エゴイストのレビュー・感想・評価
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丁寧に描かれた美しく危うい関係
この作品のタイトルに「エゴイスト」を持ってくるかあ…!と観終わった後色々考えてしまった。
見方によっては浩輔の一方的な献身的ともいえる愛情。
龍太とその母に対し、金銭も時間も惜しみなく与える様子とその危うさを個人的には終始ハラハラしながら観ていた。
こういう関係は与える側も受け取る側も試されており、一歩間違えば精神の対等さがなくなって関係が破綻してしまう。
浩輔と中村親子がとても尊い関係を築いていたので、余計にその関係が壊れてしまわないかといらぬ心配をしてしまう私…。
結果的にそれは杞憂で、ちゃんと浩輔は、そこにエゴが入っていることを自覚していて、龍太もお母さんもそこを理解した上でちゃんと感謝しており、そこは本当に良かった。
心の拠り所だった母を思春期に亡くし、都会に出てからはファッションを鎧としてまとって生きてきた浩輔。
そんな彼が「エゴ」「愛がわからない」といいながらも、ちゃんと深く龍太とその母を愛していること、そうしてそうすることで浩輔自身も救わるストーリーになってるのが良かった。
何度も言うけど一方的な献身を伴う関係はとても危うい。そこをちゃんと自覚的に描いてくれる作品で良かった…。
浩輔さんが裏切られたら私たち(観客)はちょっと立ち直れない…。
あと印象的だったのは、本作はセリフやモノローグでほとんど語らないという点。その代わりに登場人物の表情にめちゃくちゃフォーカスする。
この映画の7割くらいは鈴木亮平さんの顔周りのショットを観ていたんじゃないかと錯覚するほど(実際錯覚でもないような気もするがどうなんだろ)。
静かに、丁寧に人物を描写する作品だなと思った。
しかし主演2人(鈴木亮平さんと宮沢氷魚くん)の色気はすさまじいな…。スクリーン越しに彼らの首筋から漂うフェロモンにあてられてしまった。
平日昼間ながら割と埋まってる劇場の観客が女性率9割だったのも面白い。
あと出番もセリフもはそこまで多くないのに柄本明さん(浩輔の父役)良かったなあ。静かで素朴ででも色んなものを包み込むような器のような役者さんだなあと改めて思う。
浩輔と2人で夕飯食べるシーンは泣きそうになってしまった。
男性とか女性とかの問題じゃないんですね
ゲイの映画ということで
なんとなく
敬遠していたのですが
衝撃のラストと聞いたので
知っちゃう前に観ておこう
と思い鑑賞
ゲイとかの次元で敬遠していた自分が情けないほど
二人の恋人同士役が
セクシーだったりピュアだったりで
人間の愛を感じました
あとは
衝撃のラストと聞いてたので
どちらかが自分のを切っちゃうとか
殺しちゃったりしちゃうのかな
と思ってたので
逆にホッとしました
今でもあの二人の笑顔が頭に焼き付いてます
エゴは誰かのしあわせにも、救いにもなれる。
驚きました。浩輔(鈴木亮平)と龍太(宮沢氷魚)の物語だと疑わなかったので。
この作品は浩輔と龍太の母妙子(阿川佐和子)との物語でもありました。
前半は浩輔と龍太の物語です。
「できることなら何でもしてあげる」それが浩輔の愛の形でした。龍太が性的な仕事を脱し、龍太と持病を持つ妙子の生活を守るためには金銭的な援助しか解決方法がなかった。龍太は関係を続けるために頼らざるを得ないとしても、至極心苦しかった。それゆえ限界まで過労を続けてしまった。
疑問に思ったことでもありますが、意図しない破局を除いて「2人の間にあったしあわせ」だけが描かれます。
全体通して龍太の胸のうち(浩輔を好きになる過程、金銭援助されていたときの感情)があまり描かれませんが、原作が自伝的小説だったため安易に龍太の心情描写を脚色しなかったのではと思います。事実として龍太の胸の内に気づけなかったことも結果としての過労死(濁しているし濁すのが作品として正解に思います)に結びつく演出だったとすると、なんて誠実な作品だろうと思いました。
彼が欲しい。彼を救いたい。その想いからくる愛情が結果として死を招いてしまったことを自分のエゴだったと悔恨します。鈴木亮平さんの通夜のお芝居は見ていられませんでした。現実に起きたことなんですか…?もう人生立っていられないですよ、、、
お芝居は現実を観ていると錯覚するほど自然で、丁寧に丁寧に積み重ねられていると感じとれる。鈴木さんは勿論ですが、宮沢氷魚さんが本当にもう、本当に本当に。眼差しや口角の動きには想いが溢れていて、こんなに無垢でまっすぐなお芝居をされる方がいるのですね…その才能の尊さに思い出しただけで涙が出そうですし大ファンになりました。これからもお芝居たくさん見たいです。
後半です。浩輔と妙子が援助金の入った封筒を差し出し・返しを繰り返すシーンは、この作品が本当に丁寧に作り込まれていることを感じさせてくれます。単調になっても不思議でない単純な動作に、2人の葛藤が、言葉少なに表情や動作の重みから伝わってきました。振り返るとあのシーンが物語の分岐点だったように思います。その役割を強く印象に残す演出とお芝居が素晴らしかったです。
はじめは浩輔の援助に妙子も戸惑いながら、徐々にお互いの心地よい距離感を図り、共通の愛する人を亡くし残された者として、2人だけの関係を築いていった。
そして、いつか浩輔と妙子の関係は終わってしまうんじゃないか。そう思わせる随所のミスリード描写が上手かった。浩輔は自分の気の済んだところで援助をやめる、エゴをそんな展開にも集約していくのではと思わされましたが、タイトル「エゴイスト」はそんな表面的で生暖かいものではありませんでした。
終盤、見舞いにくる浩輔が再び息子と勘違いされる所で妙子は「自慢の息子です」と返す。
その言葉を受けたあとの震えながら眉を描く浩輔のシーン、本当に凄かったです。
ラストシーンでは、浩輔の善意に後ろめたさを感じていた妙子が、末期が近いと悟り「まだ帰らないで」と浩輔に声を掛ける。
懺悔の気持ちもあって妙子への援助を続けていたと思います。幼い頃に実の母親を亡くしたことも効いていると思いました。母を重ねていたのかもしれない。そして龍太との関係を無かったことにしたくなかったために。
でも愛情深い浩輔は、妙子のことも愛していた。善意ではなく愛情だと妙子に伝わったと感じられるラストでした。
あの瞬間をラストにしてくださったからこそ、エゴが誰かのしあわせになることも、救いになることもあるのだと思わせてくれました。阿川佐和子さん、包み込むように優しく自然体なお芝居をされていて本当に素晴らしかったです。最上級の評価を受けて欲しいです。
エゴイストという作品が生まれたからこそ、日本のエンタメ業界が前進すると思える作品でした。映画館で見れて良かったです。
ゲイです。彼氏と観に行きました。
ゲイ当事者です。
彼氏と日比谷で鑑賞しました。
鑑賞し終わって、正直…
『???』と、彼氏と話し合いながら帰宅しました。
なぜなら、
まるで、過去の自分達を観ているようで、
『あ、なんか、懐かしい!』気分になっただけでした。
冒頭に、
『彼氏と婚姻届けを書いて壁に飾る!』
みたいな台詞があったのですが、
見終わって、
『そうか!俺らゲイは好きな人と結婚は出来ない。もし、異性愛者同様、好きな人と結婚ができたら、相手の両親の面倒を見たり、寄り添ったりはするだろうな。でも、結婚を結ばなくても、やれそうだよね!』
と思っただけで、
特に何かメッセージがあるようには思えませんでした。
性描写は見慣れているから、
『他の観客の方々、大丈夫かな?』と
心配になりました。
しかし、
そもそも、俺らも男女の絡みなど、
見たくないコンテンツが
小さい時から街に溢れていました。
大人になるにつれて慣れたから、
今となっては何とも思わない。
だから、
『皆さん、慣れてくださーい!』と思いました(笑)
一箇所、非常に共感できるシーンがありました。
彼氏と帰宅しながら、
『あのシーンは、共感できるね!確かに、あーやってスマホをいじって、追いかけた経験はあったね!』と…
ストーカー(=自己都合)
あっ!だから、エゴイスト??
と、笑い合いながら帰宅しました。
『なぜ、エゴイスト?』
無理矢理、タイトルの意味を見つけ出す会話をしていました。
ゲイのお友達が見当たらない方々に観て欲しい作品です。だから、期待を込めて『星5』
愛もエゴイズムも括ることはできないの
総じて愛と言ってしまおうか。しかしながら愛とはと問われたら私は答えられない。物事をどう受け止めるか、どんな見方をするかで愛もエゴイズムの意味も変わるだろう。
この映画は単なるゲイの物語ではない。事実を元にした物語であるようだが、ゲイの2人が紡ぎ出す物語である事でこの題の意味や感じ方がゲイでない自分には余計に引き立ちそれぞれの心情を身近に感じられた気がする。所々で感情が溢れて泣けた。
ベッドの上の龍太の母親のまだ居て欲しいと言った言葉が印象的だった。
愛を愛として伝えることの難しさを感じた。それは簡単で困難である。
余談だが、セクシャルマイノリティを少しは理解していると思っていた自分が情けない。同じ、だと。自分の世界とは何も違わない人間同士の繋がり。思い知らされた。(それでも理解には程遠いのだろう)
映画から感じそこから少しでも新しい感覚知識を得られるって、映画って本当に素晴らしい。
冒頭のシーンから鈴木亮平の演技の自然さ上手さと役作りに驚かされた。
おすすめ映画。
演技上手かった。
全く情報がないまま、ポスターを見ればどんな感じかわかる。くらいで観ました。描かれた世界の事や実話である事なども知らずにみましたので、最初の30分くらいはバイブル的な?このまま続くの?た疑ったのですが、そこから思わぬ方向へ、悪い人が出てこないし、批判的な部分が少なく、悲しいながらも、最後はなんか良かったです。
接写でのカメラカットに接写の自然な撮り方がとても良かった。それに負けない演技でしたね。居酒屋のシーンは少しだけはが出てましたけど、食べるシーンボトルキャップの閉め方まで上手かった(^^)
本当のエゴイストは母でしょう
まず、この映画を観て「時代が変わったなぁ」というのが、一番の感想です。
こういう題材の作品が、一流の俳優さんや映画製作者によって、本当に丁寧に作られ、それが一般公開されて、様々な人達が特別な思いで観に来る。異性愛以外の形を、もっと知りたいと真摯な気持ちで、足を運ぶ人が普通に増えたからこその、この映画の誕生と感じました。
全編が自然で、それは大切に繊細に描かれていましたが、性描写の部分は特に印象的でした。
異性愛者が愛し合い、高みに達する姿と、同性愛者のそれに、一体何の違いがあるのかと、静かに、そしてパワフルに問いかけられた思いです。
それにしても、タイトルのエゴイストとは、一体誰を指してのことなのか、と考えていましたが「あ。この人ね」と、最後のショッキングな終わり方で見えた思いです。
自分も子(息子)を持つ母なので、そんな自分とも重ねて見てしまいましたが、そもそも自分の体調のせいで子供に進学を断念させ、お金を工面させてきたあの親は、一体どんな顔をずっとしてきたのかと思いました。
高校を中退させた我が子に、自分の経済負担まで背負わせ、それだけの金銭がどこから発生しているのか、知らん顔を決め込める母親だからこそ、最後は浩輔のことを「息子です」と、病室の人に話して、帰ろうとしている彼に、「帰らないで」と拘束するなんてことが、できたんでしょうね。
息子のみならず、他人の浩輔まで縛りつけてるシーンの只中で、突如画面が切り替わり、エゴイストの文字が浮かび上がって、終了。
私にとっては「この人ですよー、表題の人は」と言われたようにしか、思われませんでした。
龍太を死なせたのは自分だと、泣いて謝る浩輔に、もしもこの母親が自分の責任と罪を認めていたのなら「この子を長年酷使した私が、息子を死に追いやった。謝るのはあなたじゃない」と、悶絶するほど泣いて詫びて後悔をする筈だと感じました。
龍太を死に追いやったのは、浩輔ではなく、負担を息子にかけ続けた母親ですね。
とはいえ、阿川佐和子さんの演技と存在感は、とても素敵でした。
今まで観てきた邦画の中で、多分この映画が一番好きです。
リアルとファンタジーと...
映画館で見るべき作品だというのはCMですぐに分かったので見に行きました。
期待以上に良かったです。
リアルとファンタジーと古さを感じた。
これ以降は批判に感じるかもしれませんがファッション紙の編集者がテントハウスに住んでいる設定は早々にリアルではなく
一方で支払う金額は10万だったりテントハウス住んでたらもっと払えるよね。とこのあたりは残念ですね。
話の展開が良く鈴木亮平さんの演技が素晴らしかった。ぐっと引き込み早い展開も違和感なく話に入っていてける。
売りに関してはあー聞いたことあるなって感じですがこの設定に古さを感じたが龍太の家には貧困のリアルが描かれているが
売りやるには年齢行き過ぎてないかなと思ったり。
リアルでない部分とファンタジーの部分が入り混じってます。
浩輔のコンプレックスと尽くしても尽くしても認められなかったり最後に認められたり
だんだんと話の展開はすすみます。
終わり方も良かったです。
その先は分かるでしょ?といった演出はとても効果的でよい作品でした。
あと隣りに座ってたゲイがクスクスずっと笑っててうるさかったわー(笑)
そこにある恋愛とエゴについて
男性同士のラブシーンは見慣れないものがあった。初めの頃のラブシーンの流れが、他人行儀なところがあってそこで泣いてしまった。そのあとの展開の流れが美しくわかりやすく、でも自分の存在を謝るところが余計に切なくて、表に出さないことが当たり前で、泣かせようとはしてないのに泣いてしまった。つらかった。私も多分、彼と同じ行動をしながら、自分の口座の残金を見つめると思う。
キラキラしたBLはございませんが、製作陣の愛が詰まっております。
この作品はキラキラしたBLではなく、ゲイの世界をデフォルメせず描き、鈴木亮平をはじめ製作陣の愛が伝わる作品。
俳優の所作、ゲイが好みそうなコンテンツ、実生活での苦悩などゲイの世界を忠実に再現し完璧に描かれていた。
まず鈴木亮平の演技にはあっぱれの一言。
浩輔を演じるにあたりゲイや浩輔という役に寄り添い理解し、相当努力し演じているのが観てわかる。
役や設定への徹底的な追求がカメレオン俳優と呼ばれる由縁なのだろうと実感した。
また色白で吸い込まれるような綺麗な目をしている宮沢氷魚の儚げな存在感が龍太そのものでとても良かった。
ストーリーも龍太の死をきっかけに、妙子への母親を重ねた親子愛に変化したのは意外性があり楽しめた。
ただ全編通して胸が締め付けられ苦しかった。(←良い意味です)
浩輔の愛は龍太や妙子にとっては必要不可欠なものでたしかな愛だったかもしれないが、自分にとっては重くのしかかるエゴであって、観ていて心が苦しくなった。
エゴと愛は紙一重であり、受け取り手によって変わるもの。
周りがどう思おうと龍太や龍太の母が愛だと感じれば間違いなく愛なのだ。
タイトルで身構えたが、、、
悩みつつ直球に愛を投げ続ける映画でした。悔いのないように日々を過ごそうと思わされて、少し視界が明るくなるようなじんわりした元気をもらえました。
あと、私は何が他と違うのかが具体的にはわからないものの、映画評を見ると同性愛の人達にとってもリアルに描かれた恋愛描写として画期的とのこと。沢山の人達が勇気を持って正義を貫いてくれたお陰で、この素晴らしい物語を多様な人達と分かち合えることに感謝。
エゴと愛、相反する言葉と思いきや根本は同じ。
最近、映画鑑賞に新鮮味が感じられなくなってきたのですが、そのマンネリを見事に打ち消してくれました。冒頭5分で既に面白く、その後のベッドシーンは面食らいました。「虎狼の血2」で鈴木亮平さんのファンになりましたが、ネクストステージへ裸一貫で立ち向かう役者魂に心打たれました。
各シーンのカメラワークはワンカットが基本で、しかも小さな所作一つ一つを追うことでうねりを帯びた映像になっていて興味深かった。特にベッドシーン。デリケートな部分の際を狙ってくるので、下手なアクション映画を見るよりもハラハラドキドキ。
映画は徹頭徹尾、演技していないかのような芝居が続き、登場人物が自分の連れの様に感じてきます。この感覚は漫才に重なる部分があると思います。漫才は「2人の究極の立ち話」と言いますが、それくらい不自然さがなく、芸の目指すところなのかなと想像します。
そして本作はタイトルの「エゴイスト」という言葉について問いかけてくれました。エゴって愛の反対語だと認識していましたが、劇中の浩輔の行動を見てエゴだと思う人はいたでしょうか?浩輔はその生い立ちから孤独を抱え、その孤独を龍太への恋で埋め合わせます。また、その龍太を通して母親孝行の埋め合わせも行います。さらに龍太を失った消失感も加わり、更なる埋め合わせを龍太の母親に捧げます。字面で表すとエゴに見えるんですが、私の知っているエゴとの決定的な違いは「嫌味がない」っていう点です。浩輔自身、自分の行動が愛だという自覚がないところに余計エゴを感じさせません。
浩輔にはお金というツールがあり、それを嫌味なく振る舞える浩輔自身の誠意と知性(フィルター)がありました。自然と湧き上がる感情は人のエネルギーです。それがエゴで終わるか、愛に変換できるかは個人の力量次第です。自分が好きになった人やモノに対して、少しでも愛という結果に落とし込める様になりたいものだと思わされました。
ふとリアルの生活に目を向けると、日々触れているメディアには沢山の人のエゴに溢れています。対人関係でもエゴな部分が見えてくると気が重くなります。けれどそれは人にフォーカスし過ぎているから負に作用しているだけで、その人達が作ったモノやサービス、作品やパフォーマンスだけに目を向けると、そこからは作り手達の愛が伝わってきます。
映画としても観賞後の思考遊戯にも充実感を与えてくれる最高な一作だと思います。
愛とは、エゴとは。
体の重ね方は人それぞれで、そこに込められているものが何なのかも人それぞれ。そこにセクシャルなんぞ関係ない。
ファッションで武装していた人が、大切な人にあげた色味がシンプルな服を着て、
彼が続けていたことを守りたくて同じことを続け、時間すら閉じ込めるように冷凍庫へ閉まっていた人が、一人静かな部屋で食べ、
愛が何なのか分からないと言った人が、細く弱くなった手を握り、
辛いことばかりだった世界が、彼によって救われた。
自分を縛っていた物事の対を一つ一つ優しく、愛で結んでいくような映画だったんじゃないだろうか。
エゴとは一体何だろうね。
音がとても良い作品でした。
彼の中学時代の話はおそらく原作だともう少し描かれているんでしょうか。もし、映画でももう少し描かれていたらと思いつつ、あまり説明的に見せられても違ったんでしょう。
関係ないとは思うけど、浩輔さんがふとした時に鼻でよく呼吸をするなと思っていて時々苦しそうで、だげどエンドロールの最後、ゆっくり呼吸をするような息が聞こえて、なんだかホッとしました。
エゴにも色々あるんだね。
俺がこんなに愛しているんだから、全部は無理だけど少しくらいなら金もだせるから‥中途半端な金で相手の生活スタイルを変更させ、朝も晩も過酷な労働してるの知りながら、そこら辺は無頓着に頑張れよとか言って、自分は宝物を得た上、母親も巻き込んで良いことしている的な幸せいっぱいの気持ちになって‥周りも皆んな幸せだよねは、やっぱりエゴイストか‥。いろんな意味で深いよなー。面白かったで終わらない。あと引くわ。鈴木亮平も宮沢氷魚も気負いのない自然な演技で、清潔感があって、綺麗で、凄く素敵だった。脱力。
温度
「帰らないで」
じぶんの望み(〝エゴ〟)を口にした龍太の母・妙子
病室の機械に繋がれる命の灯りをゆらしながら出た声は
はっきりと浩輔の背中を押した
かつて妙子が浩輔に話した「受け取る側が愛と感じたなら愛なんです。」という言葉が私の頭の中にかえってくる
妙子は最後にその意味を確かめさせたのだろう
〝エゴ〟を貫いた結果が龍太の死と妙子の病を招いてしまったと自分を責め詫び続けた浩輔を救うために、そこに〝あなたの本心で、そのままを生きればいい〟というメッセージをこめたのだと思う
帰り支度をしようとしていた浩輔は、妙子の言葉の意味するところに気付き向き直る
それが同時に、亡き息子(龍太)の人生に対する母の抱擁でもあることを充分に感じとりながら、浩輔は妙子の手の温もりに自分と龍太の温もりを重ねた
限りなく優しいその温度は視覚からわたしの心をも柔らかく包むと
「エゴイスト」のロゴをふたたびふわりとスクリーンに浮かびあがらせてみせたのだ
そして、世の中に溢れるすべては、エゴでありエゴイストでありエゴイズムなのかもしれない
けれど、その本質、変貌の自由さを知っている?
どんなことも、一括りにして捉えることは安直で不自然だと気付いてる?
そんなふうに問いかけてきたのだ
………………
出会ってすぐに惹かれあった浩輔と龍太
浩輔が龍太に自分なりの(〝エゴ〟)愛情を示せば示すほど、自分の状況に負い目を感じ会うことを躊躇するようになる龍太
手離したくない龍太を思いとどまらせるべく、浩輔の思い(〝エゴ〟)は龍太に経済的支援を始め解決の道を探る
龍太は戸惑いながらも受け入れ、職を変え自分も状況を立て直す努力をする
歩み寄るような形でお互いの正直な気持ちを尊重し、押し寄せる波を越えようとしたのだ
やがて闇を抜け、眩い朝日を受け浮かぶ舟にいるようにゆったりとした安らぎが訪れるのを感じながら
以前、浩輔がこどもの時の旅の思い出を語る姿がよほど忘れられなかったのか、龍太から誘った海へ行く約束の日の朝
龍太は目覚めることなく亡くなってしまった
突然の死に、慟哭する浩輔と気丈に振る舞う妙子の姿
龍太を介して親しくなった浩輔に、妙子の裏側に隠した苦悩がわからないはずはなく、ついには〝エゴ〟を承知で龍太の代わりに経済的に生活を支えたいと申し出る
戸惑いながらも妙子は浩輔のその深いわけを理解し受け入れた
浩輔の母が病に倒れた当時は自分は子どもで、母にしてやれることは限られていたはず
ましてやセクシャルマイノリティのためにいじめを受け、理解をされにくい環境は母の死によってさらに逃げ出したい場所となっていったのだろう
そんな浩輔は命日のたび帰省するものの、玄関を開けるまでの故郷の道は居心地が悪そうに見えて仕方なかった
未だに彼にとっての故郷は虚無ともいえる場所であり、忘れたい時間なのだ
上京し自分の居心地を選べる大人になり、精神的にも経済的にもゆとりを得た現在の浩輔が、愛した龍太の母を支援することは、実母には果たせなかった孝行の代わりでもあり、過去の辛い空白の時を埋めて満たすような意味があったのではないか
そんな妙子が、病に侵され余命わずかと知ったのだ
龍太を失い、妙子までも…
本人の前で浩輔はぎりぎりの冷静を保つのがやっとだっただろう
押さえ込んだ動揺を抱える帰り道、自動販売機で小銭を撒いてしまったときにそれは噴出した
初めて龍太に誘われたカフェのレジ、小銭をばら撒き、慌てて拾いながら頭をぶつけた彼の愛しい姿が蘇ってしまったから…
どんなにはがゆくとも手立てがない現実がある
再びそれを突き付けられた浩輔の嗚咽が響く
それほどにつらく背負うのも〝エゴ〟を通した代償なのか?
彼らが互いを思いやり交わす優しく温かなやりとりを振り返るとある答えがみえてくるのだ
3人でアパートの小な食卓を囲む楽しそうな様子、妙子を挟んだ記念写真、街中で手をつなぎたい気持ち、たわいのない寛ぎの空気、素直に感情を寄せ合う二人、枯れた寄せ植えを一緒に新しくととのえる姿、妙子の体調への労わり、病室に飾る花、あたたかい風呂、龍太の部屋に泊めてくれる妙子、手土産に高い方の梨を選びなおす様子(→なぜ高い方を?というレビューを拝見しましたが、ここには、愛する人たちの死を通し、無意識に人生の時間の限りを読み取った瞬間にうまれる価値観みたいなものがよくあらわれていたように思うのです)などの数々だ
私がそのなかでも印象的だったのは、病院から帰宅した浩輔が、妙子が土産に持たせたおかずを温めようとするシーン
浩輔がテーブルに置いたその容器を大事そうに手のひらで包んだ姿があった
これは浩輔の〝エゴ〟が、相手を本当に大切に思う気持ちを積み重ね相手に伝わる温度をもった証し
与えるだけの愛がいつしか龍太と妙子からも与えられる愛になって通じてたことがわかる、自然と溢れるような所作が心を打つ
誰にでもいつか訪れる死
そこへ向かう途中、愛する人に出会う
心が震えるような愛を覚え、相手の現実に寄り添いたいと心底考えるようになる
それは、自分の時間、自分の収入、自分への利益やみかえり…そういったものを天秤にかけずに、まっすぐに相手に差し出したい気持ち
単なる好きだという気持ちを越えて大切におもうことだとおもう
それが通じ合ったとき〝エゴ〟は
もはや〝エゴ〟と呼べない
そしてそこから先にある結果がどうであれ〝代償〟ではなくなるのだ
それどころか、その経験は得たことはかけがえのない意義を人生にもたらすのだと思う
浩輔の〝エゴ〟で始まった関係も、光を遺し、温かい記憶の中できっと生き続けることが、あの時重ねた手や、気心の知れた親友に囲まれる姿から伝わってきてなんだかとても嬉しかった
もう一つ、さりげなく見守り、弱ってるときにはあったかい夕飯を作って泊まっていけと言ってくれる浩輔の父さんの存在の大切さがあることも私たちは知っている
余韻のこる帰路、小学校の教室に先生の習字で「思いやり」って書いてあったのを思い出した
そうだ 世の中を嘆く前に一人一人ができること
家庭、地域、学校…まずは小さな単位に目をむけること
2度目のタイトルがもたらしたように、そこにはかならず〝エゴ〟を越えた温度が伝わる
そして社会は、誰もが平等に自分らしく生きていける権利を、
誰かの生きづらさにさらりと手を差しのべ、目を配れる環境と教育への取り組みを、と切に願う
自分をエゴイストと思っている人は決してエゴイストではない
物語は単純なのに心揺さぶられる圧倒的な展開に思わず涙してしまいました。
以下は、エゴイストのタイトルについての一つの解釈です。
まず結論。利己(我欲)を顧みない全き利他(愛)などありえない。だから、普通それをエゴとは呼ばない。それなのに自らのエゴ(だと思っているもの)を責め続ける浩輔の真摯で痛々しい姿に観るものは心動かし、我々に愛につての観念を揺るがして深い感動を生む。
エゴイストとは誰なのか。まず、思いつくのは、主人公浩輔のエゴ、龍太を引き留めたが故に、結果として無理をさせて彼を死へと追いやってしまったことや、果たせなかった母への償いとしての龍太の母妙子への援助も、自分勝手な思いの押し付けと言えないことはない
しかし、観客にはその思いはあまり共感されないし、映画はそのようには描かれていないと思う。
実際、龍太は浩輔と短くても、これまでになかった幸せな日々を過ごしたのであり、妙子も浩輔によって、(龍太の遺品を処分出来る迄)息子の死を克服出来たかのように見える。
ただひとり物語の中で自分のエゴを一番意識しているのは一人称で語られる浩輔本人なのだ。 だからエゴイストは客観的なものではなく、浩輔の内面にある主観的なものとなる。
劇中何度も浩輔は、 ごめんなさい と謝罪する。
そして亡き母親にストレートに生まれてこなかった事を(龍太が母親に自分がゲイである事を悟られた時と同様に)常に詫びている。
周囲に合わせる事も出来ず、愛する人達からの期待にもこたえられない、その責めは全て自分がゲイであることに帰する。ゲイである自分は自分勝手なエゴイストだという思い。しかし、自分は変えられない。ブランド物の服を鎧と称して自嘲的に強がる姿は、自分をしてさらにその思いを強くさせる。 その悲しみ。
冷静に自分の内面を見つめながらも、浩輔の屈折した思い込みこそがエゴイストでした。
でも作者(或いは監督)の意図は、それを否定することにあった。
今回すでに故人である原作者高山真氏のブログを読んでみた。
お姉言葉の独特の感性で軽快にしかも鋭く日常を語る中に、自己愛についての言及があった。
作者は自己愛に溺れる自分を卑しいと軽蔑しながらも、それをいとおしむ感性を持ち合わせた真摯で内省の人だった。
物語は後半、浩輔は自分の母を妙子に重ね合わせ世話をすることで亡き母への償いをする。
だが、その後ろめたさを感じているからこそ、浩輔は他人から息子かと尋ねられても否定し続けるのだが、最後の最後で妙子に、 えぇ自慢の息子です と答えてもらえる。
この瞬間、浩輔は救われエゴイストではなくなり、物語は終わる。
(2/26 一部加筆しました)
いち当事者として
最近界隈で話題だったし、ドリアン・ロロブリジーダさんが出演することもあって鑑賞。
劇場は9割方女性客ばかりで、逆に浮いてるくらいの状況だった。
ゲイの立場から言えば、本当にリアルというか、日常というか。
子どもも持てない、結婚もできない、
身体の関係とお金の関係が中心だからこそ、
心のどこかで諦めてるし、心のどこかで縋ろうともしてる。
実家との繋がりもどこかギクシャクしたままで、縁談の話になると、仕事が忙しいだの言ってはぐらかすところなんて、自分を見ているかのようだった。
気持ちを繋ぎ止める方法が、お金とかお土産っていう即物的なものになりがちだったり、
体の関係が恋愛に先立ちやすかったり、
「愛がわからないんです。」って台詞は、多くの当事者にとって共感できるものなんだと思う。
エゴイストってタイトルがこんなにも腑に落ちるのはやっぱりいい映画だったからだろう。
見終わった直後は、「愛とは」という命題の答えが与えられたような気がして暖かい気持ちにもなったけれど、色々考えていくとまた違った感情にもなる。
一人称の視点だし、主人公の浩輔のエゴが最終的に「受け取る側が愛だと思えばそれは愛である」という答えに辿り着く物語であることは疑いない。
一方で、恋人の龍太もやっぱりエゴイストで、受け取れないとは言うものの、やっぱり浩輔の資金援助を当てにしていたわけだし、一見過労と思わせる死因だって、本当のところはわからない。もしかしたら病気を隠していたかもしれないし、そういう意味では自分の死期にも気づいていたんじゃないだろうか。母親に浩輔を紹介したのだって、パートナーという事を隠していたわけで、そうなると「何のための紹介なの?」と思えて、自分の死後、母親を助けて欲しいっていう願望が透けているようにも感じる。目論見通り浩輔は母親に資金援助するわけだし。
そして、龍太の母妙子。この人もまごうことなきエゴイストだと思う。本人に全く悪気はないけれども、自分の息子と恋人という2人の青年の人生を搾取し続けた。浩輔にとっては救いであり、自分の行動を肯定してくれる愛に溢れた人物なのは間違いない。でもその一方で嫌な言い方をすれば、他者の善意を当てにして自らの生活を成り立たせてしまう人。病弱で、という設定はあるものの、公的支援するなり、大人としてすべきことを放棄してしまった人に感じる。でもそれは龍太も浩輔も自ら進んで行なっているわけで、それを受け入れるのだって当事者が納得してるんなら周りがとやかく言うことじゃない。それこそゲイバーでの友人の反応のとおり。
登場人物全員がエゴイストで、決して誰かが悪いわけじゃない。各々のエゴが生々しく描かれていくのね。と。
モデルになった人々はもしかしたらもっと純粋なのかもしれない。でも確かに「自伝的小説」ではあるけれど、「自伝」ではないからこそ実在の人物とは切り離して考えるべきなんでしょうね。
それに、作中に現れるチャイコフスキーの悲愴。チャイコフスキー自身も同性愛者という噂もあったこともあり、観終わった今考えるとこの交響曲と構造が一緒なのかも、とも思い始めた。
ともかく、こうやって見終わった後も色々と考えたり気づいたりすることが多く、それだけ「良い映画」だった。
エゴイストの意味
私は漫画や小説ならBLとか同性愛表現は読むのですが、実写のものはあんまり免疫がありません。正直私が観ていいものなのかな…?と思いつつ、鈴木亮平さんの演技がすごい!と聞いて観てみました。
最初のあたりからガッツリ絡みシーンがあるのでビックリしましたが、鈴木亮平さんも宮沢氷魚さんも、完全に恋人同士としてその場に存在していて、とても自然。恋人関係になった2人が幸せそうで、特に浩輔さんの、好きでたまらないのがあふれてる感じが素敵で2人のシーンをずっと観ていたくなるくらい。
タイトルは「エゴイスト」。
浩輔さんの、恋人を自分だけのものにしたくてお金を払ってでも手元に置いたこと。お母さんに自分の母親を重ねて、断られてもお金を渡すこと。それはある意味で利己主義と言われればそうなのかもしれない。
でもお母さんが言ったように、受け取る側が「愛だ」と感じたなら、それは愛なんだと思います。
その言葉が、浩輔さんに届いてよかったと思いました。
幕切れも秀逸。エンドロールで涙が止まらず、喪失感がすごい。けど2人が出会えてよかったんじゃないかと、ある意味幸せを感じます。
鈴木亮平さんがどこかのインタビューで語っていましたが、最初と最後に出てくる「エゴイスト」の印象がまったく変わります。
こういう作品に出会えるから、映画館に行くのはやっぱりやめられない。
日本映画がまた好きになりました。
あの愛の続け方は自分にはできない
恋人そして息子を亡くした二人は互いに支え合っていなければこの先は無かったから?そしていつかはどちらからか手を離す時が来るような⁉︎これをエゴイストと表現したのかなぁ
しかし突然死から回想シーンも無くエンドロールへ何でしょう帰り道でのこの喪失感。
見所は主役2人のセックスシーン
序盤に主役2人のセックスシーンがある。
そのシーンを観て感じた事は、居心地の悪さと微かな違和感。
それは濃厚な性描写を見たから、という理由じゃなくセックス中の2人の「熱」が映像から伝わってこなかったから。
行為自体はかなりしっかりと描写されているのに、そこに相手を心から求める欲情は映されず、美しいんだけどマニュアルを一通りこなしましたって印象だった。特に龍太の方は。
その違和感は作中で浩輔自身も「なんか丁寧すぎるんだよね」と口にしていた気がする。
映画を観ている自分も龍太がどうゆう人間なのか掴めず、途中で浩輔の金を持ち逃げして消えるって展開になるんじゃないかと思ってた。
でも、終盤に突然龍太の死が告げられ、その後龍太がどれほど浩輔を愛していたかが分かる。龍太にとって浩輔がどれだけ大切な存在だったかが。
そこで、序盤のセックスシーンの意味合いが色付けされる。
ウリを生業にしている龍太にとってセックスは「義務」の意味合いが強かったんじゃないか。相手を喜ばせなければならない、満足させなければならない。でも義務感から行うセックスほど虚しい物はない。
龍太は浩輔の事を愛してた。本当に大切に思ってる人とのセックスですら、相手を知る驚きや、繋がれる喜びよりも、こうすれば満足するはずという「仕事」のようなモノになってしまう。
2人のセックスシーンから感じた違和感は、そうゆう龍太の哀しみも監督がそのシーンに折り込み、役者2人がそれを表現したからじゃないかと思う。
いわゆるBLモノの消費されるための性描写ではなく、人物の背景をセリフ以外で伝える映画的なセックスシーンが最近の邦画でどれだけあっただろうと思うと、それを見るだけでも充分鑑賞の価値のある作品だと感じた。
(もし監督に尋ね事ができたら、そんな演出意図は全くないですって言われるかもしれないけど笑)
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