「すべては『イニシェリン島の精霊』を完成するために・・・これが映画だと…傑作だと思う・・・」イニシェリン島の精霊 もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
すべては『イニシェリン島の精霊』を完成するために・・・これが映画だと…傑作だと思う・・・
①凝った脚本の、かなり人を喰った映画だと思う(だから「ゴールデン・グローブ賞」のコメディ部門にカテゴライズされたのだろう)。
同時に、これが正に“映画”という魅力に溢れている。
『スリー・ビルボード』も傑作であったし、この監督注目である。
②ケルト文明が色濃く残っているようなイニシェリン島の風景描写が先ず素晴らしい。それに被さるケルテックな音楽。魔女のようなクソババアの予言。それらからして寓話の様な、中世のお伽噺のような雰囲気を纏っているが、実はかなり風変わりな友情の話である。
③親友から突然“お前のことが嫌いになった”と言われた時の、コリン・ファレルの表情が絶妙。これで映画に引き込まれた。
④普通、親友に突然“お前が嫌いになったから今日から話しかけるな”って言うか?何かの意図があるに違いない。
言われたコリン・ファレル扮するパーチリッジは身に覚えがないのでアタフタし理解できず悩み苦しみ挙げ句泣いてしまうけれど…
⑤『イニシェリン島の精霊』を完成させたい。しかしそれまではパートリッジに付きまとわれたくない、彼のお喋りが邪魔である。
いくら親友とは言えやはり自分の進みたい人生が大事である。
親友だけあってブレンダン・グリースン扮するコルムはパートリッジを良く理解していたのだろう。
“話しかけられたら指を切断する”くらい言わないとパートリッジを遠ざけられない。
本気だと言うことを示すために余りチェロの演奏には影響が少ない(?)指を一本切ってパートリッジの家のドアにぶつけることまでする(友達だからこそ出来たような気がする。他人なら嫌がらせだと告発されるかも…)。
コルムははじめから指を失くすことぐらい覚悟していたのだろう。⑥コルムの“人生は死ぬまでの暇つぶし”“人の記憶など50年もすれば忘れられてしまうが、音楽は200年も残る”という台詞に彼の心情が伺える。
島で多分一番のインテリであるシボーンにも彼の心情を理解して貰えると思い説明するが、やはり理解しては貰えない。。
⑦コルムのパートリッジへの友情が実は消えていないことは随所に現れる描写から伺える。
警官に殴り倒されたパートリッジを助け起こし馬車に乗せる。
シボーンが乗った船が出港した時に、断崖の上でパートリッジと共に見送っていたのはコルムだったろう。
ロバが死んだことで文句を言いに来たパートリッジにロバのことで嫌みを言った警官を殴り飛ばす。
⑧自分の真意をやっと分かってくれたのかと思いきやパートリッジがまた押し掛けてきたので、もうチェロを引きながら作曲するのに必要はないし、(友達との)約束通り残りの指も切断してしまう。
この後何故こんなことをしたのか説明するつもりだったのか、うっちゃっておくつもりだったのかはわからないが、事はコルムの思いとおりには行かなくなる。
⑨元々イニシェリン島に住むことには飽き飽きしていたシボーンは一連の出来事にとうとう島を出るという決断を下す。
パートリッジが家族のように思っているロバのジェニーがコルムの投げた指を口にして死んでしまう。
すべてコルムの予想外の出来事が起こってしまう(歯車が狂い出す)。
⑩クソババア魔女が予言した二つの死。人間が二人死ぬと思っていたが、一人は人間(恐らくシボーンに失恋したドミニクの自殺-映画の前半で、若い健康な若者が湖で自殺したとドミニクの父親である警官が島のニュースとして雑貨屋で報告するのが皮肉な伏線になっている)。そしてもう一つの死はロバのジェニーだった。
⑪とうとうブチキレたパートリッジは、仕返しにコルムの家を焼いてやると宣言する。“(火をつけた後)家の中は見ない”とも。
そして宣言通り火をつけるが、火のついた家のなかを覗くとコルムが座っている。が、パートリッジは助けない。コルムが死んでもよいと思ったのか、いずれ逃げ出すと思ったのか。
⑫その後、浜に降りたパートリッジは生きているコルムを見つける。
この後二人の間に交わされる会話が巧い。
コルム:“これでおアイコだな。“
パートリッジ:“あんたが生き残ったのでおアイコじゃない。”➡️まだつきまとう気。
コルム:“砲撃しなくなった。内戦は終わったのかな。”➡️二人の冷戦は終わったか、友情は終わったか?
パートリッジ:“終わらないものもある。”➡️二人の冷戦は続くのか、友情は続くのか?
コルム:“犬の世話をありがとな。”
パートリッジ:“Anytime.,”➡️“いつでも”(この先も、って意味)
これらの会話を二人は視線を合わせず対岸の本土を見ながら交わすが、二人の間に再び友情が戻ってきたように感じた。或いは、結局この話は初めから捻れ合い絡み合いながら続いた二人の不思議な友情物語だったのか。
⑬コリン・ファレルは、素朴で人は良いが妹ほど聡明でもない農夫の、親友からの突然理由もわからない拒絶を受けての困惑、悩み、悲しみ、苦しみ、嫉妬、怒りを様々に表現する非常な好演。拒絶される理由が判らず妹に“俺って善い人間だよな?”“退屈な人間か?”と繰り返し確認したり(妹は“この島に退屈じゃない人間なんている?”と答えちゃって暗に退屈だと言っているようなもんだけど。)、妹に島を出ると言われて“残された俺はどうなる?”とアタフタする人間としての可愛さ、コルムの本気を見せられても、妹、パプの主人や常連に呆れられながらコルムの友情を取り戻そうと空回りする(結果、コルムの右手の指が全部無くなることになる)一途さと頑迷さを巧まずに表現。
⑭一方、物語を動かすコルム役のブレンダン・グリースンは、突然理由も言わず親友と絶交したり話しかけると指を切断すると脅して挙げ句本当に切断したり、と“おっさん、頭おかしいんちゃう?”ギリギリのところで、親友と袂を分かっても人生の残りの時間を自分の為だけに使いたいという老人の心を説得力を持って描き出す。(これは老境に入りつつある我が身としては理解できる。)
⑮バリー・コーガンは、『グリーン・ナイト』といい『聖なる鹿殺し』(ここでもコリン・ファレルと共演)といい、ケッタイな役が多いが、ここでも幾分頭の回転が鈍そうな然し結構回りを良く観察している青年をウザさギリギリの匙加減で好演。シボーンへの思慕をなかなか口に出せないところと挙げ句玉砕するところや、実は父親に性的虐待を受けていたりしているところにそこはかとない哀しさも漂わせている。
⑯これだけならかなり陰鬱な映画になるところを、島にへばりつく男たちを理解して尻を叩きながら、最後は本土に居場所を求めるシボーンのチャキチャキした存在が映画の裾野を広げている。
⑰随所に露悪的な笑いやユーモアを散りばめた映画だが、教会の懺悔の部屋が、神父とコルムとでは懺悔の部屋にならないところが面白い。男色を仄めかされ激昂した(カソリックでは最近未成年にたいする性的虐待が問題になってますよね)神父が“地獄に墜ちろ!”とコルムに怒鳴るところはやや定番なから可笑しい。
もーさん、コメントありがとうございます。私の感想はすごく甘かったです。コリン・ファレルの演技があまりに素晴らしくて馬鹿なパードリックに騙されてしまった。私もパードリックのような脳天気な馬鹿なんだということに気がつきました。
コメントありがとうございました。あたたかな気持ちになるコメントで、またこれからもいろいろな映画を見ていこうと思いました。
私は死神に呼ばれて、警察官のお父さんも亡くなったのだと考えていましたが、パンフレットには、もーさんと同じように、1つの死はロバのジェニファーと書いてありました。
高い評価の方がおられて、安心しました。
解説を楽しく読ませていただきました。
2箇所、私の解釈と違う点があったので、「そんな風に考える人もいるのか」程度に、以下読み流してください。
1.妹さんを見送ったもう一人は死神(あのおばあさん)
2.亡くなったのは、ドミニクとそのお父さん
と、私は思いました。
主人公と妹さんとドミニクには幸せになって欲しかったです。