「服(福)来る」ミセス・ハリス、パリへ行く かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
服(福)来る
服が福を呼び?念願だったクリスチャン・ディオールのオートクチュールを買い求めに、ロンドンからパリにやって来たMrs.ハリス(レスリー・マンヴィル)。メゾンを仕切る支配人イザベル・ユペール 扮するコルベールに開口一番こう尋ねられるのです。「ディオールのオートクチュールを着てどこにいらっしゃるおつもりなの?」お金持ちは社交界のパーティに着て見せびらかすためにディオールを買い求めるけど、家政婦であるあなたには高価なドレスを着た姿を見てくれる人なんていないでしょ無駄じゃない、ってことを多分いいたかったのです。
「ディオールは私の夢なのよ」とMrs.ハリスは答えます。劇中でも言及されているサルトルの唱えた実存主義において、意識を持たないドレスは即自存在だと言えますが、それがクリスチャン・ディオールがデザインした世界に一着しかないオートクチュールとなると、人間と同じ“対自存在”へと限りなく近くなるのではないでしょうか。メゾンの看板モデルであるナターシャが、服を買ってもらうためにお客の前で人形のように振る舞う自分を本当の自分ではないと言って、胸のうちの苦悩を打ち明けます。モデル業が即自存在ならば、哲学科の学生が対自存在というわけなのです。
あるアパレルに勤める方がこんなことを言っていました。「マインドが服を高めることがあっても、服がマインドを高めることはない」意識が高い方はたとえユニクロを着ても高級品のように見える、ということなのでしょう。逆に、自分が金持ちであることを見せびらかしたいだけの人は、どんな高級ブランドを着ても服に着られているようにしか見えないのです。そのマインドの高低を本作は、フェミニズムや階級格差、しいてはストライキによるゴミ放置問題へと(強引に)結びつけているのです。
シナリオの随所にご都合主義が散見されるため、その演繹表現は必ずしも成功しているとは言い難く、フランス人労働階級のマインドが高いことの証明には必ずしもなっていないような気がします。シャサーヌ公爵(ランベール・ウィルソン)の自分に対する好意が学生時代のコンプレックスの裏返しであり、Mrs.ハリスを対等な女性としてではなく“お針子さん”としか見てなかった事実に(ドレスを失った以上の)大きなショックを受けるのです。ディオールを着れば公爵に相応しいレディに近づけるのでは。自分のマインドの低さに思わず打ちのめされるのです。
しかし、焼け焦げにされた服(階級に対するコンプレックス)を捨てることによって(これが何度目になるのでしょうか)Mrs.ハリスに福(服)がおとずれるのです。旧軍人が集まったパーティに、ディオールのオートクチュールを身に纏ったMrs.ハリスが現れます。しかし、会場にいた軍人さんたちは別にその服に見とれたわけではありません。あくまでもMrs.ハリスの内面から溢れだす美しさにやられてしまうのです。その人の持つマインドを正直に写し出す鏡、それがブランド服の持つ真の魔力なのかもしれません。