「傑作になり得た秀作、個人的な1点の残念な点」カラオケ行こ! komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
傑作になり得た秀作、個人的な1点の残念な点
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと素晴らしさを秘めた作品だったと思われます。
特に個人的な驚きは、お花畑の森本先生(芳根京子さん)の人物配置でした。
実はお花畑の森本先生は、作品の中盤で、主人公の岡聡実(齋藤潤さん)の声変わりに備えて代役を準備します。
つまり、仮に岡聡実の声変わりが起これば、代役の岡聡実の後輩の和田(後聖人さん)を立てて岡聡実を最後の公演から降ろし、逆に声変わりが影響しなければ和田の方を降ろすという、シビアな備えをお花畑の森本先生がするのです。
即ち、ここで描かれている森本先生は、表面ではお花畑の言動を日頃行っていますが、その根底には(無意識でも)シビアな現実に対しての認識があるということです。
この森本先生の根底に流れる現実のシビアな認識と表面に現れるお花畑の気楽さは、厳しいヤクザの世界を生きている成田狂児(綾野剛さん)のいつも嘘やとぼけた振る舞いにも通じています。
つまり、成田狂児や森本先生などの、現実に対するシビアな認識が根底に流れているからこその表の気楽な態度の人々が、精神的に自立し周りの人々に率直でも誠実な態度を取り続ける主人公の岡聡実を、そしてそれを観ているシビアな現実に生きている映画の観客を、精神的に支え応援しているストーリーになっていると思われました。
それがこの映画を優れた作品にしている大きな要因だと思われました。
しかしだからこそ、最後の主人公・岡聡実が歌うカラオケのシーンでは、岡聡実と成田狂児の回想シーンは要らなかったと、個人的には思われました。
なぜなら最後のカラオケのシーンで観客の心の底に流れるのは、シビアな現実を生きている(映画の中の登場人物を含めた)私達の現実で、決して2人の関係性だけの話ではなかった(だろう)からです。
カラオケシーンの回想シーンによって、残念ながら映画の表現としては(シビアな現実を生きる観客含めた2人以外の他の人物を切り離して)一段浅くなったと個人的には感じました。
このシーンは、歌う岡聡実、ヤクザの組員のそれぞれの表情、部屋の外で岡聡実の歌を聞く成田狂児のカットバックで、十分、シビアな現実に生きる私達を表現できたと思われ、その点でもっと観客を信用して欲しかったと思われました。
その点はマイナスで(私的には)傑作になり損ねた残念感はありましたが、2024年の邦画の秀作の一つであるのは一方で確実だろうとは僭越思われました。