「加害者であり被害者。そして表現者」TAR ター shironさんの映画レビュー(感想・評価)
加害者であり被害者。そして表現者
『TAR』なぜこのタイトルなのか?終盤にその意味がわかります。
今、この時代に語られるべき物語です。
序盤はまるでドキュメンタリーを見ているよう。
ケイト・ブランシェットの演技がとにかく素晴らしい。
表面には出ないように取り繕いながらも、その内面は興奮でゾクゾクしているのが手に取るようにわかり、その生々しい感覚が見ているこっちにまでダイレクトに伝わってきて、一緒にゾクゾクしました。
常に凛とした女帝のイメージをまとっている彼女が、恋する乙女みたいに骨抜きになってる演技は滑稽でもあり、かいがいしい演技は傷ましくもある。
さすがはアカデミー主演女優賞ノミネート。
今年のアカデミー賞のテーマは“ハリウッドドリーム”
平等なチャンスと正当な評価。「映画で夢を創る人の夢が叶うハリウッド!」だったと感じるので、エブエブ旋風が巻き起こるのにも納得。
でも、マイオスカーはブランシェット様に捧げたい。
どんな社会にも大なり小なり力関係があり、権力者の采配で決定することも多い。
とくに技術や数値など目に見える評価ではなく、表現力や芸術性といった主観に左右される分野では、実力の正当な評価はなかなか難しい。
ましてやプロとして対価を支払われる立場ともなれば、様々な利害関係も生じる。
そんな悪い慣習がはびこる業界に意識改革が起こっているのは誰の目にも明らかです。
アカデミー賞も、ボイコットやmeetoo運動を受けて差別/格差/ハラスメントを無くす取り組みが始まり、今年の賞に結びついたと感じています。
その一方で、急速な意識改革による“いきすぎた弾糾”が生じているとも感じます。
あたかも敗戦国の戦犯のような責められ方で全てを否定される。
実際、人の意識を変えるということは、敗戦国と同じような衝撃を受け入れることに他ならない。
昨日まで崇拝していた存在が悪になり、信じて疑わなかった価値観が覆される。
ローラーで地ならしをするように、関与の大小や影響に関係なく全てをリセット。
乱暴な荒療治だけれども改革するにはそれぐらいのことが必要で、私たちは今そのインパクトを目の当たりにしているのだ。
最新の価値観に照らし合わせて再評価していくなかで、過去の作品を擁護するのは甘さなのか?
悪しき価値観を引きずることになるのか?
一つの音から次の音へ。一つ一つの音の繋がりが音楽となり未来に続いていく。
歴史として振り返った時に、やっと答えが見えるのかもしれない。
本作の主人公は悪しき慣習のなかでサバイブしてきた。
音楽が自分を幸せにしてくれる筈が、いつしか地位や名声の為に音楽を利用して、周囲の人をも利用していた。
冷蔵庫の音にも過敏だった彼女は、街の雑踏の中に音楽を聴く。
音楽に優劣が無いように、人にも優劣はない。
全ての音楽に敬意を表するように、音楽を創る人、奏でる人、全てに敬意を表する。
そこから生まれた音楽は聴く人々の心に響き、またその聴衆にも優劣はないのだ。
圧巻のラストに心が震えました。
やり方は他にもいろいろあると思うので、過去の映画を攻撃しないでほしいと切に願います。逆にそこから学べることもあるはず。
『TAR』では戦犯に例えていましたが、ハリウッドの赤狩りしかり。
今はとりあえず乱暴な荒療治で一緒くたに闇に葬られそうな名作たちも、いつか汚名を返上される日がくると信じたいです。
映画にはその力と豊かさがあるはず。
過去の映画を今の尺度から見てしまうのは仕方ないにせよ、評価を取り下げたり黒歴史扱いにするのはナンセンスだと思います。(あくまでも個人の意見)
過去の映画と向き合う時には観客側がその作品が作られた時代を加味する必要があるので(映画の舞台となる時代ではなく作られた時代)例えば鑑賞前に補助的なコメントを入れたりすれば良いのでは?
Mさん、コメントありがとうございます
私も『風と共に去りぬ』の再評価は悲しく感じています。
映画は生物(なまもの)だと思います。
良くも悪くも今を描き出していて、たとえそれが時代劇であろうとも、今に伝えたいテーマがあるから作るわけで…
「過去の作品を擁護するのは甘さなのか?」
私には「風と共に去りぬ」を過去のものとして葬り去ることはできそうにありません。
2024年度のアカデミー賞の基準を見て、(特に、その基準では選ばれなかったはずの「素晴らしい(!)」作品群を見て)、自分にとっては、なかなか受け入れるのは難しいなと感じてしまいました。
でも、このレビューを読んで、「乱暴な荒療治」も確かに必要なのかもしれない(でも、私には受け入れがたいのですが)ということを思いました。