あちらにいる鬼のレビュー・感想・評価
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ここまで愛されたら幸せだな
作家とその妻と愛人、よくある三角関係で愛憎渦巻く話かと思ったら、妙に爽やかな感じなのが不思議だ。
おそらくこの妻がなんともいえない雰囲気がある。
浮気ばかり繰り返す夫の尻拭いまでするのだが、これは夫は自分がいないとダメだという自負が支えている気がした。そして愛人も、2人の関係を尊重するからこそ、生きながら死ぬ、出家という選択をするのだ。どちらかが死なないと別れられない、男が死んでしまうのは嫌だ、だから出家する。究極の愛があった。
臨終の床でその2人に看取ってもらうなんて、めちゃ幸せな男だなぁと思った。
瀬戸内寂聴役の寺島しのぶ、素晴らしかった。
鬼のいる間に
瀬戸内寂聴と作家の井上光晴。
不倫関係にあった二人をモデルにした小説の映画化。
驚きなのは、著者は井上光晴の娘で同じく作家の井上荒野。つまりは、親の不倫話を娘が書く。
普通に考えればスキャンダラス。でもただの下世話な暴露話にならなかったのは、監督・廣木隆一と脚本・荒井晴彦の手腕、そして役者の魅力によるものだろう。
あの瀬戸内寂聴を演じる。(正確には寂聴をモデルにしたみはる)
個性的で、波乱万丈の半生を体現しなければならない。相当の難役。
一人の女性としての愛の遍歴、出家に至る覚悟。坊主頭さえ様になる寺島しのぶの好演。
井上光晴をモデルにした白木。妻子ある身でありながら、不倫。しかも堂々と臆する事なく。
よほどの厚顔無恥なのか、自分に正直なのか。
そんな男の色気、ちょいちょいの傲慢さや滑稽さや哀愁を、豊川悦司が滲ませる。
幾度も共演経験がある二人だから出せる絶妙な雰囲気、関係性。
キャストで大金星は、広末涼子だろう。
白木の妻、笙子。良妻賢母。
夫はそんな奥さんを裏切り…いや実は、妻は全てを知っている。夫の不倫、その相手。
全てを知りながら、夫と家庭を続け、時には相手とも会う。
どんな胸中であっただろう。全て容認の懐深さ…だけではなかろう。複雑な胸中も秘めていただろう。妻として、一人の女性として。
離婚するのは簡単。が、自分が選んだ人生を共にすると決めた伴侶。見捨てるんじゃなく、支え、添い遂げる。その覚悟。(何だかいつぞやの、愚夫のあんなゲス浮気があったのにも関わらず、離婚せず添い遂げ続けている佐々木希を彷彿させた)
おそらく主演二人より遥かに難しい役所。それを見事に演じ切った。広末はまだアイドルの時から見ているが、いい女優さんになったなぁ…。
みはると白木の不倫愛だけに留まらない。
二人と、白木の妻。その不思議な関係。
なかなかに理解し難い関係。
だからと言って一概にヘンとは言い切れない。
この3人だけの特別な関係。
こんな言い方が合ってるかどうか分からないが、みはると白木も“健全”な不倫関係ではない。
お互いにお互いだけではなく、白木は他にも女性が。
みはるも同棲しているパートナーが居ながら白木と不倫。ある時知り合った年下の男と関係を持つ。
白木は他の女性と関係したくせに、みはるが他の男と関係したと知るとあからさまに不機嫌に。
どっちもどっち。
それでも元サヤに戻り、関係続けるのは、お互いにとって不可欠な存在。
作家としてのインスピレーション、己の人生への影響。
みはる…即ち寂聴が出家したのも井上の影響と言われている。彼との関係の精算。
自分の人生の大局面に、彼がいた。
本当は不倫という関係ではなく、人生共に添い遂げたかったのだろうか…?
しかし、それは叶わない。あちらには“鬼”がいるから。
自分たちの関係を知りつつも、離婚せず、この関係を続けていく。
寛容なのか、それとも本妻として肝が座っているのか。
一方の笙子もあちらの“鬼”をどう思っていたのか。
言わば、自分から夫を奪った“鬼”。
しかし何故かこの鬼と親交を深めていく。臨終の時も二人で。
この鬼が持つ人を虜にする不思議な魅力なのか、どうしようもないけど愛おしい同じ男を愛した何か共通するものが分かり合えるのか…?
忌み合うより相手を受け入れる。好きにさえなる。
鬼のような強か。
一筋縄ではいかない関係が、男と女!
煩悩を捨てたら、家族になっていた。
普通の不倫が「みはる」の出家によって、家族のような絆に変わる。
瀬戸内寂聴でなければあり得ない、
そんな映画でした。
長内みはる(瀬戸内寂聴=寺島しのぶ)
白木篤郎(井上光晴=豊川悦司)
その妻・白木笙子(広末涼子)
夫と妻と愛人の《三角関係》
そんな平凡な関係が、深い慈しみと人間愛の物語になる。
瀬戸内寂聴さんはテレビや講演などでお馴染みの、サバサバした
愛情溢れるお人柄で、多くの女性から圧倒的な支持を集めた女性です。
私は特別な思い入れはないのですが、
女が剃髪して出家して仏門に入る。
並大抵の覚悟ではありません。
全ての煩悩を捨てる。
まず第一に男を断つ。
それはきっと、みはるが愛し続ければ、白木篤郎の家庭は壊れて、
妻と子供は、夫を父親をなくすことになる。
みはるは出家して寂光となり、笙子の家庭を守ったのでしょうね。
そして荒ぶる心を、悩める女性の応援や啓蒙に尽くして、
瀬戸内寂聴に成長させた。
作家の篤郎役の豊川悦司は、とても優しい魅力的な男性でしたね。
自分のせいで女を捨てて出家するみはるが不憫でならないのです。
剃髪した寂光にかける言葉と眼差し。
妻と鰻を食べながら咽び泣くシーン。
(昔からスクリーンで涙ぐむ男に弱い私です)
トヨエツ、色っぽい!!
寺島しのぶは自らの長い髪をスッパリと剃り落とす。
覚悟を決めて、実際に剃髪したら、新たな次元の演技に
昇華したと言います。
やはり演技に対する向かい方は、寺島しのぶと安藤さくらは別格。
(東西の両横綱と呼ばせてください)
そして夫の小説家・白木篤郎の女遊びを許してまったく怒らない妻役の
広末涼子。
清純な美しさそのまま歳を重ねて、臈たけた女性に変わりました。
「あちらにいる鬼」
みはる側から見たら、笙子が鬼。
笙子側から見たら、みはるが鬼。
母親も妻も、怖いから値打ちがある。
鬼の手の内で転がされてるのが、オトコ!!
この映画の原作を書いたのが井上光晴の娘の井上荒野。
瀬戸内寂聴とは父の死後も親交があったという。
剃髪した後の寺島しのぶは瀬戸内寂聴にしか見えなかった。
余韻の残る映画 鬼は何かを考察してみた
主人公で作家のみはる(寺島しのぶ)が篤郎に出会い、不適切な関係を描いていく物語です。
中盤までは、不倫の肉体関係の描写が多く微妙でしたが、終盤に盛り返した印象が残りました。
結局、「鬼」は「みはるの篤郎に対する恋心」と感じました。出家しても忘れることが出来ない不適切な関係の恋心。
別視点から考えると、「篤郎のみはるに対する恋心」ともとれます。最後の方の篤郎がウナギを食べている時に顔をくしゃくしゃにした涙。
また、笙子にとっても心の中では、みはるが鬼のような存在ともとれますね。
タクシーに乗った時のみはるの涙に心を動かされ、余韻が残りました。
1966年、昭和も40年代に入ったころのこと。 人気女流作家の長内...
1966年、昭和も40年代に入ったころのこと。
人気女流作家の長内みはる(寺島しのぶ)は、地方講先で少し年若い作家・白木篤郎(豊川悦司)と知り合う。
すぐに男女の関係になったふたりだったが、白木は女にだらしない性格で、これまで幾人の女性と男女の仲になり、相手を自殺に追い込むこともあったが、本人には、それはそれでしかたがないこと、といった風情。
白木には妻も子どももあるのだが・・・
さて、一方、白木の妻・笙子(広末涼子)もそんな夫の行状は知り尽くしているが、かといってことを荒げるわけでもない。
どうしようもない白木を挟んで、奇妙な三角関係ができるのだが・・・
といった物語で、荒井晴彦が得意とするダメダメ男を中心とした男女の別れるも離れるもできない物語で、とにかく白木のダメっぷりが常軌を逸している。
常軌を逸している(常識の範囲に収まらない)描写は、白木がはじめて長内の自宅を訪れるシーンで描かれており、長内の内縁の夫がいない隙に上がり、応接間の椅子で諾も得ず靴下を脱ぐところに描かれている。
このあたり、荒井晴彦の脚本に書かれているのだろうが、ダメっぷりの行動として、秀逸である。
さらに、演じる豊川悦司も、もうダメ男ぶりが板についてきたようで、あぁ、ダメ男ぉ、とため息が出てしまいます。
それに惹かれる長内も、いわば肉食艶食系なので、ふたりの与太話は馬鹿らしくなってしまいます。
寺島しのぶも7,結構、グズグズ煮崩れた豆腐みたいな役も多いしね。
とはいえ、これが馬鹿らしくアホらしくみえることが男女関係を描く上では重要なのでよろしいんですが・・・
さすがにふたりの描写が続くと辟易です。
で、この映画の見どころは、そんなふたりではなく、白木の妻・笙子。
そんなダメダメ夫の行状はすべて知りつつも、どうにもこうにもこの男でないとダメ、という感じ出ています。
うまく分析できないのですが、白木のことをかわいいと思っているのか、かわいそうとおもっているのか、才能を利用しようと思っているのか、よくわからないところが面白い。
そんな白木の妻からみれば、長内も戦友、仲間、同じ穴のなんとか、とみているのかもしれず、それ故に、嫉妬の炎を燃やすシーンが興味深いです。
(白木から長内が出家すると聞かされた場面、白木の臨終直前に長内が彼に声をかけて手を握り返された後の場面など)
白木の妻がいるお陰で映画に奥行きが出ました。
だって、いないと『愛の流刑地』になっちゃいますものねぇ。
なげーよ!
広末涼子の井上光晴の妻役がすごいカッコ良いのだが、よく考えればお嬢さんの荒野さんが原作の映画。そりゃ、母親をカッコ良く書くよなあ。と納得。寺島しのぶが粘着力ある脂っこい演技で、観る者に疲労感を与える。それにしても、ド左翼の井上光晴は下半身に人格ナシだなあ。驚いた。
映画的には無駄と思われるエピソードやシーンが多く、139分も使うことはないだろうに。新宿で中核ヘルの学生カップルが、ゴールデン街っぽい店に逃げ込んでくるシーンなど、唐突でまったく不要。背景を描くエピソードとしても手法は愚劣。井上の講演の語り部分や、初恋エピソードも不要だろう。脚本の段階で整理ができていないのか、思い入れすぎて観客を置いてけぼりにして、盛り込み過多となったのか。ともあれ、120分以下にして、リズムやテンポを重視していってほしかった。商業映画なんだから。
3つの深さを受け入れている妻役の広末涼子に涙
男と女というもの自体の深淵さ。巻き込まれたら終わりだ。
そして男への愛情の深さ。男の女遊びを受け入れる懐の深さ。
この3つ全てを兼ね備えていたのが広末涼子演じる妻だ。
夫のことも知っている編集者との情事が失敗した後のてんとう虫のサンバを歌うシーン以降は涙が止まらない。
広末涼子も豊川悦司も寺島しのぶも達者なので惹き込まれなんとも言えない感情に追い込まれる。
夫の死期が近づいた時に、夫の浮気相手を男の死を間近にして呼んであげる懐の深さ。
それなのに自分の名前を連呼して手を繋いで反応したと言うことでマウントを取る瀬戸内寂聴の鬼のような業。
勝った!勝ったのだ。タクシーで帰っていく時の涙は愛する男が亡くなった悲しみだけでは無い。妻に勝った涙なのだ。
出家したことで自分のことは浮名を流した他の雑魚な女たちとは違うと男に印象づけたあたりから鬼が見え隠れする。
瀬戸内寂聴自身もとことん愛情深く簡単に別れられないから出家を選んだのだと思うが、懐は広くない。
だから出家した後もマウントを取ってしまうのだ。
男と女の深遠さには巻き込まれずに生きていく人も生涯未婚率の高まっている今の時代は多いかもしれない。
しかし、仮に巻き込まれてしまったとしたら!
自分ならどうだろう。
愛情が深すぎて耐えきれず壊れるか男の元を去るしかない。
懐深く受け止める心の深さはない。
だからこそ広末涼子のてんとう虫のサンバのところから菩薩のような姿に涙が止まらなくなったのだろう。
世界一まずいしょっぱい涙の鰻を食べるシーンは胸がえぐり取られるように痛かった。
それと共に俳優の演技のうまさが際立って見えた。
子どもには見せては行けない男と女の深遠な世界。
ゆえに表向きは平穏に生きていかねばならない。
されど男という生き物が妻に飽きないなんてことはありえないうことからも、このようなことはほとんどの場合、おこりうるのだ。
だから女たちは振り回されて悲しいのだ。
罪作りな男はそのことを知らない。
大抵の場合全部バレていて懐深く受け止めて貰っていることも知らずに先に死んでいくのだろう。
夫は妻に嘘をいう。妻はいつも知っていた。
夫・白木の死に際でさえ、妻・笙子は愛人・みはるを呼び会わせる。
すでに出家した身のみはるの声に反応して手を握りかえす白木。
目の前でそれを見る笙子は今までそうしてきたように冷静で取り乱したりしない。
最後とわかってる時間に二人で白木の片足ずつをさすり、片手ずつをにぎる。
そんなことができる笙子こそまるで仏様の境地だと思うが、夫が亡くなった後に病院の屋上でひとりたばこをふかし、しゃがみこみ慟哭のなみだにむせぶシーンがある。
これが彼女の複雑な思いがいちばんさらけ出されたところだと思う。
奔放な夫の傍らで最後まで周囲に貫き通した寛容でしとやかな妻の姿。
それは笙子のプライドの保ち方であり、おそらく二人のこどもたちに見せ続けたかった母としての深い愛情だったのではないか。
白木は自身の我儘さを理解しつつ妻のプライドの高さでそれをクリアできることを知っていたと思う。そして嘘や言い訳の数々を並べる間にも知らぬふりをしてくれる妻を自分への愛の深さと解釈し悪気もなく、妻への愛しさは無くすこともないまま、次々と不倫を重ねた。
経験を作品に昇華させていくような芸術家気質がさせる技?かもしれないが、自分にあてはめればやっぱり私はどの立場も共感はできないが、そんな人は居ると思うのだ。
みはるが出家する意を白木に告げ、
「生きたまま殺した」のは「あなた」だと言ったが、ごもっとも。しかも妻に加え2人目のことですよと黒子になって後ろから追加して言いたいくらいである。
そしてその点、みはるも白木と変わらない。同罪だ。
2人目の子の臨月が来ようと気にせずの逢瀬、すべて察してひとりで越えていく笙子。
これはとっくの前から笙子を精神的に出家させてしまってるのと同義だろう。
しかし、だ。
仏の妻もまた夫を裏切る行為を仕掛ける。
これは意外だった。
この時の、いうなれば見せかけの不倫。
笙子か夫と共にかかわりのある身近な人を相手に選んでいる点に背徳感の高さを感じる。つまり、このあたりは笙子も心のバランスをとるためのぎりぎりの境地にきていたのではと思う。なので未遂だろうが、なかろうが関係ない。
笙子は自分が仕掛けた点に最大の意味を持たせ、白木の妻として存在するために自分の内側で解決するだけ、それで十分だったのだとおもう。
みはるの出家にあたり、剃毛の式の日に白木に行くべきだとすすめた笙子。
区切りをその目で確かめ、その心で味わいなさいという意味だったのかもとおもったのはこのシーン。
ビジネスホテルなどには泊まっていない白木が酒に浸る夜の畳の部屋。
みさきが会いにくる。緊張感が走る。
去り際に白木にそっと抱きしめられながら、確かにあった過去の愛と、抑えている白木の今の愛をみさきは受け取りにきたのだろう。
白木にとってはそれまでとは違う線がはっきりひかれたみはるとの距離を実感した一瞬だっただろう。
笙子は多分そこまでのシナリオを計算していたのではないか。
揺れながら自分のプライドと2人の子を自分のやり方で守りきった母と父の愛人という女二人。
父という呆れる程愛にストレートな生き方の男。
大人になって俯瞰で眺める当時は5歳だった作者が
今はもうここにいない、
あちら側にいる魂の濃さ沸る生き様だった鬼たちの姿を、昭和という時代背景にのせ、ある種の羨ましさに母への最大の敬意と感謝を込めて描きたかったのだろう。
とは言え、暮らしのなかに見え隠れしていただろう事。母に守られようとも、こどもながらに不安を感じることがあったはず。それに対して潔くめそめそしたままではなく表現しきる強さに変えたたのはさすがだと思う。
そう…
父と愛人は、いちばん凛々しかった私の母の手のひらで転がされていたのよ。
と作者にささやかれた気がした作品でした。
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