熊は、いないのレビュー・感想・評価
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混迷と絶望。
パナヒが祖国イランを捨てることなく、国内に居続けながら、弾圧の中で映画を作り続けてきたことは偉業だし、本作も現実を反映した歪な寓話としてみごと。しかしパナヒがゲリラ的な手法で作り続けてきた近年の作品の中でも最もどん詰まりを感じた。
現実の厳しさ、辛さ、映画で世界は変えられない絶望、といった負の側面が本作のユーモアを凌駕して、途方もない圧迫感がのしかかってくる。映画作りが突破口にならないのなら、一体なぜこの映画を見ているのかとつい自問自答してしまうが、そもそも映画が答えをくれるなんて幻想が間違っているのであって、この映画が描く混迷はそのまま受け止めるべきなのだろう。パナヒが自国と自分と観客に突きつける刃は深くて鋭い。
この映画の後、パナヒは逮捕され収監され(この映画が直接的な原因ではないので日本の宣伝はミスリードだとは思うが)、ハンガーストライキを宣言した後に釈放された。パナヒを取り巻く状況は多少なりともいい方向に変わっているのかも知れないが、この映画が描いている閉塞感は解決してはいないだろう。同じ国境越えというモチーフを描いた息子パナーの『君は行く先を知らない』は興味深い良作だったが、父パナヒが描く多層的な底なしの閉塞感にはまだまだ太刀打ちできておらず、越えるにはあまりにも高い壁でしょうよと、こんな父を持ったパナーについ同情してしまった。
彼に真の笑顔が再び灯るその日まで
表現や言論の自由が保証されていないイラン。パナヒ監督はこの国で、体制に対して反逆的な活動を行ったかどで禁固刑や映画製作の禁止を言い渡されるも、その後、制約の中で映画作りを続けている。こういった背景を考慮に入れて本作に臨むと、まずもって冒頭のどこか演劇的なワンシーンと、そこから二重三重の境界を超えてパナヒが映画とつながり合う様に、たったそれだけで観ている我々の胸は強く締め付けられる。映画は死なない。パナヒの情熱も全く死んでいない。本作はこの二つの「不死」を裏付ける作品と言えそうだ。だが、かくも制約下で表現し続ける精神を刻みつつも、パナヒはいつしか二組の愛し合う男女が陥った苦しみと直面せざるをえなくなる。立ちはだかる壁を前に、彼が浮かべる表情のやるせなさ。彼に笑顔が戻る日はやってくるのだろうか。我々にできるせめてもの支援は、何よりもまず彼の新作を待ち続けること。そして劇場で鑑賞し続けることだ。
虚実の曖昧化と穏和なユーモアを武器に権力と闘い続けるジャファル・パナヒ監督
ジャファル・パナヒ監督は今の世界で最も権力と闘っているメディア表現者の一人と言えるのではないか。イランはイスラム諸国の中でもとりわけ報道や表現に対する規制が厳しく、2023年の世界報道自由度ランキングでは180カ国中最下位の北朝鮮から、中国、ベトナム(これら3カ国は社会主義国家)に次いで低い177位だった。表現者にとっても不自由極まりないイラン国内に留まりつつ、権力側から個人への抑圧や暴力、宗教観にも関わる女性蔑視・差別などを題材に映画を撮り続け、政府から上映禁止、映画制作禁止、逮捕・禁固といったさまざまな圧力と妨害を受けてきたパナヒ監督。不屈の闘士と呼びたくもなるが、この「熊は、いない」を含む近年の監督作に本人役で出演している彼の姿を見ると、大柄で小太りの優しそうなおじさん(オバチャンっぽい雰囲気もある)といった印象で、意外に思う人も多いのではないか。 「人生タクシー」(2015)、「ある女優の不在」(2018)と同様、本作も劇映画の体裁でありながら、パナヒ本人が監督として作中に登場することで、ひょっとしてドキュメンタリー的なパートもあるのではと錯覚させる。ひねりの効いたフェイクドキュメンタリーと見なすことも可能だろう。冒頭のトルコのカフェを舞台にした男女のやり取りの長回しショットから次の“種明かし”のカットへの編集が端的に表すように、虚構と現実を巧みに曖昧化することで、観客がそこからさまざまなメッセージを自分なりに受け止められる豊かさを確保しているではないか。現実を描いているようで、寓話的でもあり、その曖昧なはざまにこそ豊穣さがある、とでも教えられているような。 国境に近い村に滞在するパナヒ監督が、村の若い男女らをめぐる諍いに巻き込まれていくさまは、ユーモラスな雰囲気を漂わせつつ、目に見えない何かにじわじわと手足をからめとられていくような恐ろしさもある。 タイトルになっている「熊は、いない」とは、ある村人からパナヒ監督に告げられる言葉。村人たちが“熊”にどんな存在を重ねているのかも、分かりやすく示される。だが映画をラストまで観ると、本当に“熊”はいないのだろうか、さらにはこの現実世界、日本の社会にも“熊”的な存在はいるだろうか、それとも存在するように思い込まされているだけで実在しないのではないか、などと思い悩んでしまうのだ。
初のイラン映画
熊はいない。
が、いることにすれば生きて行ける皮肉。
恐れるに足りないが、恐れているフリをしている。
国境の際で、あざとく生きる人々を言い得ているような気がしてならない。
初のイラン映画。
センセーショナルなところはないが、その分逆にジワジワ、ずっしりくる。
悔しいのはイランという国に明るくないおのれの無知か。
しかしながら伝わってくる「雰囲気」はあった。
生活のため国境を越えて密輸が必要だからこそ、目をつけられないため善良な村人、村を演じなければならず、一方で自由を得ようと国境を越えた若いカップルは撃ち殺されるというどうしようもない成り行き。
健全からは程遠く歪んだことが起きているが、何をどうすれば良くなるのか分からない。
分からないから監督もこの作品を撮ったのではなかろうか。
それだけははっきりと理解できた。
世界は広い。
フィクションなんだけど
映画作りを禁止されている人の映画というノンフィクションなんだかよく分からないながら、ともかく映画が存在していて、見ていることに緊張する一作。
パノプティコン
イスラム法を土台とするイランの不条理な法制度の下、映画監督のパナヒは二十年間の映画撮影禁止と国外への出国禁止を命ぜられる。
国から監視されながらも国境近くの村でトルコでの撮影をリモートで試みる監督。このように国から不当な扱いを受ける監督が、この辺鄙な村で昔ながらのしきたりに縛られる村人たちと出会い、そして事件が起きる。
村の人々は昔ながらの迷信、しきたりに縛られていてそれに対して多くが疑問も抱かない。女性は生まれたときにへその緒が将来の結婚相手を決めるという。こんな迷信がもとで村では騒動が起き監督も巻き込まれてしまう。
村人は結婚相手が決まってる女性と駆け落ちしようとする男性を糾弾するために証拠写真を撮影した監督に提示するよう詰めかける。写真はないという監督に対して宣誓の儀式に出ろとまでいう。
馬鹿げたしきたりから逃れるために相思相愛の恋人たちは国境を越えて逃れようとするが警備隊に射殺されるという悲劇で幕を閉じる。折しも監督がトルコで撮影していたイラン女性もまたイランの不条理な法から逃れようとしていたが海に身を投げて亡くなってしまうという皮肉な結末に。
共に自由を求めて悲劇に見舞われた恋人たちの姿を通して、この国の理不尽なしきたりや法による支配を監督自らが演じて訴える。
イランはその革命以降、西洋文化を排除し厳格なイスラムの教えを国民に強いた。自由な言論も規制され女性の人権も制限された。それにより監督は撮影禁止となり、また女性の意思が尊重されない昔ながらのしきたりも残り続けた。
閉鎖的な村では昔ながらの掟とかしきたりというものが大抵残っていたりする。村を統制するためには住人をそのような共通意識の下で生活させた方が都合がいいからだ。確かにそれは秩序を維持するためにはいい面もあるが、その分個人の自由も制限する。バランスが重要となってくる。
劇中で訳知りの村人が監督に夜道はクマが出るから危険だという。これは村人がむやみに夜出歩かないようさせるための方便だという。
迷信やしきたりがこういう共同体では何かと重宝される。信仰などはその最たるものだ。天はいつもお前を見ておられる、そういわれたら人間は自分の行動を慎むようになる。
本当は見られていないのに、内心で自分を監視、規律する存在を人は作り上げてしまう。支配者側が秩序を維持するのにこれほど好都合なものはない。
パノプティコン、一望監視施設と訳される。日本では網走刑務所にも採用された放射状に独房が並んでる監獄の形態である。この放射状に並んだ独房の中心には監視塔があり、常に囚人はその監視塔から見られる状況に置かれ、逆に囚人からは監視塔の内部は見えないつくり。すなわち、監視塔に監視者がいなくても囚人たちはいるかいないかがわからない監視者に常に見られていると感じさせればそれでいいのだという。それで囚人たちは脱獄などできず刑務所内の規律は保たれる。
この手法が権力者が大衆をコントロールするために用いられていると提唱したのが哲学者のフーコーである。政府にとって都合の悪い者を見せしめに罰することで人々は自分もいつ同じ目に会うかわからない、いつも監視されているのではという恐怖を人々の意識に植え込む。いるはずもない監視者に監視されている気がする。見えないはずの熊が見える気がする。これにより権力者は自然と大衆に自粛を促すことができる。
日本でも政権批判をするニュースキャスターの降板が相次いだ時期があった。放送法の解釈を変えて電波を停止するという政治家の発言なんかも飛び出した。結果、マスコミは忖度を強いられ政権批判をできなくなった。日本の報道の自由度ランキングはだだ下がり。その理由は報道陣の自粛によるものだった。
目には見えない迷信やしきたり、目には見えない熊が人々を統制すると同時に委縮させる。昔ながらのしきたりや迷信に縛られて、それがおかしいとはほとんどの人間は気づかない。
果たしてこれはイランだけの問題だろうか。日本のような先進国といわれる国でも目に見えない圧力により言論封殺が行われてるのではないか。報道の自由度ランキングを見せられて初めてそれに気づく人がほとんどではないだろうか。
熊がいないとはっきり言える監督や犠牲になった恋人たちは村八分にされ排除されてしまう。そんなイスラムの社会を風刺しつつ、これはとても他人事ではない話だと思い知らされた。
ガンバルは最後まで監督のことを思い頑張っていた。
追記
本作は三つのパートで構成されていて、一つは監督が撮影対象に選んだトルコに潜伏する夫婦、一つは国境の村でしきたりに縛られる恋人たち、そしてトルコの夫婦をリモート撮影しながら、村の恋人たちの問題にかかわってしまった監督自身を描いている。
前述の通り二組のカップルたちはイランという抑圧的な国の被害者であるとともに、監督自身の被害者でもあることを描いているように思えた。
トルコの女性ザラは自分たちをありのまま撮影したいと言いながらヤラセを要求する監督に異議を述べる。夫を残して自分だけ脱出させる映像だけを撮影してそれで観客を満足させようと。しかし、夫と二人で脱出できなければなんの意味もない。二人でそうするために今まで苦労を重ねてきたのだと。そんな自分たちの気持ちも知らずにただ脱出の映像を撮影するために自分だけを出国させようとする監督を彼女は許せなかった。
国境の恋人たちも監督が彼らを撮影しなければ、あるいはそう取られてもおかしくない行動を取らなければ、証拠を突き付けて彼らを非難しようとする村人たちに追いつめられて無茶な国境越えをして殺されることもなかった。
本作はイランという国の体制やしきたりを批判的に描きながら、監督自身の傲慢さをも自己批判している作品のように思えた。
カメラでとらえた映像はすべてを物語る、映像化されたものは人に訴えかける強烈な力を持つ。その力を信じていた監督だが、時にはそれが悪い方向にも作用する。カメラを向けることがその人にとっては暴力になることもある。己の映像への過信がザラや村の恋人たちを死に追いやってしまった。その死を目の当たりにした時の監督のうろたえる姿、本作はそんな自身の映像作家としての危うさをも描きたかったのではないだろうか。
確かにいない
イランのパナヒ監督は、国外脱出を試みる男女を描いたトルコの映画を撮影していた。彼は海外渡航禁止令を受けているので国境の村に滞在し、リモートでトルコのスタッフ指示を出していた。そんな時、村の男女のトラブルに巻き込まれてしまい。 上映禁止、逮捕など様々な圧力を受ける監督の、ドキュメントのような作品。監督だけではなく、不自由なトルコの男女、村の習慣に囚われて、それが普通だと思っている村人。窮屈の中の、さらに窮屈な思いに虚しい後味でした。確かに、熊はいない。
【”今作における熊とは何か。”今作は、20年間映画製作と海外渡航を禁じられたジャファル・パナヒ監督が、ドキュメンタリータッチでイランの現状を暗喩と皮肉を込めて、命懸けで描いた作品なのである。】
■トルコとの国境に近い村に極秘滞在したパナヒ監督は、トルコ内でイラン脱出を図ろうとする男女バクティアールとザラとの映画をリモートで助監督レザに指示し撮影している。
そんな中、村の子供達をカメラで撮影するが、その後村人たちから若い男女ソルドゥーズとゴサルとの逢引きを撮ったのではと疑われ、村の掟により女の婚約者と言い張るヤクーブに糾弾される。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作では、二組の恋人達が描かれる。一組は映画の中で。もう一組はトルコとの国境に近い村の中で。
・映画の中の男女、バクティアールとザラは演技をしつつ、実はイランからの脱出を狙って居る事が徐々に分かる。
同じように、村のソルドゥーズとゴサル(彼女は映されない。)の関係を村の掟である”女の子が生まれた場合は、へその緒を切る前に結婚相手を決める”と言う旧弊的なモノにより婚約者となっている男ヤクーブから、パナヒ監督は糾弾される。
・結局、パナヒ監督は村長の申し入れを受け、写真は無いとカメラを見せるがそれでも納得しないヤクーブ。宣誓までさせられる監督は、村を去る決意をする。
<ジャファル・パナヒ監督は、それまでの映画作品では、イランの人権侵害、文化統制に対し、時にユーモアで抗議し、時に過酷な運命に対し、連帯感を示す事で抗議して来たが、今作の2組の男女の結末は、苦渋に満ちている。
バクティアールのパスポートが偽物と知ったザラは、トルコの湖に身を投げ、テヘランの大学で学んだ学のあるソルドゥーズはゴサルを連れ、国外へ逃亡しようとするが”何ものか”に射殺されてしまう。
ソルドゥーズが、川の中の大石に血だらけで突っ伏している道の横をジャファル・パナヒ監督は、沈鬱な顔をして通り過ぎるが、その後車を停める。サイドブレーキを引く音がして、そして画は暗転する。
当然の如く今作は上映禁止で、資料によるとジャファル・パナヒ監督は再び拘束されたようである。
パナヒ監督の制作した映画が、イラン国内で上映される日は来るのだろうか・・。>
トルコとの国境付近にあるイランの寒村に滞在しているジャファル・パナ...
トルコとの国境付近にあるイランの寒村に滞在しているジャファル・パナヒ監督(本人扮演)。
彼は、反政府主義と目され、政府から国外に出ることを禁じられている。
いままさに撮っている映画は、偽造パスポートを使用して国外へ逃亡しようとしている男女の映画。
撮影場所はトルコ。
パナヒは、村の宿の一室でPCを観ながらリモートで演出しているのだ。
物語はフィクションなのだが、主演のふたりも国外への脱出、亡命を企図しており、虚実相半ばしている。
さて、そんな中のパナヒ監督だが、旧弊な村のしきたりに巻き込まれてしまった。
結婚相手は両親が決めるもの・・・
なれど、隠れて愛を誓う男女は、どこにでもいるもの。
パナヒは、そんなふたりの密会の現場を写真で撮った、と疑われてしまうのだ。
トラブルに巻き込まれるパナヒ・・・
といった物語で、常に虚実入り混じるジャファル・パナヒ監督作品は今回もそう。
綿密な脚本の上に取っているのだろうが、ドキュメンタリーと見紛うシーンが続出する。
けれど、やはりフィクション。
冒頭、トルコでの映画撮影の長いワンカットから、離れたパナヒ監督が観るPC画面へとつなぐワンショット。
まるで、ブライアン・デ・パルマ監督の魔術のような演出。
これで「フィクション映画」の宣言をしているのだが、まぁ、そうは見えないよね。
村のややこしいしきたり、夜に助監督の車で国境際々まで行くシーンなど、ドキュメンタリーの撮り方だからなぁ。
今回は「熊」が暗喩として使われているが、しきたりや権力、それらからくる思い込み。
そんなもので縛られている。
「熊」などいない。
けど、怖いものは怖いのだ・・・
撮影中の映画の男女も、村の若い男女も、最終的には悲劇の結果となる。
「熊は、いない」のに。
作家としての覚悟を感じる
イラン政府から国外に出ることを禁じられ、反政府的という理由で収監されたこともある孤高の映画作家ジャファル・パナヒ。彼は様々な抑圧を受けながら、自らを主人公に映画作りを行っている。 本作は、そんな彼が小さな村に身を潜めてリモートで新作映画の撮影をしている…という所から始まる。 映画は、この新作映画の撮影風景と、パナヒが滞在する村で起こる事件。この二つをリンクする形で構成されている。 新作映画の方は、偽造パスポートを使ってフランスへ出国しようとするカップルのドラマである。パナヒ監督はリモートで撮影の支持を出すのだが中々思うようにいかず、最後には思わぬ顛末を迎えてしまう。 この新作映画は一見すると劇映画のように見えるのだが、実は完全なフィクションではないということが後半から分かってきて面白い。こうした虚実入り混じった作風はパナヒ監督の得意とする所であるが、それがここでも確認できる。 また、ここには国外に出ることを許されないパナヒ自身の苦悩も垣間見えて興味深かった。 村の話の方は、古いしきたりに阻まれる若いカップルのドラマである。この村では昔から女性に結婚相手を選ぶ権利は無く、親同士で相手が決められている。若いカップルは、そのしきたりを破って逢瀬を繰り返すのだが、たまたまパナヒ監督がその様子を撮影してしまったことから、彼はこの騒動に巻き込まれてしまう。 ここから分かってくるのは、女性差別的な風習に対する批判である。パナヒ監督は過去にも「チャドルと生きる」や「ある女優の不在」といった作品で、女性差別の社会に強い批判をしてきたが、ここでもその主張が繰り返されている。 最終的に新作映画の方も、村の話の方も悲劇的な結末を迎え、何ともやるせない思いにさせられる。しかし、最後にパナヒ監督が”ある決断”を下す所で映画は終わっており、そこに自分はある種の頼もしさを覚えた。 今目の前で起こっている理不尽な現実から決して目を逸らさないという思い。作品を通してこの現実を世界に伝えるという作家としての使命。そんなパナヒ監督の強い信念が感じられた。 もう一つ印象に残ったのは、中盤でパナヒが助監督から隣国トルコへの越境を勧められる場面である。ここで彼は国境を超えるかどうか迷うのだが、ここにも彼の強い信念が感じられた。結局国境を越えなかったということは、おそらく彼は今後もイランに留まりながら映画を撮り続けるのだろう。その勇気は感嘆に値する。今後も彼の作品は追い続けていきたいと思った。 演出はドキュメンタリータッチを基調としており、時折目を見張るような長回しも見られる。特に、虚実を往来するオープニングシーンは正にパナヒ監督の真骨頂という感じがした。 尚、タイトルの「熊」だが、これは動物の熊に例えた暗喩である。パナヒ監督は村人から「この通りには熊が出るから注意するように」と警告されるが、その意味については色々と解釈できよう。自分は一種の「脅し」と捉えた。 「脅し」は実際に危害を加えなくても、すると思わせればそれだけで効果的である。つまり、実際に「熊」がいるかどうかは問題ではなく、いると思わせればいいわけである。力の強い者が弱い者を支配する常套句。昨今のモラハラ、パワハラ問題に通じるものを感じた。
熊とは…?
熊はいないの熊は 映画をまだ観ていない方からしたら ネタバレなので割愛 🇮🇷ならではの諸事情かと思いました パナヒ監督は映画文化を守り続けるために 闘い続けていますが、 まあ今の🇮🇷ってね…😅 色々ありますから制限あって 文化人として自由な活動も許されず と観たほうが良いかなと😅
監督にとって、熊は、権力のあるイラン政府?
この映画はイラン国内で監督(政府に監督業はできないと言われてる。)として自分の生き方を強く主張している作品になっていると思う。なぜかというと:1)アザリ語(Azari)を話すイラン北部の村で、トルコとの国境に足を一歩踏み入れたシーンがある。その時、ここは密輸だけの問題でなく、武器や軍需品や薬品などのコントロール( contraband) するところで、ここが国境いだよと言われて、パナヒ監督は足を一歩咄嗟にイランがわに引っ込め
た。これが物語っていると思う。恐怖からのようにも観察できるが、それより何があってもイランを出ないよという強い意志の表れだと思う。
2)また、アザリの村で、パナヒ監督は優柔不断そうな動きを何度か示す。例えば、村の長や警察長に『撮った写真を証拠として見せろ』と言われ........見せた。私はここでひと段落かと思ったらが、イヤイヤ、村長たちはコーランに誓えと。そのための儀式をするから、そこへ来て証明せよと。パナヒ監は強烈な即答を控えて、村を出ようとするが、途中である村人に捕まり、おちゃを飲んでいけと言われる。断れないようで、茶屋で、ご馳走になる。そこで、ある村人は大変かしこいアプローチをする。記憶から書いてみるが、『熊がいるから危ないよ、一緒に行きましょう.......写真を撮ったって問題ないよ。嘘の誓いだってできるんだよ』と。『この村には迷信の問題があり、町の人の考えとは違う。....... 熊なんていないんさ。ただ、怖がらせるための作り話さ!』このある村人のアプローチと言おうか、交渉術にはアッパレ。このシーンが好き。
偏見かもしれないが、イランの監督の素晴らしさはこのような交渉術にある。パナヒ監督の師匠、アッバス・キアロスタミ監督もそうである。手綱を引いてうまく緩めて、人をその気にさせる。この交渉法に感激。
そこで、パナピ監督は宣誓の場所に戻っていって『アザリ村の伝統を尊敬するために』きたという。このように、イランのアザバジャン人の村の人々の伝統からくる意見や助言を聞いて尊敬し、パナヒ監督は一歩止まって考えるシーンがよくある。しかし、最後のシーンはパナヒ監督は早くテヘランに帰れとの村人の忠告で(車の故障の合図???これがわからない)若者の死(Gozal/ Soldooz)の現場を通り過ぎそうになるが、車をとめて考え、立ち向かうように我々に見せてくれる。これが、また、パナヒ監督の政治・社会体制に立ち向かう意志と同じ姿勢であると思う。事実をこの目で見据えるという意思も。このパナヒ監督の判断の仕方が大好きだ。
別件だが、そのほかに、パナヒ監督の迷信や伝統にとらわれない(テヘランの町の人と言われているが)思考が冴えている。ここは明らかで、パナヒ監督の論理的な判断はごもっともと思える。
Gozal/ Soldoozの二人が胡桃の木の下にいたという。パナヒ監督はその二人の写真を撮ったか村長に聞かれる。その追求の執拗さはよく聞くと村の伝統から来ていて女の子が生まれた時、臍の緒は将来の夫となる人に切ってもらうと。Gozal が生まれた時、Yaghoob がそれを切ったから、もう年頃の二人は結婚するべきだと。しかし、テヘラン大学に通っていて、デモに一回参加しただけで、退学させられた、Soldooz がGozal に恋していると。二人でいる写真をSoldooz の親に見せて証明し諦めさせることができると。
テヘランの町の人、パナヒ監督は自分をここから出させたいからそんな手を使うんだなと解釈する。そこに、Soldooz が無礼に許可を取らず監督の部屋に入ってきて、彼の見解を伝える。『もう一度やり直そうとして村に戻ってきた。それに、Gozal に会いたかった。彼女を愛しているから二人で村を出ていく』と。問題はYaghoob (臍の緒を切った男)で、写真を村人のみせないでと頼む。監督はなぜ村長に話さないのかと。(当然だね)しかし、Soldooz は監督の名前を言葉に出して使ってパナヒ監督にかかっているよと。
村長・警察がまた訪れる。ここからが笑っちゃう! パナヒ監督が写真を撮っているときにいた賢そうな少年がパナヒ監督が写真を撮ったと細かく証言する。(へえ....なぜよく覚えてるの?)パナヒ監督は子供が状況を説明してるのになぜ私の写真がいるの?と。(誠に!)そしたら、『9歳の子供だよ、証拠にならないよ』と。(エエエ.....)パナヒ監督『じゃあ、なぜ子供の証言を私の証拠にするの』と。(爆笑!最も)
伝統にハマっていると、それに囚われ、現状維持になってしまい思考能力を失い、論理的な欠けるところがある。問題意識があるパナヒ監督はそれに気づいて言い返すという形でこの映画は作られている。
これだけの説明では不十分かもしれないから、この映画のポイントを説明する。イランの北部の村で、アザリ語を話すアザバジャン人とパナヒ監督は言葉で交渉している(戦っている)。これはパナヒ監督が国内にいてイラン政府という組織と戦っているのと同じ。テヘラン大学中デモに参加したSoldooz はパナヒ監督と同じ立場の人。でも彼はGozal と国境を越えようとして国境コントロールに殺される。偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女をパナヒ監督がズーム?か何かで間接監督?をしている映画撮影(直接のカメラクルーはトルコにいるらしい。)が挿入(二層になってる?)されている。パナヒ監督は国境を超えないで、主義主張を(上手に隠して?)映画に盛り込んで世界に発信。アッパレ!
じゃあなぜ、『熊は、いない』熊は、なの?これは比喩だとわかるが、なんの比喩?村人が怖がっているから、かわいい熊じゃなさそうだ。想像すると、『権力』イラン政府? 熊が怖いから行かなく、何もできないんじゃないよと。権力(熊)に挑戦する姿勢が、映画の最後で車を止めて考えてるところでわかる。
絶対好きだ好きなはずだしかしぐっすり寝ている
自分が分からなくなった。眠たいとにかく眠たかった 国外へ出ることが正しく生きる道でもフランスに行っても本当に幸せになれるのだろうか イラン→トルコ→フランス イラン人は恰幅が良くて立派大昔この地域はシルクロードの真ん中世界で一番文明が栄えていた所 トルコイランペルシャの今と暮らしへの興味、彼らに対して尊敬の念が芽生えた 密売などであればトルコと自由に行き来できるのだが 個人の幸せを求めて移住するのは許されないようだ 村の掟伝統守られなかったと主張し戦う男 大学を出て彼女を見つけ二人で生きるため国外へ出ようとする男 村にいる男たちはとにかく群れる 世界から取り残されているイランだからこその現代で起きてる問題 国境線を踏んでいる トルコとイラン 彼らの家は中国の田舎のようで砂だらけ土を固めた家に住んでいる
「熊」がいるのは外じゃない
映画自体はドキュメンタリーではないものの、内容は限りなくドキュメンタリー寄り。
劇中で監督が撮っているトルコのカップルのドキュメンタリー映画と本作と、監督自身の境遇のドキュメンタリーが入れ子構造になっているようです。
トルコから国外逃亡を望むカップル、村の因習から逃れるために国境を超えたいカップル、二組のカップルの悲劇もさることながら、国境の村の、ヒトが良さそうな村人たちの抱える闇が不気味と思っていたら。
密輸で生計立てていたら、政府の監視対象の映画監督は招かざる客。監督が注目されたら村ぐるみの密輸発覚の危険が高まってしまうので。
村人たちが監督の行動を監視するのは当然でした。
「熊」は外にはいない。内側のようです。
不謹慎ながら、劇中で監督の下宿先のお母さんがつくっていた料理が美味しそう、ナンのようなパン(?)のついたワンプレート料理をみてから、頭の中がインドカレーでいっぱい。
ツレもそうだったようで、映画終わってからふたりで近くのインドカレー屋さんにダッシュ、美味しくいただきました。
食べたいと思ったときに、何の障害もなくそれを食べに行ける
命がけで作った映画も、映画館を出たら、ただの「作品」として流せてしまう自分たち
どれほど稀有で幸せなことなんだろうかと思いました。
潜行パナヒ
劇中劇をトルコで撮ってリモートで指示しているのは、パナヒ監督がイランで映画制作を禁じられているのと、なおかつ出国もできないからだと思うが、実際にはイランの国境付近の村のシーンも撮っているわけで、結構な数のイラン人が監督に加担していることになるが、その辺の事情はどうなのだろうか(似たような事例では収監中に刑務所から指示を送って映画を完成させたトルコのユルマズ・ギュネイがいる)。 イランの映画監督と言えば、独自の切り口で人生の不条理を描くアスガー・ファルハディがいるが、彼には制作上の障壁はないのだろうか。どういう基準でどのあたりまで政府の介入があるのかが知りたいところである。 因襲にとらわれた田舎の人々の無気味な怖さというのは、イランに限ったことではなく、アメリカ映画でも日本映画でもたびたび見てきた。理屈の通じない暗黙の圧力というのは、じわじわ腹わたに効いてくる。昨今のどうにも理不尽なニュースの数々に接していると、地球全体が大きな村のようにも思えてくる。
いろいろめんどくさい
君は行く先を知らないに続いてまたイラン映画。なんか似たような内容だなと思ったら監督親子だそうで イランの閉鎖的な現状を描く、こちらの方がちと分かり易い 田舎は確かに変わったしきたりが多い、すぐに噂になるし、砂で何処に行ったかバレるなんて良いんだか悪いんだか...映画を撮るのも命懸け、それでも撮り続けるのは映画がやっぱり救いだからかな
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