2022年 オーストリアのSF作品のようだ。
人の考え 特に民族が違えば考え方も違うのは当然だろう。
それは作品を通して明確に描かれて然るべきだと思う。
それがどんな主張であれ、それを知ることが、可能であれば理解することが「歩み寄り」へとつながると思う。
さて、
2056年の近未来
地球は汚染によって人間の住める場所ではなくなっていた。
今現在の世界情勢と同じだが、もっと鮮明に「命令」できるのは誰かが明確化されている。
この作品では一企業であるナイブラコーポレーションが概ねすべての実権を握っているようだ。
汚染で人が住めなくなったことに加え、地上の人類が壊滅する危機を掴んだナイブラは、兵士ハンナと科学者ギャビンをシャトルで打ち上げ、宇宙ステーション「ルビコン」に派遣する。
目的はデミトリ博士が発見した「藻」 つまり空気循環システムをすべて「イカロス」で地上に運ぶことだった。
ハンナはミッションを誰にも伝えない。それが命令だからだ。
博士は自分が発見し培養して循環型システムを作り上げたことをナイブラに報告しない。
それを博士は「自分のものだ」と主張する。
科学者のギャビンだけが何も知らない。しかし彼は双方で起きている状況を冷静に判断しようと努める。
さて、
この作品は、SFを通して「究極の選択」の是々非々を人々に問いかけている哲学的要素の濃い物語となっている。
1 まず最初の前提が与えられる。
その前提によって3人の意見が割れる。
前提とは、ギャビンの主張する3対300 そして人間として何が正しいことなのかということ。
ハンナは、それが使命だから 妹を救いたい 妊娠した。
博士は、自分の発見した循環システムを横取りさせるつもりはない。
自分たち3人とシェルターで酸素が尽きるのを待つ300人
宇宙ステーションにいれば狭い場所でも生きながらえることができる。
地上の300人は、ナイブラの人間たちで、彼らは彼らのためだけにすべてを命じてすべてを手に入れてきた。
ギャバンは「できることをするのが人間だ」と言って、藻の循環システムを地上に届ける判断をする。
それに同意したハンナ 彼女の妹も兵士で、毒の霧から市民をシェルターに送り届ける役目をしていた。
反対者は博士 息子がシャトルで死亡 自身の研究を兵士を送ってまで横取りしようとするナイブラに反抗的だ。
2 新しい情報
ナイブラという企業 兵士すべてを見殺しにした。ハンナの妹も死亡
ギャバンの両親がシェルターにいる。 強い目的意識 3人で300人を救える。
兵士用のマイクロチップを剥がしたハンナは、強制的ではなく自分の意志で問題を考える。
そして博士と同じ意見を採用した。
「この循環システムは、最低3人いなければ二酸化炭素を十分藻に与えることができない」
ギャバンは罪悪感と強制的に地上へ藻を届けさせるために自殺し、2人だけでは循環システムが機能させないようにした。
これによってギャバンは崇高な目的を達成できると信じた。
しかしこれは博士の体裁上の嘘で、二人でも問題なく循環システムは機能する。
そうしてハンナと博士は地上に行くことをしなかった。
やがて子供が生まれ成長する。
子供が無線機を見つけて遊ぶと、地球から音声が入ってきた。
南半球では霧が晴れ、生き延びていた人々がいた。
さて、
イカロスを発進させることが可能になったが、おそらく300人は随分前に死亡している。
南半球に住む別の人々に藻の循環システムを届けることは可能だ。
ギャバンが主張していた「金と特権と命は関係ない」というセリフは普遍的なものに思える。
しかしハンナと博士はその言葉に従わず、見捨てたのだ。
「昔ばなし」では描かれない選択 それを選択したら不幸になる結末
人々はかつて、この昔ばなしのようにして良心に従って生きてきた。
その結果が「ナイブラコーポレーション」を台頭させたのだろう。
彼らは「反省」などしないし、どこまで行っても「いまだけ、金だけ、自分だけ」を貫く人々だ。
この作品は、一見おかしな選択をしていて、普遍的要素にかけているように見えるが、その結果が「現代」であるならば、そのような輩には滅んでもらった方がいいという斬新的な考え方を述べているのかもしれない。
一見ブラックストーリーのようで、そこに見えるのが「逆選別」的な発想だ。
いつまでもナイブラコーポレーションのような輩が自分たちがすべての人類を選別しているのだと思ったら大間違いだと、この作品は言っているのかもしれない。
そう思えば斬新的で面白い。