エゴイストのレビュー・感想・評価
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「田端のChupki(チュプキ) TABATAで」
今年120本目。
2月10日公開の映画。この時期に見れて嬉しい。田端で。7月6日は迷ったので自宅から自転車で40分でしたが今日は27分。2月公開だから映画の描写でベランダに出て「寒っ」とか印象的でした。結構大人のBLできわどい演出もあったがそこも好き。2人迫真では言葉が足りない位凄い演技でした。作品が進むとエゴイストが誰なのか、またエゴイストでも時に人間として素晴らしいエゴイストもいる、そこを観客に訴える映画だと思います。
社会的に強いゲイの目線から見ることでぼやけてしまう切実さ
ゲイである自分からすると、製作陣側が用意周到に批判される芽を潰していった感動ポルノというのが率直な感想です。
ゲイの中でも社会的な立場がかなり強い人を物語の主軸に置いたことで、役者のファンやこういった関係性が好きなヘテロ側の人達がこの切実な問題を孕んだ物語をただの「悲しい物語」として消費しやすくしてしまっていると感じました。もちろん、当事者を演じた役者さんが役作りを徹底しているのは理解しています。しかし、当事者の自伝が原作ということを免罪符にこれ以上ヘテロ側の社会システムに対してなんの批評性も生み出さず、ただただ社会的な立場が弱いゲイが死ぬ物語やほっこり日常系BLドラマを生み出し続ける意味とはなんなのでしょうか。
今、沢山存在している中流かそれ以下の生活を送っている中年以上のセクシャルマイノリティの人は今どんな状況に立たされているのか、どんな不安を抱えながら毎日生きているのか、現状の社会システムそのものになにか批評的なスタンスを示さない作品ならばせめてまず龍太みたいな立場の人にフォーカスを当てた物語を作ってほしかった。
涙がとまりませんでした
鈴木亮平さんと宮沢氷魚さんの大ファンで期待大で映画を観ました。
どちらもイケメンさんですね。
私も昔お付き合いした、年下の彼氏との恋愛と少し重なるところがあって途中から涙がとまりませんでした🥲
お互い恋愛が辛くなるくらい好きになることや、お互い好きでも会えなくなることの辛さ、好きな人をずっと好きでい続ける主人公の気持ちとか、切なさがとても伝わってきて素晴らしい演技だったと思います。
最初はちょっと高飛車で自意識高い系のオネエ役とかも大袈裟過ぎるくらい鈴木亮平さんの演技が素敵でした。
宮沢氷魚さんも普通にいそうなイケメンな若いゲイ役、エッチの演技、売り専の演技もリアルで素晴らかったです。
阿川さんや柄本さんやゲイの友達役の方達も自然体の演技で最後までハマってしまいました。
皆さんの演技、人を好きになることの素晴らしさ、切なさとか伝わってくる素晴らしい内容だったと思います。
当事者の感想
単なる同性愛の作品ではなく、愛をテーマにした良い作品でした。与える...
わがままな人
"気持ち悪い"
鑑賞中に抱いていたのはこの感情だった。
でもこれは決してネガティブな感想ではない。
どうして"気持ち悪い"のか?
それはおそらく、あの空気全てが"本物"だったからだ。
セックスシーンが多く生々しいラブストーリーを描く癖に、一丁前に人の死や愛について涙する登場人物たち。
居酒屋では、ゲイたちの飲み会でカメラを回しているような、ドキュメンタリーチックな会話シーン。
少しずつ年老い、少しずつやつれる二人。
悪者はおらず、悲しみや怒りの矛先を誰に向けることもできないまま終わっていく展開。
役者の演技も、カット割も、それを取り巻く美術も、全てが本物だから、ただただその現実を見ているのが、もどかしく、気持ち悪い。
優しさなのか、愛なのか、はたまた執着なのか。
与えても与えても溢れていく大切な者。そこに生まれているのは紛れもなく愛のように思えるが、
あのラストによって、タイトルの意味がようやくわかったような気がした。確かに誰も悪くないし、誰も謝る必要はない。けれどみんなエゴイストなんだ。
エゴ
愛あるところに優しさは生まれる
暖かい気持ちに
LGBTQ映画ではない。
たまたま出会った人と恋に落ちるなんて、よくある話で、でもだんだんと主人公の薄ら暗さが見えてくる。
彼の愛は他人から見たら歪んでいて、エゴで、真っ当に見えないでしょう。
でも真っ当なんて誰が決めたわけでもない。
彼が大切に思う人達にして来たことが、彼の、そしてそれを受け取った2人の何よりも愛だと思った。
主演の鈴木亮平と宮沢氷魚をはじめとする全ての演者さんの演技の細やかさ、口調から仕草や表情の細部までとても丁寧で原作者や彼に関わってきた人たちへの礼儀を感じるところも大変素晴らしかった。
濡れ場の描写も大変丁寧に描かれており驚いたが、この驚いた自分こそ一種の偏見で、解ってる当事者になってるつもりでわかってなかったと気付かされた。
そこが当たり前なのは前提で、その先の人の付き合い方や、人生の向き合い方などを難しく懸命に生きるヒューマンドラマであった。
だからLGBTQなどと括りにとらわれた作品ではない。
エゴイズムは愛に昇華させうるということ
利己的な行動であれ、愛にまで昇華することができる。
人は孤独ではなく、愛する人を作り、家族ですら作ることができうる。
そういう学びがあった。
同時に、これは生活に余裕のある人間にしかできない芸当かもしれないとも思った。
つまり、金銭的・精神的・肉体的な余裕がないと、他人を包摂したり、ましてや人に何かを与えることによってエゴをこの映画のような形で昇華できないのではないかと思った。
その問いに100%答える映画ではなかった気はする。
私はいま日々生きることに追われ、そのような余裕を作り出せていないので、今の状態ではリュウタのポジションで留まるだろう。
つまり、人から与えられるままに生き、お返しのできないうちに死んでいくということだ。
それでも、生きて人と関わる中でその先に何を指向するかによって、人に何かを与えたりそれによりエゴを昇華させ愛に転じさせることが"もしかしたらできるかもしれない"という気持ちにさせてくれた。
ただ、想いはあくまでその瞬間瞬間のエゴであり、エゴのポジティブな昇華は偶然の結果に過ぎず、想いの先にある見返りを期待するものではないと思う。
"エゴの出し方を磨きなさい"という示唆とでも言おうか。
映画からの帰り道、雑踏の中で私が人々を眺める視線は確実に映画を見る前とは変わっていた。そんな余韻があった。
良作でした
前回いただいたさほど好みではないお菓子をやっと食べ終わった頃に、また同じものをくれ、今度はそれがまだ食べきっていないうちに、また同じものをくれるというジレンマはエゴイストにより生じられる。
ふたつの喪失を取り戻す物語
●公式サイトからあらすじ
14 歳で⺟を失い、⽥舎町でゲイである⾃分を隠して鬱屈とした思春期を過ごした浩輔。今は東京の出版社でファッション誌の編集者として働き、仕事が終われば気の置けない友人たちと気ままな時間を過ごしている。そんな彼が出会ったのは、シングルマザーである⺟を⽀えながら暮らす、パーソナルトレーナーの龍太。
自分を守る鎧のようにハイブランドの服に身を包み、気ままながらもどこか虚勢を張って生きている浩輔と、最初は戸惑いながらも浩輔から差し伸べられた救いの手をとった、自分の美しさに無頓着で健気な龍太。惹かれ合った2人は、時に龍太の⺟も交えながら満ち⾜りた時間を重ねていく。亡き⺟への想いを抱えた浩輔にとって、⺟に寄り添う龍太をサポートし、愛し合う時間は幸せなものだった。しかし彼らの前に突然、思いもよらない運命が押し寄せる――。
***
作品の冒頭、母の命日に、故郷に帰った浩輔が幼年期に自分を「オカマ」と罵った、今も地元で暮らしているらしい、よれよれの作業着を着たいじめっ子と横断歩道ですれ違う。
浩輔は、当時のいじめっ子たちを「豚」と呼ぶ。そして、大人になったいま、自らが着る高級ブランドの洋服を「鎧」と称し、無理解の敵から、自分を守ってくれるものだと心の中で呟く。
他方、偏見に満ちた田舎から都会へ飛び出し、同好の士に囲まれ、一定の理解が進むファッション業界で高い収入を得てもなお、浩輔にはどこか隙がなく、幾重もの「鎧」を身に纏っているようにも見受けられる。
鈴木亮平演じる浩輔は少年期にすでに同性愛性向があることを自認したようだ。そして、時同じくして、母を喪う。この多感な時期に、愛することと、愛されることの両方が、身のまわりにある多くのケースと異なっているという自覚が、後のかれに重い「鎧」を着せることになる。
ドキュメンタリー映画のように寄りが多用されたカメラワークが何度も捉えるのは、浩輔が鼻で強く息をする瞬間だ。ため息のような、深呼吸のような、忘れていた呼吸を思い出したかのような、あるいはどこか不浄な白い粉を勢いよく吸い込むときのような刹那、かれはふと鎧を脱ぐ。
表題の「エゴイスト」には、自分本位、利己という意味が充てられる。長い行列をなす人気店に我先にと割り込むその人は文字通りエゴイストである。
では、視力を失った人が星空を見たいと願うことはエゴなのだろうか?幼いころに愛すること、愛されること両方を喪った人が、時を経て、鎧を脱いでも良いと思えるパートナーやその母親と出会い、かれなりの不器用な方法で埋めようとする、どこまでも利他的な情動はエゴなのだろうか。狭いキッチンで阿川佐和子演じる母と、「わがまま」という言葉が飛び交う押し引きの場面は特に象徴的である。
意外な結末でしたね。 途中の歌唱シーンかなり笑いそうになるのを我慢...
何回か見たい
演技と演出がマッチしてるのか
エゴイスト
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