神々の山嶺(いただき)のレビュー・感想・評価
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こういうアニメだったら観たいな
登山家の映画やドキュメンタリーを観るのが大好きです。それは、自分の生活環境の窮屈さからしばし解放されて自由を感じられるから。登山家のアニメーションを観るのは初めてでしたが、実写とは違った良さがありました。アニメーターの目を通して見た山々は、神々しく繊細なタッチで描かれており、下手な実写よりもいいかもしれないと思いました。
本作は登山をしている活動的なシーンよりも、登山家の感情描写や魂を感じるシーンが多かったです。つまり、作品のメインとなるのは登山家のスピリットなのかと。
自責に駆られて自らロープを切った文太郎。深町を助ける羽生。羽生は死を求めていたのか。
毎秒死を感じるからこそ、生を感じとれる。自由だ、私は生きていると感じる。
彼らは何故山に行くのか?本作を鑑賞すると、そんな疑問は吹き飛んでしまいます。
美しい
原作は夢枕獏の小説。ヤンジャンで連載した際の漫画の作画は谷口ジロー。それをフランスが7年かけてアニメーション映画として制作したのが今回の作品です。
全体的にカサカサ乾燥してて、街中のシーンは日本の湿潤気候は感じません。ツヤとかキラキラとか無い。色味のトーンは抑え気味。物語が昭和なのでわざとレトロにしてるのかな。夏の蝉の鳴き声も日本のアニメとは違う音に感じました。あと、日本人の顔がいかにも「フランス人にはアジア人が皆んなこんな風に見えてるんだろうな」って感じ。
街中も美しいですが、登山のシーンはとにかく素晴らしいの一言。谷口ジローの画力がもんのすん〜〜ごいのですが、やっぱり山を題材にシリアスに展開するなら絵ヂカラ必須。映画版も本当に美しく生命の危険をちゃんと感じるタイトルに恥じない画面でございました…拝。
しっかし、何とシブいアニメなのか。こんな渋くて儲かるのだろうか。こういうの作るとこがフランスっぽいなぁと。
あと、個人的には、ちょっと音楽付け過ぎかなーって感じました。雪山の無音ていうか、怖いくらい静かな感じとか。街中と山中では音の伝わり方が違うので、聞こえ方の違いなどもっと感じたかった。
小説、漫画共に未読なのですが、どうやら映画版はかなり色々なエピソードぶった切りらしく、猛烈読みたい衝動に駆られています。もっとエモい展開になると思って観てたんですが、意外と尻窄み感がありまして…ちょっと物足りないと言えなくもない。製作陣はそもそも同じ方向性でやろうとしてないと思うけど。(リスペクトはとても感じます)
あと、アニメのジャンルは全く違えど、日本アニメーション映画の風景背景の表現力はやっぱ神やな〜と改めて実感しました。単に好みの話なんでしょうか。
「岳」「孤高の人」「岳人列伝」など色々読み比べたいです。
山に挑む者
エベレストの登山困難ルートに無酸素単独で登る男。その男の生涯を記者が追う話。
漫画原作をフランス人がアニメ映画化したもの
壮大な音楽が流れ自然の壮大を感じる。作画は外国人が思う日本人感
自然の力
文太郎くんのシーンは怖かった。登らない人間が始めに感じるのは、なぜそこまでして登り続けるのか、という疑問。きっと死ぬまで終わらないのだろう。闘いなのか、何なのか。人間が耐えられる高度ではないところに自ら挑みにいく。それはなぜ生きるか、という問いと同じようなことだった。
とても自分ではしないようなことに挑戦する一人の人のストーリーや感情が少し疑似体験でき、おもしろかった。世界初登頂や、困難なルートを突破することは本当にすごいことだと思う。だが、これはきっと誰かとの比較や勝負ではないのだ。ただ自然に向かっていく。生かされていることを感じる。
滅びの美学?このアニメはいささかアナクロだね。
文太郎は加藤文太郎さん。
長谷常雄は長谷川恒男さん。
鬼ズラの冬季単独登頂って言えば、長谷川恒男さんたからね。また、アルプス三大北壁冬季単独は長谷川恒男さん。
但し、長谷川恒男さんはエベレスト(その頃はチョモランマ)では亡くなっていないはずだ。
原作は日本の小説と漫画なんだ!フランスなのに日本の事よく知ってるなと思った。長谷川恒男さんとか、今の若者は知らないよね。
このアニメの中でも話しているが、1953年にエベレストに登頂してしまうと、ヨーロッパの登山哲学ががらりと変わった。それで考えられたのがアルパインクライミング(名称は違うかもしれない)と言うものだ。このアニメでそれを語っている。ある意味、目標が達成されたあとの、作られた偉業って事だ。単独とか冬季とか無酸素とかバリエーションルートとか、所謂、屁理屈がいっぱい付く。まぁ、自力で制覇することには意義はあるのだが、そのあとに、国家の威信などと言う物がついて回る事になる。例えば、世界の8000メートル級の全山を制覇した者は、日本人よりも韓国人の方が多い。つまり、韓国の方が登山大国って言えるかもしれない。不思議な話だが、それを聞くと残念な気持ちになるよね。また、日本のお偉い方々もそれには触れたくない様だ。
だからこそ、こう言った偉業は、個人の力と思うべきで、そういう意味で長谷川恒男さんや植村直己さんは凄い人だと思う。つまり、カッコいいのである。
僕も山には良く登ったが、カッコ付けてよく言っていた…『何故山へ登るの?』『気持ちいいから』あっ、僕の登る山は低山ハイクだよー。冬季登山とか岩登りって、単独では相当の覚悟が必要で、当時から社会人や大学の団体に属する必要があり、悪い意味で『学閥』があった。だから、加藤文太郎さんをこよなく尊敬して、単独でハイキングを楽しんだ。言葉を変えれば、ゆるキャンの走り。でも、気持ち良かった。悔いはない。
ヒラリーとテンジンがマロニーと比較されるが、アムンセンに対するスコットと同じだと思う。死んでしまったのだから、ヒラリー卿がヨーロッパで最初にサガルマータに登った人である。そして、ヨーロッパ人のフランスの人達は、マロニーが登ったか登らなかったか?なんて、たいして関心があるわけでない。脱亜入欧の日本人たから、気になるのだ。
追記 アルパインクライミング(名称は違うかも)の正式なルールは知らないが、登頂しても生きて下山できないと、登頂として認められるのかなぁ?
羽生丈二という男
登山家の間では8000mを超える高度をデスゾーンと呼んでいるそうです。気圧が地上の1/3しかないため常に酸欠の危機に晒され、ひとたび天気が崩れれば氷点下のブリザードが吹き荒れる。誰もが極限状態に晒されるため、多くの場合、他人を構い救う余裕などありません。
エベレストでは、今でも100人以上の亡骸がそのままに残されているそうです。
生命は生存を許されず、地上に帰ることすらままならない。
まさに神々の領域です。
夢枕獏の小説を原作とした谷口ジローの漫画を原作としたフランス製作のアニメーションというややこしい映画ですが、原作のエッセンスを抽出して90分でまとめあげた一本道の芯を感じるつくりでした。
しかし結構既読を前提としたつくりを感じましたね。初見の方の反応は気になるとこです。
原作を短く表すなら、まさに羽生丈二という男の生き様であり、山に取り憑かれた男の屈折した感情とその熱量が魅力のひとつであったと思うんです。今作では大胆にも、その熱の部分をバッサリと削ぎ落としたように感じました。
既読組は誰もが期待する「ありったけの心で思え、想え」や、「死んだらゴミだ」等、"美味しい"描写は容赦なくカット。
その代わりに山に挑む者達の姿をより現実的に(漫画や映画のキャラクターから脱却させて)描こうと試みてると感じました。リアルスティックに迫ろうとすれば、当然原作より冷めた印象を受けるかもしれませんが、私はこのまとめ方結構好きですよ。
このスタンスはマロリーの最後の写真の扱いにも大きく出ていたと思います。原作では登頂したマロリーが現像されるドラマチックな展開ですが、映画では結果は示されず、登山家達が様々なルート・方法で登るのをやめない以上、エベレストは未だ未踏頂であるともいえ、彼が過去に登頂していたか否かに大きな意味はないと締めくくります。
※マロリーって誰って方。かの有名な一節「because it's there(そこに山があるから)」の人です
余談ですが、フランスではなぜか谷口ジローが大人気らしいですね。ルーブル美術館とコラボしたり。フランスでは1人で飲食店にいると心配される文化圏だそうですが、潜在的には孤独を求めてたりするんですかね。
渋い、シブいぜ…!
なんと静かでシブい映画か!
偏見入ってるかもだけど、これがフランスで製作されたのかと驚き。
多くを語らない羽生さんの悲哀と登山家としての姿勢がとても良かった。
私は登山しない人間なので、なぜ登山家が命をかけて苦しい思いをしながら山に登るのか、これまで全く理解できなかったのだけど、本作を観て、ほんの少しだけわかった気がする。
「そこに山があるから」という答えは一つの真理で、人は「自分にできるかもしれない」と思うとそれをせずにはいられないのだ。
そして突き詰めるとそこに他人にどう思われるとかは関係なくて自分がそうしたい、せずにはいられないからするのだ。
最終的に羽生さんが誰に認められるためでもなく、エベレストに登り続けたように。
私も自分が山に登れて知識もノウハウもあったら最終的にエベレスト登りたくなるかもしれない、とすら思った(おそらく無理だけど)。
登山家は究極の求道者なのかもしれない。
あと本作は本当に羽生さんたちと一緒に山に登っているような錯覚を起こすほどリアルな描き方をしてるんだけど、山に登っているときは命を繋ぐことが第一になるんだな、と実感した。
そこでは人間関係のいざこざとか、自分の過去とか未来とか、おそらく性欲すら瑣末なことになる。
私たちは普段複雑に色んなことを考えたり、色んな肉体の欲望に振り回されているけれど、極限状況下(特に自然相手)の中では命を繋いで前に進むことが最優先事項になる。孤独ならなおさらだ。そこでは私たちを縛る法律すらも意味をなさなくなる。
とてもシンプルだ。
それって普段この社会の中ではあまりない感覚で、それも山登りの魅力の一つなのかなあと思った。
山好きな人が、わたしみたいな山を知らない人に「なぜ山に登るの?」と聞かれたら本作をすっと差し出して「これ観ればわかるよ」と言えば良いと思う。
そんな説得力のある作品だった。
ラスト、羽生さんはエベレスト下山中に亡くなるけれど、全然哀しみはない。
そこを描く作品ではないからだ。
羽生さんを待たずに比較的淡々と下山する2人が、登山家を、そして羽生さんが求めていたものを理解していることに痺れた。
しかしシブいぜ…!!
潔く、そして深い
谷口ジローの漫画は未読なのでどれほど漫画に忠実なのかはわからないが、原作と比較すると、女性がらみのエピソードを一切廃したことで陳腐になる危険を回避し、アニメながらも潔くシンプルで深みがある作品になったと思う。
マロリー、長谷川恒夫など実在の人物を絡ませ、羽生がそこに生きた人間だと錯覚させる。
マロリーも羽生も深町も、登頂できたかどうかは、わからない。しかし劇中の台詞のように、それはどちらでもいいこと。たとえ登頂していたとしてもしていなくても、彼らはきっと永遠に頂きに挑戦し続けるだろうから。
それは突き詰めていくと死に向かうわけだが、挑戦をやめたときは精神の死を意味するわけで、いずれにしても同じ道に向かっていることだといえるだろう。山に魅せられた者の宿命を、これだけ端的に、哲学的に描いた作品はないのではないか。
ひとことReview!
人間はなぜ危険な登山に挑むのか。それは人間が実現困難な事に挑むから。それが浪漫なのだ。過去に公開された邦画実写版は心理描写が薄かったのだが、今作では上手く描かれていた。ツッコミたい所が色々あるのだが、まぁいいだろう。
それにしても、ここ最近、日本原作の外国映画がポツリポツリと出てきているなぁ。自国のネタが尽きているのではないのか、それが心配だ。
山岳カメラマンの深町誠(VC 堀内賢雄)、彼は日本のエベレスト登山...
山岳カメラマンの深町誠(VC 堀内賢雄)、彼は日本のエベレスト登山隊を取材するためネパールに来ていた。
途中で登攀断念をしたチームとともにネパールの食堂で酒を飲んでいた深町は、怪しい現地人から「英国登山家マロリーの遺品のカメラ」を買わないかと話を持ち掛けられる。
マロリーはエベレスト登山の途中で消息を絶ったかつての山岳家で、もし登攀していれば、マロリーが初登頂者となるのだが・・・
胡散臭い話に乗らなかった深町だが、先ほどの怪しい男の後を付けると、男に絡む中年日本人男性に出くわした。
日本人男性は、現地人男性の持っていたカメラを奪ったが、その日本人男性の顔に深町は覚えがあった。
何年も消息を絶っていた孤高の天才クライマー、羽生丈二(VC 大塚明夫)。
深町は、マロリーのカメラとともに、羽生の過去を深掘りすることにした・・・
といったところからはじまる物語で、謳い文句は「究極の冒険ミステリーが始まる」なので、マロリーのカメラの謎がミステリーのネタなのだろうと思いながらの鑑賞。
なのだが、映画の着地点は、そこにはなかった。
と先にネタバレで申し訳ない。
なぜ羽生が山に登り続けるのか。
それがミステリーのネタといえばネタ。
しかしながら、それさえもタネは明らかにされない。
そりゃそうだ。
ヤマ屋にとっての山は生きていることの証であり、なぜ生きているのかと問われているのと同じだからだ。
たしかに同伴登攀した若い登山家が命を落とすエピソードが描かれるが、その贖罪のようなものというような安易な感動には寄せていかない。
その厳しさが、この映画のいいところです。
日本描写も念入りで、現在において、70年代の日本を再現するはかなり困難が伴う作業だったろうと想像できます。
一部、カタカナ縦書きの看板の長音記号「ー」が縦棒でなく、横棒だったのは残念でしたが。
気になったので、主人公・羽生丈二のモデルとなった人がいるのかしらん、と調べてみたところ、森田勝という登山家がモデルだそう。
羽生に先んじて三大北壁冬季単独登攀をする若い登山家・長谷常雄も登場しますが、こちらは名前からして長谷川恒男。
そういえば、長谷川恒男のグランドジョラス登攀を記録した『北壁に舞う』(1979年)を初公開時に鑑賞しており、「グランドジョラス」の名を聞いて思い出しました。
最近もそうなのですが、一時期、山岳ドキュメンタリー映画がいくつか作られていましたね。
標高8850m。そこは生と死が共存する神々の御許。いざ、狂気と慈悲に満ちた90分のクライミングへ!🗻
伝説の登山家ジョージ・マロリーが遺したというカメラをめぐり、山岳カメラマン・深町と登山家・羽生、2人の運命が交わり合う山岳ミステリー。
夢枕獏が1994〜1997年にかけて連載していた小説を原作に描かれた、谷口ジローによる漫画(2000〜2003)を、フランスがアニメ映画化。
ちなみに、2016年には岡田准一&阿部寛のW主演による実写映画化もされている。
夢枕獏の原作小説は未読、谷口ジローによる漫画版は既読。
実写版は未見であります。
谷口ジローって誰やねん?
そもそも何でフランス🇫🇷で映画化してんねん?
という疑問をお持ちの方のために、少々説明を。
我が故郷、鳥取県は地域振興の一環として「まんが王国とっとり」という活動を県主導で進めています。
「まんが王国」なんて大袈裟ね〜、なんて思われるかもしれませんが、確かに鳥取県は漫画というカルチャーが盛んだったりします。
漫画家や作品の名前を冠した博物館は全国に20ヶ所程度。
そんな中、人口最少県にも拘らず鳥取県には2つも漫画家の博物館が存在しているのであります。
それすなわち「水木しげる記念館」と「青山剛昌ふるさと館」。
『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげると、『名探偵コナン』の青山剛昌。
博物館が作られるのも納得の国内トップ・アーティストの2人。
当然「まんが王国とっとり」もこの方々を主軸に進められています。
県内には鬼太郎やコナンのラッピング電車が走っているので、ファンの方は是非一度お越しください😄
…が、実はもう一人、鳥取県がプッシュしている漫画家が存在しているのです。
それが本作の原作者、谷口ジロー先生!🎉
谷口ジロー先生といえば、よく知られているのはドラマ化もされている『孤独のグルメ』でしょうか。
他にも『遥かな町へ』や『「坊ちゃん」の時代』など、知る人ぞ知る数々の名作を遺した天才漫画家です。
谷口ジロー先生、実は国内での評価よりもむしろ国外、特にフランス語圏内での人気が高い。
2011年にはフランス政府から芸術文化勲章を授与されているし、カルティエやルイ・ヴィトンなど、フランスの有名ファッションブランドの広告イラストなども手掛けている。
「アングレーム国際漫画祭」というヨーロッパ最大の漫画祭でも幾度も受賞。
『神々の山嶺』も2005年に最優秀美術賞を受賞しています(ちなみに、アングレームで最優秀作品賞を受賞した日本人は水木しげる先生のみ。う〜ん、凄い👏)
また、代表作『遥かな町へ』は欧州合作で実写映画化している。
ことほど左様に、国内と国外の評価が完全に逆転しているのが谷口ジロー先生。
このようなフランスでの谷口ジロー人気をふまえれば、何故この漫画が日本ではなくフランスでアニメ映画化したのかがお分かりになるかと思います。
話が大きくズレてしまった💦
映画に話を戻しますが、とにかく本作は漫画のエピソードの取捨選択が上手いっ!
原作は全5巻。長い漫画ではないが、それでも1本の映画にするためにはかなりの分量を削らなければならない。
本作は原作にあった恋愛要素やマロリーのカメラをめぐるいざこざをほとんどカット。
その代わりに、羽生という男の狂気と執着を描くことに専念している。
これは非常に英断。
正直、原作でも恋愛要素邪魔だなぁと思っていたし😅
羽生と深町、2人の人間にのみフォーカスを当てることで、物語の全景が非常に明確なものとなっている。
複雑な人間の心理が描かれている作品であるが、物語がとてもシンプルなので無理なく飲み込むことが出来る。
わずか90分に原作漫画のエッセンスを凝縮し、それを無理のない形で観客に提示する。
このスマートさに痺れます!
舞台は90年代の日本。
海外映画で描かれる日本はスシ・ゲイシャ・フジヤマ的なトンデモないものが多いが、本作は非常にリアリティがある。
湿度の高いジメジメとした日本の空気感、閉塞した東京の街並み、雑然とした居酒屋の内装など、どこをとっても違和感なく受け入れられる。
所々長音符の向きがおかしかったりするけど、そこはご愛嬌ということで…。
下手な国内アニメより、何倍も真に迫った日本描写だったと思います。
谷口ジロー先生の漫画が原作ではあるが、絵柄は全く似ていない。
谷口先生特有の、むせ返るようなダンディズムとハードボイルド感は消え失せ、代わりにフランス語圏の漫画(バンド・デシネ)を思わせるシンプルで平面的、そしてビビッドなカラーリングの、オシャレさを感じさせるデザインとなっている。
こうなったひとつの理由として、やはり谷口先生の濃い絵柄はアニメーションには不向きだということが挙げられると思う。
出来る限りシンプルな絵柄の方が作画が楽だし、丁寧な動きを表現することが出来るのだろう。
またもうひとつの理由としては、単純に谷口先生の絵柄をトレース出来るほどの絵描きがいないということも挙げられると思う。
谷口先生の画力は凄まじい。精緻なデッサン力もさることながら、作品全体に流れる一抹の寂寥感が素晴らしい。
下手に谷口先生の作風を真似しても上手くいかないと踏んで、完全にオリジナルなデザインに踏み切ったのだろう。
谷口先生の絵柄で観たかったという思いもあるものの、個人的には本作のアートデザインはかなり好き。
シンプルなデザインにしたおかげで、アクションシーンのアニメーションも素晴らしかった。
現在、このレベルの作画を見せてくれる国内アニメはほんの一握りでしょうねぇ。
また、谷口先生がバンド・デシネから強い影響を受けているというのはファンの間では常識。
「谷口ジロー」というペンネームも、バンド・デシネ界のレジェンドであるメビウスの本名、ジャン・ジローから拝借したのだと考えられる。
本作の絵柄やカラーリングがいかにもバンド・デシネ的だったのは、むしろ谷口先生へのリスペクトを表した結果だったのかも。
「何故エベレストに登るんですか?」
「だってそこにエベレストがあるんだもん。」
ジョージ・マロリーは生涯で3度のエベレスト登頂に挑戦。3度目のチャレンジ中に命を失った。
上に記したのは、何故命を懸けてまでエベレストに挑戦するのかを質問された時の返答である。
これが日本では「何故登るのか?そこに山があるからだ。」という格言となって伝播していきました。
まぁ実際にマロリーがこの発言をしたのかどうかは不明らしいのですが、命を賭して山に登り続ける「山屋」たちの生き様を端的に表した良い言葉だと思います。
本作中でも、何故羽生が命を賭けた挑戦を続けたのかは謎のまま。
というか、多分羽生本人もわかっていないのだと思う。
羽生の行動原理も、マロリーのカメラの中身も謎のまま。
しかし、本作のエンディングは非常に腑に落ちるものだった。
羽生という男が何をどう思っていたのかは推測するしかないが、どう考えても彼は死に場所を探し求めていた。
本作はひとりの男が自殺するまでの物語、という捉え方も出来るだろう。
しかし、作品には陰鬱さは無く、むしろ一人の男が命を燃やす、熱い物語として成立していた。
「死」を意識する事で、強烈な「生」を実感する。
羽生の生き方は極端ではあるが、この感覚自体は誰もが持っているものだろうし、だからこそ、彼のチャレンジに共感し、胸が熱くなるのだろう。
人生を山に例える、というのもチープだと思うのだが、この作品におけるエベレストは、紛れもなく人の一生のメタファー。
山頂に近づくにつれ、体は重く、精神は疲弊し、孤独さは増してゆく。
そして山頂まで登っても、結局待ち受けるのは争う術もない完璧な「死」のみ。
さらに人生の残酷なところは、深町のように途中で下山出来ないところ。
一度登り始めたら、どんなに状況が悪くても登り続けるしかない。
人間は皆、とてつもなくハードな山を登る「山屋」である。
「何故、あなたは山に登るのですか?」
という問いに対し、明確な答えを提示することができる人間が存在するのか?
明確な回答を持たない人間は、やはりこう答えるしかない。ある意味では逃避として、またある意味では心からの本心として。
「そこに山があるからだ。」
山屋を神の領域へ誘うのは天使か?悪魔か?
谷口ジロー(1947-2017)
鳥取県出身の漫画家
青年向け漫画誌を中心に
ハードボイルドから動物もの
SFまで幅広いジャンルで
連載を続け晩節は「孤独のグルメ」
で認知を更に広げた
大友克洋らのように
もともと「タンタンの冒険」
のようなバンドデシネに影響を受けた
画風でフランスでも人気が
あったという
そんな経緯もあり谷口氏と夢枕獏の
代表作のひとつ「神々の山嶺」が
フランスでアニメ映画化の企画が
持ち上がったのも自然な話で
7年かけて行われた制作の中で
谷口氏はついぞ完成を観る事は
なかった
で今作はどうだったか
アルピニストたちの精神や
山に対する一途かつ複雑な思い
アニメーションの表現力を
存分に生かし非常に印象的な
仕上がりになっていたと思います
話は実在の人物で
1924にエベレスト登頂を目指し
行方不明となった実在の人物
「ジョージ・マロリー」
が愛用していた携帯カメラ
「ベストポケット・コダック」
をカトマンズの現地人に
買わないかと持ち掛けられる
カメラマン深町から始まります
最初は相手にしませんでしたが
その後その男からカメラを奪い返す
大男がおり
それが界隈で名を知られつつも
忽然と姿を消していたクライマー
羽生丈二であることも
すぐ気が付き
思わぬ人物
そのカメラにマロリーが
登頂に成功している証拠があったら
という欲求に深町は駆られます
羽生は才能あるクライマーでありながら
知名度に劣り資金集めが出来ず
海外遠征に行けなかった事で
自分より努力してない連中ばかり
が挑戦に行く事にも不満で
冬の谷川岳の絶壁「鬼スラ」
を制した事で名を上げます
コンビを組む相手の配慮に欠け
自分に憧れていた後輩の文太郎を
事故で失ったことで単独での登攀を
行うようになっていったのでした
一見羽生の人間性に問題があるかの
ように捉えがちですが同じように
山に対する真摯な気持ちや情熱を持つ
相手には心を開いていました
文太郎も最後の最後まで精一杯
助けようとした結果であり
遺族の姉には匿名で仕送りを続ける
など不器用でも思いやりのある男
なのです
深町はそんな羽生の人間性に触れるうち
羽生が単独登頂のあと一つ達成して
いなかった嶺に挑もうとしている事を
突き止めて本人に掛け合うころには
「あんたの単独登頂の証拠を俺が撮る」
ともはや羽生を追う目的が
変わっていたわけです
結局深町は過酷な挑戦についていけず
途中天候の変化で危機を迎えますが
羽生に助けられあと一息の所で
テントを張り続けるかやめるかの選択
そこで心を開いた羽生からマロリーの
遺体とカメラを山頂目前で見つけた
事を明かされますが
深町は羽生が挑戦を続けるのか
やめるのかしか興味がありませんでした
深町は結局そこで断念し下山しますが
羽生は登頂を達成
深町はシェルパと帰りを待ちますが
戻ってくることはなく引き上げる時に
シェルパからこうなったら
羽生に頼まれたと手紙に包まれた
マロリーのカメラを渡されます
その手紙には
「何故山に登るのか。俺にもわからない」
「だがその時に生きているという実感がある」
といった事が綴られており
その時の羽生を追い続けてここまで
来てしまった深町にはその気持ちが
痛いほどよくわかっていたのでした
マロリーが登頂していたかどうかなど
どうでもよくなっていたのです
(1999年にマロリーは遺体が発見され
たそうですがカメラは持っていなかった
そうで漫画版では結末が少し
変えられたとか)
「何故危険を冒してまで登るのか」
「そこに山があるから」
というマロリーの名言は
「そこにエベレストがあるから」
と言うニュアンスだったそうです
危険を冒してもそれをすることで
生を実感する・取りつかれる
という感覚は戦場カメラマンや
F1レーサーでもあるところでしょう
どこか仕事を越えた部分があるはず
フランス人は国民性として
人間の力で自然を制覇する・支配する
という志向が非常に強いと聞きます
だから自動車のエンジンもこだわるし
フランス料理は原形をとどめないほど
加工することを目指している感じです
こうしたテーマで綴られた日本で
創られた話が海外で心を打った
というのはなんとも誇らしい
ところがありますね
衝き動かすもの
登山程、哲学が要求される、又はそう考えること以外赦してくれない行動はないであろう
手指を失っても、又、登山仲間とりわけ若い後輩に死を選ばせてもだ・・・
それをアニメで表現したこと自体、正解だと思う
ドライな画質はあの頃のウォークマンが流行った時代、でも白いソックスのダサさ、男臭さやタバコの煙が鮮やかに表現されている
勿論、実写じゃないのでウェット感がないから却って観やすいかも知れない
原作は小説、漫画とも未読なので、是非読んでみたい、そんな思いを抱かせる作品である
原作愛を感じるが、個人的には解釈不一致
原作漫画の大ファンだった私は、待望の映画化と言うこともあり、公開日翌日には劇場に足を運んでいた。製作している監督、スタッフは存じ上げなかったが、緻密な人物描写や海外製作ながらもしっかりと描かれた日本の風景、リアルなクライミング描写、そして何より息を飲むような美しくも荒々しい山々は特筆すべきものがあります。
ただ、ファンとしてカット・省略されたシーン・描写がやはり気になってしまった。もちろん、壮大な原作を限られた時間のある映画にまとめるためにはある程度仕方ないことであり、例えば深町と女性キャラのエピソードや長谷の山はおそらくカットされるであろうと予想していましたが、羽生のエベレスト敗退は個人的にはカットすべきエピソードではなかったと感じています。グランドジョラス敗退を経てのエベレストへの挑戦は羽生のモデルとなった森田勝(森田勝氏は羽生と同じような運命をたどりながらグランドジョラスの事故で死亡)からの脱却であり、登山界のIFを描くと言う意味でも重要で、羽生がエベレストへ固執する理由を紐解くためにも描くべきだったと感じてしまった。そして、もう一つ気になったのがエベレスト山中で羽生が深町にルートを語るシーン。原作ではなぜイエローバンド経由しないのか?という疑問を口にしてしまった深町は、言わずとも指摘したルートを辿ったことを理解しつつも死地へ追いやった罪悪感に苛まれ、それがラストのシーンへとつながっていくと考えていたのでココに関してもしっかり描いて欲しかったと感じた。あとは、羽生の遺体との対面がなく流れでマロリーのフィルムを手に入れるのも説明不足に思う。
総じて言えることだが作り手の愛を感じつつも、なぜか不足を感じてしまうのはお国柄の違いなのかもなぁと思ってしまいます。そう感じたのは自分のイメージして羽生像との解釈不一致感で、自分の中の羽生像はどこまでも人間臭く、井上(鬼スラのザイルパートナー)に「終わってみれば、おれひとりで登ったようなもん」と言って空気が読めずポカーンとしたり、岸の妹(映画では姉)と慰めあったり、アンツェリンの娘と子供を設けたり……でも映画では孤高の山屋としての羽生が切り取られており、高所登山が日本よりも身近なフランス人にはそんな風に見えていたのかなぁなんて思ってしまいます。
迫力満点のクライミングシーン
夢枕獏原作の小説を谷口ジローが漫画化し、それをフランスでアニメ化した映画でした。Netflixで配信されていたもののようですが、今回劇場でも公開と相成ったようです。原作は日本語、登場人物も多くは日本人ではあるものの、フランスで制作され、いわば逆輸入されていることから、アニメとしてはフランス語が当てられていたようですが、日本公開版はネパール人も含めて日本語が当てられており、字幕を読むという煩わしさを伴わず、映像に集中して気兼ねなく観ることが出来ました。
チラシには「究極の冒険ミステリーが始まる」、「マロリーはエベレスト初登頂に成功したのか?」とありますが、ミステリー要素としてはマロリーのエベレスト初登頂の成否という史実に基づく話とともに、消えた登山家・羽生丈二を探し出すという創作の話が絡み合って進んでいきます。因みにマロリーとは、1924年にエベレスト初登頂を目指しながらも頂上にあと一息で遭難したと言われる登山家で、有名な「何故エベレストに登るのか?」との問いに「そこにエベレストがあるから」と答えたとされる人です。(「そこに山があるから」というのは誤訳だそうだ。)
ただ見せ場はこうした謎を解明する部分というよりは、主人公の山岳カメラマンである深町誠や羽生らが、常人では到底登ることは出来ない岩壁や氷壁を攻める姿にありました。羽生がアクシデントで左手足が使えなくなった際に、右手と口で何とかリカバリーするハラハラドキドキのシーンは、羽生のモデルとなった実在の登山家である森田勝の実話を基にしているそうで、驚きしかありませんでした。
ただ少し疑問に思ったところもあって、終盤に羽生がエベレスト南西壁の無酸素、単独登頂を目指す際に、その姿をカメラに収めようとする深町までもが無酸素で羽生の後を追ったこと。カメラマンとは言え元々登山家だった深町の気持ちが分からなくもないように描かれてはいるものの、あくまで羽生の登頂の記録を撮ることを第一目的とする以上、何故酸素ボンベを持たずに登ったのか、お話とは言え無謀が過ぎるように思えました。
以上、疑問点もありましたが、迫力満点のクライミングシーンはじめ、なかなか見応えのある映画でした。
線も色も少ない中での映像美
日本で実写映画化された際、原作の表記が夢枕獏だけだったのは、失敗じゃなかったのかなあ。谷口ジローの漫画版のクレジットも入れるべきだったんじゃないかなあ。なんてことは置いておいて。本作は堂々と谷口ジローの漫画のアニメ化であった。
スジとしては涼子との関係やネパールでの生活などの割と太いスジが大胆に端折られていた。ほかにもカメラや羽生に出会う序盤の下りとか非常にうまく処理されているなと思った。映像は線や色が多いわけではないが、色調も上品で素晴らしいかった。背景含め日本の町のディテールも過不足なくしかも美しく見ほれた。吹き替えの声優もどなたも素晴らしい仕事だと思う。
それだけに、ストーリーをもう少し長くして気持ちをのせて見せてほしいと思ってしまった。こちらの体調管理の責任だがところどころでうとうとしてしまい、隣席の方にはがたがたして申し訳なかったのだが、もしかしたらスジが単調になった影響だったかもしれない。
天気にもよるが高山からは町で見るよりたくさんの星が見える。谷口ジロー合掌分をおまけして星4個。見て損はまったくありません。
登山家の矛盾
私自身、登山のお話は好きでYouTubeでよく動画を見ていたのでマロリーの話等の前提はある程度分かった状態での観賞。
世界最高峰の山へ挑むということは滑落の危険の他、高山病や凍傷、雪崩や風速数十メートルの突風等の人の命などいとも容易く奪われてしまう超極限の世界へ足を踏み込むということ。
しかしそんな山の魅力に取り憑かれ人生の全てを捧げた男の物語。
登山家羽生丈二、無骨で口が悪く一見冷酷だが面倒見が良く口先だけの人間よりよっぽど信頼できる。
しかし山登りにおいてこの性格はプラスになるとは限らない。1つでも選択を間違えれば命を落としかねない状況で冷徹な判断を下すことができない彼の性格は彼の最期を予兆させる。
世の中には口が達者で山を登るより講演会をしたりクラファンで資金を集める時間の方が長い登山家もいるが、彼に少しでもこのような世渡り上手さがあれば結末は変わっていたかもしれない。
実力を伴わない者が山を登るということがどれだけ危険なことかというのは羽生自身も十分に分かっていただろうが、誰よりも山の魅力に取り憑かれてしまった彼にはその気持ちを無下にすることはできなかったのだろう。文太郎のお姉さんは山についての知識がなく危険性を理解しないまま弟を送り出したのだろう。だが側から見ていると何で連れて行くんだおかしいだろう?とも思ってしまう。これが危険な山に自ら赴く者とそうでない者の違いなのだろうが、文太郎も素人ではないのでもう少ししっかり登山をしている描写があれば違った見方ができたのではとも思った。
そして深町。彼は登山し馴れているとはいえ本業はカメラマン。エベレスト登山に1人で羽生についていけるわけないだろうと観客である私は思ったが、案の定、命の危険に陥り羽生に助けられ途中で下山する。
この行為のせいで、羽生は体力を削られ、登山スケジュールが遅れたことにより天候不順に巻き込まれる。
結局、冒頭に羽生自身が言っていたように1人で登った方が良かったのではないかという結末になってしまうが、彼自身理性では分かっていても山を愛する者を拒むことができない、理屈ではない山の魅力に取り憑かれた男の生き様だった。
この作品で1番引っかかるところは、人物の絵柄はあれで良かったのだろうかということ。山の景色の描写は良かったし山登りの1つ1つの作業が丁寧に描かれていて好感を持てた。
しかし最近のアニメーションのクオリティの高さに見慣れてしまうと、細かければ良いというものではないが、映画館の大きなスクリーンで観るにはちょっと線が少なすぎるというか人物の書き分けも不十分で一瞬誰だか分からない場面もあり、それが終始気になりもう少しどうにかならないかと思った。
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