「そうはいっても、やっぱり本作はよくあるラブストーリーでした。ただ弁護士の信念には、感銘を受けました。」ザリガニの鳴くところ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
そうはいっても、やっぱり本作はよくあるラブストーリーでした。ただ弁護士の信念には、感銘を受けました。
本作はディーリア・オーウェンズが2018年に上梓した同名の小説を原作としています。
ある日、少年たちが物見櫓に向かい、変死体を見つけます。その遺体は街の有力者の息子であるチェイス(テイラー・ジョン・スミス)でした。現場には足跡もなく、物見櫓には指紋も一つもなく、何も手掛かりもないなか、犯人は“湿地の娘”と呼ばれるキャサリン・クラーク、通称カイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)ではないかという噂がどこからともなく広がります。
ジョー・パデュー保安官(ジェイソン・ワーナー・スミス)は湿地帯の中にあるカイアの家を訪れますが、カイヤの姿はありません。家の中を捜索すると赤のニット帽が見つかります。チェイスの衣服から見つかった赤い糸の正体かもしれないと考えた保安官は、ニット帽を持ち帰ります。
そして、鑑定の結果ニット帽とチェイスの衣服から出てきた赤い糸が同じものであると判明します。それを証拠に保安官はカイアを犯人として捕まえます。
街の住人の一人である、引退したミルトン(デヴィッド・ストラザーン)は、カイアが犯人として逮捕されたことを知ると、カイアの弁護士をすると名乗り出ます。
ミルトンはカイアに、弁護をするためにはカイアのことを知らないといけないと説明します。するとカイアは自分の半生について語り始めるのでした。
1950年代。湿地帯の中にあるカイアの家では多くの家族に囲まれていた時期があったとカイアは言います。けれどもカイアの父親クラーク(ギャレット・ディラハント)は日常的に母親のジュリアンヌ(アーナ・オライリー)は年上の兄弟に、暴力を振るっていました。そのためまず母親が逃亡し、続いて兄や妹たちもそしてとうとう一番年の近い兄のジョディも、家を出ていくとカイアに告げます。「何かあったらザリガニの鳴くところまで逃げるんだ」と、ジョディはカイアに告げ出ていってしまったのでした。ついには父親まで当時6歳のカイアを置いて出ていってしまうのです。カイアは湿地帯で一人たくましく生き抜いたのでした。
そんな彼女にとって唯一の友人がテイト・ウォーカー(テイラー・ジョン・スミス)でした。カイアはテイトから文字の読み書きや計算を教わります。一緒に過ごす中で、いつしか2人の間には恋心が芽生えていきました。ところが、テイトは大学に進学するために都会へ行くことになったのです。年に1回は会いに来ると約束したテイトでしたが、彼が湿地帯に姿を見せることはなかったのです。
それから数年の時が流れた1965年。19歳になったカイアは湿地帯の研究を進める傍ら、近くの街に暮らす青年、チェイスと恋に落ちていました。2人は結婚の約束をするが、ほどなくして、カイアはチェイスが別の女の子とも婚約していたことを知ったのです。激怒したカイアはチェイスと別れることに。ちょうどその頃、テイトが大学を卒業して故郷に帰ってきました。テイトはカイアに約束を破ったことを謝罪し、もう一度やり直したいと伝えたましたが、カイアはテイトをすぐに許す気にはなれませんでした。
別れを告げられた後も、チェイスは執拗にカイアに付きまとってきました。そして、ついには暴力的に犯されそうになりましたが、カイアはやっとの思いで難を逃れることができました。それからしばらくして、チェイスの死体が発見されたのです。地元警察の捜査の結果、チェイスが前日まで身に着けていたネックレスがなくなっていることが判明するものの、それ以外に目ぼしい手掛かりは出きませんでした。それにも拘らず、警察は事件当日に町の外にいたカイアを殺人容疑で告発したのです。
弁護士にカイアが語るという展開で始まった本作の主軸にあるのは、カイアの孤独と初恋です。テイトに恋をしていくカイアの姿は、ティーンムービーのようなみずみずしさを持って観客にカイアの心の喜びを伝えてくれます。ただ本作の大量宣伝に騙されて、サスペンス映画として見る分には、ただの恋愛映画だったのかとガッカリされることでしょう。殺人事件の真相は、原作と違ってカイアが晩年息を引き取るまで明かされません。ただ夫がカイアのノートから見つけるあるもので、誰が犯人だったか事件の真相を観客にも悟らせる仕掛です。
そういったサスペンスよりも、カイアのテイトととの出会いと別れ、そして再開という恋愛映画の王道を描いた作品でした。
ただそんなラブストーリーやサスペンスよりも、印象に残ったのは法廷でカイアの弁護に当たったミルトンの信念でしょう。
カイアは幼い頃一度、勇気を振り絞り学校に通おうとしたことがありました。学校に通う子供達と自分の身なりをみて、躊躇するカイアの背中を押したのもミルトンでした。
噂を鵜呑みにし、偏見の目で見る街の人と違い、ミルトンは対等に同じ一人の人間としてカイアに向き合います。裁判の最後に陪審員に向け弁護士は、この裁判で裁かれるのは彼女じゃない私たちだと言い放つのです。
噂や偏見ではなく、事実を見てきちんと判断してほしいというミルトンの声が陪審員に届き、裁判の流れが大きく変わっていくのでした。
本作でカイアは単に孤独だけではなかったのです。街の人達から、いつも奇異な視線に晒されて、オオカミが産んだ子供じゃないかと、まともな人間扱いすら受けられなかったのです。そういう風潮に一石を投じたミルトンの信念に感銘を受けました。
最後に聡明なカイアは、チェイスに襲われたときなぜテイトに助けを求めなかったのかという疑問が残ります。けれどもテイトに助けを求めてしまったら、危害が及んでしまうかもしれないということはわかったはずです。だからテイトに頼ることもしなかったのでないでしょうか。幼い時から一人で生きざるを得なかった彼女の生き方。もし追い込まれたら、「ザリガニの鳴くところ」まで逃げればいいとタカをくくっていたのではないかと思われます。