イニシェリン島の精霊のレビュー・感想・評価
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「奴は退屈だ・・・」
かなり変わったプロット作品だが、アイルランド問題を綺麗に比喩しつつしかもケルトの寓話性を高めるために巫女的な老婆を配する事も、物語の解釈の幅を拡げる意味で不可欠であろう
勿論、国同士の戦争と、個人の諍いは単純に比較は出来ないが、どちらも人間が引き起す"愚"であるが故、その滑稽さはヒシヒシと伝わる演出である
今作の特質すべき点は、閉じ込められたコミュニティ内での不自由さでの解決策は絶望的に困難を極めると言うこと 簡単(勿論、愛する肉親との別れを天秤に掛ける重い決断であったが)にそのコミュニティから出ていけば物事は解決するのだが、新天地での生活に対する想像が思いつかない人種だって存在する プライバシーが全て筒抜け(勝手に人の通信物を覗き見る港の万屋)等々、主人公も含めてのデリカシーの無さや無神経さから蓄積される抑圧は、丸で蛸壺で煮染められた様で、この地獄から一刻も早く逃げ出したいと願うのは、鑑賞最初の印象である フィドル奏者はそれを"絶縁"という形で表現したのも同様である さて、逆側からすれば、その蛸壺の居心地良さ(同化)故の以心伝心に、そのぬるま湯が原因での他者への思いやりや立場に立ったイマジネーションの著しい減退に気付けない程の旧態然の人間である バージョンアップが出来ないならば闘うしかない、かくして主人公のラストの顔つきは前半の戸惑いとは真逆の決意に満ちた戦闘の顔つきそのものである 相手の意図を想像し、そして尊重する 人類がバージョンアップ可能かどうかを問われる課題をプレゼンスした作品であった どちらかが死ぬまで争いが続く・・・こんな世界に未来など無い・・・
イニシェリン島の内戦。
アイルランド人同士が激しく争いあったアイルランド内戦。一方は不完全ながらも大英帝国からの分離独立の足掛かりとして英愛条約を受け入れ、一方は不完全な独立は許しがたいと民族主義にとらわれて条約を受け入れたアイルランド自由国に反旗を翻す。
1923年アイルランド諸島の小さな島でそれは起きた。酪農か漁業以外これといった産業もない小さな島。午後二時には仕事も終えて他にやることがない島民はパブに集ってはとりとめもない会話で時を過ごす。本作の主人公パードリックとコルムもそんな二人だった。
そんなある日パードリックはコルムから付き合いをやめたいと言われる。何の変化もない島の暮らし同様に何ら変わろうともしないパードリックに嫌気がさしたというのだ。そう言われても納得ができないパードリックは彼に食い下がるが、コルムは頑なに態度を変えないどころか自分の指を切断までしてしまう。それほどまでに強固な意志でパードリックを遠ざけようとする。
毎日とりとめのない会話で日々を浪費するだけの人生ではなく有意義な人生を送りたいコルム、ただ同じ毎日を過ごせればいいパードリック。まるで革新派と保守派を象徴するかのようなふたり。同じアイルランド人ながら相容れない二人の争いはとどまるどころか激しさを増してゆく。
ロバを殺された報復として自分の家を焼き払ったパードリックにコルムはこれでおあいこだと争いの終結をもとめる。しかし争いはまだまだ続く、それも悪いことではないのかもと言い捨てて去ってゆくパードリック。
まさに親友だった二人の諍いを通して現在に至るまでの北アイルランド問題を、そして現代において世界中で生じている様々な分断をサスペンスフルに描いてみせた傑作。
特にアイルランド問題を知らなくても楽しめる作品。序盤の牧歌的風景の美しさ、とりとめもない絶好話から後半サスペンスフルな展開と終始興味をそそられた。
タイトルなし
パードリックの行動原理に全く共感できず、ドミニクの「新しい自分」云々も取ってつけたようで、心動くものがないまま終わってしまった。/ああでも、モビリティが得られない状態で人との境界をどう作るか、個をどう得るかみたいなこととすると、ちょっと分かるかも。/あと、ちょっと『エルヴィス』みたいな映画でもあるのか。
/一週間二週間うーんと考えているとだんだん面白いものを見たという気持ちになってきた。時間の話だね。免疫の話でもある。
なんで絶交なん🥲
実に難解🤣
個人的にはまったく合わなかった。
常にわかりやすい物語を
求めているわけではないけど
色々汲み取りにくい。
これはかなり賛否わかれそう🤔
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本土でおこなわれている内戦と
島で勃発した2人の諍い🤜🏻🤛🏻
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争いが勃発する理由も
こじれていく理由も
なんでも些細な事であると伝えたいのか。
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豊かな余生のための断絶…。
友人の存在が
豊かな余生の一コマに不要と判断するのも、
これはこれで寂しい人生だなと思う🥲
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そして、
仕事に一途な夫が定年退職した途端、
何をして過ごしていいかわからず、
それまで会話もなかった妻に執着する。
まさにひとりでは何もできない
する事が思いつかないパードリックのように
ならないためにも
それぞれが打ち込める何かを
元気なうちに探しておくべき。
監督が伝えたい事とは全然違うだろうけど
そんなことを思った作品🤣
バカは死んでも治らない
え?内戦?アイルランドの内戦って、ほぼ100年前になるんですよね。日本の大正時代末期。電気も通ってない事を考えると、まぁ納得も行く所かと。
考える時間や創作の時間を取るために、無駄話しかしない男に絶交を告げる。その価値観が全く理解できない男は退屈・退屈じゃない、優しい・優しくないと言う情緒のみで、人間関係を説明する。
だからね。そんな話じゃないんですって。
これがこれが。100年前のアイルランドの、離れ小島だけの話じゃなく。今の日本を眺めても、この構図は当てはまる。
芸人が出て来て無駄話を延々と続けるTV番組を見るよりゃ、ひとりで本を読んでた方が良い。って人もいれば。一人で読書なんてシケタ時間を過ごすよりは、その番組を見ながらゲラゲラしてる方が楽しい、って人もいる。
コルムの主張は、お互い関わりを求めるのを止めよう。
なんだけど、パードリックにはコレが解らない。親友が指を切り落としても、まだ解らない。徹底的にバカ。島一番のバカはドミニクだと言うけど、ドミニクよりもバカなパードリック。しかも自分の罪を振り返らない。教会で懺悔するコルムの姿の描写は、自らを真摯に顧みないパードリックの人格を浮き彫りにします。
ロバの死でコルムへの憎悪を膨らませるなんて、逆恨みも良い所。コルムの家を燃やしても気が済まぬ。これが始まりだと言う。もう、本当に救いようの無いバカです。でですよ。こんな救いようの無いバカは、そこら辺に溢れ返ってるよね。って事で。
この一番寒い時期に、寒々しい風景を見て身体が冷え冷えしてしまいましたが。
興味深かった。
とっても。
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1/30 追記
コルムと言う「親友」から見放されたパードリックは、パブで独りきりになることが多くなります。一方、コルムの方は仲間と共に音楽を奏でたり歌ったり、話し相手にも困る様子はありません。そもそも、パードリックのバカ話に付き合ってあげていたのがコルムだけだっただけなのではないかと思えてしまう。
パードリックは、絶交後の二人の状況の相違について、その理由を考えることもありません。俺が何かしたか?と周囲に問いますが、自らを振り返ることもありません。そうなんですよ。考えないんです。全く何も考えない。感情だけで生きてるんですよ。
この二人は「思考」と「感情」の象徴な訳です。
「創作」と「感情」でも良いかも知れんけど。
思考は感情と決別しようとする。感情は分離を受け容れない。いつまでも付きまとって来る。それどころか、命を奪うまで復讐する気だとまで言う。
原題は”The Banshees of Inisherin”。これが"Banshee"なら、ミセス・マコーミックが、もっとも当てはまる存在ですが、" Banshees "と複数形ってのが意味深です。結局、どちらか一方がくたばるまで黙らないであろう二人は、ふたりとも” Banshee”なのだと。
他人への郵便を開封して読んでしまう郵便局の悋気なオバはん。権限を振りかざして、感情のままに他人を殴る変態警官。無邪気だが知性とは程遠い愚者。Fuckを口にする職業神父。もう、どの存在もが現代社会の「何者か」を象徴してる気がしてくる、と言う、ちょっと文学的な作品。深読みすれば、どこまでも深読みできるところが興味深いです。
戦争は人間の本質なのか?
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平和…二つの戦争の時期の間に介在する、だまし合いの時期
・・・
作家アンブローズ・ビアスは、有名な著作『悪魔の辞典』のなかで、「平和」という単語に対してこのような独特な定義を与えた。
愚かにも戦争を繰り返し、せっかくの平和を維持することのできない人間たちを皮肉る言葉である。
このようなビアスによる「平和」の定義は、「人間は、本質的に闘争する生き物である」かのような示唆を与える。
平和の恩恵も、戦争のあとであるからこそ感じられるもの…なのだろうか?
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映画『イニシェリン島の精霊』の主人公もまた、島での平和な生活を台無しにしてまで、隣人との”戦争”をせざるを得ない。
彼にとって、隣人との闘争を続けることこそが、隣人との関係を継続し、退屈な暮らしに興奮をもたらす唯一の娯楽になってしまうのである。
わざわざ戦争を行うことは、彼の生きがいと化す。
それはまた、平和な島の対岸、本土で行われている内戦の様相にも似ている。
大英帝国からの独立を勝ち取り、アイルランドの国土を自らのものとしてもなお、分裂し、争わざるを得ない。
「最近は本土で銃声も聞こえない」と言う主人公に対し、隣人は「どうせまたすぐ再開するさ」と述べる。
「ロバ」と「知恵遅れ」が象徴するものは、「愚鈍さ」や「無知」「のろま」「正直さ」「白痴」…そして「優しさ」や「牧歌性」。
不吉なバンシーの予言通りに、これら2つに死が訪れる時、男は優しさ・良心を捨て、抗争の日々へと向かっていく。
作品内において「女性性」を代表する妹が去ってしまったことも、島における文化性・男性内部の文化性が去ってしまったことを象徴している。
“女性的”な生き方、文化的な生き方も、彼にはあり得たはずである…けれども愚かな男の本質には、闘争を求める欲求があるのかもしれない。
「戦争は人類の本質」と書いたが、より正確にはそうではない。
「戦争は、愚かな男性たちの生きがい」なのかもしれない。(もちろん、戦争には紛争の解決手段という側面もある。その良し悪しは別にして)
読書、音楽、そういった文化的な趣味を持たない男が、退屈な日々に楽しみを見出せないとき…その退屈な暮らしこそが平和であることに気づかないとき、闘争に楽しみを見出してしまうのかもしれない。そういう寓話だろうか。
人生は死ぬまでの暇潰しにすぎないのか? 闘争にこそ人間の本質的な喜びがあるのだろうか?
平和な日々に、あなたは生きがいを持っているだろうか。
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※戦争に至る過程は、共同体内・異なる共同体間の複雑なプロセスを経ており、1つの共同体の内部においても、そこに関わる人は支配者・被支配者などにそれぞれの心理がある。したがって「闘争は生きがいである」というように、単純化して語れるものではない。けれども本作に対する考察を、1つの寓話として聞いて欲しい。
※現代においては、例えばスポーツが、国家間・共同体間の代理戦争的役割を担うこともある。戦争は興奮をもたらすけれども、決して、興奮をもたらす唯一の手段ではない。過去の歴史においては戦争、暴力が短絡的な方法であったかもしれないが、娯楽が複雑で豊かになるにつれ、人間に興奮をもたらす活動は多様化し、文化的なレベルにまで達している。(心拍数を高めることは、確かに興奮する。)
必ずしも戦争・紛争・抗争が、日々に生きがいをもたらす唯一の手段たる必然性はない。確かに、他者を打ちのめし、下であることを確認して、自分は上だ、と気持ちよくなりたい気持ちが人間にはあるのかもしれないが、そういった心理を利用して、経済不況の時期などに戦争に持ち込もうとする支配者も歴史上存在した。現代はどうなのか、わからないが。
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あなたは、理不尽で暴力的な警官が制裁を加えられた瞬間、興奮しただろうか?
そこに快感を覚えただろうか?
映画の中ではしばしば、暴力の発動が観客に快感をもたらす。
本作においてこのシーンは、あなたの中にある「暴力によって興奮し、快感を覚える衝動」を確認する効果を持つものであり、通常の映画同様に、娯楽性を与える役割もある…のではないか。
「この映画は、あなたの中にもある暴力衝動について描いていますよ。今あなたが快感を覚えたようにね」と。
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性の多様性の観点からすると不適切な語用があるかも知れません。
また、差別的とされる単語が含まれるかも知れません。
推敲が完全ではありませんが、とりあえず投稿します。
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※劇中、十字架やマリア像が何度も登場し、宗教色を醸し出している。
主人公もまた、自宅の壁に十字架をかけ、経験なカトリック(アイルランド人なのでおそらく。劇中では住民がプロテスタントを揶揄するような会話もある)であることが示唆されている。一方で友人宅に飾ってるのは、異国文化が満載の調度品の数々だ。そこにはアフリカ風?の人形や、日本の能面・般若面などが存在し、友人はカトリックとは異なる思考様式を有していることが示唆される。
このような対比もまたアイルランド内戦に関係あるのかもしれないが、その可能性を掘り下げるにも、否定するにも個人的に知見が不足している。
ちなみに、アイルランドの独立を推進し、現代でも北アイルランドの英国からの独立、そしてアイルランドとの併合を求めているというIRAは、その誕生からカトリックを核としているという。
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物語の最後に、抗争を経て、まるで仲の良さを取り戻したかのようにも見える2人だが、そこには「抗争の継続(暴力)」と「関係の維持(友好)」という相反した2つの感情・概念が共存しており、好戦的な姿勢で国内の支持率を得ながらも、国家間では事なかれ・現状維持を貫く昨今の指導者たちを暗喩しているようにも思えた。
このことがまた、争い・暴力を好む人間の衝動を見据える本作のテーマ性へと導いてくれるようにも思う。
2人の関係の行き着く先は?
昨日までの親友が翌日突然「お前は退屈だから」と嫌われる。
これだけでどんな映画になるのか全然わからず、気になったので試聴。
個人的にはかなり好きな部類の映画でした!
突然嫌われたコリンファレルの感情がかなりこっちにも感じれました。
特に眉毛の動きが好きでした(笑)
無言の時も最後のシーンも全て眉毛で語っていてそれがかなりこっちに伝わってきた。
最後は立場が逆転したような、パードックの心に火がつき、だがコルムは終わりにしたがっている。
でもコルムが指を5本落とすまでに至った心境の変化はなんだったのか?
あの死神のお婆さんが言っていた日曜までに2人死ぬと言うことはドミニクと他に?それともロバのこと?
気になること多く残したまま終わったけど、これは個人的に好きな終わりだった。
その時代のイニシェリン島の一部を切り取って見ているかのような。
これはひどい
見どころはアイルランドかどこだかの自然の景色くらいで。
仲良しだった年上の爺さんがいきなり「お前とは付き合わない。話し掛けるな。話し掛けたら俺の指を切る」と。
人は良さそうだけど頭の弱そうな主人公が相手のところの行くと本当に相手の爺さんは自分の指を切り主人公の家のドアに投げつける。
普通ならここで「奴は本気で俺と付き合いたくないんだ」と分かりそうなところだけど頭の弱い主人公は再度爺さんの所へ。
忠告が聞き入れないことに業を煮やした爺さんは残りの4本の指を切り主人公の家に再度投げつける。
そのうちの1本は主人公のロバの口に突っ込みロバは窒息死する。
自分のロバを殺された主人公は先日まで仲が良かった爺さんの家に火をつけると言い実行する。
なんだか救いようのない映画でした。
戦争の救いようのなさを表現した作品かもしれませんが万人受けしないのでおすすめしません。
人間の本質に迫った重厚なドラマ
なかなか理解しにくく、難解に感じてしまう作品かもしれません、「何が云いたいの?テーマは何!?」と
でも、至ってシンプル、そんな小難しく考える必要はないと思います
長年 仲良くしてきたコリン・ファレルさん演じるパードリックとブレンダン・グリーソンさん演じるコルムの仲違いがエスカレートし戻れない所まで行ってしまう物語
これは本作の時代背景となるアイルランド内戦のメタファーとして描かれていて、人は気まぐれで、簡単に気が変わったり、誤解したり、我慢を溜め込んでいったりし、それが原因で争いに発展し、最悪の場合は戦争などのようにたくさんの人を巻き込み殺し合いにまで発展する愚かさを持っている、という話です
本作でのトリガとなったのはコルムが老い先を考えた時にもう少し意義のある人生を生きたい、くだらない事に時間を費やしたくない、と長年の友人を一方的に切り捨てたのが発端でした、やられた方は意味不明でそりゃ腹も立つでしょう
コリンさん、ブレンダンさんに加えパードリックの妹を演じたケリー・コンドンさん、そしてパードリックの友人を演じたバリー・コーガンさん、全員みごとな演技でした
先日発表されたオスカーノミネーションに4人とも入った事に驚いてましたが本作を観て納得です、1人でも多くオスカー受賞してほしいと思いました
イニシェリン島は架空の場所ですが、撮影はマーティン・マクドナー監督の出身でもあるアイルランドのアラン諸島でちゃんと撮影されていて、その清々しく美しい景色が全編に渡って広がり、とても心洗われる気持ちのいい時間を過ごせました
後からなんとも言えない余韻に包まれる、不思議な作品でした
退屈な島
極論でいえば、何もない島での二人の親友のケンカの話しだが、なんというか終始ザラザラした感触の映画でした。退屈な閉鎖空間の島の息詰まるような人間関係。抗うコルムとしがみつく主人公という構図?バンシーを象徴するような、謎のおばあさんも不気味でよい。決してハッピーエンドでないけど、この映画ならありだなあと思った。下手に和解したらつまらんよね。
コリン・ファレルもアクション映画などと違う、冴えない独身男が上手い。
価値観の違う人
そもそもパードリックとコルムは合わない。人生の価値観が圧倒的に合わない。だけど、生まれた場所で固定化されている人間関係は、付き合う相手を選ぶ事ができないし、途中で付き合いをやめることも難しい。日本でも過去には八つ墓村的な事件が「ムラ」単位で沢山あったんだろうなあ。
そんな「ムラ」に漂う閉塞感から自分を救ってくれるのが、芸術だとしたら?虚しい人生から救ってくれるのが、芸術だとしたら?コルムは単に芸術に人生の救いを求めただけなのではないでしょうか。コルムのパードリックへの態度は極端ではありますが、「嫌いになった」なんて恋愛関係では当たり前の事ですよね。しかし、パードリックにはそれが理解できる視野も教養も感性も経験もありませんでした。もし、パードリックが違う世界や違う人を少しでも知っていたら、こっぴどく女性に振られたことがあったなら、もっと違う結果になっていたでしょう。
宮台真司氏が「定住化は人類にストレスを与えた。祭りは定住化が始まってから(抑圧を取り除くものとして)始まった」みたいなことを話していましたが、パードリックも村人もまさしく「ムラ」にとどまりつまらない話題に勤しんできました。定住(ムラ)がつまらない人間を量産したならば、つまらない日常は人類にとって普遍的なものです。つまらない日常を少しだけ楽しく過ごすには、芸術かはたまた争いか。
パードリックとコルムを巡って、ストーリーは徐々にエスカレートしていきますが、これが喧嘩を超えた暴力になった時に、私達はあることに気づかされます。この暴力は、今でも世界中で起こっている争いと同じだということを。1923年のアイルランド紛争も2023年のウクライナも全く同じではないかと。紛争や戦争はもっともらしい理由がつけられて正当化されますが、冷静に考えるととても馬鹿馬鹿しいことなのではないかと。
本作はパードリックを通じて、価値観の違う人や意見の違う人に対する不寛容さを表しているように感じました。その不寛容さは、無知や疎外感からくるものであり、時に大量に人を殺します。
しかし、パードリックの様な人間がいるのも事実です。パードリックは、他者に対して暴力を振るっていましたが、コルムは自らの指を切るだけで、他者へ暴力は振いませんでしたし、暴力に対しては常に否定的でした。このコルムの態度は、暴力に対するクリエイティブ側からのひとつの答えだと思います。
地球がイニシェリン島だとしたら?
マーティン・マクドナーの脚本は、キャラクターの作り込みとか暗喩とか、本当に素晴らしくて、これぞ映画だと思いました。彼は「スリー・ビルボード」でも憎しみの連鎖の描き方が秀逸でしたが、今作でもかなり奥深い考えさせられる憎しみの表現でした。
Best Friends Forever
空気が綺麗な澄み切った空と美しい海、島の自然と地形が壮大でスクリーンで鑑賞して良かったです😊✨
2人の友情がメインになっているのは良いですが、島の人々との関係性がもう少しあった方が個人的には好きでした…
順調だった友情から絶縁までの流れについて、もう少しきっかけと途中経過がほしかったです。
『スリービルボード』がとても好きな作品だったので、ちょっと期待しすぎてしまったかもしれません😢
「いい人」が隠している凡庸な悪
1923年のアイルランドの小さな孤島を舞台にした話。島民が数十人くらい(?)で閉鎖的で、終始陰鬱な雰囲気がただよっている。
100年前のアイルランドの田舎の生活の様子が見れるだけで、この映画観て良かったなーって思う。自然や景色は美しいのだけど、それだけで、ほんとに何もない。映画館はもちろん、テレビもラジオも雑誌も新聞も何もかもない。警官は絞首刑が見られるのが楽しみだとか言ってる。唯一の娯楽と言えば島に一軒しかないパブだけで、読書してるだけでインテリといわれる。そんな島。
人々は暇を持て余していて、退屈で怠惰な日々を送っている。この映画で唯一まともそうな人物が主人公パードリックの妹。妹以外はみんなどこかおかしい。
この島の陰鬱な閉塞感て、たとえば「家庭」「学校」「会社」などの限定された人間関係から逃れられない閉塞感を普遍的にあらわしているような気がしてならない。
妹は最終的に島を出る決心をして、主人公(兄)にも早く島を出るようにすすめるのだけど、主人公は「島を出ることはできない」と考える。閉塞的な環境がいろいろな悪いことの元凶だとしても、自分のいる場所を出ることを想像すらできず、ここで生きていくしかない、と思い込んでしまう、というのはすごくありがちだと思う。
妹は本を読んでいたから、この島以外の選択肢を考えることができた。知識や教育といったものの本当の価値はこういうところにあるのだと思う。世界が自分の周囲だけで完結してしまっていて、その外の世界を想像することができず、選択肢があることに気づけなかったり、気づいてもそれを選ぶことが心理的にできない。
主人公は長年の友人コルムから突然「お前が嫌いになった」と絶交され、そこから泥沼の人間関係が展開されていく。おそらくこれはアイルランドの内戦の暗喩なのだろうけど、それだけでは解釈しきれないような謎がいろいろある。この映画は、テーマだとかメッセージが分かりやすく示されていない。ハッピーエンドなのか、アンハッピーエンドなのかすら分からない。この抽象画のようなストーリーをどう解釈するのかは観客にゆだねられている。
僕はこの映画は、「いい人」と評価されている人の「凡庸な悪」を暴く話ではないか、と思った。主人公は、「自分はいい人だ」ということを唯一のほこりにしている。でも僕は「いい人」って誉め言葉なのか?って常々思っている。「あの人いい人だけどね」というとき、それって「いい人」であることしか取り柄が無い、という意味じゃないだろうか。
コルムに「お前の話は退屈で無意味で時間を無駄にしている」「俺は残り少ない人生を作曲に専念したい」と言われても、主人公は自分のそれまでを顧みることをせず、相手の意思を尊重するわけでもなく、「自分は悪くない」という感情しかもてない。
主人公はコルムと自分は親友だ、と思っているが、コルムがほかの人と作曲やら演奏やら何か生産的な活動をしているとき、苦々しい感情しか持てない。主人公の人間関係の見方というのは非常に単純(幼児的)で、要は「相手からの自分への好意」にしか関心が無く、相手の成功だとか成長だとか目標だとか幸せには興味がない。
そして、主人公の「いい人」の正体が徐々に明らかになってくる。このへん、ホラー的な不気味さがある。コルムの仲間の音楽家に「お前の父親が死んだ」とウソを言って島から追い返してしまったり、そのことに全く罪悪感を感じていないことから、実は主人公は「いい人」なのではなく、「いい人」と思われたいだけの人なのだ、ということが徐々に示される。
自分の中に善悪の基準があって善いことをしているわけではなく、他人からの評価だけを基準にして自分の行動を決めているのだとしたら、同じ行動をしていたとしても中身は全く違う。主人公がやたら島民からの評価を気にしていることもそれを裏付ける。
主人公の異常さがはっきりするのが、コルムの家に火をつけたとき、家の中にコルムがいるのを確認し、確認したのにそのまま立ち去ったシーンだ。主人公は、おそらくはじめは、コルムを殺そうとは思っていなかった。でも、家の中にコルムを確認したとき、「死んでもいいや」と思ったのだ。
主人公にとっては、「自分を好きなコルム」だけに価値があるのであって、そこまで自分を嫌いだというコルムは死んでもかまわない、と思ったのだろう。ロバを溺愛していたり、コルムの犬を殺せなかった理由も、ロバや犬は自分を好いてくれる価値ある存在だからだろう(この映画とは関係ないけど、ペットを飼う目的や、恋人を作る目的は、自分を好いてくれる存在を側に置きたいから、という理由が大きい気がする)。
ドミニクの死体が上がるシーンは、この映画のストーリーの中で明らかに蛇足であって、謎展開の1つだけど、この映画が主人公のサイコパスを暴く話なのだとしたら、合点がいく。ドミニクは主人公が「いい人」でないことを悟ってしまった。それで、主人公は自分を「いい人」ではない、と考えるドミニクに価値がなくなり、崖から突き落としたのだろう。これは、警官に対する報復でもある。
そして最後、コルムが生きていたことを知った主人公とコルムとの会話。あくまで関係を断とうとするコルムに対して、主人公は、憎しみという形でも関係をもち続けようとする。
閉鎖的な環境が長く続くと、発展や成長に興味がない人間は、自分でそうと自覚のないまま、とことん堕落していく、その醜悪さをこの映画は描こうとしたんではないか…? 知らんけど。
すべては『イニシェリン島の精霊』を完成するために・・・これが映画だと…傑作だと思う・・・
①凝った脚本の、かなり人を喰った映画だと思う(だから「ゴールデン・グローブ賞」のコメディ部門にカテゴライズされたのだろう)。
同時に、これが正に“映画”という魅力に溢れている。
『スリー・ビルボード』も傑作であったし、この監督注目である。
②ケルト文明が色濃く残っているようなイニシェリン島の風景描写が先ず素晴らしい。それに被さるケルテックな音楽。魔女のようなクソババアの予言。それらからして寓話の様な、中世のお伽噺のような雰囲気を纏っているが、実はかなり風変わりな友情の話である。
③親友から突然“お前のことが嫌いになった”と言われた時の、コリン・ファレルの表情が絶妙。これで映画に引き込まれた。
④普通、親友に突然“お前が嫌いになったから今日から話しかけるな”って言うか?何かの意図があるに違いない。
言われたコリン・ファレル扮するパーチリッジは身に覚えがないのでアタフタし理解できず悩み苦しみ挙げ句泣いてしまうけれど…
⑤『イニシェリン島の精霊』を完成させたい。しかしそれまではパートリッジに付きまとわれたくない、彼のお喋りが邪魔である。
いくら親友とは言えやはり自分の進みたい人生が大事である。
親友だけあってブレンダン・グリースン扮するコルムはパートリッジを良く理解していたのだろう。
“話しかけられたら指を切断する”くらい言わないとパートリッジを遠ざけられない。
本気だと言うことを示すために余りチェロの演奏には影響が少ない(?)指を一本切ってパートリッジの家のドアにぶつけることまでする(友達だからこそ出来たような気がする。他人なら嫌がらせだと告発されるかも…)。
コルムははじめから指を失くすことぐらい覚悟していたのだろう。⑥コルムの“人生は死ぬまでの暇つぶし”“人の記憶など50年もすれば忘れられてしまうが、音楽は200年も残る”という台詞に彼の心情が伺える。
島で多分一番のインテリであるシボーンにも彼の心情を理解して貰えると思い説明するが、やはり理解しては貰えない。。
⑦コルムのパートリッジへの友情が実は消えていないことは随所に現れる描写から伺える。
警官に殴り倒されたパートリッジを助け起こし馬車に乗せる。
シボーンが乗った船が出港した時に、断崖の上でパートリッジと共に見送っていたのはコルムだったろう。
ロバが死んだことで文句を言いに来たパートリッジにロバのことで嫌みを言った警官を殴り飛ばす。
⑧自分の真意をやっと分かってくれたのかと思いきやパートリッジがまた押し掛けてきたので、もうチェロを引きながら作曲するのに必要はないし、(友達との)約束通り残りの指も切断してしまう。
この後何故こんなことをしたのか説明するつもりだったのか、うっちゃっておくつもりだったのかはわからないが、事はコルムの思いとおりには行かなくなる。
⑨元々イニシェリン島に住むことには飽き飽きしていたシボーンは一連の出来事にとうとう島を出るという決断を下す。
パートリッジが家族のように思っているロバのジェニーがコルムの投げた指を口にして死んでしまう。
すべてコルムの予想外の出来事が起こってしまう(歯車が狂い出す)。
⑩クソババア魔女が予言した二つの死。人間が二人死ぬと思っていたが、一人は人間(恐らくシボーンに失恋したドミニクの自殺-映画の前半で、若い健康な若者が湖で自殺したとドミニクの父親である警官が島のニュースとして雑貨屋で報告するのが皮肉な伏線になっている)。そしてもう一つの死はロバのジェニーだった。
⑪とうとうブチキレたパートリッジは、仕返しにコルムの家を焼いてやると宣言する。“(火をつけた後)家の中は見ない”とも。
そして宣言通り火をつけるが、火のついた家のなかを覗くとコルムが座っている。が、パートリッジは助けない。コルムが死んでもよいと思ったのか、いずれ逃げ出すと思ったのか。
⑫その後、浜に降りたパートリッジは生きているコルムを見つける。
この後二人の間に交わされる会話が巧い。
コルム:“これでおアイコだな。“
パートリッジ:“あんたが生き残ったのでおアイコじゃない。”➡️まだつきまとう気。
コルム:“砲撃しなくなった。内戦は終わったのかな。”➡️二人の冷戦は終わったか、友情は終わったか?
パートリッジ:“終わらないものもある。”➡️二人の冷戦は続くのか、友情は続くのか?
コルム:“犬の世話をありがとな。”
パートリッジ:“Anytime.,”➡️“いつでも”(この先も、って意味)
これらの会話を二人は視線を合わせず対岸の本土を見ながら交わすが、二人の間に再び友情が戻ってきたように感じた。或いは、結局この話は初めから捻れ合い絡み合いながら続いた二人の不思議な友情物語だったのか。
⑬コリン・ファレルは、素朴で人は良いが妹ほど聡明でもない農夫の、親友からの突然理由もわからない拒絶を受けての困惑、悩み、悲しみ、苦しみ、嫉妬、怒りを様々に表現する非常な好演。拒絶される理由が判らず妹に“俺って善い人間だよな?”“退屈な人間か?”と繰り返し確認したり(妹は“この島に退屈じゃない人間なんている?”と答えちゃって暗に退屈だと言っているようなもんだけど。)、妹に島を出ると言われて“残された俺はどうなる?”とアタフタする人間としての可愛さ、コルムの本気を見せられても、妹、パプの主人や常連に呆れられながらコルムの友情を取り戻そうと空回りする(結果、コルムの右手の指が全部無くなることになる)一途さと頑迷さを巧まずに表現。
⑭一方、物語を動かすコルム役のブレンダン・グリースンは、突然理由も言わず親友と絶交したり話しかけると指を切断すると脅して挙げ句本当に切断したり、と“おっさん、頭おかしいんちゃう?”ギリギリのところで、親友と袂を分かっても人生の残りの時間を自分の為だけに使いたいという老人の心を説得力を持って描き出す。(これは老境に入りつつある我が身としては理解できる。)
⑮バリー・コーガンは、『グリーン・ナイト』といい『聖なる鹿殺し』(ここでもコリン・ファレルと共演)といい、ケッタイな役が多いが、ここでも幾分頭の回転が鈍そうな然し結構回りを良く観察している青年をウザさギリギリの匙加減で好演。シボーンへの思慕をなかなか口に出せないところと挙げ句玉砕するところや、実は父親に性的虐待を受けていたりしているところにそこはかとない哀しさも漂わせている。
⑯これだけならかなり陰鬱な映画になるところを、島にへばりつく男たちを理解して尻を叩きながら、最後は本土に居場所を求めるシボーンのチャキチャキした存在が映画の裾野を広げている。
⑰随所に露悪的な笑いやユーモアを散りばめた映画だが、教会の懺悔の部屋が、神父とコルムとでは懺悔の部屋にならないところが面白い。男色を仄めかされ激昂した(カソリックでは最近未成年にたいする性的虐待が問題になってますよね)神父が“地獄に墜ちろ!”とコルムに怒鳴るところはやや定番なから可笑しい。
マーティン・マクドナーは何を伝えたかったのだろうか
これまた、陰鬱とした映画だ。
誰も幸せにならない映画だ。
一体、マクドナーは何が言いたかったのだろう
十字架や死に神のモチーフを使って、
彼が伝えたかったことは何なのだろう
最初、ゴリゴリの実存主義の話かと思って観ていた
実際、コルムの話した、「優しい人は忘れられる、音楽だけが永遠に残る」って話も刺さりまくってしまったし。
それから、パードリックが変わっていくのだけど、
ずっと困った顔してたコリンファレルが人んち
乗り込んで、悪態つくときの可愛さたるや。。
動物を大切にしてるのも可愛かった。
で、死に神が島民二人の死を予言する
本の中におそらく真言を見つけた妹は島を去る
妹に想いを伝え、破れたドミニクは湖で死ぬ
未だ友人を失ったことを引きずるパードリックは
鏡の中の自分を殺し、コルムの家に火をつける
しかし、コルムは死なない。
彼は音楽の為に、生き続ける。
ここから考えるに、「人に執着した者」は死んでいる
そうじゃなく、自分、または自分が信じるものに従って行動した者は死なない。そんな法則がある
こんな言葉を聞いたことがある。
「たいていの人は25歳で棺桶に入り、75歳で死ぬまでそこで過ごす」
島の中で、パードリックは死んでいる
コルムもかつては死んでいた
しかし、音楽を見つけ、生き始めた
同じ死人だったパードリックを拒絶したことで、奇しくも彼に生きる目的を持たせることになる。コルムへの復讐だ。
彼はこれからも島の中で、復讐することを目的として生きるのだろう。
島とか、地方とかの閉鎖的な環境によくある事だが、暇な人間は人に執着する。
あの肉屋のゴシップ大好き店主もしかり、他人への興味が尋常じゃない。
おそらく何も見つけていないからだろう。
だから生者に執着する。
そこから逃れる事が出来るのは、自分の名前と引き換えにしてもいいほどの、永遠に残る何かを見つけた時だ。
と、難しすぎて脳が痺れてきた…
真の主題の一部でも分かればいいか…
にしてもスリービルボードってやっぱり飛び抜けて傑作だったよなあ…
【"精霊の思惑。"安寧だが退屈な日々を受け入れる"良き人"と受け入れ難くなった人との齟齬を描いた作品。人間関係の脆弱さと微かなる人間の善性を、衝撃的シーンを織り交ぜて描いた作品でもある。】
ー 今作に登場する”良き人”パードリック(コリン・ファレル)も、
彼に突然”お前が嫌いになった。”と言い放ったコルム(ブレンダン・グリーソン)も、
パワハラ警官を父に持つドミニク(バリー・コーガン)等、
主要登場人物は皆、ミセス・マコーミックと呼ばれる年老いた小柄なざんばら髪のお婆さんの姿の精霊、バンシーズに取りつかれている。(私の勝手な推測です。)
聡明な妹シボーン(ケリー・コンドン)以外は・・。ー
◆感想
・アイルランド本島で行われている内戦の砲弾の音が劇中頻繁に聞こえて来るが、これは明らかにパードリックとコルムとの諍いを表している。
ー 更に言えば、コルムの心変わりの理由でもある。いつまで、命があるのか・・。-
・コルムが、パードリックとの交流を一切辞めた理由。
”アイツのお喋りを2時間も聞いているのは無駄だ。500年後にも残る音楽を作曲したい。”
と言って書き上げた曲の名前が”イニシェリン島の精霊”である。
ー 明らかに、コルムは”バンシーズ”に憑りつかれている。
だが、もしかしたらコルムはパードリックに対し、”そのまま安寧な生活を送っていると後世に何も残らないぞ!”と言外に仄めかしているのかも知れないと思いながら、観賞続行。-
・そして、コルムがパードリックに”俺を煩わせたら、俺の指を一本づつ切り落とす”と言い放ち、実際に楽器演奏で弦を抑えるのに必要な人差し指を切り落とし、パードリックの家の玄関に”ドン!”と叩きつけるシーン。
ー うわわわ・・。指を切り落とした血だらけの大鋏や、指から血を流しながら演奏するコルムの姿。インパクトが大きすぎる・・。
だが、彼はドミニクの父親の警官に殴られた時に、助け起こす手を差し伸べたりもしている。-
・島の人々も二人の険悪な関係性を知り、緊迫するアイリッシュパブの雰囲気。曇っている空模様。
ー 実に寒々しいが、確かなる世界観を創出している。-
・阿呆と皆から言われているドミニクを演じたバリー・コーガンも、相変わらずの不穏な雰囲気を纏っている。
ー イキナリ脱線するが、コリン・ファレルとバリー・コーガンが共演した「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」の雰囲気と、今作の雰囲気がシンクロしている気がしてしまった・・。-
・そして、時折現れるミセス・マコーミック。年老いた小柄なざんばら髪のお婆さんの姿の精霊バンシーズとも見える姿も不気味である。
ー そんな島の不穏な雰囲気を察したのか、聡明なパードリックの妹、シボーンは逃げるように本土で職を見つけ、島を去る。-
・コルムは到頭、片手の指を全て切り落としパードリックの家の周りにバラまく。だが、一本の指を喉に詰まらせたミニロバのジェニーは窒息死してしまう。
それを知ったコルムはパードリックに謝罪するが、今度はパードリックがコルムに対し”お前の家に火をつける。”と言い放ち、”彼の愛犬を家から出した後に”、実行する。
ー 焼け落ちたコルムの家の周りを徘徊し、燃え残った椅子を触っているミセス・マコーミックの姿。-
<今作は、鑑賞側に様々な見方を許容する映画だと思う。
人によっては、二人の和解を願ったり、バンシーズの思惑を疑ったり、コルムの身体を張った友だった男の生き方に警告を与えるモノではないかと推測するだろう。
私は今作は、人間関係の脆弱性と微かなる善性をマーティン・マクドーマン監督が、様々なシーンに潜ませて描いた作品として鑑賞した。
不穏な世界観や、ラストシーン、海岸でコルムがパードリックに”愛犬を助けてくれてありがとう”と手を差し伸べる姿など、印象的なシーンが多数ある作品である。>
友人が 突然 絶交してくる。 揉め事になる。 アイルランドの田舎の島、時は流れる。
有る日 友人が お前は退屈だから 絶交と宣言する。
言われた方は 理不尽さに 怒る。
事件が起きる。
妹は嫌気がさして島を出る。
やがて 揉め事は エスカレート。
あまり 納得のできるストーリーではないし
ほっこりもしないし 感動も無い、
奇妙な話。
1920年頃の アイルランドの田舎の島の 風景、暮らしは 興味深い。
わたしには合わなかった。ある程度予備知識入れて鑑賞すべし!
見た後、他の人のレビューを見るとなるほど!と納得する部分もある。事前に勉強していたら少しは見え方も違ったのかもしれない。
だけど、本作の方向性とかストーリーが奥深く、複雑すぎて、わたしは理解に苦しむ。
例えば指を切り落とすシーンや家を燃やすシーン。
なぜ左の指を切断するのか?そして切り落とした指を映すのか?
家を燃やしても、友達は生きてて、最後は浜辺で2人が会話を交わす。本作の最も伝えたいメッセージなのだろうけど、とにかく冗長で暗くて退屈な時間でしかなかった。
ただ、ロケ地となった場所の美しさ、ロケーションは抜群だった。
「人生は死ぬでの暇つぶし」など、名言も多く出てきていて台詞などは良かった。俳優もね!
1/29追記
他の人たちの書いているレビューを見て、再度見に行こうと。監督のメッセージ、作中に散りばめられた表現を汲み取りたい!
引くに引けない、いい年した大人達の喧嘩話
舞台は1923年、内戦の絶えないアイルランドの孤島、イニシェリン島で起こるパードリックとコルムという、いい年した大人二人の喧嘩話。
ん〜〜〜正直な話、自分はあまり面白くなかったです。
パードリックがなぜあそこまで頑なに関わり続けようとするのかが謎なんですよね。
もしパブで他に話す人もいなくて妹以外に味方がいない、というのなら固執してしまうのも分かるのですが、別にコルム以外とも全然話してるし「なんでこうなったんだろう」と相談したりしている。
コルムは「ほっといてくれ」と言っているだけなんだから、少し時間を置けばいいだけなのにそれもせずすぐにつっかかりどんどん気持ちを離れさせていく。
最初の方はまだ「パードリック空気読めないし本当に鈍感だな…笑」となるんですけど、実際に指を切り落としたものを見せられてからも「返しにいかなきゃ」となってしまうのはもう分からないです。
そこ以降のパードリックは空気が読めないとかとかそういう次元ではなく、他人のことを考えないエゴの塊のような気持ち悪い人間になっていきます。
予告を見る限りコルムが唐突に絶縁を叩きつけるヤバい奴かのように見えますが、実際はパードリックのほうがヤバい奴でした。
言っちゃなんですがおじさんのメンヘラ行動を見せられてるだけですからね。
しかしそこで観客のザラつく心を見透かすかのように差し込まれるのどかで"なにもない"があるイニシェリン島の牧歌的な風景。
この島の映像が心の浄化剤になっていたのが良かったです。
監督の前作『スリー・ビルボード』では登場人物の心情を丁寧に描き、お互いの環境なりなんなりがあってすれ違いが起きていく作品でしたが、今作はどうにも主人公に感情移入できない。
コルムはやりかたが不器用だが言いたいことは分かる。妹のシボーンは島唯一の常識人ですし、発達障害っぽい感じのドミニクでさえ欲に対して忠実すぎるだけで悪いやつではありませんでした。
でも主人公のパードリックは人の忠告を聞かず、実際に指を切り落としたコルムを前にしても自分が身を引くという選択肢を持たずに関わり続けようと執着を見せるのが共感できないんですよね。
「すべてがうまく行っていた、昨日までは。」というキャッチコピーはあくまでパードリック目線、コルムとしてはそれまでが退屈で、絶縁状を叩きつけてからのほうがうまく行っていたように見えます。
なんだかんだ途中まではちょいちょい笑えるシーンがあって、これ笑っちゃうのは自分が不謹慎なのかちゃんと狙って作られてるのか分からなかったのですが、どうやら今作のジャンルはブラック・コメディとのことで、愚かな人間の行動を冷ややかな目で見て笑うのが正しい鑑賞方法なのかもしれません。
いやしかしパードリックを演じたコリン・ファレルの困り眉のハの字具合がすごかった。その角度で主人公の感情の揺れ幅が分かるくらいに、劇中の9割は眉がハの字になっています。
そして今作を観終わった自分の眉も同じようにハの字になっていたと思います。
監督が今作で何を伝えたいのかが分からなさすぎて、です。
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