「「鬼手仏心」、いや「鬼心仏手」か。」あちらにいる鬼 ジュン一さんの映画レビュー(感想・評価)
「鬼手仏心」、いや「鬼心仏手」か。
居るよなぁ、
特定の女性層を磁石のように引き付けるこの種の男性って。
この磁石はN極・S極のように更に二つの属性に分けられ、
片方はそれに気づかず、却って周囲をやきもきさせるタイプ、
もう片方は自己の魅力を判っていて、都合良く利用するタイプ。
本作の主人公『白木篤郎』が後者の好例。
虚言癖もあり、更に二重三重に不倫を重ねても罪悪感さえ持たず、
相手の自殺未遂にも感情を動かされることは無い。
あまつさえその後始末に妻をよこすくらいに。
加えて、自分の所有物と見做している間は、
著しく独占欲も強くなる。
一個の人間として見た時に、
まさに「クズ」と表現したくなるほど。
しかし、こうした男に限って
抜きんでた才能を持っており、彼の場合は小説の才。
そしてその魔性に魅せられてしまったのが『長内みはる』。
『篤郎』が妻帯者で娘もあることも知りながら
ずぶずぶと道ならぬ恋に溺れて行く。
本編は、そんな二人の馴れ初めから、
『篤郎』が亡くなるまでの約三十年を
時系列に沿って描いたもの。
中途、『みはる』の出家仏門入りにより、
肉体関係は清算されるものの、おそらく精神的な繋がりは、
彼の死まで続いたのだろう。
人は誰でも心の中に鬼が済んでいると言う。
鬼心が表出する・しないは夫々も、
自身では押し殺していて、傍目にはそう見えなくても
鬼をおさえきれない場合がある。
『篤郎』の妻『笙子』のケースがそれにあたるか。
不倫相手との清算を任され、
読みにくい原稿の清書をし、時としてゴーストライターともなる。
夫が何処で何をしているかを知っていながら、
けして離婚しようとはせず、
お釈迦様の掌上の『孫悟空』のように夫をあしらう。
しかし時として、やるせない感情が溢れ出す時があり、
そこはやはり人間らしさの体現なのだろう。
三人の主人公を演じる、『寺島しのぶ』『豊川悦司』『広末涼子』が
何れも出色。
その技量に頼った監督は、意図的に顔のアップの場面を多くし、
感情の動きを微細な変化で見せる。
時としての長回しにも十分に対応できる力量が
三人皆々素晴らしい。
わけても今回は、実際に髪を下ろしてまで取り組んだ『寺島しのぶ』の役作りに
女優としての意気を感じる。
〔キャタピラー(2010年)〕や〔ヴァイブレータ(2003年)〕にも驚かされたが
違う意味でカラダを張った彼女の凄みを改めて思い知る。
実際の『井上光晴』がどのような人物だったかは知らぬが、
今回演じた『豊川悦司』は同性から見ても随分と魅力的。
身勝手なのに変に憎めず、
女性の心理を読むことにたけている奔放な男を
軽々とモノしてみせる。
もっとも、身近にこんな人物が居たら、
世の男共は気が気ではなかろうが。