「私の見た、「TARター」」TAR ター magicfluteさんの映画レビュー(感想・評価)
私の見た、「TARター」
「ター」の予告編は、マーラーの交響曲5番の冒頭を、ケイト・ブランシェット演じる主人公が指揮する場面で始まる。ベートーヴェンの交響曲5番、いわゆる「運命」の、あの旋律が、歪んで、肥大化して飛び出してきたような、エキセントリックなフレーズ。その鮮烈で、ある意味、グロテスクな音響と、両腕を鷲の両翼のように天に向かって突き上げる、ターのアクションが見事にシンクロし、同時に、マーラーの音楽の悪魔的な魅力と、ターという女性指揮者のカリスマ性も、シンクロして、圧倒的な印象を残す。映画のチラシに使用されている写真が、この場面。
映画の中でも、楽屋落ちのようにターのジョークとして、ヴィスコンティの名前が出てくるが、「ベニスに死す」で、この5番のアダージェットが印象的に使われて以来、マーラーの音楽を使用した映画はたくさんあるが、「ベニスに死す」に比肩するのは、「ター」くらいなのではないか。本編でも、ここは、ごく短いシーンだが、映画を見ている我々も、このワンシーンで、ターというキャラクターに魅了される。同時に、映画の中の演奏者や聴衆が、ターに、否応なく惹きつけられることも納得する。
この映画のあらすじは、おおよそ、次のように紹介されている。
リディア・ターは、アメリカの5大オーケストラで指揮者を務めた後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に女性として初めて就任する。ターは、同性愛者で、オーケストラのコンサート・マスターの女性と、公認のカップルとして生活している。天才的能力と類まれなプロデュース力で、トップの座を築いた彼女だったが、今はマーラーの交響曲5番の演奏と録音の重圧と、新曲の創作に苦しんでいる。そんなある時、かつて彼女が指導した若手の女性指揮者が自殺したというニュースが飛び込んでくる。
観終わって、ネットで、この映画の感想を拾い読みしてみると、以上のおおすじ以外は、微妙に違う、時には、正反対のストーリーを、人それぞれが、「読み取って」いる。場合によっては、「この映画、意味不明」と投げ出してしまっているものも、少なくはない。エリート女性指揮者の、パワハラ・セクハラがらみの、心理サスペンスといったふうに売り込んでいて、そういう期待で見はじめると「意味不明」となって、評価は、星ひとつとなってしまう。
魅力的だが、いかにも傲慢な(こういう、なんとも難しい役どころを、ケイト・ブランシェットが見事に演じてみせる)ターが、中盤以降、ストレスから、次第に、周囲のものごと、特に、「音」に過敏になっていく。この「音」が、幻聴なのか、どうなのか、結局、はっきりとはしない。いや、意図的に、はっきりとさせていない。
公園を歩いていて聞こえてくる女性の悲鳴は、明らかに幻聴だろう。その一方、深夜、冷蔵庫の機械音らしきもので眠れないのは、我々も体験するような、現実だろう。ところが、同じく、深夜、メトロノームの音で目が覚めてしまい、それが、クローゼットの中で作動しているのを発見する。これは、現実なのか。サスペンス劇のように、「犯人」が確定するのかと思っていると、「犯人」は、結局、最後まで登場してこない。というか、客観的にみて、そんなことができそうなのは、同居している人間くらいだが、そんな話の展開には、全くならない。となると、あれは、まるごと、ターの幻聴であり、幻覚・妄想だったのか。
そう考えると、例えば、ターが強引に抜擢する女性チェロ奏者が、ターの送るクルマから降りて消えていった建物は、あれは果たして、現実なのか。あんな完全な廃墟のどこに、あの女性の入っていく部屋があるのか。話の中心となる、ターが精神的に追い詰めたとして非難される、スキャンダルとなる、自殺した女性指揮者との関係にしても、確かに、メールを助手に削除させる場面はあるが、本当のところはどうだったのか、映画の観客には、分かりはしない。いや、わかるように描いてはいない。
そのスキャンダルで、ターは解任され、代役を立てたコンサートにターが乱入して、大騒ぎとなり、ターは、追放されたというのが、大方が受け取るストーリーだろうが、果たして、そうだったのか。スキャンダルが大きくなり、呼び出されたターは、女性との関係をきっぱりと否定する。次の場面は、円卓にずらりと並んだ「幹部」たちが、いっせいに、再度、呼び出されたターの方を振り向くところで切れて、そのまま、ダイレクトに、ターが、コンサートに乱入する場面となる。断片をつなぎ合わせようとするなら、当然、上記のようなストーリーを推測することになるが、果たして、これは、みんな、現実なのか。
われわれは、ありもしないはずの「メトロノーム」を見せられて以来、ターを取り巻く、現実と、彼女の「幻聴」「幻覚」「妄想」を、ごちゃまぜに見せられているのではないだろうか。映画を見終わっても、確とした「解答」は与えられず、いや、それは、たぶん意図的に、放棄されている。
また、本筋とは何の関係もない、アパートの隣人の、理解を絶するような迷惑な行為が描かれていて、ターのストレスは、さらに高まるのだが、「こんな不条理とも言いたいような現実って、確かに存在しているよな」と思い、ますます、幻想と現実の境目があいまいになっていくように、映画は仕向けている。
決定的なのは、そのラストシーンで、追放された(らしい)ターが、東南アジアのどこかで、現地のアジア人のオーケストラを指揮し始める、と、スクリーンが舞台上に降りてきて、続けて、映し出される観客は、すべて、異様なコスチュームを着た男女の群れ。私は、ゲームというものに全く関心がない人間なので、ネットを見て、それが、ゲーム「モンスターハンター」のコスプレらしいという書き込みを発見して、ゲームの音楽の実演と映像を楽しむコンサートだったのかと、その設定が、やっとわかったのだが、だとしても、あの異様に押し黙った、半裸の男女の群れが、現実のものとは、とても思えない。
現実なのか、幻想なのか、分かりはしないし、分かるようにもなっていないが、ターは、一心に、指揮棒を振る。2時間半の間、われわれは、現実とも非現実とも判然としない、ターの内面にそのまま入り込んで、その分裂した世界をまるごと観て・体験する。そして、まるで、ターの「心の中の世界」にとり残されたような感覚で、映画館を後にする。
ターの師として設定されているバーンスタインは、マーラーの魅力を、分裂した、この現代の社会をまるごと、つまり、分裂したままに音楽にしてみせた所にあると解説している。ネット上やマスコミ、時には身の回りにも渦巻く、隣り合わせの「希望」と「絶望」、「美」と「醜」、「栄光」と「悲惨」、「いたわり」と「無慈悲」、「生」と「死」…それらを、分裂のままに描き出し、不思議なことに(バーンスタインは、「パラドキシカルに」と、表現している)われわれを「浄化」するのだ、と。
そのストーリーさえ判然としない、分裂したままの心の世界を見せる、ターという映画の不思議な魅力は、マーラーの音楽と通じるものがある。となると、マーラーの交響曲の演奏と録音を、ストーリーの中心に据えたのは、単なる思い付きや好みではない、周到なお膳立てなのかもしれない。