「自分を肯定してからが本当の人生のはじまり」恋人はアンバー SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
自分を肯定してからが本当の人生のはじまり
ゲイのエディとレズビアンのアンバーが差別を避けるために一時的に恋人のふりをするという話。
この映画を観て思ったのが、なんだかこの話ってエディの私小説みたいだなあ、ということ。
エディとアンバーは一見同じような立場に見えるけど、実は全然違う。
エディは自分自身がゲイであることを恥じており、おかしいと思っており、同性愛が不道徳でおかしいという社会の方が正しいと思っている。どうしても自分自身で自分を肯定することができない。
一方、アンバーはおかしいのはこの町であり、自分はおかしくないんだ、ということにはじめから確信を持っている。
自分自身をどうしても受け入れられず、同性愛を恥ずかしいことだと思っているエディの行動はみっともなく、情けなく、悲しく、混乱していて、人間的な弱さのかたまりのよう。一方、アンバーはたくましく、立派で、頼りがいがある。
この話はエディの成長物語であり、エディの成長にどうアンバーが関わったか、という話になっている。
この話の全体が、まるで大人になったエディが、アンバーとの思い出を回想しているように見える。タイトル(Dating Amber)もそれを思わせる。
原作があるのかと思って調べてみたけど、監督のオリジナル脚本みたいだ。
同性愛者にとって(セクシュアリティ以外でも、出身、宗教、身体的特徴、病気、あらゆる被差別的な存在にとって)、世間に自分自身の正体をカミングアウトすることは重要なことだが、それ以前に、「自分自身で自分自身を受け入れること」はその何倍も難しく、また重要なことだ。
自分で自分を強く肯定することができれば、カミングアウトは必ずしも必要ないのでは、と思う。
映画のクライマックスで、エディが「ぼくはゲイだ」とアンバーに語るシーンがこれほどに泣けるのは、ついにエディが自分自身を肯定できた瞬間だったからだと思う。
映画の舞台である1990年代のアイルランドの田舎がこれほどに同性愛への偏見がひどいかどうか、どこまで映画的な誇張が入っているのかわからないが、なかでも教会の対応については考えさせられた。
アンバーからカミングアウトされたアンバーの母親が神父にそのことを相談したところ、神父が町中の人間にいいふらしてしまった、というシーン。
フィクションではあるが、こうした問題に対して少なくとも教会は助けにならなかった、という一面を表しているのではないか。キリスト教的な道徳観が同性愛差別のそもそもの原因であるので当然といえば当然と思うが、宗教の役割りが国家の秩序維持から個々人の魂の救済に軸足をうつしていく現代において、旧来の道徳観をただ守ることしか考えていない(ようにみえる)既成宗教は怠慢ではないかなあ、などと考えさせられた。
共感ありがとうございます。
深い考察に強く共感しました。既に自己を確立していたアンバーが残る形になったのは皮肉ですね、アンバーは今頃どうしているんだろう?という体だったのかも。
宗教は人類の重要発明の一つだと思ってますが、何にでもバージョンアップは必要ですよね。