「城から頑なに出ない「囚われの姫君」の物語。あるいは、純粋無垢な「沼沢の魔女」の物語。」ザリガニの鳴くところ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
城から頑なに出ない「囚われの姫君」の物語。あるいは、純粋無垢な「沼沢の魔女」の物語。
うーん、お話はふつうに面白かったんだけど。
てか、テレビドラマとして流れているのを観たとしたら、「ふつうに面白い話だった」って書いて終わりだったと思うんだけど、映画館で観る映画としては、あまりにテレビ的な作りだったような……。
原作未読(文庫のミステリは読むけど、単行本はなかなか手が出なくて……)。
予備知識ゼロでの視聴。
冒頭の、若干チンケなオオアオサギのCGから、微妙にうさんくさい感じがするものの、いきなり一瞬だけどアメリカササゴイらしき鳥が映って、バーダーとしてのテンションがあがる。
湿地帯が舞台だというから、てっきりルイジアナのバイユーに棲む、ケイジャンかクレオールの(英語もしゃべれない)少女が出てくる話かと思っていたのだが、どうやらノース・カロライナのディズマル湿地が舞台らしい。じゃあ、住んでるのは一応ふつうの白人なんだな。
『ザリガニの鳴くところ』というのも、本当にザリガニが鳴くような場所があるのかと思っていたが、パンフによると原著者が母親から聞かされた「自然の声に耳を傾ける」みたいな言い回しらしい(ザリガニは特段鳴かないとのこと)。
そもそも、日本人が『ザリガニが鳴くところ』と聞くと、なんだか田んぼのどぶ臭いアメザリがスルメで釣られて泡吹きながらキュイキュイ鳴いてるようなイメージが浮かぶのではないかと思うが、一般的にザリガニというと訳語はCrayfishであり、Crawdadというのは若干ニュアンスが異なるのかもしれない。それに「鳴く」といっても原文は「sing」。もっと詩的な感じである。
原題だと「小型のロブスターが潜む水のほとりで耳を澄ましていると、あたかも彼らが歌う声が聞こえてきそうだ」くらいの、澄んだ語感のタイトルだという可能性は大いにあると思う。
ともあれ、「Marsh(湿地)は、必ずしもSwamp(沼地)ではない」という印象的なナレーションで、物語はスタートする。
で、このMarshが、とにかく綺麗なんだよね。
なんかふつうに自然の王国、水の楽園、鳥の楽園って感じ。
ネガティヴな要素がみじんも感じられない。
いや、綺麗で何が悪いんだ、ヒロインにとっては実際に楽園なんだろって話なんだが、街の人からさんざんMarsh Girlって蔑まれて、「臭い」「汚い」って言われて居住地差別されてる少女が主人公なのに、土地にほとんど「汚い」要素が皆無ってのは、それで果たしていいんだろうか??
ヒロインのカイアにも、ちっとも被差別児童/被差別女性としてのネガティヴさが付与されていない。
「裸足が汚れている」という「記号」だけで、「いろいろあって綺麗に描いてあるけど、まあそう思って観てね」みたいな扱いになっている。
実際には、少女時代から大人になるまで、髪は常に洗い立てのようにさらさらで、お肌はつるつる、汚れていないどころか日焼けもしていない。服も小ぎれいで、ほとんど天使のようだ。
成長してからは(新人さんなのにすごいデジャヴがあると思ったら、ヴァイオリニストのヴィルデ・フラングによく似てるのね)、湿地でひとりで生活してるというのに、腋もつるつる、乳首も浮いていない。
ここまでくれば、これこそがむしろ製作者の意図した「仕様」だと思って差し支えないだろう。
決して、ヒロインにとっての聖地である湿地帯を悪くは描かない。
ヒロインを決して汚したり、物乞いのような風体に描いたりはしない。
架空の物語として、聖化され、浄化された(purified)土地とヒロインしか、画面では見せない。
でも、この差別と被差別の物語を描くのに、そんなきれいごとでやってて、映画って本当に成立するものなのか??
ふだんフランスやイタリアの昔の生々しい映画ばかり観ているから、そう思うだけか?
今のアメリカ映画って、こんな感じなのか? でも、ジャック・ケッチャム原作の『ザ・ウーマン』や『ダーリン』ですら、もうちょっと「野生児」は小汚く描いてたぞ?
しょうじき、僕には製作者がリアリティから目を背けているようにしか思えなかった。
だって、「臭くない」Marsh Girlは、別にいじめられないじゃん。こんなに美人なんだから。
おそらくなら原作でも、動物学者ディーリア・オーエンズの鋭い眼差しによって、自然は美しく描写されているのだろう。カイアも「自然の象徴」として、美しく描かれているのだろう。
でも、それは文字で書かれている以上、あくまで主観的な描写であって、「湿地の住人から見たら美しい自然でも、街の住人からしたら汚く淀んだ沼地」「彼女を好きになった青年からすれば野性と聖性を漂わせる美少女でも、街の住人からしたらただの小汚いアウトサイダー」という両義性はしっかり保たれていたはずだ。
だが、それを映像化するに際して、表面的に美化された形をメインにこうやって一方的に定着させてしまうと、逆に話の重要な一面が見えなくなってしまうのではないか? 少なくともこの映画を観ているかぎり、湿地は忌むべき場所ではちっともないし、ヒロインもまた忌避されるような存在では全然ないからだ。
要するに、「なぜ社会が湿地とカイア(=自然)を敵視し、排除し、開拓して調伏しようとするのか」の部分の根拠が、きれいさっぱり欠落している。
本来は湿地は恐ろしいところだし、臭いし、汚いし、普通の人間なら怖くて生活などできない場所であることを観客に「隠したうえで」、この映画は街の住人を単なる「悪意と偏見の塊」として非難し、断罪しようとするのだ。それってアンフェアじゃないの?
お話自体の語り口も、総じて気になる。
ひとことでいって安易というか、実にテレビ的なのだ。
出だしからして、きわめて説明的な酒場のやり取りが出てきてげんなりする。
劇のト書きならわかるけど、映画なのにこの段取りの良すぎる状況説明ってありなのか?
で、娘を置いて出ていく母親の顔にカメラが寄ると、でかでかと殴られた跡が。
なんてわかりやすい。やっぱりテレビ的だ。
あと、撮り方。ほぼすべてのシーンで、しっかりヒロインにピントが合っていて、流麗ではあるが面白みのかけらもないカメラワークがつづく。見やすさ重視。このへんもテレビ的。
そのくせ、普通に観ていて、僕にはよくわからない部分もやけに多い。
なんで子供(しかも複数)を連れずに、置きざりにして母親は出て行ってしまったのか。
なんで母親が呼び寄せたわけでもないのに、上から順番に子供が出て行ったのか。
父親がいなくなったのに、カイアが母親を探しにいかない理由はなんなのか。
娘が嫌がってるからといって、保護が強制執行されない理由はなんなのか。
雑貨店の奥さんはなんで計算だけしか教えず、文字は教えなかったのか。
カイアは6歳で遺棄児童になって、家にはテレビもなくて、文字も読めないのに、どこであんな豊富な語彙力と知識を身に着けていたのか(青年に文字を教えてもらっただけで、すぐにすらすら書物が読めるようになるって設定自体が、しょうじき漫画的でナンセンス)。
なんか、「誰が観てもわかるように」という部分では徹底的に安直に、説明過多に作ってあるのに、肝心のキモに当たる部分はいろいろ「まあそんな感じ」でやり過ごしてしまっているように思う(たぶん小説で読めば委細書かれているのだろうけど)。
製作陣の揺るがぬ方針として、「カイアと湿地を汚く描かない」というルールがあるのは先述の通りだが、もう一つ注目すべき点として、「カイアの湿地への執着を、徹底して肯定的に描く」というのがある。
ふつう、この手の特定地域の住人であることの弊害を描く物語の場合、主人公には「土地に縛り付けられる理由」がある。「土地からどうしても離れられない因果」がある。
でも、カイアにはそれがない。
カイアのありようは、一見「囚われの姫君」のように見える。
だが、本当は、自分でわざわざ囚われているのであって、石にかじりついてでも、ここから出ないと決めたヒッキーのような姫君である。
カイアが湿地を離れないのは、湿地が好きで、湿地に自分の居場所が確固としてあって、湿地こそが彼女の縄張りだからだ。
だから、母親に置いて行かれても自分は行こうとしない。
父親に出て行かれても自分は出て行かない(もう自由の身なのに!)。
施設に入れられそうになったら、全力で逃げ、全力で抵抗する。
恋人が連れ出そうとしても、梃子でも動かない。
恋人が来てくれるときだけは相手をするが、自分から出向こうとはしない。
恋人が出て行ったら、ひたすら待ち続けて、戻らないと別に探そうとはせずに諦める。
湿地で得られるものだけで時給自足して、湿地を描いて金にしようとする。
それで得た金で、自分の家の周辺の土地を買うときだけは、きわめて能動的だ。
意地でもこの縄張りは手放さない。
意地でもこの縄張りからは出ない。
彼女は湿地から出られないのではない。
彼女が湿地から出ようとしないのだ。
しょうじき、かなりの偏屈だと思う。
何が彼女をここまで依怙地に、湿地帯に執着させるのか。
母親を待っているような台詞が最終盤に出てくるが、それは湿地に執着する体のいい口実だ。
結局、彼女は幼い頃すでに、この湿地の「主」になることを、自ら定めていたのだ。
彼女の魂は、この湿地と結び付けられている(と信じている)から。
彼女は、この湿地でいるときにだけ、特別な存在でいられる(と信じている)から。
彼女は、この湿地から離れると霊力を喪ってしまうから。
それは、土地の霊脈に依拠して生きる、「魔女」のような存在。
あるいは「シャーマン」か。はたまた「精霊」か。
カイア=湿地そのもの、といっていいのかもしれない(実際そういう台詞がある)。
だから、彼女はジグモかトタテグモのように、ずっとここで巣を張って、生き続ける。
入って来る男には意外に簡単になびくが、そこから出ていく人間を敢えて追おうとはしない。
その生き方に合わせてくれる男となら寄り添える。
では、その生き方を脅かす男が出てきたら?
この物語の中核は、おそらくそういう話だ。
先に述べたように、原作者にとってカイアは自然(ガイア)そのものの象徴のような存在である。
文明の民から忌避され、征服すべく攻撃され、その潜在的「悪意」について常に疑われてきた存在。
だから、作中で出てくる「自然に善悪はない。自衛の本能があるだけ」という独白は、まさに作品を象徴する概念であり、きわめて重要な意味を担っているわけだ。
『ザリガニの鳴くところ』は、絵に描いたような女性映画でもある。
原作者は女性。プロデューサーのリース・ウィザースプーンも女性。
監督のオリヴィア・ニューマンも、脚本家も、カメラマンも、主題歌も女性。
男性のメインスタッフは、編集と音楽くらいか。
女性スタッフが結集して、不屈の少女のサバイバルを描き、その結果としての「獲得物」を描く。
そう考えると、やっていることは最近観た『ドント・ウォーリー・ダーリン』や『ファイブ・デビルズ』とも軌を一にしている。要するに、サスペンス/ミステリー仕立てで「女性の復権」を語る映画は、いまや封切り映画のメインストリームを形成しはじめているのだ。
最後に、ミステリー映画としての感想を簡潔に。
この映画の場合、結論としては「本命Aが犯人」か、「大穴Bが犯人」か、単なる事故死かの三択でしか実質ないので、どこに落ち着いても実はたいしてサプライズの要素はない(というか裁判の途中で、ほぼどう終わるつもりかは予測がついた)。
推理の過程に関しても、60年代の屋外で展開される話で、やたら指紋が重要視されているのは若干ピンと来ない。それに干潮・満潮などは、地元の警察が足跡の捜査をするなら真っ先に調べる要素のはずで、いかにも新事実みたいに弁護士が出してくるのは解せない。
なにより、このミステリーの謎解きでいうと、ヒロインにアリバイが成立するかしないかという最重要の話題があるのに、後から突然出してくるのは、製作者都合の叙述としかいいようがない。
総じて、面白くはあったが、もう少し作りようはあったような。