「幾千もの夜を数えて」千夜、一夜 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
幾千もの夜を数えて
夫は生きているのだろうか、この海の向こうのどこかで。それともとっくに死んでいるのだろうか。
拉致されたのだろうか、別に女が出来たのだろうか、何か事件にでも巻き込まれたんだろうか。寄せては返す波の数だけ様々な考えが浮かんでは消えてゆく。
夫が帰ってこなくなって久しい。もはや夫の顔の記憶さえもおぼろげだ。さみしい気持ち、悲しみの感情さえも遠い昔のようなほど月日が過ぎていた。それでも待ち続ける。砂浜に夫の手掛かりとなるものが漂着してないか、漂着船の乗組員から夫の手掛かりを聞き出そうとしたりもした。しかし手掛かりは何も得られない。
もはや夫の顔も思い出せない、にも関わらず夫への思いをつなぎとめるために夫の声をカセットが擦り切れるほど聞き続ける。聞くたびにあの頃に帰った気がする。
自分はなぜ今も待ち続けるのか。夫への義理立てなどというものか、あるいはただきっかけを失っただけか。奈美のようにほかにいい男がいれば乗り換えてもよかったはず。夫への義理立てなどもはや不要なほど時間は経ちすぎている。喪に服してるわけでもない。それとも自分は今も夫を愛しているのか、顔も思い出せなくなるくらいおぼろげな記憶になりつつあるというのに。いまも夫を待ち続ける自分はなんなのだろうか。
離島の港町、人口は少なく皆お互いをよく知った仲。家には鍵もかけない。用があれば扉を開けて声をかける。気心の知れたもの同士、勝手知ったるなんとやらである。
互いのことをよく知ってるだけに気兼ねなく付き合える関係だが、それがありがたくもあり、時には疎ましくもある。プライバシーはほぼない。
夫は行方不明だが、死別したわけでもなく離婚もしていない。憐れな後家さんのように同情の目で見られるのはごめんだ。タイプでもない漁師の春男との縁談を何かと周りが勧めてくるのもありがた迷惑な話である。ダンカンだし。
昔ながらの村社会のような田舎町、そんな田舎町のしがらみに嫌気がさして夫はいなくなったんだろうか。自分との暮らしを捨ててまでこのしがらみから解放されたかったのだろうか。だとすればそんな夫の気持ちは今の自分にはわかる気がする。
人間社会におけるしがらみは何かと面倒である。時に人はそんなしがらみから解放されて自由になりたいがために蒸発するんだろうか。奈美の夫の洋司がそうであったように。
奈美は自分の姿を見てこんなふうにはなりたくないと思ったはずである。ただ何十年も帰らぬ夫を待ち続けるなど自分には到底耐えられないと。
彼女は自分の人生を大切にしたいからこそ過去のしがらみを捨てて別の相手と新たな人生を歩もうとした。
だとすれば自分はなんなのか、ただ自分は夫との過去のしがらみを断ち切ることもできずにここまで来てしまったのか。奈美のように別の男に乗り換える機会もあったはずなのにその機会を失い、ただ惰性でここまで来てしまっただけなのだろうか。
自分とは違いしがらみを断ち切り新たな人生を歩もうとする奈美がうらやましくもあり憎らしくもあった。だから洋司を奈美のもとに連れ帰ったのかもしれない。少しだけ彼女に意地悪をしてやろうと。
彼女はあなたは夢の中にいるのだと、夢の中で旦那さんを待ち続けてるんだと言った。そうかもしれない。夫を思い、過ごした幾千もの夜。これはただの夢で本当は夫は一晩留守にしただけでひょっこり何事もなかったかのように帰ってくるのではないか。幾千もの夜を過ごしたかのようで実は一夜だけの出来事だったのかもしれない。
夫が帰ってきて自分を抱きしめてくれる、あの時と同じように。まるであの時から時間は止まっていたかのように。
今までただ悪い夢を見ていただけで目が覚めれば夫がそこにいる。自分もあの時の若い姿のままだ。だが、自分を抱きしめていたのは夫ではなく奈美の夫の洋司だった。
わたしはもう年を取りすぎた。きっとこれからもこの田舎町でひとり生きていくしかないのだろう。田舎町のしがらみに縛られ、夫への思いに縛られてただ朽ちていくのもいいのかもしれない。
なぜ自分は夫を待ち続けたのだろうか。そこまで愛していたのだろうか、なぜ帰って来ない夫に見切りをつけて新たな人生を踏み出そうとしなかったのか。自分はこの田舎町のしがらみを毛嫌いしながらもそこからは抜け出せなかった。その気になれば島を出て別の人生を歩めたかもしれない。でもそうはしなかった。夫を愛していたからか、あるいは夫を待ち続けることでこの島を出る勇気がなかったことの言い訳にしたかっただけなのではないか。そうだ、自分には勇気がなかったのだ。自分にとってはこの生まれ育った小さな港町だけが生きる世界だったのだ。何のとりえもない自分はここから出る勇気がなかっただけなのだ。
結局自分はこの田舎町から抜け出すこともできず年老いて死んでいくのだろう。ならばせめて夢ぐらい見てもいいではないか。帰ってくるはずもない夫を待ち続けながら。
自分はこれからもそうして夫と過ごした過去のしがらみに縛られて生きてゆくのだろう。それは自分にとっては心地よいものなのかもしれない。