「物語の美しさと身勝手な真実のきびしさ、」プアン 友だちと呼ばせて トールさんの映画レビュー(感想・評価)
物語の美しさと身勝手な真実のきびしさ、
久しぶりに同じ映画を劇場で2回観ました。初回観終わって、ラジオのDJ、カセットテープやカクテルと言った意味ありげでおしゃれな映画的小物の演出や、最後に全てが繋がっていく大団円に圧倒させられて、(いや、むしろ騙されたとも言えるくらい)混乱し何も考えられず、どちらかと言うと分かりやすい娯楽映画ぐらいの印象だったのですが、頭の中で反芻していくうちに、少し引っかかるものがあって、翌日また観ることになりました。
やはり一筋縄ではいかない映画でした。まず、A面ウードと元カノ達の物語が、B面のボスとプリム、ウードの衝撃的な物語の前に色あせて見えますが、B面との対比においてA面はやはり重要なパーツです。A面は二人の主人公の心情に寄り添え安心して味わえる映画的な虚構の物語、陳腐とも言える内容を凝った演出で観客は飽きることなく楽しめたのに、かたやB面に於けるウード、親友を裏切り続けた彼に、観客は感情移入出来なくなります。現実の厳しさを突きつけられて居心地が悪くなります。遠い世界の物語が、突然身の周りで起こりえる身近な現実の世界に引き戻されて、自分が試されているような感情に心がざわつくのです。登場人物のエゴや偏狭、裏切り、嫉妬、幼稚さや弱さ、貧富の差までも容赦なく描きながら、バックの音楽やDJがノスタルジックに夢や希望の人間賛歌を唄う。これはパラドックス、それとも、全てを容認するアジア的(仏教的)諦観なのか。もっと直情的にわかり易く感動的に描くこともできたのに、この監督は複雑で屈折したこの作品を創りました。結果観客は戸惑いモヤモヤしながら、それぞれの経験に則した解釈を試みます。良い映画とは多様な解釈を容認し、監督の意図を超えて広がっていくものですが、僕には混乱するだけで、新たな解釈を加える程の力量はありません。しかし、この映画の大きな可能性はわかります。
この映画のラストではまた、おとぎ話に戻ります。おしゃれな海辺のオープンバーで抒情的に幕を閉じます。そして Nobody Knowsのタイトルバック。
もうひとつ、この映画の重要なキーワードは謝罪。ウードの死を前にした元カノや亡父、ボスへの自分勝手な悔恨の謝罪。ボスの母からのボスへの初めての謝罪、相手は突然のことに戸惑いながらそれぞれの方法でメッセージを返します。このそれぞれの描写はとても印象的でした。
最後にボス、彼はより単純なキャラクターとして描かれます。彼のバーテンダーとしてのシェイクさばきを印象的に描いたシーンは冒頭から何度も登場しますが、僕にはただスタイリッシュな画を狙ったとは思えず、かっこ良さだけではなく、なんとなくダサく泥臭い印象を受けます。これは彼の幼稚さを表すために監督が意図したものなのか。同様に風光明媚なタイ各地の風景、スタイリッシュな構図、ハッとするようなカメラワークがちりばめられているのに、時としてそれが過剰すぎて、ダサく感じてしまう瞬間があるのは、 これもまた監督の作為なのでしょうか。