて彼らを非難しようとする村人たちに追いつめられて無茶な国境越えをして殺されることもなかった。
本作はイランという国の体制やしきたりを批判的に描きながら、監督自身の傲慢さをも自己批判している作品のように思えた。
カメラでとらえた映像はすべてを物語る、映像化されたものは人に訴えかける強烈な力を持つ。その力を信じていた監督だが、時にはそれが悪い方向にも作用する。カメラを向けることがその人にとっては暴力になることもある。己の映像への過信がザラや村の恋人たちを死に追いやってしまった。その死を目の当たりにした時の監督のうろたえる姿、本作はそんな自身の映像作家としての危うさをも描きたかったのではないだろうか。