エゴイストのレビュー・感想・評価
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そこにある恋愛とエゴについて
男性同士のラブシーンは見慣れないものがあった。初めの頃のラブシーンの流れが、他人行儀なところがあってそこで泣いてしまった。そのあとの展開の流れが美しくわかりやすく、でも自分の存在を謝るところが余計に切なくて、表に出さないことが当たり前で、泣かせようとはしてないのに泣いてしまった。つらかった。私も多分、彼と同じ行動をしながら、自分の口座の残金を見つめると思う。
キラキラしたBLはございませんが、製作陣の愛が詰まっております。
この作品はキラキラしたBLではなく、ゲイの世界をデフォルメせず描き、鈴木亮平をはじめ製作陣の愛が伝わる作品。
俳優の所作、ゲイが好みそうなコンテンツ、実生活での苦悩などゲイの世界を忠実に再現し完璧に描かれていた。
まず鈴木亮平の演技にはあっぱれの一言。
浩輔を演じるにあたりゲイや浩輔という役に寄り添い理解し、相当努力し演じているのが観てわかる。
役や設定への徹底的な追求がカメレオン俳優と呼ばれる由縁なのだろうと実感した。
また色白で吸い込まれるような綺麗な目をしている宮沢氷魚の儚げな存在感が龍太そのものでとても良かった。
ストーリーも龍太の死をきっかけに、妙子への母親を重ねた親子愛に変化したのは意外性があり楽しめた。
ただ全編通して胸が締め付けられ苦しかった。(←良い意味です)
浩輔の愛は龍太や妙子にとっては必要不可欠なものでたしかな愛だったかもしれないが、自分にとっては重くのしかかるエゴであって、観ていて心が苦しくなった。
エゴと愛は紙一重であり、受け取り手によって変わるもの。
周りがどう思おうと龍太や龍太の母が愛だと感じれば間違いなく愛なのだ。
タイトルで身構えたが、、、
悩みつつ直球に愛を投げ続ける映画でした。悔いのないように日々を過ごそうと思わされて、少し視界が明るくなるようなじんわりした元気をもらえました。
あと、私は何が他と違うのかが具体的にはわからないものの、映画評を見ると同性愛の人達にとってもリアルに描かれた恋愛描写として画期的とのこと。沢山の人達が勇気を持って正義を貫いてくれたお陰で、この素晴らしい物語を多様な人達と分かち合えることに感謝。
エゴと愛、相反する言葉と思いきや根本は同じ。
最近、映画鑑賞に新鮮味が感じられなくなってきたのですが、そのマンネリを見事に打ち消してくれました。冒頭5分で既に面白く、その後のベッドシーンは面食らいました。「虎狼の血2」で鈴木亮平さんのファンになりましたが、ネクストステージへ裸一貫で立ち向かう役者魂に心打たれました。
各シーンのカメラワークはワンカットが基本で、しかも小さな所作一つ一つを追うことでうねりを帯びた映像になっていて興味深かった。特にベッドシーン。デリケートな部分の際を狙ってくるので、下手なアクション映画を見るよりもハラハラドキドキ。
映画は徹頭徹尾、演技していないかのような芝居が続き、登場人物が自分の連れの様に感じてきます。この感覚は漫才に重なる部分があると思います。漫才は「2人の究極の立ち話」と言いますが、それくらい不自然さがなく、芸の目指すところなのかなと想像します。
そして本作はタイトルの「エゴイスト」という言葉について問いかけてくれました。エゴって愛の反対語だと認識していましたが、劇中の浩輔の行動を見てエゴだと思う人はいたでしょうか?浩輔はその生い立ちから孤独を抱え、その孤独を龍太への恋で埋め合わせます。また、その龍太を通して母親孝行の埋め合わせも行います。さらに龍太を失った消失感も加わり、更なる埋め合わせを龍太の母親に捧げます。字面で表すとエゴに見えるんですが、私の知っているエゴとの決定的な違いは「嫌味がない」っていう点です。浩輔自身、自分の行動が愛だという自覚がないところに余計エゴを感じさせません。
浩輔にはお金というツールがあり、それを嫌味なく振る舞える浩輔自身の誠意と知性(フィルター)がありました。自然と湧き上がる感情は人のエネルギーです。それがエゴで終わるか、愛に変換できるかは個人の力量次第です。自分が好きになった人やモノに対して、少しでも愛という結果に落とし込める様になりたいものだと思わされました。
ふとリアルの生活に目を向けると、日々触れているメディアには沢山の人のエゴに溢れています。対人関係でもエゴな部分が見えてくると気が重くなります。けれどそれは人にフォーカスし過ぎているから負に作用しているだけで、その人達が作ったモノやサービス、作品やパフォーマンスだけに目を向けると、そこからは作り手達の愛が伝わってきます。
映画としても観賞後の思考遊戯にも充実感を与えてくれる最高な一作だと思います。
愛とは、エゴとは。
体の重ね方は人それぞれで、そこに込められているものが何なのかも人それぞれ。そこにセクシャルなんぞ関係ない。
ファッションで武装していた人が、大切な人にあげた色味がシンプルな服を着て、
彼が続けていたことを守りたくて同じことを続け、時間すら閉じ込めるように冷凍庫へ閉まっていた人が、一人静かな部屋で食べ、
愛が何なのか分からないと言った人が、細く弱くなった手を握り、
辛いことばかりだった世界が、彼によって救われた。
自分を縛っていた物事の対を一つ一つ優しく、愛で結んでいくような映画だったんじゃないだろうか。
エゴとは一体何だろうね。
音がとても良い作品でした。
彼の中学時代の話はおそらく原作だともう少し描かれているんでしょうか。もし、映画でももう少し描かれていたらと思いつつ、あまり説明的に見せられても違ったんでしょう。
関係ないとは思うけど、浩輔さんがふとした時に鼻でよく呼吸をするなと思っていて時々苦しそうで、だげどエンドロールの最後、ゆっくり呼吸をするような息が聞こえて、なんだかホッとしました。
エゴにも色々あるんだね。
俺がこんなに愛しているんだから、全部は無理だけど少しくらいなら金もだせるから‥中途半端な金で相手の生活スタイルを変更させ、朝も晩も過酷な労働してるの知りながら、そこら辺は無頓着に頑張れよとか言って、自分は宝物を得た上、母親も巻き込んで良いことしている的な幸せいっぱいの気持ちになって‥周りも皆んな幸せだよねは、やっぱりエゴイストか‥。いろんな意味で深いよなー。面白かったで終わらない。あと引くわ。鈴木亮平も宮沢氷魚も気負いのない自然な演技で、清潔感があって、綺麗で、凄く素敵だった。脱力。
温度
「帰らないで」
じぶんの望み(〝エゴ〟)を口にした龍太の母・妙子
病室の機械に繋がれる命の灯りをゆらしながら出た声は
はっきりと浩輔の背中を押した
かつて妙子が浩輔に話した「受け取る側が愛と感じたなら愛なんです。」という言葉が私の頭の中にかえってくる
妙子は最後にその意味を確かめさせたのだろう
〝エゴ〟を貫いた結果が龍太の死と妙子の病を招いてしまったと自分を責め詫び続けた浩輔を救うために、そこに〝あなたの本心で、そのままを生きればいい〟というメッセージをこめたのだと思う
帰り支度をしようとしていた浩輔は、妙子の言葉の意味するところに気付き向き直る
それが同時に、亡き息子(龍太)の人生に対する母の抱擁でもあることを充分に感じとりながら、浩輔は妙子の手の温もりに自分と龍太の温もりを重ねた
限りなく優しいその温度は視覚からわたしの心をも柔らかく包むと
「エゴイスト」のロゴをふたたびふわりとスクリーンに浮かびあがらせてみせたのだ
そして、世の中に溢れるすべては、エゴでありエゴイストでありエゴイズムなのかもしれない
けれど、その本質、変貌の自由さを知っている?
どんなことも、一括りにして捉えることは安直で不自然だと気付いてる?
そんなふうに問いかけてきたのだ
………………
出会ってすぐに惹かれあった浩輔と龍太
浩輔が龍太に自分なりの(〝エゴ〟)愛情を示せば示すほど、自分の状況に負い目を感じ会うことを躊躇するようになる龍太
手離したくない龍太を思いとどまらせるべく、浩輔の思い(〝エゴ〟)は龍太に経済的支援を始め解決の道を探る
龍太は戸惑いながらも受け入れ、職を変え自分も状況を立て直す努力をする
歩み寄るような形でお互いの正直な気持ちを尊重し、押し寄せる波を越えようとしたのだ
やがて闇を抜け、眩い朝日を受け浮かぶ舟にいるようにゆったりとした安らぎが訪れるのを感じながら
以前、浩輔がこどもの時の旅の思い出を語る姿がよほど忘れられなかったのか、龍太から誘った海へ行く約束の日の朝
龍太は目覚めることなく亡くなってしまった
突然の死に、慟哭する浩輔と気丈に振る舞う妙子の姿
龍太を介して親しくなった浩輔に、妙子の裏側に隠した苦悩がわからないはずはなく、ついには〝エゴ〟を承知で龍太の代わりに経済的に生活を支えたいと申し出る
戸惑いながらも妙子は浩輔のその深いわけを理解し受け入れた
浩輔の母が病に倒れた当時は自分は子どもで、母にしてやれることは限られていたはず
ましてやセクシャルマイノリティのためにいじめを受け、理解をされにくい環境は母の死によってさらに逃げ出したい場所となっていったのだろう
そんな浩輔は命日のたび帰省するものの、玄関を開けるまでの故郷の道は居心地が悪そうに見えて仕方なかった
未だに彼にとっての故郷は虚無ともいえる場所であり、忘れたい時間なのだ
上京し自分の居心地を選べる大人になり、精神的にも経済的にもゆとりを得た現在の浩輔が、愛した龍太の母を支援することは、実母には果たせなかった孝行の代わりでもあり、過去の辛い空白の時を埋めて満たすような意味があったのではないか
そんな妙子が、病に侵され余命わずかと知ったのだ
龍太を失い、妙子までも…
本人の前で浩輔はぎりぎりの冷静を保つのがやっとだっただろう
押さえ込んだ動揺を抱える帰り道、自動販売機で小銭を撒いてしまったときにそれは噴出した
初めて龍太に誘われたカフェのレジ、小銭をばら撒き、慌てて拾いながら頭をぶつけた彼の愛しい姿が蘇ってしまったから…
どんなにはがゆくとも手立てがない現実がある
再びそれを突き付けられた浩輔の嗚咽が響く
それほどにつらく背負うのも〝エゴ〟を通した代償なのか?
彼らが互いを思いやり交わす優しく温かなやりとりを振り返るとある答えがみえてくるのだ
3人でアパートの小な食卓を囲む楽しそうな様子、妙子を挟んだ記念写真、街中で手をつなぎたい気持ち、たわいのない寛ぎの空気、素直に感情を寄せ合う二人、枯れた寄せ植えを一緒に新しくととのえる姿、妙子の体調への労わり、病室に飾る花、あたたかい風呂、龍太の部屋に泊めてくれる妙子、手土産に高い方の梨を選びなおす様子(→なぜ高い方を?というレビューを拝見しましたが、ここには、愛する人たちの死を通し、無意識に人生の時間の限りを読み取った瞬間にうまれる価値観みたいなものがよくあらわれていたように思うのです)などの数々だ
私がそのなかでも印象的だったのは、病院から帰宅した浩輔が、妙子が土産に持たせたおかずを温めようとするシーン
浩輔がテーブルに置いたその容器を大事そうに手のひらで包んだ姿があった
これは浩輔の〝エゴ〟が、相手を本当に大切に思う気持ちを積み重ね相手に伝わる温度をもった証し
与えるだけの愛がいつしか龍太と妙子からも与えられる愛になって通じてたことがわかる、自然と溢れるような所作が心を打つ
誰にでもいつか訪れる死
そこへ向かう途中、愛する人に出会う
心が震えるような愛を覚え、相手の現実に寄り添いたいと心底考えるようになる
それは、自分の時間、自分の収入、自分への利益やみかえり…そういったものを天秤にかけずに、まっすぐに相手に差し出したい気持ち
単なる好きだという気持ちを越えて大切におもうことだとおもう
それが通じ合ったとき〝エゴ〟は
もはや〝エゴ〟と呼べない
そしてそこから先にある結果がどうであれ〝代償〟ではなくなるのだ
それどころか、その経験は得たことはかけがえのない意義を人生にもたらすのだと思う
浩輔の〝エゴ〟で始まった関係も、光を遺し、温かい記憶の中できっと生き続けることが、あの時重ねた手や、気心の知れた親友に囲まれる姿から伝わってきてなんだかとても嬉しかった
もう一つ、さりげなく見守り、弱ってるときにはあったかい夕飯を作って泊まっていけと言ってくれる浩輔の父さんの存在の大切さがあることも私たちは知っている
余韻のこる帰路、小学校の教室に先生の習字で「思いやり」って書いてあったのを思い出した
そうだ 世の中を嘆く前に一人一人ができること
家庭、地域、学校…まずは小さな単位に目をむけること
2度目のタイトルがもたらしたように、そこにはかならず〝エゴ〟を越えた温度が伝わる
そして社会は、誰もが平等に自分らしく生きていける権利を、
誰かの生きづらさにさらりと手を差しのべ、目を配れる環境と教育への取り組みを、と切に願う
自分をエゴイストと思っている人は決してエゴイストではない
物語は単純なのに心揺さぶられる圧倒的な展開に思わず涙してしまいました。
以下は、エゴイストのタイトルについての一つの解釈です。
まず結論。利己(我欲)を顧みない全き利他(愛)などありえない。だから、普通それをエゴとは呼ばない。それなのに自らのエゴ(だと思っているもの)を責め続ける浩輔の真摯で痛々しい姿に観るものは心動かし、我々に愛につての観念を揺るがして深い感動を生む。
エゴイストとは誰なのか。まず、思いつくのは、主人公浩輔のエゴ、龍太を引き留めたが故に、結果として無理をさせて彼を死へと追いやってしまったことや、果たせなかった母への償いとしての龍太の母妙子への援助も、自分勝手な思いの押し付けと言えないことはない
しかし、観客にはその思いはあまり共感されないし、映画はそのようには描かれていないと思う。
実際、龍太は浩輔と短くても、これまでになかった幸せな日々を過ごしたのであり、妙子も浩輔によって、(龍太の遺品を処分出来る迄)息子の死を克服出来たかのように見える。
ただひとり物語の中で自分のエゴを一番意識しているのは一人称で語られる浩輔本人なのだ。 だからエゴイストは客観的なものではなく、浩輔の内面にある主観的なものとなる。
劇中何度も浩輔は、 ごめんなさい と謝罪する。
そして亡き母親にストレートに生まれてこなかった事を(龍太が母親に自分がゲイである事を悟られた時と同様に)常に詫びている。
周囲に合わせる事も出来ず、愛する人達からの期待にもこたえられない、その責めは全て自分がゲイであることに帰する。ゲイである自分は自分勝手なエゴイストだという思い。しかし、自分は変えられない。ブランド物の服を鎧と称して自嘲的に強がる姿は、自分をしてさらにその思いを強くさせる。 その悲しみ。
冷静に自分の内面を見つめながらも、浩輔の屈折した思い込みこそがエゴイストでした。
でも作者(或いは監督)の意図は、それを否定することにあった。
今回すでに故人である原作者高山真氏のブログを読んでみた。
お姉言葉の独特の感性で軽快にしかも鋭く日常を語る中に、自己愛についての言及があった。
作者は自己愛に溺れる自分を卑しいと軽蔑しながらも、それをいとおしむ感性を持ち合わせた真摯で内省の人だった。
物語は後半、浩輔は自分の母を妙子に重ね合わせ世話をすることで亡き母への償いをする。
だが、その後ろめたさを感じているからこそ、浩輔は他人から息子かと尋ねられても否定し続けるのだが、最後の最後で妙子に、 えぇ自慢の息子です と答えてもらえる。
この瞬間、浩輔は救われエゴイストではなくなり、物語は終わる。
(2/26 一部加筆しました)
いち当事者として
最近界隈で話題だったし、ドリアン・ロロブリジーダさんが出演することもあって鑑賞。
劇場は9割方女性客ばかりで、逆に浮いてるくらいの状況だった。
ゲイの立場から言えば、本当にリアルというか、日常というか。
子どもも持てない、結婚もできない、
身体の関係とお金の関係が中心だからこそ、
心のどこかで諦めてるし、心のどこかで縋ろうともしてる。
実家との繋がりもどこかギクシャクしたままで、縁談の話になると、仕事が忙しいだの言ってはぐらかすところなんて、自分を見ているかのようだった。
気持ちを繋ぎ止める方法が、お金とかお土産っていう即物的なものになりがちだったり、
体の関係が恋愛に先立ちやすかったり、
「愛がわからないんです。」って台詞は、多くの当事者にとって共感できるものなんだと思う。
エゴイストってタイトルがこんなにも腑に落ちるのはやっぱりいい映画だったからだろう。
見終わった直後は、「愛とは」という命題の答えが与えられたような気がして暖かい気持ちにもなったけれど、色々考えていくとまた違った感情にもなる。
一人称の視点だし、主人公の浩輔のエゴが最終的に「受け取る側が愛だと思えばそれは愛である」という答えに辿り着く物語であることは疑いない。
一方で、恋人の龍太もやっぱりエゴイストで、受け取れないとは言うものの、やっぱり浩輔の資金援助を当てにしていたわけだし、一見過労と思わせる死因だって、本当のところはわからない。もしかしたら病気を隠していたかもしれないし、そういう意味では自分の死期にも気づいていたんじゃないだろうか。母親に浩輔を紹介したのだって、パートナーという事を隠していたわけで、そうなると「何のための紹介なの?」と思えて、自分の死後、母親を助けて欲しいっていう願望が透けているようにも感じる。目論見通り浩輔は母親に資金援助するわけだし。
そして、龍太の母妙子。この人もまごうことなきエゴイストだと思う。本人に全く悪気はないけれども、自分の息子と恋人という2人の青年の人生を搾取し続けた。浩輔にとっては救いであり、自分の行動を肯定してくれる愛に溢れた人物なのは間違いない。でもその一方で嫌な言い方をすれば、他者の善意を当てにして自らの生活を成り立たせてしまう人。病弱で、という設定はあるものの、公的支援するなり、大人としてすべきことを放棄してしまった人に感じる。でもそれは龍太も浩輔も自ら進んで行なっているわけで、それを受け入れるのだって当事者が納得してるんなら周りがとやかく言うことじゃない。それこそゲイバーでの友人の反応のとおり。
登場人物全員がエゴイストで、決して誰かが悪いわけじゃない。各々のエゴが生々しく描かれていくのね。と。
モデルになった人々はもしかしたらもっと純粋なのかもしれない。でも確かに「自伝的小説」ではあるけれど、「自伝」ではないからこそ実在の人物とは切り離して考えるべきなんでしょうね。
それに、作中に現れるチャイコフスキーの悲愴。チャイコフスキー自身も同性愛者という噂もあったこともあり、観終わった今考えるとこの交響曲と構造が一緒なのかも、とも思い始めた。
ともかく、こうやって見終わった後も色々と考えたり気づいたりすることが多く、それだけ「良い映画」だった。
エゴイストの意味
私は漫画や小説ならBLとか同性愛表現は読むのですが、実写のものはあんまり免疫がありません。正直私が観ていいものなのかな…?と思いつつ、鈴木亮平さんの演技がすごい!と聞いて観てみました。
最初のあたりからガッツリ絡みシーンがあるのでビックリしましたが、鈴木亮平さんも宮沢氷魚さんも、完全に恋人同士としてその場に存在していて、とても自然。恋人関係になった2人が幸せそうで、特に浩輔さんの、好きでたまらないのがあふれてる感じが素敵で2人のシーンをずっと観ていたくなるくらい。
タイトルは「エゴイスト」。
浩輔さんの、恋人を自分だけのものにしたくてお金を払ってでも手元に置いたこと。お母さんに自分の母親を重ねて、断られてもお金を渡すこと。それはある意味で利己主義と言われればそうなのかもしれない。
でもお母さんが言ったように、受け取る側が「愛だ」と感じたなら、それは愛なんだと思います。
その言葉が、浩輔さんに届いてよかったと思いました。
幕切れも秀逸。エンドロールで涙が止まらず、喪失感がすごい。けど2人が出会えてよかったんじゃないかと、ある意味幸せを感じます。
鈴木亮平さんがどこかのインタビューで語っていましたが、最初と最後に出てくる「エゴイスト」の印象がまったく変わります。
こういう作品に出会えるから、映画館に行くのはやっぱりやめられない。
日本映画がまた好きになりました。
あの愛の続け方は自分にはできない
恋人そして息子を亡くした二人は互いに支え合っていなければこの先は無かったから?そしていつかはどちらからか手を離す時が来るような⁉︎これをエゴイストと表現したのかなぁ
しかし突然死から回想シーンも無くエンドロールへ何でしょう帰り道でのこの喪失感。
見所は主役2人のセックスシーン
序盤に主役2人のセックスシーンがある。
そのシーンを観て感じた事は、居心地の悪さと微かな違和感。
それは濃厚な性描写を見たから、という理由じゃなくセックス中の2人の「熱」が映像から伝わってこなかったから。
行為自体はかなりしっかりと描写されているのに、そこに相手を心から求める欲情は映されず、美しいんだけどマニュアルを一通りこなしましたって印象だった。特に龍太の方は。
その違和感は作中で浩輔自身も「なんか丁寧すぎるんだよね」と口にしていた気がする。
映画を観ている自分も龍太がどうゆう人間なのか掴めず、途中で浩輔の金を持ち逃げして消えるって展開になるんじゃないかと思ってた。
でも、終盤に突然龍太の死が告げられ、その後龍太がどれほど浩輔を愛していたかが分かる。龍太にとって浩輔がどれだけ大切な存在だったかが。
そこで、序盤のセックスシーンの意味合いが色付けされる。
ウリを生業にしている龍太にとってセックスは「義務」の意味合いが強かったんじゃないか。相手を喜ばせなければならない、満足させなければならない。でも義務感から行うセックスほど虚しい物はない。
龍太は浩輔の事を愛してた。本当に大切に思ってる人とのセックスですら、相手を知る驚きや、繋がれる喜びよりも、こうすれば満足するはずという「仕事」のようなモノになってしまう。
2人のセックスシーンから感じた違和感は、そうゆう龍太の哀しみも監督がそのシーンに折り込み、役者2人がそれを表現したからじゃないかと思う。
いわゆるBLモノの消費されるための性描写ではなく、人物の背景をセリフ以外で伝える映画的なセックスシーンが最近の邦画でどれだけあっただろうと思うと、それを見るだけでも充分鑑賞の価値のある作品だと感じた。
(もし監督に尋ね事ができたら、そんな演出意図は全くないですって言われるかもしれないけど笑)
それはエゴか
映画エゴイスト
観終わってまともに立てなくなったの
久しぶり。
何でだろう。
私は自身の目から見た
現代に生きるゲイの2人。
勿論実際にこのような経験を
されている知人もいる。
映画が終わった後のこの“喪失感”は何だろうか。
実の母
愛した人
愛した人の母
「あら、息子さん?」
でも否定しなかった
それほど愛や気持ちがあったのでしょう
家族は血の繋がりで成り立つものですか?
現在の法律上同性での婚姻は認められていない
13人に1人はLGBTQの人とも言われている日本
もう既に私たちの職場や近所
あらゆる所でその場所で普通に生きている人達がいる
ただ愛したい人がいて
共に過ごす時間が愛しい
当事者である私は
共感と心の中で共鳴していた
尽くすことは自己満足なのか
あの愛はエゴだったのか
でも
彼の笑顔や過ごした時間はずっと
変わらないし
彼が生き続ける限り
それは大切な愛の記憶である
廓物語
【ネタバレあり!】
これは
・婚姻関係になれないながら真の関係にいたり
・突然、大切な相手を失い
・大切な相手の大事な人をどうするか考えた人の物語
だと思う
ここに、セクシャリティやアイデンティティの議論は介入しない
そう私は思う
〈からの、個人的な映画への感想〉
浩輔が“服は鎧”と言うが、ルイヴィトンづくしのシャツやリュックは、あんたじゃないと着こなせないよ
鎧ってーか、鉄条網だよ
浩輔の部屋のインテリア
家賃もやけど、家具の目録見たいわ
あの革張りルネッサンス椅子とか
なんぼすんの?
原作を未だ読んでいないので、本当はどうであったか分からないが浩輔が龍太に“なにがし”を申し出たあたりは
🐼「歌舞伎の廓ものかよ…」
と思った
花魁に真を見せるには、総仕舞いでもして
というやつだ
*この時点で、🐼は龍太を“十股くらいかけてて、実は金だけかっさらってく手練手管の野郎”と思ってた
で、死ぬんかーーーーー!
そして、お母さんの面倒見るんか…
大事な人やったら…
そう思うわ…
むしろ、相手が亡ぅなって“グッバイ”に
なるか…?
ならんやろ…
純粋ラブストーリーや
ゲイのありのままの日常
恋愛映画は苦手なのだけど(というか、面白さがあまり理解できない)、ざっとレビューを確認したとき、「単なるゲイの恋愛映画ではない」ということを多くの人が言っていたので、ちょっと気になって観ることにした。
この映画は撮り方がとても面白いと思った。「できるだけゲイのありのままの日常を撮ろう」という意思が感じられる。常に手持ちのカメラで、ドキュメンタリー風な感じ(そのおかげで終盤では激しくカメラ酔いしてしまった)。
ゲイのコミュニティ内の会話や、パートナーの親との会話などは非常にリアリティがあって、かなりの部分がアドリブではないかと思ったほどだ。原作が存在する映画なので、もしかしたら自然に見える会話も脚本なのかもしれないが…。
ゲイをステレオタイプに描くのではなく、逆に理想化して描くのでもなく、ありのままに描こうということに注意しているように思えた。たとえば、主人公の浩輔は、ゲイを隠している人の前と、ゲイのコミュニティの中と、恋人の龍太の前では微妙に話し方(オカマ口調の度合い)が変わる。非常にリアリティを感じた。
賛否のある(否の方が多いか?)、男性どうしの性行為のシーンも、ゲイのありのままを見せたい、という意図があるように思う。性行為というのは男性どうしであるとかは関係なく、はた目から見ればグロテスクなものだ。映画、小説、漫画などでの性行為が甘美に見えるのは、理想化されていたり、観客の感情を操作する演出がされているからに過ぎない。
物語の中盤からは、「エゴイスト」というテーマの核心に迫る展開となっている。最後に、遠慮ばかりしていた龍太の母が、浩輔に甘えることを自分に許す。悲しい話なのだけど、人の善意を信じさせてくれるさわやかな終わり方だと思う。
ただ、ディティールのリアリティに比して、浩輔と龍太のキャラ設定があまりに理想化されすぎていないか、と思った。
浩輔は龍太の母に、龍太が死んでしまったのも、龍太の母のがんの発見が遅れたのも、自分のせいなんです、と吐露する。これが実話なのだとしたら、浩輔の苦しみはものすごくよくわかる。
龍太が売春をやめて最終的に過労死するほど無理した働き方をしてしまうことを、龍太は本当に納得していたのか? 浩輔は龍太に威圧的な態度をとっていなかったか? 龍太は浩輔に嫌われたくない一心で心理的にことわることができなかったのではないか? 過労死する兆候に浩輔はほんとうに気づいていなかったか? …これらは当事者でしか分かりようのないことだろう。これが実話なら、浩輔はこうしたことをいろいろ考え、自分を責めざるを得ないだろう。
でも映画では、浩輔には完全に一片の落ち度もないように描かれている。浩輔が「自分のせいなんです」と涙ながらに龍太の母に語るとき、観客は「いやいや、あなたは少しも悪くないよ」と思ってしまう。あまりに浩輔と龍太がピュアに描かれているので、この一連の悲劇が美しいとすら思えてしまう。
「エゴイスト」というテーマは、浩輔や龍太が一片の曇りもない善人…、というわけではない、とした方が、より深く描けるように思う。
原作はどうなのか知らないが、そんな風に思った。
歪んだ愛情表現=エゴイスト
冒頭のシーン。逃げるように出てきた実家へ帰る浩輔(鈴木亮平)。オカマと言われていじめられた過去。亡くなった母親の香典返しのノートを紙ヒコーキにして捨てられた屈辱。いったい何をあげれば喜ばれたのか。少年期に母を失った悲しみとが入り混じり、浩輔のその後の人生に大きな影響を与えたと感じた。伏線でありタイトルの意味に繋がる気がした。前半と後半で大きく変わる作品。前半は浩輔が龍太(宮沢氷男)と出会いあっという間に恋に落ちる。BLの濡れ場シーンがこれほど激しいとは予想外ではあった。浩輔にとってこれ以上ない幸せが訪れたかに見えたが、後半では龍太の口から売りをやってることと別れを唐突に言われてから、浩輔の歪んだ愛情表現がのぞきはじめる。龍太をお金で援助して繋ぎ止める。また龍太の母にもお土産を欠かさない。それが人への愛し方なのだど疑わない。通帳の残高がみるみる減っていってもお構いなし。無償の愛ではなくただ相手から喜ばれたいという見返りを求めて心を満たす浩輔。龍太の突然死の後、歪んだ愛情は龍太の母親へ簡単に切り替わる。浩輔の亡くなった母親の代わりに愛情とお金を注いでいく。本当の親子のような関係になっていくが、病気に侵された龍太の母親との時間が浩輔にとって正しい人の愛し方とはを考えさせられたのだと思う。BLメインと思いきや、かなり深いヒューマ作品。ゲイの映画、ドラマは多々あれど鈴木亮平さんのゲイ役は相当凄いと思う。男とオネエのセリフの切り替えなど素晴らしい。また、ゲイ仲間の飲み会のシーンはモノホンじゃないか?と思うぐらい自然で、手振りや仕草、喋り方の演技が凄い(もしかしてモノホンかな)。鈴木亮平さんはカメレオン俳優と呼ばれているが、まさになんでもこなす名優だ❗️
主演は鈴木亮平、だけど宮沢氷魚が相手役じゃなかったらココまで素晴らしくはならなかったよね☆
というほど、宮沢氷魚が光っている。
儚い・美しい・まさに天使。
顔のベースはBOOMの宮沢和史なのだが、クォーターならではの色素感。特にラブシーンでの肌の白さやそばかすの目立つ背中の曲線などに色気が。
幾度かドラマや映画で彼を観てきたけれど、ここまで美しかったっけ???と感じる透明感なのよね。
なんでかなー。
登場シーンの階段下から見上げる角度に差す光。急いで駆けつけ首筋に汗が光る様は、まさに天使降臨👼なムード。これは鈴木亮平でなくとも一発で惚れるビジュアルよ。
歩道橋でのキスでは、完全に浩輔(鈴木亮平)サイドの気持ちでドキドキ💓
なに?今のチュッは、高い寿司折りのお礼なの?!こんなんされたら本気で好きになっちゃうじゃない!軽々しくするのはやめてよねー!
って思ったら「浩輔さんは素敵です」と天使から愛のことばが!!
浩輔サイドの観客はここで全員、龍太に恋に落ちる(笑)あんな爽やかな笑顔でさらりと好意を告げられたらもう何でもしてあげたくなっちゃう。
苦しい表情で「売り」をやっていたことを告白。浩輔としばし会わなくなってから綴られる不特定多数の男性との交わりは、お仕事なのにお仕事と感じさせない優しさと愛おしさに溢れていてこんな人いるなら私もお金出します!!エッ?!( ・∇・;;)
まさにその道のプロな感じが出ておりました。
それはトレーナーとしても同様でダンベル(?)持ち上げながら鍛える浩輔に向かって「その調子!」と声をかける姿もやれ、本物っぽい。わたしのパーソナルトレーニングコーチに重なりましたわ。
彼を失してからの後半は、だから画面から光が消えたよう。浩輔やお母様(阿川佐和子)の苦しみがより深く感じられて、(涙)(涙)
愛はエゴ、与えようとも与えられようともそれは受け取る側の自由だけれどそれでも人を愛した時点で自身のフィルターを通してしか接することができないのは誰しもがエゴイスト。
最後まで品を失わない「エゴイスト」のフォントが良かったですね。
演技とは思えないくらいの演技…⭐︎
鈴木亮平と宮崎氷魚のゲイのカップルの映画と思い鑑賞したが、とてもそれだけではない作品。
もっと人が生きて行く意味に関わるような映画だった。
正直、冒頭のベッドシーンが結構ハードで、決していやらしく描かれている訳ではないのだが
苦手な人も一定数いると思う。
鑑賞した直後は、何だか うーん…と言う気持ちもあったが、1日過ぎてジワジワと感動が
湧いてきた。
何より、鈴木亮平演じる浩輔の初々しいほどの龍太(宮沢氷魚)への好きと言う感情が
観ている方にも伝わり、切ないような苦しいような幸せのような…人を好きになったことの
ある人ならわかる恋(愛)。
それを見事にゲイとして表現する鈴木亮平って、やっぱりすごい!
もう、表情だけでなく細部にわたる動きまでなり切っていて素晴らしかった。
中盤、龍太との別れは彼の死によって、唐突に訪れる。
おそらく信じられない気持ちで、葬儀に訪れた浩輔が嘆き悲しみにしずむ場面も
、小さな子供のようなよるべなさに溢れていた。
そこで、阿川佐和子演じる龍太の母の妙子が浩輔にかける言葉がこの作品の全てかもしれない。
「受け取る側が、愛と感じたら愛なんです」
鈴木亮平に集中しがちだか、宮沢氷魚も正直役不足かと思いきや十分良かったし、
浩輔の父役の柄本明はもちろん後半は阿川佐和子との掛け合いが見応えがある。
実際その設定がありかと問われると微妙だが、無償の献身を残された母・妙子に
浩輔は捧げて行く。
どういうラストかと思っていたが、曖昧さに救われるような優しいラストだった。
清い愛
浩輔演じる鈴木亮平、龍太演じる宮沢氷魚トレーニング後からのカフェ、カフェからの帰り道にある寿司屋、寿司屋のおみやげを龍太の母へと浩輔が龍太へ持たせる。
歩道橋での龍太から浩輔への初キス。
浩輔の「えっ何?、お寿司のお礼?」というセリフが面白く印象的。
ゲイ役演じる鈴木亮平の役の雰囲気が慣れるまではツボ。氷魚君は全く違和感なかった。
最初二人の絡みのシーンは抵抗があったものの見慣れてきたらちゃんと愛し合ってるのね!って感じで良かった。
龍太が寝てる時にハンドクリームを塗ってあげる浩輔、その姿はその辺にいる男女カップルよりも清く、優しさや愛が溢れてるようにも見えた。
中盤過ぎたあたりから何かありそうな雰囲気。まさかの龍太の突然の死。
龍太が亡くなってしまった後の龍太母への浩輔の対応はちょっと過剰にも見えたけど優しさに溢れてた。
これは作品だけど自分の大事な人の親へこれを出来るかと問われたら絶対に出来ません!(笑)
普通の優しさは持ってるつもりだけど。
あとリアルの部分で俺は男で女性が好きだけど、男同士、女同士が好きって人たちで肩身の狭い思いしてる人たちは少なからずいる。
俺個人的には人目気にせずオープンでいけば!って感じ、人それぞれですからね!
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