映画ドラえもん のび太と空の理想郷(ユートピア)のレビュー・感想・評価
全144件中、21~40件目を表示
タイトルなし(ネタバレ)
さて、現在の世界は面白いだけで良いのだろうか?
面白い世界を維持して行く努力が必要だと思う。
科学、政治、文化芸術の三賢人がコントロールする社会が全体主義的国家であると言う考え方は間違っている。
つまり「科学、政治、文化芸術が正しい」と言う概念が命題で「真」であるわけだから、間違っているわけがない。もし、それが、このアニメの様に「偽」であるとすれば、その概念が命題でないか、最初から間違いなのである。この場合、どうやら、命題ではなかったようである。立憲君主制が崩壊した後に帝国主義に至り、独裁国家が誕生した歴史が如実にそれを表している。
大変に良い解釈だと思うが、このアニメの制作側の教条主義になり過ぎていると感じた。
さて、のび太君は三+七も分からない。暴力で社会を変えようとするのではなく、少しは努力が必要だと感じる。ここでの教条主義は昭和の匂いが強すぎる。そして、バラダイスを維持していきたい独裁者がこの地を最後に選んだのは正に今の日本社会に対するアイロニー何じゃないかなぁ?
ガキの見るアニメーションではないし、昭和の教育でも良いので、子供達にはもう少し教育を受け続けて貰いたい。勿論、自我を忘れる事なくね。
製作年 2023年
製作国 日本
劇場公開日 2023年3月3日
上映時間 107分
映倫区分 G
ユートピアの秘密
とても良かったです。
現代における社会的な問題も組み込まれていて考えらせられる、そして1番大事なものを気付かされる映画でした。
永瀬廉さんのソーニャがとても良かったです。声優初挑戦とは思えないくらいに感情がこもっていました。
ユートピアは醜さを愛する
私は現在日本在住中国人会社員で、『ドラえもん』の大ファンです。
この映画レビューはもともと中国語で書かれたものですが、日本の『ドラえもん』ファンと交流し、共感を得るために、このレビューを日本のウェブサイトに翻訳して投稿することにしました。私の日本語能力が高くないため、翻訳に不自然な表現が含まれていたり、元の意図を完全に伝えられない部分があるかもしれません。その点についてはお詫び申し上げますとともに、読者の皆様のご理解と寛容をお願い申し上げます。
1.「いつも正しい人がいるか!?」
映画のクライマックスで、のび太とドラえもんは「理想郷」の真実を知った後に逃げ出そうとしますが、3賢人に洗脳されたソニアとそのロボット部下に時空トンネルで追われます。 長い間仲間だったソニアは、のび太とドラえもんをまだ友達と見なしており、攻撃を続けることを拒否し、二人に「3賢人は間違っていない、早く戻ってきて!」と説得し続けます。 ドラえもんは反論して、「いつも正しい人がいるか!?自分の友達を殺すよう命じられても従うんのか!?」と叫びます。
ソニアが3賢人を信頼するには根拠があります。3賢人の指導のもと、理想郷の400人以上が安住の夢を実現しました。ここでは科学技術が発展し、災害や紛争がなく、平和と友愛、寛容があります。人々の違いは最小限に抑えられ、食事から生活リズムまですべてが完全に一致しており、同じ信仰を持っています:3賢人への絶対的な信頼。
理想郷の社会構造では、3人の賢人がそれぞれ科学、政治、文化の分野を担当し、理想郷の完璧な運営を共に維持し、「理想郷に来た人は最終的には完璧な人間になり、幸せを得ることができる」と保証しています。 のび太が理想郷を探し求めたのも、自分を「勉強もスポーツもできる完璧な小学生」に変えたいと思ったからです。
「3賢人」という設定を見た瞬間、EVAのMAGIを思い浮かべました。これも聖書の「東方の三賢者」をモデルにしており、「三権分立」を風刺しているように見えます。背後には良くないものが隠されているに違いありません。3賢人が主導する社会は表面上は完璧ですが、完璧な社会に欠かせないもの、すなわち下からの監視手段が唯一欠けています。
事実、すべてのユートピアはディストピアです。3台のMAGIが実は同じ人物であるように、理想郷の3賢人も実は同じ黒幕の3つの代理人です。レイ博士最終的には全世界の人々を洗脳し、「誰もが友愛と寛容の完璧な世界」を実現するために、理想郷に厳格な隠蔽と防衛措置を設け、時空警察の捜索を避けて様々な時空を渡り歩きます。この世界では、レイ博士(3賢人)は神のような存在で、彼が行うすべてはすべての人の利益のためで、「あなたのために」と言います。
理想郷では、長期間生活すれば、いつかのび太のダメな部分も治せるでしょう。しかし、その前に、のび太を引きずり下ろすそのネガティブな要因、つまり怒りっぽくて毒舌で、どら焼きが大好きで、ポケットには故障した道具ばかりで、どこまでも完璧でない青い中古のタヌキ型ロボット、ドラえもんを排除しなければなりません。 残念ながら、これはのび太には受け入れられないことです。
2.「醜さを愛する」に対する固執
このドラえもんの映画版の脚本は、古沢良太によるものです。Legal Highという法律ドラマをご存知かと思いますが、その脚本家がこの方です。
Legal High2の最後で、「ウィンウィン」に固執するアラビアの王子様を完膚なきまでに打ちのめした後、古美門はドラマ全体の核心についての総括的な発言を行います。「人類の性質に反して理想的な世界を実現することは不可能で、人間の醜さを愛することだけが唯一の答えである」と。
人の醜さを認識した上でそれでも愛する選択をすること、これが「醜さを愛する」という言葉の私の解釈です。古沢良太は「空の理想郷」でこの核心を一部引き継いでいます。
五人組が同時に理想郷に到着し、改造を受け始めると、それぞれがバッジを受け取ります。これはいわゆる「同期率」または「改造進行度」を示しています。この進行度が完了すると、あなたは「完璧な人間」に成功裏に改造されたことになります。
のび太だけが欠点が多すぎて、理想郷の影響を全く受けず、改造進行度は常にゼロでした。また、他の人たちの異常にも気づきました。「失敗しても笑顔で励ましてくれたスネ夫、食べ物を奪われても気にかけてくれたジャイアン、いいのはいいけど、彼らは本当に自分たち自身なのか?」自己を失うことを代償にして達成された完璧さは、真の完璧さではないのです。
のび太がなぜ特別な存在なのか?私の解釈は、のび太自身があまりにもダメすぎるため、他人の欠点、つまり「醜さを愛する」能力において最も強い存在であるということです。のび太にとって、ジャイアンの粗暴さ、スネ夫のいじめっ子気質、しずかの時々のわがまま、ドラえもんの頑固さは、彼が愛する人の一部です。のび太は自分の欠点を最もよく知っており、自分にこれほど多くの欠点があるにもかかわらず、相手が自分を愛してくれることを理解しています。したがって、彼が愛しているのは、相手の「良い」部分だけでなく、相手自身の存在全体です。
理想郷の戦いが最も危機的な時、監督はわざわざ何も知らないのび太の両親に無駄なカットを入れました。結末の最後のシーンでは、母親がのび太が最初に隠していた0点のテストを見つけ激怒した。この時、のび太は映画の核心台詞を叫びます。「そのままの僕を愛してよ!」
ここの意図はおそらくジョークのためかもしれませんが、映画全体の表現から見ると、母親はのび太の怠惰と勉強不足を非常に嫌っていますが、それが彼女がのび太を愛していないというわけではありません。のび太に対する期待と要求の外側にあるすべての欠点も、彼女が愛するのび太の一部です。このような家庭環境で育ったのび太は、理想郷で社会化された養育と標準化された寛容な教育を受けた子どもたちよりも、「本物」の寛容さと共感を持っているに違いありません。
この真実の、Political Correctから離れた寛容こそが、最終的にのび太が洗脳光線の下で自己を保持できる理由です。もっと抽象的に言えば、のび太のすべてのダメなところを好きになれないかもしれないが、のび太がダメである権利を守るためには命をかける。
3.ソニアの贖いと批判
ソニアの役割はこの作品で少し重すぎるかもしれません。彼の存在により、しずか、ジャイアン、スネ夫のトリオはほぼ背景になり、理想郷の内通者であるクラス委員のハンナ(ツインテールが好きなので、このキャラクターには特に好きです)はストーリーの道具となり、未来の賞金稼ぎマーリンバの存在意義が不明瞭になり、ドラえもんも後半でソニアに役割を譲るために、直接昆虫に変えられてストーリーから蹴り出されました。 客観的に見て、ソニアはジャニーズ声優(永瀬廉)の影響もあり、設定上でも印象深いキャラクターです。
ドラえもんと同じく未来から来た猫型の育児ロボットであるソニアは、最初はドラえもんと同じく不器用で、人から笑われたり軽蔑されたりしていました。3賢人によって「完璧な猫型ロボット」に改造された後、理想郷の首席アシスタント兼ボディーガードとして残され、これが自分の人生の価値だと信じて3賢人に忠実でした。 3賢人は彼に強力なレーザースティックを武器兼ツールとして与え、彼は自分の四次元ポケットを外し、理想郷の構造の中で自我を放棄し、自我を犠牲にすることが受け入れがたい代償であることを疑ったことはありませんでした。
3賢人の真実を目の当たりにし、理想郷が嘘であることに気づいた後、ソニアは「すべての人の幸福を実現する」という心の中で既に形成されていた理念を完全には諦めていませんでした。ただし、この場合、排除すべきは「不完全な」のび太やドラえもんではなく、他人の自主性を「完璧」を口実に侵害するレイ博士でした。
最後に、ソニアはレーザースティックを捨て、かつての四次元ポケットを取り戻しました。これは、外部からの入力を受け入れる受動的な方法論を止め、自身の固有のリソースから可能性を探求することへの回帰を象徴し、また「批判の武器」から「武器の批判」へのより徹底的な革命的道への回帰を象徴しています。
戦いの最後に、ソニアは理想郷の人々に対する自分の罪、および大のび太たちの街を守るために、理想郷を四次元ゴミ袋に入れて空へ飛び、超新星として爆発しました。このかっこいい処理は、ソニアのキャラクターにさらなる悲劇的な色彩を加えたようです。彼は自分がより良い現実にいることに気づいたばかりで、虚偽の理想郷と共に滅びなければならなくなりました。これは彼の責任ではないにしても、情にも理にもかなっていません。
家族向け映画のハッピーエンドを満たすために、脚本家はソニアの復活を特別に用意しましたが、前述の救済と犠牲の設定を受け入れた場合、最後の復活は少し余計なものに感じられます。これは『鉄人兵団』のリルルの最終的な復活と同じで、象徴主義と意識流の要素がプロットロジックよりも多くなっています。
これからは、上記3点以外に、気についた不足点又はほかの感想を説明します:
4.オリジナルひみつ道具の同質化
冒頭でドラえもんが不要な道具を整理する際に使用したのは、原作に登場する「四次元ゴミ箱」や「ゴミ穴」ではなく、独自に考案された「四次元ゴミ袋」という奇妙な道具でした。最後に崩壊する理想郷を収容するための布石として理解はできますが、同質の道具が増える問題も年々深刻化しています。
この映画版で登場する道具は、冒険の定番(ひらりマント、タケコプターなど)を除き、ほぼオリジナルです。空気砲は登場せず、どこでもドアは壊れ、タイムマシンさえも飛行船に置き換えられました。これは原作への敬意が足りないと感じ、新しいオリジナル道具を作る際には慎重であるべきだと思います。
5.しずかの立場が軽視され、ジャイアンやスネ夫と同等、あるいはそれ以下になっています。しずかはもともと優等生で、理想郷での改造・洗脳の余地が少なかったため、最終的にのび太の口撃で洗脳効果が解除されるシーンの説得力も弱いです。ジャイアンやスネ夫の性格が豹変したことによる違和感と比較して、しずかの性格にはほとんど変化が見られません。この作品では恋愛要素やのび太がしずかを救うシーンも登場せず、何よりも入浴シーンが短すぎます!短すぎます!おい、堂山(監督)、聞こえていますか!
6.T.P.の不手際は昨日今日の話ではありませんが、信頼できない賞金稼ぎに望みを託すとは思いもよりませんでした。『南海大冒険』でT.P.のもっとも信頼できるメンバーがイルカであり、正式なメンバーが得意とするのは、自分の本来の仕事を小学生や育児ロボットに外注し、その後で人の功績を横取りすること、去る際には人々の愛するペットを没収すること(『日本誕生』)、必要なら直接子供たちに暴力を振るうこと(『新恐竜』)だと考えると、この法執行機関の評判が良くないのは当然です。これは、藤子・F・不二雄先生が左翼の立場であり、警察機関に対する根深い不信用を持っていたことを反映しているのかもしれません。
結論:
ユートピアがユートピアである最も重要な点は、それが存在しないことです。すべてのユートピアは反ユートピアであり、人類はユートピアを持つに値しないし、ユートピアも人類を得るに値しません。
最大限の自主性を譲渡して楽な生活や進歩を実現しようとしたのび太は、その教訓を受けました。人としての基本を失うことになる「間違えることのない存在」にすべてを託すことは、最終的には自由と引き換えに利益を得ることはできませんし、交換を望む人々も最終的には利益も自由も得るに値しません。
「最も巧妙な奴隷化の手段は、常に極楽の誘惑を通じて達成される。」
—オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
Charles郭
2023/3/7
日本横浜
人も友情も素晴らしいもの
................................................................................................
理想郷ってのがどこかにあると知ったのび太。
裏山で昼寝してると、空にそれが一瞬見えて消えた。
でドラえもんに頼んで調査、ついに見つける。
そこは三賢人が治めてて、のび太らはそこに住むことを許される。
住んでるうちにパーフェクト小学生になれるとのこと。
数日もするとジャイアンやスネ夫は紳士然として来た。
ところがのび太は何も変わらず、何か違うと感じ始めてた。
そんな折に三賢人の元に侵入者が現れ、のび太らが退治する。
でもその後、侵入者は女流賞金稼ぎで悪者ではないと知る。
悪者は三賢人の方で、彼らは人を操る光を研究してるのだった。
住人もみんな誘拐されて来て、光を浴びて洗脳されてただけ。
こうしてのび太とドラは賞金稼ぎに加勢し、住民救出を試みる。
でもジャイアンらは完全に洗脳されて心を失ってた。
三賢人は、光線の効かないのび太をヒントに新光線を開発。
それを地球に照射しようとする。阻止しようとするドラとのび太。
その心はジャイアンらの心を復活させた。
三賢人の手下、パーフェクト猫型ロボット・ソーニャ。
ドラらの友情は、ソーニャの心も溶かす。
友情にこたえたソーニャは三賢人(の裏ボスの科学者)を裏切る。
こうして科学者の計画は失敗。で理想郷を東京に落下させようとする。
ドラらはそれを防ぐが、もう大爆発は免れない状況に。
ソーニャはドラらを強引に避難させ、一人で爆発に巻き込まれる。
でもソーニャのメモリを偶然見つけたドラが復活するよう手配。
いつかまた会えるよね、的な感じで終了。
................................................................................................
ドラ映画を毎年見に行くのが恒例になってる。
いつも良いが、今作はその中でも特別良かったなあ。
ホンマに何回も涙しまくったわ。
人民の心を失わせれば争いは起こらず平和、確かにそうだろう。
でも心を失ったら終わり。ダメな所も含めて自分を受け入れよう。
そういうメッセージが込められてたように思う。
そしてドラとソーニャの、猫型ロボット間の友情も良かったな。
こういう友情系には弱くて、つい泣いてしまうんよな。
特にソーニャのような真面目な天才型には、つい感情移入してしまう。
ドラえもんとソーニャ
いい映画
いつ観ても感動!
パーフェクトじゃなくてもいい、自分らしく。大切な友達や心があって、本当の理想郷
映画ドラえもん42作目。
今回の話題は、脚本に売れっ子の古沢良太。
数年前にもオファーを受けていたらしいが、偉大な原作者と作品のプレッシャーから辞退していたという。
しかし再びのオファー。かつて自分も藤子先生が創造したドラえもんの世界にワクワクし、その時の気持ちを今の子供たちに届けられたら…。
自身にとっても“物語を創造する”の原点でもあり、あの頃ワクワクした冒険へ今また旅立つ決心をしたという。
出木杉から古今東西に伝わる“理想郷(ユートピア)”の話を聞いたのび太。
そこでは争いもいじめも無く、皆が平等自由に暮らし、誰もが優等生になれる。ダメなのび太だって。
いいなぁ…。行ってみたいなぁ…。
そんな時、空の彼方に聞いた通りの三日月型の理想郷を目撃したのび太。何て都合のいい展開かと思いきや、この時見た三日月型の理想郷や落ちてきた“虫”、出発時の虹など実は『魔界大冒険』ばりの伏線。
理想郷は本当にある!
古今東西の理想郷の目撃談を手掛かりに、探し出す冒険へ…!
別の世界への憧れと冒険。
そこは何もかもがパーフェクトな理想郷。
今回はオリジナルだが、過去作品も彷彿させる。
とりわけ空×理想郷と言うと『雲の王国』。個人的にドラえもん映画でもお気に入りの一つ。
ただ決定的に違うのは、『雲の王国』はのび太たちが造ったのに対し、こちらはのび太たちが遭遇した驚きの世界。
理想郷は本当に存在した…!
辿り着いたそこは、“パラダピア”。
美しい空の国。争いも嫌な事も無く、皆幸せに暮らしている。
科学技術も発達。国の源は“パラダピアンライト”という光。“三賢人”と呼ばれる3人の天才が創造したこの世界。
ここでは誰だってパーフェクトになれる。乱暴者のジャイアンだって、イジワルなスネ夫だって、強情なしずかだって。ダメダメなのび太だってパーフェクト小学生になれる。
ドラえもんと同じ未来のネコ型ロボットだが、こちらはパーフェクトなネコ型ロボット、“ソーニャ”の案内でこの世界で暮らしてみる事に。
暮らし始めて数日、早速皆に変化が表れる。
徐々に穏やかで優しい性格に。パーフェクトになってきている…!
しかし、のび太は…。相変わらず何をやってもダメ。
理想の世界では何もかも上手くいく筈が、そう思い通りにはならない。ここら辺、『魔界大冒険』を彷彿。
理想的なパラダピアだが、悪者に狙われている。
強力なバリアで守られ、外部からの発見や侵入も不可能。それでもパトロールは怠らず、ドラえもんもソーニャと共にパトロールを。
そんなある夜、何者かが侵入。三賢人が狙われるも、ドラえもんとのび太の活躍で未然に防ぐ。
侵入者は未来の女賞金稼ぎ、マリンバ。依頼主は住人の女の子、ハンナ。
皆、三賢人に騙されている。パラダピアは理想郷なんかじゃないという…。
ソーニャの時折の不審な視線。
三賢人が密かに企む何か。
それらは元より、古今東西の映画などで描かれる“理想郷”に裏は付き物。
このパラダピアだって理想郷と言っときながら、ルールは多いし、徹底された管理社会。三賢人なんて崇められる存在がいる。
そんなのが本当に理想郷…? 案の定。
ハンナは元の世界から三賢人に連れられ、ここへ。マリンバはその救出。
三賢人の目的は、人を操れる光=パラダピアンライトを使って人を支配。人から心を奪い、言いなりにし、三賢人にとって理想的な世界を創る。
三賢人の正体は、未来の世界で人を操る光を発明していたマッド・サイエンティスト、レイ博士だった…!
正体が知られたレイ博士はのび太たちの時代と町にタイムワープし、パラダピアンライトで町を支配しようとする。
ジャイアンたちはすっかり洗脳。ソーニャも立ち塞がり、遂にのび太もパラダピアンライトによって心を奪われ、ドラえもんに変身ライトを向ける。虫になって町へ落ちていくドラえもん。(←ここ!)
やっとのび太は正気に戻るが、この絶体絶命のピンチに立ち向かえるのか…?
パラダピアや世界観はファンタスティックで楽しいが、その実態はなかなかにシビア。三賢人/レイ博士もドラえもん映画久々と言える悪党。
一部の存在=独裁者の言いなりに支配される世界が本当に理想郷なのか…? 不条理な事ばかりの世界でも、好きな事嫌いな事が自由に出来る世界こそ本当の理想郷。
乱暴者じゃないジャイアン、イジワルじゃないスネ夫、強情じゃないしずか。そんなのいつもの皆じゃない。乱暴者だけど勇敢なジャイアン、イジワルだけど仲間思いのスネ夫、強情だけど優しいしずか。そのままで居てこそいつもの皆。
勉強もスポーツも出来ない。パーフェクトとは程遠い。ダメダメ少年の代表、のび太。でも皆、ダメな所や欠点がある。素晴らしい所もある。のび太は人一倍の純粋さと勇気と友達を思う心。
自分らしく。それは個性。そんな色んな好き嫌い、心や人があって、世界は楽しい。
心があるのは何も人間だけじゃない。ロボットだって。
言うまでもなく固い友情で結ばれたのび太とドラえもん。お互いの好きな所もダメな所もいっぱい含めて。
三賢人に忠誠を誓うソーニャ。彼にだって心はある。あの時見せたいっぱいの笑顔。
さあ、自分の心を信じて。
最後、ある決心をするソーニャ。彼の本当の心が描かれ、また一人、のび太たちの大切な友達が増えた。
永瀬廉の声も好感。
巧みな脚本が評価される古沢良太。
本作でもワクワク冒険と不思議な世界、メッセージ、感動を織り交ぜ、しっかりと王道ドラえもん。
当初は別のアイデアがあったという。のび太たちの町を舞台に、普段とは違う道を通ったら、別の不思議な世界が広がっていて…。コロナ禍で冒険出来なかった子供たちの為に今回の案になったらしいが、当初の案も見てみたかったかも。
今後古沢氏がまた担当になった時、是非ともこの話を!
近年ではベスト。
コロナで公開が夏になったり一年延期になったりしたが、本作は従来通り。久々に40億円超えの大ヒット。
ドラえもんが戻るべき所に戻ると、やはり安心出来て心地よい。
次はどんな冒険を“奏でて”くれるかな…?
久しぶりのドラえもん映画
古き良き物語。
最近のドラえもんは大人が楽しめる物だった。
新恐竜やカチコチは複雑なタイムパラドクス、宝島はラスボスの行動の動機理解が幼小の子供たちでは無理だろうという欠点があった。
それを理由にもし藤子先生がご存命だったらこの3作品は(私個人的には好きだが)即刻ボツになっていただろうが、藤子先生も昔の方。進化し続けるには「ドラえもんは藤子先生離れをしなければならない」ので、これは一歩であると評価した。
しかし、今回はそんなにストーリーも複雑でもなく、途中から悪者も明確になったし、「個性を大切にする」という現代っ子に向けたメッセージも映画自体に添えられておりかなり好感を持てた。
もうゴツゴーシュンギクから作られるあのお薬でも飲んだんじゃないかと思う程な偶々偶然都合良い展開も久々でノスタルジーを感じた。
ただ一つだけ許せなかったのは「犠牲で涙を誘おうとした」ということである。
ドラえもん映画で犠牲感動はタブーだよ。。。
だから海底鬼岩城も嫌いです。
あれ…そうなるとふしぎ風使いも嫌いにならないと駄目か…
今のは全て忘れて頂いて結構です!!
さて、普通の評価はここまで。少し裏を読み解いてみる。
実は今回の作品、「人はそれぞれ個性を持っていてよい。パーフェクトでなくてもよい」というメッセージは実に重要と言ったが、おそらくスタッフも気づいていない重要なポイントがある。
これは「道徳的、精神的、教育的」という意味だけではなく「電脳技術」という面でも非常に重みを置かなければならない課題なのである。
現在、トレンドワードが量子コンピュータやAIで持ち切りとなってしまい埋もれてしまっているが、攻殻機動隊のような電脳技術の実現も日夜世界で研究が行われている。
もしもある一定の成果が出て人と人の脳をスター式もしくはハブ式に繋げることができるようになれば、人と人の理解の違いによる争いも無くなってゆくしとある命題に対して並列化された脳は繋げられた処理能力で最的な方法での手段を取るようになる。
しかし、どっかの魔法少女アニメでよく聞く「エントロピーの増大現象」は情報学においても言えることであり、人の脳が繋がった瞬間から長い期間を経ると人の知識と個人が持っていた処理ロジックが混沌化してゆき、やがて人は小説で言う「巨大なヒトリ」という存在となってしまう。
人の技術進化とは「過ち」や「方向違い」から全く別の発見、進化を遂げることも多く常に正解の道を選んで技術レベルがカンストしまうと「テクノロジーの進化」にも限界が訪れてしまうのである。
さて、その情報の統一を起こらないようにするためには人の脳の記憶野の仕組みを完全に解析し、人に提供する情報、「個」で持つ情報を電子的にパーティション化しなければならず、それをしえないうちに人の脳と人の脳を電子的手段で接続することは非常に危険と大きな損失の可能性を伴う。
故に、「個性を大切にする。パーフェクトでなくてもよい」とは電脳学的に見ても重要なワードなのである。
まあ、こんなことを考えるのは一部の馬鹿か変態だけだと思うけどっ!
さて妄想も終わったし、もう一回ドラえもんアニメランニングしてくる。
期待をいい意味で裏切られた
ドラえもんって大人になってもええやん!
子供が幼少期のとき、のび太と鉄人兵団を見に行ったのが最後で遠ざかっていたのだが、久々に映画館で観た。いやぁ、良かった。平日の午前中にみたので周りは大人の方が多かったですが、皆さんかなり鼻をすすってましたね。かくいう自分もそうなんですけど。
とにかく考えさせられる内容でしたね。
古沢作品ということもあったので、やはり最後の伏線回収はお見事。
古沢さんの書かれている本は、とにかく最後まで見て!というものが多いのだが、ユートピアもそうだった。
どうしてもドラえもんは、わさびさんの声が私の幼少期の記憶とイメージが一致しなくてどこか避けてたんですけど、こちらの映画を見てから土曜日のアニメも見るように。声優さんもみなさん素敵だし、ソーニャにはハマりましたね。子供さんには難しい内容なのかな?と思いましたが、映画見終わったあと、泣いてる子供さんがお父さんお母さんたちと映画の感想を親子で話してるのがとても微笑ましかったです。
やっぱりドラえもんってすごいわ!
私達はのび太になりたかった
今作も紛れもなく傑作の部類に入るクオリティでした。
改めて思うのが、「私達はのび太になりたかった」と云う気持ち。
私にも多くの作品で憧れのキャラがいます。
容姿だったり、知的だったり、強さだったり...
誰しも自分が持ち合わせていない能力に惹かれる。
対してのび太はどうだろうか?
大概の人々は、のび太より多くのスキルを持ち合わせている。
そして劇中のおっちょこちょいな行動もあり、
私達は無意識にのび太を下の存在と見なし鼻で笑う。
だけど大人になった今なら分かる。
私達は本来、のび太にならなければいけなかった。
相手の立場になり、相手の気持ちを理解し、
共に笑い、共に泣いてあげる...
意外と多くの大人が持ち合わせる事が出来なかった人間性。
のび太には、その能力がずば抜けて高い。
パラダピアライトがのび太に効果が無いのも納得だ。
共感性とは元を辿れば想像力に行き着く。
「こう言ったら相手はどんな気持ちになるのか?」
「こんな時、相手はどう思うのか?」
相手の立場になり考える=想像力だ。
だからこそのび太は「ユートピアはどこにあるんだろう?」と本気に考えて探そうと思った。
それは単純だからとか純粋だからとかそういう話ではなく、共感性と想像力を併せ持つのび太だからこそ考えられる発想だ。
今、社会は多様性を尊重してる。
それ自体は素晴らしい事ではあるが、本心を言えない・言ってはいけない風潮になっている。
多様性を推しすぎた余り、人々は思考を止めてしまっている部分もある。
正に言論統制であり、パラダピアと同じだ。
この作品には、そんな押し付けがましい多様性はない。
とても自然で当たり前の思いやりがあるだけだ。
思想性のある作品なのに自然に表現し、
かつSF作品として、エンタメとして、
見事にバランスが取れている。
ドラえもんと言えば時間ロジックだが、
冒頭の虫や天気雨の伏線回収も簡単過ぎず、難しすぎず素晴らしい調整だった。
クライマックスの4次元ゴミ袋内で暴走するパラダピア。
空中でのドラえもんとソーニャの会話は、本当に心に響いた。
「らしさ」が世界を救う。
正にその通りだった。
全144件中、21~40件目を表示