ザリガニの鳴くところのレビュー・感想・評価
全429件中、221~240件目を表示
ザリガニの鳴くところは自分で作るしかない
ある日ノースカロライナの湿地帯で男性の遺体が発見され、その湿地に1人で住む女性カイアが容疑者として捕えられ、彼女の生い立ちと裁判の行方が描かれていくミステリー。
テーマの1つが、自分と立場が異なる他者への理解、なのだろうけどその他者への理解がいかに不可能であるかを描いている話っぽかった。それも、結局この映画の登場人物は誰も他者への理解なんてできてなかったように見えたから。
カイアを好奇な目で見る外部の人はもちろん、カイアの味方の人達もカイアは清廉潔白という"偏見"を持っていたし、被害者のチェイスも男を知らない従順な自分だけの湿地の娘という"偏見"を持っていた。誰もカイアを真に理解していなかったのかなと思った。
それも、裁判で全く発言をしていないように、カイアって誰の方へも歩み寄ってないんよね。カイアの置かれた孤独で辛い立場も分かるけど、異なる立場どうしの迎合は対話から始まると思っていて、カイアからの歩み寄りも少しは必要だと思う。湿地におびき寄せるみたいなナレーションであったように、自分は口をつぐみながら周りの人を動かしてた。
良いイメージも悪いイメージも全ては偏見。そもそも他者への理解自体が偏見ってことか、と最後の最後で悟った(笑)
まぁでもずっと孤独で生きてきて、幸せだと思っていた家族揃っていたあの頃が、自分も暴力を経験することで初めて最初から安心出来る場所ではなかったことがわかったら、そりゃ自分で安心出来る場所を作らなきゃってなるだろうなと思った。
湿地と共に生きた女性
映画館にて鑑賞しました。
ミステリー小説が原作ということですが、なぜ人が死んだのかという点よりも、被告人となった主人公の半生がメインで描かれていきます。
ひどい家庭環境と偏見の中で生きてきた主人公の人生は、見ている側にも辛くなります。見ているとなんとなく主人公に同情していきますね。
結果、主人公は無罪となりましたが、彼女の死後、裁判でも話題に出てきた貝のネックレスが見つかります。よくよく考えると、劇中で主人公は殺人については認否については明言しているシーンはなかったな、と思いました。(自分の記憶の中では。)
湿地で生活し、湿地の一部となった彼女にとっては、出版社の人に話したように、生きるためには善も悪もなかったのでしょう。(だからといって彼女がチェイスを殺したかどうかも分からないですが。)そう考えると、善と悪を作る生き物って人間だけなのかも、とふとよく分からないことを考えたりもしました。
湿地帯もカイアの映像もきれい!
ミステリー形式になっているが、主人公カイアの成長物語、半生記ですね。 湿地帯の映像もカイアも魅力的。 難しいこと考えなくても、観客はカイアに寄り添って2時間の作品を楽しめます。 最後にアレッ?と思わせる場面もありますが、それで全体の感想が変わることもない。 出版社との会食の場面でのカイアの言葉を思い出す・・・・ 「それも自然の生き物の行動で、そこには善も悪もない。」 なるほどです。
何故高評価なのか理解できない。
冒頭部分で青年の変死体が発見され、カイヤという主人公の女性が、その嫌疑を掛けられる。 その後、弁護士にカイヤが自身の半生を語るという形で、カイヤの生い立ちの回想がはじまるわけだが... その生い立ちが、面白みに欠けている。 もう少し情緒豊かに表現してくれれば、また違った感想になったかもしれないが、実に単調で淡々としている。 父親によるDVや母親の家出、恋人の裏切り等、孤独な立場に立たされるカイヤであるが、それらが叙事詩のようにあったことを並べただけのようで、心の琴線には触れなかった。 本来、孤独の描写とかは好きな性分であるので、感情移入もできるし、グッとくるはずであるのに、この映画の鑑賞に際しては、まるでそれを感じなかった。 また、父親によるDVや学校に打ち解けられないカイヤが、色恋に対しては、その傷やハンデなど微塵もないが如く、事も投げに、心開いて、対応できる点なども、ご都合主義に思えてしまった。 中盤辺りから、そのようなストーリーに対する懐疑心が生まれてしまったので、終局に当たっても、「そうなの。でも、だからなんだろう」と思えてしまった、 どこかで似たようなドラマを観たことがあるような即視感も相まって。 一つよかった点を上げるとすれば、壮大な自然を映した映像美だろう。 そこだけよかった。 ということで、私には何故この映画の評価が高いのかまるで分からなかった。
羽化
導入の音楽と湿地の描写で催眠術をかけられたような感覚だ。不思議な空気の中を漂ってた。
嫌いではない。
なんか書く事が多すぎてなかなか文章がまとまらない。大前提にあるのは、1人の女性が人としての生活に馴染んでいく成長譚なんだけど、このキャラ設定が巧妙で…童話の主人公みたいなのである。
もうどんなドラマを背負わせても成り立つような設定で、彼女の半生を追っかけていく事になる。
その過程で起こる事件の犯人探しが、もう一つの柱。
冒頭は彼女の2人目の彼氏が死んでいる所から始まる。その容疑者として糾弾される主人公。
ここにも設定は強烈に活かされてて、偏見や疎外感、他人への恐怖、拒絶そして邂逅なんかが盛り込まれてる。
その弁護人への説明という形で、彼女の生い立ちが紹介されていく。
DVとか初恋とか、孤独とか帰る場所とか、開放感とか隠れ場所とか、人の温もりとか…彼女が人と交わる事で知る、全ての感情が瑞々しい。
現在の時間軸に戻る頃には彼女にゾッコンだ。
犯人探しが終わってみれば、生存戦略とか捕食とか擬態とか、おおよそ人以外の動物が当たり前のようにやっている生命維持活動なわけで、彼女の言葉を借りると「善悪ではなく、知恵」なのだと「他者から身を守る為に身につけた知恵を行使するに過ぎない」と。
そんな倫理観が根底に潜んでた。
だからなのかなんなのか、彼女は人に満たない存在のように見えてた。
だからこそ神秘的だったり、幻想的に思えてたのかもしれない。人の感性とは違う感性で動いている彼女。いずれにせよ、そんなキャラを作り上げた役者にも演出にも拍手喝采を送りたい。
タイトルの指すものが分からない。
そもそもザリガニって鳴くのかと疑問にも思う。
鳴くならその場所がどこかにはあるのだろうし、鳴かないなら現実には存在しない場所である。
ラストになって、母親の幻が現れる。
そん時になんか奇妙なSEがあった様に思えて、それがザリガニの鳴き声だとするなら、その場所は母の腕の中なのかもしれない。
もしくは考えられない程の静謐が存在する場所なのだろう。日常生活からは連想できないし、切り離さないと生まれてこない場所にも思う。
このレビューのタイトルを「羽化」にしたのはそのまま成長という意味合いなのだけれど、彼女には「羽化」の方がしっくりくるように思え…自然界で羽化する事は、弱肉強食の世界を生き抜いてきたという事で、その為に他者を殺害していった成果とも捉えられる。
幼体から成虫に変態する生命の神秘の裏側には、須くそういった行為が行われている。
人間の法を犯してはいるものの、自然界の摂理には反していないなんて言う、とても危険な感想を抱いた。
それもこれも、彼女のキャラ設定によるものなのだろう。
■ 追記
偶然「woke」という単語を見つけた。
最近のディズニー映画への批評の一つだった。
woke…簡単に言うと、社会に根強く残る偏見や先入観に目を向けて是正もしくは排除していこうとする事なんだとか。ネットのスラングらしい。
この視点が生まれた事で、なんだか輪郭がしっかりしたように感じた。
彼女単体は素敵で魅力的な女性であるが、肌の色も人種も違わないけど、そのコミュニティからしたら異質な存在として描かれてる。
まぁ、そう捉えてしまう歴史があった事は否めず、彼女に非がないとも言い切れないのだけれど、彼女が自ら招いた結果にも思えない。
人格形成の大部分を担う幼少期にある大人の存在だ。分かりやすく嫌悪感を抱きやすい人物像ではあるが、この世界に先に生まれ既存の価値観を受け入れ継承してきた存在がある。日常的に彼女に流れ込んでくる価値観は止めようがない事の象徴でもあるのだろうか。
極めて難しい事ではあるけれど、他者への理解の深度を深めるって事なのかと思う。
伝統や慣習に隷従するのではなく、ちゃんと個人として向き合える社会って事なのだろうか。
オレンジのドレスを着た彼女は、とても愛くるしい。そのドレスを纏う姿が滑稽に映るのも意図的なサインなのだろう。
その土地を離れ、彼女への偏見が無いコミュニティに参加している時の彼女は、ちゃんと受け入れられてる。
彼女に問題があるわけではなく、彼女を取り巻く環境への問題提起でもあるのだろう。
言動に違和感はあるものの「作家」としての特異性が、それらを肯定しているようにも思う。
なんか、そんなこんなでとても複合的なメッセージを含んだ作品でもあった。
ただ、そんな膨大で複雑なメッセージをミステリーという視点で束ねた本作は、やはり見事だと思える。
物語として途切れる事もないし、突出するものもない。作品を的確に表現してみせた俳優陣や演出には賞賛しかない。
■ 追記
成長譚とは書いてみたものの、彼女にとってコレは成長なのだろうかとフと思う。
妥協ないしは順応なのかもしれない。
自分が育ってきた経緯から成長と捉えはするが、彼女が認識するものは違うのかもしれない。
そう思うと、既存の価値観を覆すと言えば聞こえはいいが、破壊に等しく…多様性を重んじる風潮ではあるものの、暗黙のルールの存在は否めず、その暗黙のルールが様々な人にとって受け入れやすいものである事を願う。
人々から湿地の娘と蔑まれて育った孤独な生い立ちとカロライナの雄大な...
人々から湿地の娘と蔑まれて育った孤独な生い立ちとカロライナの雄大な湿地帯や鳥達の姿がコントラストになっているように思えた
Jumpin' Marsh Girl KYA
小学校高学年の頃、川縁でアメリカザリガニ獲りが流行っていた。捕まえて水槽に入れて飼う生徒もいたけど、無残に殺してしまう奴もいた。今思い出すと、小学生の残忍性しか感じられないけど、危険外来種と教えられ、戦争でアメリカに敗れた日本人の復讐心がザリガニに向けられたのかもしれない。そんな少年時代。ザリガニが食べられるものだとは知らなかった。
爆竹とともに爆破させられたザリガニ。殺した理由は少年がゴジラ映画の見過ぎだったせいかもしれません。エビラなんてエビというよりザリガニっぽかったですもんね~。大人たちもよく言ってました「ザリガニなんて汚いもの触るな!放射能に汚染されてるかもしれないんだぞ!」と。いや、それも映画の見過ぎですね・・・まぁ、とにかくザリガニに関する記憶はこんなもの。それが「鳴く」というのも驚きでしたが、「sing」だって?!
さて、そんなザリガニ。映画には登場しませんでした。せめて鳴き声だけでも・・・と思ってたけど、ストーリーにのめり込み過ぎたためラストまで忘れてしまってました。まずはmarshとswampの違いなど、英語の勉強もさせてくれたこの映画。俳優たちの発音もチェイス(ハリス・ディキンソン)聞き取りやすく、わかりやすい。そして、子役たちが皆良かった。もちろん弁護士役のデビッド・ストラザーンの演技も最高。
主人公カイアの語りから、いきなりの変死体発見シーン。女ったらしのボンボンなんだから、誰でも殺意持つやろ!的な被害者。事故死かもしれないけど、それじゃストーリーが面白くない。どうせなら『スタンド・バイ・ミー』のように子どもたちに発見させてやれ的な展開だ。湿地帯にて1人で育った少女というから、もっとオオカミ少女みたいな主人公だと思っていたのに、服装は洗濯が行き届いていて綺麗。しかも、言葉もまともだし・・・。そんな彼女を人間らしく変えたのが兄の幼なじみでもあったテイト。学校に行かない彼女に文字を教え、鳥や魚など小動物の知識を交換したりする。そして恋人同士へと発展。羽根を見ただけで鳥の名前を当てるなんて、鳥マニア必見の映画でもあったと思う。ハクガンの群れのシーンは印象的だ。と、トンビ、ワシ、タカの区別がつかないkossyが言っても説得力なし。
容疑者として捕まったカイア(本名キャサリ・ダニエル・クラーク)に接見する弁護士ミルトン。彼の前で自身の半生を語るシーンと法廷でのシーンが同時進行する。母、そして兄、姉たちが湿地帯の自宅から逃げていき、ついにDV炸裂の父までもが去ってしまう幼少期。そして、黒人夫婦のジャンピンの店の手助けを受けながら1人で生活した過去。こっそり種やガソリンを渡していたテイトとの再会から恋人へ。そして別れ・・・別れる前に、テイトは彼女の描く絵を出版社に送れとアドバイスをくれた。
数年間また湿地帯の一軒家で一人暮らしだったカイアだったが、目の前に現われたのが胡散臭いチェイス。2人の映像がメインとなるため、そんなに悪い奴じゃなさそう。2人は恋人へと発展。住み慣れた一軒家を守るため滞納していた税金を払わなければならなくなり、思い出したように出版社に描きためた絵を送り、採用される。だけど、チェイスには婚約者がいるとわかり・・・
殺人事件(単なる事故かも)が起きたのが1969年。カイアが誕生したのが1945年。そして判決後から現代にいたるまでの幸せな日々をスピーディに描き、判決の感動も収まらないまま、驚愕のエンディングを迎える。見つからなかった貝殻のネックレスがこんなところに!
それにしても犯人はてっきり生死さえ不明だったテイトかと思っていたのに、そんなラストを持ってくるか!ホタルの話が絶妙に生かされてるなぁ。本当の交尾の誘いと嘘の誘い。まだ他にも伏線になる小動物の話があったかもしれない。再鑑賞する際にはチェックしなきゃ・・・
ストーリーそのものよりも湿原地帯の暗いながらも美しい風景やカイアの描く小動物画の数々が心和ませてくれた。また、音楽も良かった。テイラー・スウィフトの曲もいいけど、エンドクレジットで気になったバンドメンバー一覧で、楽器に「Sea Shell」って項目があった。音楽も要チェックだなぁ♪
静かなる余韻に浸る
既に沢山の名レビュワーさんが書いてるので物語の構成については省略。 ザリガニの鳴くところというキーワードがラストで大きな意味合いと余韻を残してくれる佳作だと思う。 スターリングメイサーJrとマイケルハイアット、相変わらず渋さが光るデビッドストラザーンの好演も良かったし、何よりテイラースイフト渾身の書き下ろし曲である「♬カロライナ」がカイア作であろう絵画と共に、何とも心に染み入る余韻を残してくれるエンドロールになっている。
最後のどんでん返しに絶句!
タイトルの「ザリガニの鳴くところ」は、安心安全な場所だという意味でした。ヒロインにとって、いつまでも愛する場所だったということなのでしょうか。最初は、これでもこれでもかと不幸は続きます。軍隊生活のトラウマを持った父親が、家族を虐待したため、家族のみんなが出て行きます。そして本人の父親まで出て行きます。残ったヒロインは、村八分の状態の中で、湿地帯を愛し生き続けます。その少女の姿を見ているだけで涙が溢れてきます。一人暮らしの彼女は、貝を取り、生物の絵を描きながら生活していくうちに、テイトと恋をしますが、一旦裏切られます。続いて、チェイスと恋をしますが、この男は暴力を振るう男性です。この男性が亡くなったことによって、その犯人としてヒロインに嫌疑がかけられ、法廷闘争が行われるというのが、この作品のミステリーの部分です。ヒロインを守ろうと弁護士が活躍しますが、その有能さは秀逸です。そして、ヒロインがついに勝った時には、思わず小躍りしてしまいました。その後、最初の恋人のテイトと復縁し、やっと幸せの人生を歩み出すのです。それからはまるで夢のような幸せな時間なのです。ヒロインの幸せそうな顔が画面の中で溢れたときには、泣くしかなかったです。やっぱり人生は前半と後半があるのでしょうか。前半が不幸でも後半は幸せになるということは、多分セットで人生はできているのでしょう。だから、前半の不幸に見えることも、全て幸福の一部なのだと私は確信しました。ところがです、最後のどんでん返しには絶句でした。なんとも言えない終わり方に、不思議な感慨を味わいました。追記 背景の湿地帯はとても美しくてずっと癒されてました。
城から頑なに出ない「囚われの姫君」の物語。あるいは、純粋無垢な「沼沢の魔女」の物語。
うーん、お話はふつうに面白かったんだけど。 てか、テレビドラマとして流れているのを観たとしたら、「ふつうに面白い話だった」って書いて終わりだったと思うんだけど、映画館で観る映画としては、あまりにテレビ的な作りだったような……。 原作未読(文庫のミステリは読むけど、単行本はなかなか手が出なくて……)。 予備知識ゼロでの視聴。 冒頭の、若干チンケなオオアオサギのCGから、微妙にうさんくさい感じがするものの、いきなり一瞬だけどアメリカササゴイらしき鳥が映って、バーダーとしてのテンションがあがる。 湿地帯が舞台だというから、てっきりルイジアナのバイユーに棲む、ケイジャンかクレオールの(英語もしゃべれない)少女が出てくる話かと思っていたのだが、どうやらノース・カロライナのディズマル湿地が舞台らしい。じゃあ、住んでるのは一応ふつうの白人なんだな。 『ザリガニの鳴くところ』というのも、本当にザリガニが鳴くような場所があるのかと思っていたが、パンフによると原著者が母親から聞かされた「自然の声に耳を傾ける」みたいな言い回しらしい(ザリガニは特段鳴かないとのこと)。 そもそも、日本人が『ザリガニが鳴くところ』と聞くと、なんだか田んぼのどぶ臭いアメザリがスルメで釣られて泡吹きながらキュイキュイ鳴いてるようなイメージが浮かぶのではないかと思うが、一般的にザリガニというと訳語はCrayfishであり、Crawdadというのは若干ニュアンスが異なるのかもしれない。それに「鳴く」といっても原文は「sing」。もっと詩的な感じである。 原題だと「小型のロブスターが潜む水のほとりで耳を澄ましていると、あたかも彼らが歌う声が聞こえてきそうだ」くらいの、澄んだ語感のタイトルだという可能性は大いにあると思う。 ともあれ、「Marsh(湿地)は、必ずしもSwamp(沼地)ではない」という印象的なナレーションで、物語はスタートする。 で、このMarshが、とにかく綺麗なんだよね。 なんかふつうに自然の王国、水の楽園、鳥の楽園って感じ。 ネガティヴな要素がみじんも感じられない。 いや、綺麗で何が悪いんだ、ヒロインにとっては実際に楽園なんだろって話なんだが、街の人からさんざんMarsh Girlって蔑まれて、「臭い」「汚い」って言われて居住地差別されてる少女が主人公なのに、土地にほとんど「汚い」要素が皆無ってのは、それで果たしていいんだろうか?? ヒロインのカイアにも、ちっとも被差別児童/被差別女性としてのネガティヴさが付与されていない。 「裸足が汚れている」という「記号」だけで、「いろいろあって綺麗に描いてあるけど、まあそう思って観てね」みたいな扱いになっている。 実際には、少女時代から大人になるまで、髪は常に洗い立てのようにさらさらで、お肌はつるつる、汚れていないどころか日焼けもしていない。服も小ぎれいで、ほとんど天使のようだ。 成長してからは(新人さんなのにすごいデジャヴがあると思ったら、ヴァイオリニストのヴィルデ・フラングによく似てるのね)、湿地でひとりで生活してるというのに、腋もつるつる、乳首も浮いていない。 ここまでくれば、これこそがむしろ製作者の意図した「仕様」だと思って差し支えないだろう。 決して、ヒロインにとっての聖地である湿地帯を悪くは描かない。 ヒロインを決して汚したり、物乞いのような風体に描いたりはしない。 架空の物語として、聖化され、浄化された(purified)土地とヒロインしか、画面では見せない。 でも、この差別と被差別の物語を描くのに、そんなきれいごとでやってて、映画って本当に成立するものなのか?? ふだんフランスやイタリアの昔の生々しい映画ばかり観ているから、そう思うだけか? 今のアメリカ映画って、こんな感じなのか? でも、ジャック・ケッチャム原作の『ザ・ウーマン』や『ダーリン』ですら、もうちょっと「野生児」は小汚く描いてたぞ? しょうじき、僕には製作者がリアリティから目を背けているようにしか思えなかった。 だって、「臭くない」Marsh Girlは、別にいじめられないじゃん。こんなに美人なんだから。 おそらくなら原作でも、動物学者ディーリア・オーエンズの鋭い眼差しによって、自然は美しく描写されているのだろう。カイアも「自然の象徴」として、美しく描かれているのだろう。 でも、それは文字で書かれている以上、あくまで主観的な描写であって、「湿地の住人から見たら美しい自然でも、街の住人からしたら汚く淀んだ沼地」「彼女を好きになった青年からすれば野性と聖性を漂わせる美少女でも、街の住人からしたらただの小汚いアウトサイダー」という両義性はしっかり保たれていたはずだ。 だが、それを映像化するに際して、表面的に美化された形をメインにこうやって一方的に定着させてしまうと、逆に話の重要な一面が見えなくなってしまうのではないか? 少なくともこの映画を観ているかぎり、湿地は忌むべき場所ではちっともないし、ヒロインもまた忌避されるような存在では全然ないからだ。 要するに、「なぜ社会が湿地とカイア(=自然)を敵視し、排除し、開拓して調伏しようとするのか」の部分の根拠が、きれいさっぱり欠落している。 本来は湿地は恐ろしいところだし、臭いし、汚いし、普通の人間なら怖くて生活などできない場所であることを観客に「隠したうえで」、この映画は街の住人を単なる「悪意と偏見の塊」として非難し、断罪しようとするのだ。それってアンフェアじゃないの? お話自体の語り口も、総じて気になる。 ひとことでいって安易というか、実にテレビ的なのだ。 出だしからして、きわめて説明的な酒場のやり取りが出てきてげんなりする。 劇のト書きならわかるけど、映画なのにこの段取りの良すぎる状況説明ってありなのか? で、娘を置いて出ていく母親の顔にカメラが寄ると、でかでかと殴られた跡が。 なんてわかりやすい。やっぱりテレビ的だ。 あと、撮り方。ほぼすべてのシーンで、しっかりヒロインにピントが合っていて、流麗ではあるが面白みのかけらもないカメラワークがつづく。見やすさ重視。このへんもテレビ的。 そのくせ、普通に観ていて、僕にはよくわからない部分もやけに多い。 なんで子供(しかも複数)を連れずに、置きざりにして母親は出て行ってしまったのか。 なんで母親が呼び寄せたわけでもないのに、上から順番に子供が出て行ったのか。 父親がいなくなったのに、カイアが母親を探しにいかない理由はなんなのか。 娘が嫌がってるからといって、保護が強制執行されない理由はなんなのか。 雑貨店の奥さんはなんで計算だけしか教えず、文字は教えなかったのか。 カイアは6歳で遺棄児童になって、家にはテレビもなくて、文字も読めないのに、どこであんな豊富な語彙力と知識を身に着けていたのか(青年に文字を教えてもらっただけで、すぐにすらすら書物が読めるようになるって設定自体が、しょうじき漫画的でナンセンス)。 なんか、「誰が観てもわかるように」という部分では徹底的に安直に、説明過多に作ってあるのに、肝心のキモに当たる部分はいろいろ「まあそんな感じ」でやり過ごしてしまっているように思う(たぶん小説で読めば委細書かれているのだろうけど)。 製作陣の揺るがぬ方針として、「カイアと湿地を汚く描かない」というルールがあるのは先述の通りだが、もう一つ注目すべき点として、「カイアの湿地への執着を、徹底して肯定的に描く」というのがある。 ふつう、この手の特定地域の住人であることの弊害を描く物語の場合、主人公には「土地に縛り付けられる理由」がある。「土地からどうしても離れられない因果」がある。 でも、カイアにはそれがない。 カイアのありようは、一見「囚われの姫君」のように見える。 だが、本当は、自分でわざわざ囚われているのであって、石にかじりついてでも、ここから出ないと決めたヒッキーのような姫君である。 カイアが湿地を離れないのは、湿地が好きで、湿地に自分の居場所が確固としてあって、湿地こそが彼女の縄張りだからだ。 だから、母親に置いて行かれても自分は行こうとしない。 父親に出て行かれても自分は出て行かない(もう自由の身なのに!)。 施設に入れられそうになったら、全力で逃げ、全力で抵抗する。 恋人が連れ出そうとしても、梃子でも動かない。 恋人が来てくれるときだけは相手をするが、自分から出向こうとはしない。 恋人が出て行ったら、ひたすら待ち続けて、戻らないと別に探そうとはせずに諦める。 湿地で得られるものだけで時給自足して、湿地を描いて金にしようとする。 それで得た金で、自分の家の周辺の土地を買うときだけは、きわめて能動的だ。 意地でもこの縄張りは手放さない。 意地でもこの縄張りからは出ない。 彼女は湿地から出られないのではない。 彼女が湿地から出ようとしないのだ。 しょうじき、かなりの偏屈だと思う。 何が彼女をここまで依怙地に、湿地帯に執着させるのか。 母親を待っているような台詞が最終盤に出てくるが、それは湿地に執着する体のいい口実だ。 結局、彼女は幼い頃すでに、この湿地の「主」になることを、自ら定めていたのだ。 彼女の魂は、この湿地と結び付けられている(と信じている)から。 彼女は、この湿地でいるときにだけ、特別な存在でいられる(と信じている)から。 彼女は、この湿地から離れると霊力を喪ってしまうから。 それは、土地の霊脈に依拠して生きる、「魔女」のような存在。 あるいは「シャーマン」か。はたまた「精霊」か。 カイア=湿地そのもの、といっていいのかもしれない(実際そういう台詞がある)。 だから、彼女はジグモかトタテグモのように、ずっとここで巣を張って、生き続ける。 入って来る男には意外に簡単になびくが、そこから出ていく人間を敢えて追おうとはしない。 その生き方に合わせてくれる男となら寄り添える。 では、その生き方を脅かす男が出てきたら? この物語の中核は、おそらくそういう話だ。 先に述べたように、原作者にとってカイアは自然(ガイア)そのものの象徴のような存在である。 文明の民から忌避され、征服すべく攻撃され、その潜在的「悪意」について常に疑われてきた存在。 だから、作中で出てくる「自然に善悪はない。自衛の本能があるだけ」という独白は、まさに作品を象徴する概念であり、きわめて重要な意味を担っているわけだ。 『ザリガニの鳴くところ』は、絵に描いたような女性映画でもある。 原作者は女性。プロデューサーのリース・ウィザースプーンも女性。 監督のオリヴィア・ニューマンも、脚本家も、カメラマンも、主題歌も女性。 男性のメインスタッフは、編集と音楽くらいか。 女性スタッフが結集して、不屈の少女のサバイバルを描き、その結果としての「獲得物」を描く。 そう考えると、やっていることは最近観た『ドント・ウォーリー・ダーリン』や『ファイブ・デビルズ』とも軌を一にしている。要するに、サスペンス/ミステリー仕立てで「女性の復権」を語る映画は、いまや封切り映画のメインストリームを形成しはじめているのだ。 最後に、ミステリー映画としての感想を簡潔に。 この映画の場合、結論としては「本命Aが犯人」か、「大穴Bが犯人」か、単なる事故死かの三択でしか実質ないので、どこに落ち着いても実はたいしてサプライズの要素はない(というか裁判の途中で、ほぼどう終わるつもりかは予測がついた)。 推理の過程に関しても、60年代の屋外で展開される話で、やたら指紋が重要視されているのは若干ピンと来ない。それに干潮・満潮などは、地元の警察が足跡の捜査をするなら真っ先に調べる要素のはずで、いかにも新事実みたいに弁護士が出してくるのは解せない。 なにより、このミステリーの謎解きでいうと、ヒロインにアリバイが成立するかしないかという最重要の話題があるのに、後から突然出してくるのは、製作者都合の叙述としかいいようがない。 総じて、面白くはあったが、もう少し作りようはあったような。
【良かった点】 たった一つの事件を基に、主人公の少女の人生を振り返...
【良かった点】
たった一つの事件を基に、主人公の少女の人生を振り返る作りをとっており、切り替え方によっては観づらいものになるがこの映画は切り替えが見事でとても観やすかった。過去と現在が繋がっていく快感があり、見応えも抜群。ラストシーンの真犯人の場面は、ラストまでこちらも騙された。邦画にありがちな実際に殺人を犯すシーンがなかったのもお洒落。
【良くなかった点】
特になし。
全ての女性への応援歌
「大自然で独りで生きてきた少女」というあらすじから想像したのは、ジョディ・フォスター主演の「ネル」みたいな映画。 でも全然違った。 DV、ネグレクト、村八分… そうした逆境でたくましく生きる女性の姿をラブストーリーを絡めて描いた極めて現代的な作品。
昆虫は道徳心を持っていない。自然界に悪意はない。
「ザリガニの鳴くところ」とは?ザリガニって鳴く?何の比喩? その疑問は、いくつかの考察があるのでそちらに譲るが、個人的には「ザリガニの鳴き声ほどひっそりとした、人知れぬ場所」が、外敵からの逃げ場所ってことだろうなとは感じた。 もちろん外敵とは猛獣の類ではない。人間だ。それも、身近にいる親であったり、友達を装って近づいてきたり。湿地でひとり暮らすカイヤにとっては外の世界などどうでもいいのだが、その外の世界がカイヤを放っておいてはくれないのが因果なもの。殺人事件が映画の発端なので、その事件にカイヤが巻き込まれる展開であるのは当然なのだが、最後の最後に、その結末を用意するとはね。美しい愛の物語で終わると思いきや、カイヤ自身が自然界の一部として生きていたことを、うっかりと忘れていた。それをまるで冷や水を掛けられたように最後にひっくり返された気分。でも、それは決して、裏切られた気分ではなく、一種の潔さのようなものが残った。
容疑者のキャラ設定はズバ抜けていい
これはいい設定だな、というか読んでもいないけどいい原作な気がする。殺人事件。捨てられた南部の湿地の娘。裁判。その割には映画的なアプローチが弱く、とてももったいない。もったいながらも設定はいいのでストーリーを追う分には充分楽しめる。湿地の娘がイラストを描いて認められてお金を稼ぐ、というのもいい設定。 容疑者の魅力度ではどんな映画より優れていると思われます。 とは言え、もっと長くていいのでスコセッシのケープフィアーくらいなスケールでも観たかった。
沼地の娘の湿地帯
動物学者のディリーア・オーエンズが69歳で出した処女長編フィクション小説が原作。それに惚れて、映画製作契約を申し出たのはリング・オブ・ファイヤーで有名なジョニー・キャッシュの自伝映画、ウォーク・ザ・ラインでオスカーに輝いている女優のリース・ウィーザースプーン。監督はやはり女性監督のオリヴィア・ニューマン。
おまけにエンディングテーマ曲はカントリーの歌姫、テイラー・スイフトとオール女性。
プロミシングヤングウーマンのようなズシンと重い映画でした。
1952年のノースカロライナ州の沿岸部が舞台。アメリカ大陸に初めてヨーロッパ人が上陸し、ネイティブアメリカンと対峙した土地。
原題は Where The Crawdads Sing。
ザリガニは鳴かないんじゃないの?
特定外来種ミシシッピーアカミミガメも出てきた。ワニも気持ちよさそうに半身浴。
映像がすごくキレイ。
ムール貝は海の貝。
沼地の娘?
淡水なのか塩水なのか?
気になって仕方ない。
調べたら、沼地のロケはルイジアナ州の Blue Bayou の舞台だったミシシッピー川下流の入り江。大きな塩水湖があるあたり。
Watchtower の下に町のボンボンのチェイスの死体が発見されて、沼地にひとりで住む若い女が容疑者として逮捕される。
死体に群がるザリガニの映像が見られるかと思ったが、なかった。町の老弁護士が弁護を買って出てくれて、女の過去が次第に明かされる展開。雑貨店の黒人夫婦以外、ヒトから隔絶した生活を送るカイアだったが、入り江にボートを出して、一番仲の良かった兄のジェイブの釣り仲間のテイトに再会する。テイトは学校に行かなかったカイアに読み書きを教え、図鑑を与え、自然生物の精緻な絵を評価し、出版社も紹介してくれた。その才能を開花させてゆくカイア。ワシと白鳥の羽の交換日記のような初々しい清らかなお付き合い。そして湖に飛び込んで泳ぐカイアのワイルドな美しさ。湖で抱き合う美しい男女のシーンはとてもいい。テイトのボタンダウンのシャツの匂いを嗅ぐカイア。いとおしさが溢れる。
生物学者志望のテイトは遠くの大学に進学。絶対帰ってくるといいながら帰って来なかった。約束の場所の夕陽は悲しいほどに美しかった。花火もひとりで見た。とうとう夜があける。裏切られたと思い込んだカイアにちょっかいを出してきたチェイス。マッチョのイギリス人俳優。テイトとは対照的。チェイスに湿地帯を開発されてしまうカイア。チェイスは結局父親と同じDV野郎たった。決定的なのはレイプと本の印税で綺麗にリフォームしたカイアの家をめちゃくちゃに。大事な絵や標本もぐちゃぐちゃ。ストーカー行為に怯えるカイア。カイアの縄張りに土足でズカズカ踏み込んだチェイスにバチが当たった。
出版社との打ち合わせに行った日のアリバイはかなり強力だった。
いつの間にか戻ってきていたテイトの毛糸の帽子の赤い繊維が証拠になってテイトが捕まってしまうのか?
テイトとチェイスの喧嘩の仲裁をして、毛糸の帽子を自分のデニムのオーバーオールに擦り付けていたジャンピン?
警察官になって戻ってきた兄のジェフがカイアを護るためにチェイスを殺害したのか?
陪審員たちが沼地の娘への蔑視や先入観に囚われずに正しい判断をしてくれるのか?
しかし、
細工された本に封印されていたサクラ貝のネックレス。
貝愛の秘密。
ガーン😱
カイアが最後に見た夢。去って行った母親が戻って来た儚い夢。
自然児だったカイアの女一代記。
一途で頑固なカイアへの畏敬。
カイアって名前。川崎さんちの麻世君の奥さんもカミツキガメ並みに獰猛でタフだった。
原作のディリーア・オーエンズ。長く添った同じ動物学者の夫と熟年離婚している。そして、この小説を書いた。
何があったのか劇場。
気になって仕方ない。
殺す代わりに小説を書いた?
ベストセラーになって、印税、映画契約金など全部でいくらになったのか?
元・旦那は悔しくて寝れないね。
2022.12.1 追記
二回目を昨夜観ました。気になった映画は何回も観た方が自分のためになると思います。動機は雑貨屋のジャンピンが怪しいと思ったからです。戻ってきたテイトが桟橋でカイアの痴態を友達に話し笑いものにするチェイスとつかみあいになる場面。ジャンピンが中に入り止めます。テイトの赤いニット帽を拾って自分のオーバーオールでホコリを拭く場面がありました。年取ったテイトがカイアの死んだあとにめくる日記にはサクラ貝(イタヤ貝)を首にかけたチェイスの絵があって、カイアが捕食する相手としたことが明らかにされているので、カイアが深夜の一時間の間にやったんだということになりますが、やはりカイアひとりでは難しい気がしました。テイトの驚愕した表情からはテイトは関与していないことは明らかですが、カイアを実の娘のように思っていたジャンピンと兄のジェイクがカイアのアリバイが成立する時間に合わせて共謀した可能性は充分にあると思いました。ジャンピンは墓場まで持っていったんでしょう。この映画は女性と黒人に寄った作りが明らかですが、ノースカロライナが舞台であることから、ネイティブアメリカンに対する動物学者の作者の思いも感じられました。アメリカザリガニは日本では外来種です。カイアは町の人間からすればよそ者だと弁護士のおじさんも法廷で明言していましたので、人間の都合で連れてこられたり、排除される外来種に対する同情やアメリカ大陸のネイティブアメリカンにとっては侵略者であるヨーロッパ人はまさしく外来種ということになりますから、なかなか深い暗喩がこの映画には込められていると思いました。そこのところが世界中で売れた要因だと思います。アメリカの混迷はまだまだ続きそうですね。
美しい自然とその裏にある生き抜くための知恵
ラストの展開は予想の範囲内でしたが、あそこまで引っ張ると思っていなかったので「このままではいい話で終わってしまう……」と多少焦って見ていました。
しかし、あそこまで引っ張ることで、裁判後の生活自体がテイトへの復讐であり、強きものの庇護に入る自然の掟に従った行動であることがわかります。
まさにカイヤが語る「自然に善悪はなく、生きるか死ぬかだけ」というお話でした。
一部レビューや感想で「恋愛もの」としてのみ評価してる方が多いのは、ネタバレを避けるためなのでしょうか?
全429件中、221~240件目を表示