「変な映画。だが、もうこの映画のことしか考えられない。」TAR ター Jongoさんの映画レビュー(感想・評価)
変な映画。だが、もうこの映画のことしか考えられない。
よく分からない映画に出会った時、「わかんね」で済ませることが大概だが、ごくたまに「わかんねーけど、これは何かすごい映画なんじゃないか」と取り憑かれたように頭から離れなくなる映画がある。
そして『ゴーン・ガール』で映画にハマり、現在『TAR/ター』に直面している。
この映画を難解にしているポイントは大きく2つある。
1つは、映画内で引用される多数のクラシックと映画に関する教養が前提となっている点。
冒頭から洪水のように人名と歴史の引用が捲し立てられ、着いていくのに必死になる。しかもそれは単なる引用ではなく、つまり聞き流して良いものではなく(そういうものもあるが)、その後の展開に結びつくものもある。バーンスタインがその良い例だろう。
さらに、あらゆる映画のエッセンスがそこかしこに散りばめられている。
例えばジョギング中の悲鳴。初見は「いったいこのシーンはなんなんだ」と戸惑ったが、調べてみるとあの悲鳴は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のラストの悲鳴と完全に重なるらしい。
つまりあのシーンは、リディアの中に生じた軋みが、彼女の映画音楽の記憶と呼応することで生まれた、彼女の幻聴であることが分かる。
事ほど左様に、様々な教養が映画のかしこに散りばめられているため、一寸の気の緩みも命取りとなる。
もう1つは、解釈が観客に委ねられている部分が非常に多い点。
例えば、序盤に大学の講義で男子学生を論破し授業から追い出すシーンがある。確かにリディアの口調は激しく、まだ10代の学生に対しては容赦のないアカハラと取られてもおかしくはない。
ただ、彼女の論理立ては音楽の教鞭を取る者として非常に筋が通っており、男子学生は大学に入った理由も曖昧ならば、リディアの話中しきりに貧乏ゆすりをしている無礼者の側面も見せる。
本当に彼はリディアの可哀想な被害者なのだろうか?
自殺したクリスタの件も同様だ。
彼女はリディアからの性的強要を拒んだ結果、彼女に指揮者としての将来を絶たれたと訴えて自殺した。確かにリディアは傲慢で、ベルリンフィルも私物化し、若いオルガに靡いている様子も描写される。
だが、本当に彼女が性的強要までしたのだろうか?
少なくとも作中ではそのようなシーンはない。妻のソフィアや秘書のフランチェスカとも関係を持ったようだが、どちらも無理矢理強要されたという様子は見られなかった。オルガに関しても、えこひいきから彼女の得意なチェロ曲を選曲したが、ソロを決める最終的な判断は民主的なオーディションに委ねている。
大学での論破もそうだが、彼女の行動はいわゆる権力を笠に着る状態とは異なり、リベラルな印象も与える。これが議論を呼び、いつまでもこの映画が頭に取り憑いて離れない最大の要因だ。
話の持つそもそもの難解さと、議論を呼ぶリディアの多面性。間違いなく見る人の思考に取り憑き、迷路へと誘う怪作だ。