チャイコフスキーの妻のレビュー・感想・評価
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ずっとあなたをお慕いしています
19世紀後半のロシア、作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー( オーディン・ランド・ビロン )に、かねてから想いを寄せていたアントニーナ( アリョーナ・ミハイロワ )が手紙を送る。
滑らかな陶器のようなロシア出身のアリョーナ・ミハイロワが美しい。彼女が演じるアントニーナが、夫チャイコフスキーに対する報われない愛に、精神的に追い詰められていく姿が痛ましい。
終始シックな色合いでまとめられた映像が切なくも美しい。
映画館での鑑賞
チャイコフスキーの結婚した前後の気持ちの描写がなかったのが残念 ア...
チャイコフスキーの結婚した前後の気持ちの描写がなかったのが残念
アントニーナが随分変わっている人というのは分かったが、それ以外に何がそうさせたのか、抑圧的な社会のせいもあるのか
監督はスリラーやりたかったみたいだが動機がわからず、史実と食い違うとダメなのか今一つ腑に落ちなかった
愛は盲目の狂気か
私はチャイコフスキーの妻よ!とキレ散らかしてからの彼女の見える世界はゲイ発狂乱舞過ぎた
歴史に名を残す芸術家からみたら鬱陶しい蠅のような存在だったのか
それとも蠅って悪魔や死を予感させる象徴だから家に招かれて、たかられた時点でってことなのか
クリノリン、バッスルスタイル、式の衣装替え、コルセットの紐をほどくシーンなど衣装全般は凄い良かった
ヴィクトリアンスタイル好き
【女性に興味が無かったチャイコフスキーに恋い焦がれ、漸く結婚したアントニーナの視点で描く物凄い憎悪、嫉妬、執念渦巻く破綻した結婚生活を描いた作品。妻有る者には、色々な意味で怖いです・・。】
■アントニーナ(アリョーナ・ミハイロワ)は、チャイコフスキーに恋い焦がれ最初は拒絶されるも、二度目でプロポーズされる。
だが、その後僅か六週間で結婚生活は破綻し別居するが、アントニーナはチャイコフスキーからの離婚請求に、一切応じないのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・ご存じの通り、アントニーナは悪妻で有名であるが、今作はキリル・セレブレンニコフ監督が近年の研究を参考にしながらアントニーナの視点で、チャイコフスキーとの破綻した夫婦関係を描いた作品である。
・冒頭、アントニーナが初めて自室にチャイコフスキーを部屋に招いた時に、蠅がブンブン飛んでいる。そして、最後には、チャイコフスキーの額に止まるのである。ラストのシーンと連動しているし、二人の結婚生活の行く末を暗示しているようである。
・チャイコフスキーから”顔も観たくない。”とまで書かれた手紙を受け取り、更には彼の関係者の男達から執拗に離婚を迫られるも、彼女は頑ななまでに書面にサインをしない。しないったらしないのである。
・男達の執拗さは、アントニーナの住まいに男五人を連れ込み、わざわざ全裸にさせて品定めさせるというトンデモナイ状況まで設定するのである。
だが、アントニーナは一人一人の男の匂いを嗅ぎ、一人の男の一物をギュッと掴んでから席を外すのである。凄いなあ。
・その割に、アントニーナは自身の弁護士と事に及び、2子を設けるも二人とも施設に入れる。この頃からアントニーナは精神の均衡を失っていたのではないかな。
・アントニーナは毎月、チャイコフスキーから金を受け取るも、一括では貰わない。じわじわとチャイコフスキーを心理的に追い詰めつつ、時にはお手製のシャツを金を持参する男を介してプレゼントしたりする。うーむ。怖いなあ。
・そして、アントニーナはチャイコフスキーのコンサートに出かけ、終わった後に赤いドレスを纏って”良かったわ。けれども私と出会った時の曲に比べると、駄目ね。”と宣うのである。チャイコフスキーはその言葉を聞き”蛇のようだ。”と呟くのである。
<別居して数十年が経ち、精神を病んでいると思われるアントニーナは”頭の中で蠅が五月蠅いの。”と呟き乍ら、全裸の男達が激しく踊る中(彼女の妄想であろう。)部屋に佇むのである。
そして、外に出てチャイコフスキーの死を伝える新聞をひったくり、雨の中立ち尽くすのである。
今作は、キリル・セレブレンニコフ監督が、近年の研究を参考にしながら悪妻として有名であるアントニーナの視点で、チャイコフスキーとの破綻した夫婦関係を描いた怖い作品である。>
<2024年10月14日 刈谷日劇にて鑑賞>
世紀の悪妻ではないとの解釈
夫の性的指向はさて置き自らの欲求のままに突き進むアントニーナ、他者から狂気的で戦慄を感じられながらも本人は全身で自由に生きていたんですね
主演ミハイロワさん、美しい人でした
男性ダンサーにはアントニーナとチャイコフスキーの空間にある幻想?妄想?の世界観と見ました
ラヴェルの映画を見たので、こっちも見てみようか、とあまり考えもせ...
ラヴェルの映画を見たので、こっちも見てみようか、とあまり考えもせず、事前情報無しで鑑賞。
チャイコフスキーは、熱烈な求愛を受けて若い妻と結婚したものの、直ぐにその結構生活は破綻した、と、レコードだったかCDだったかの解説に書いてあった知識しかなかったが、概ねその通りのストーリー。主役はチャイコフスキーではなく、妻のアントニーナの方なので、チャイコフスキーの作曲家らしいシーンは皆無に近い。これを少しでも期待していると肩透かしどころではないだろう。
ロシア映画は、地べたばかり映していて、陰鬱で暗い、という評価を昔何かで読んだことがあるが、まったくその通りの映画だった。
空が映ったシーンは記憶にないし、ほぼ常に曇り空か雨か雪が降っている。(雰囲気ではなく)画面が明るいシーンは、アントニーナの妄想で雪の墓地で記念撮影しているシーンくらいか。
どちらが悪いとも言い難いが、時代背景を考えてもチャイコフスキーが悪いとなるんだろう。アントニーナがどうしてそこまでチャイコフスキーに入れ込むようになったかが、いまいちうまく描写されていない感じで、そこは規定事実です、という風に話が進むので、感情移入も何もなかった。唯一私が哀れだと思ったのは、アントニーナの弁護士だろうか。
まあしかし、裸のマッチョな男が大勢登場すると、皆ゲイにしか見えない。ヴィレッジ・ピープルとか、ボーイズ・タウン・ギャングのあの曲で、ボーカルの女性の脇で踊る二人の男性とか頭に浮かんで、思わず笑ってしまった。深刻なシーンなんだろうけど。
かみあわない愛の矢印
ピョートル・チャイコフスキーの結婚生活を、妻アントニーナの視点から描く物語。
ビビビときたチャイコフスキーにのめりこんで結婚へこぎつけ、彼に拒絶されても「愛しているのに別れるのはおかしい」の一点張りで妻の座を固持し続けたアントニーナの執念を、不気味で奇妙な愛として描いている。
出会いから猛アタックする時期のアントニーナは初恋にのぼせ上がる少女のようだが、徐々にその像が崩れて幻想や妄想のようなシーンが増えるうち、冒頭のショッキングな葬儀のくだりも含め、本編が俯瞰の第三者視点ではなくアントニーナの記憶や主観を再現しているような印象を受けた。物理的・心理的にチャイコフスキーが関わらない空間の妙にがらんとした描写は、彼がいない場所=どうでもいい場所ということを表していたのかも知れない。
映画の紹介文ではアントニーナが悪妻と呼ばれたことが強調されていたが、文化芸術の偉人達にも我々一般人の生活でも今昔を問わずもっと強烈な悪妻や良識を超えた夫婦関係が存在するので、正直アントニーナを悪妻と呼ぶには物足りないような気がした。
劇中ではチャイコフスキーの代理人達がアントニーナこそチャイコフスキーのストレスの根源であると主張していたが、結婚前も結婚後も恋多き男で恋路に舞い上がったり激昂したりガチ凹みしたりが絶えなかったチャイコフスキーの情緒を考えると、彼らの主張は正直眉唾に思えた。結婚の報告を聞いた友人の驚きようを見るに、本作でもその人物像は採用されているのだろう。
アントニーナの「え?今、話聞いてた?」とツッこみたくなる強靭なスルースキルは不気味でもあるのだが、別居してしまえば公衆の面前で妻の座を振りかざすわけでもなし、婚外子に夫の財産を使うこともせず、『プロ彼女』ならぬ『プロ夫人』として体裁のための婚姻には適した振舞いのようにも思える。
ただ、アントニーナとの結婚はチャイコフスキーが専業音楽家として独立しようとする時期でもあり、独立のストレスと新生活のストレス、特に創作の空間に生活感を持ち込まれたり、お気に入りの使用人との暮らしに家の女主人が混ざる事態は、神経質なチャイコフスキーにとって苦痛だったことは想像に難くない。性愛の対象でない人物に襲われる恐怖も、十分絶縁する理由になり得る。問題が片付かないからこそ、目の上のコブのように意識に纏わりつき続けることもあるだろう。
また劇中、当時の社会において女性は誰かの妻でなければまともに生きられず、未婚女性や未亡人、夫の関心を失った妻が実家の隅や路上で朽ちていく様が繰り返し描写され、これがアントニーナの執着の背景の一つとして示唆されている。
二人の最後の対面でチャイコフスキーがアントニーナのベールを使って彼女を拒絶するシーンは、ゾクっとする凄味があった。全裸の名もなき男達が度々登場するのが何ともシュールだが、アントニーナにとってチャイコフスキー以外の男は弁護士も含め皆モブだったということなのだろう。
チャイコフスキーとアントニーナ、どちらかへ極端に肩入れすることなく破綻した夫婦関係をじっとりと描いており、結婚に夢を見る人や家庭を持っていることをを社会的信用の材料と考える人には不快な物語だっただろう。2人とも他者よりも自分自身や自分の理想を愛するタイプだったように見え、どっちもどっちのような気がしなくもない夫婦の騒動だった。
愛するだけで愛し合うことを知らないアントニーナ、多数の若者達を渡り歩いたチャイコフスキー、対照的なようで似たところもある愛の生涯ではなかろうか。
結局どっちが悪いのか
クラシック界三大悪妻の1人という事で興味を持ち鑑賞。チャイコフスキーが同性愛者(そうだったんだ)と知りつつ結婚したものの、普通の夫婦でありたいという熱情に逆らえず、結果夫には激しく疎んじられ、心のバランスを失った妻は長きに渡って夫に金をせびりながら放蕩生活を送るという、「うーんどっちのせいなのか」と腕を組んでしまうストーリー。悪妻と言えども三分の理ありと言うのが作者の主張なのだろう。
期待していたメジャーどころの美しい楽曲達はほとんど作中に流れず、帝政末期のロシアの寒々しい光景が映画の陰惨さを増幅させていた。唯一美しさを感じるのは他の男との私生児3人とチャイコフスキーとで家族写真を撮る妄想のシーン。これが彼女の思い描いた理想の結末だったという事なのかな。
それにしてもボカシなしのスッポンポン男子の群舞は何を意味するのか。精神が崩壊しつつあるアントニーナの心象風景なのか、本当にあのように男を品定めしていたのか、はたまた監督(この人も同性愛者らしい)の趣味画像なのか。この辺り耽美派を自認する知人にぜひ見解を聞いてみたいものである。凡人としては銭湯にいるみたいな気分になってついつい色々比較しちゃったよ。
見続けるべき理由を見出すことは難しかった。
チャイコフスキーは指揮をする姿も、ピアノを弾くところも見せず、演奏会やオペラの場面もなかった。彼の妻からは、四季のピアノ演奏が聞けたのみ。音楽について、喜びが得られなかったから。
ただ、映画が終わった時、ロダンの共同制作者であったカミーユ・クローデルのことが思い出され、作曲家の妻アントニーナは、かわいそうだと思った。ニコライ・ルビンシテインの仲介場面などは、史実に近いのだろうけれど、チャイコフスキーとアントニーナの交流についての第3者からの一次資料は限られている。この映画のストーリーは、脚本を書き、監督を務めた鬼才キリル・セレブレンニコフの創作によるものだろう。
実際、神の前で結婚を誓った二人は、僅か6週間同居しただけだった。如何に、アントニーナが感情的に未熟な女性であったとしても、当時の女性の地位が極めて低かったことを考えると、チャイコフスキーにも責任はあったと思う。
初めて目にしたロシア正教の儀式には、驚かされた。地にひれ伏す礼拝は、イスラム教を思わせた。極めて強いキリスト教を背景に、少数の男性たちが帝政の下、実権を握っていた当時のロシア。
アントニーナが、何かの才能に特別、恵まれていたことは聞いたことがなく、チャイコフスキーも結婚さえしてしまえば何とかなると思ったに違いないが。
実は これ よくある夫婦の姿かもしれない
チャイコフスキーが同性愛者であったかどうかは別にしても
「苗字が一緒の他人という夫婦」について、
あの台詞、どう思いました?
そういう男たちもいるし、=実はけっこうたくさんいるだろうし、そしてもちろん
そういう妻たちもいて、これ=「苗字が一緒の他人」という関係は、けっこう世の中にありふれている結婚の姿なのではないだろうか?
「家庭内別居」「元気で留守がいい」「離婚しないのが結婚」「夫の退職と在宅同居への毛嫌い」・・と、名ばかりの結婚を続けて、推しのアイドルに身も心も捧げている妻たちは大勢だ。
同時に、
妻のためには身も心も捧げないで、自分都合で、「ただの慣習」や「社会的地位確保のための」、「便宜上の結婚」を選び、そして仕事を理由に配偶者を放置・虐待している男たちも、きっとわんさかいるだろう。
あのピョートル・イリイチ・チャイコフスキー氏と まったく同じにだ。
・ ・
アントニーナ・チャイコフスキー。
ロシアの「押しかけ女房」のお話ではあったけれど、
この映画は、日本の男社会においても、そして、自分の家でも、あんまり変わらない実態なんだよなーと気付けないのなら、僕らこそメンヘラなのであって、せっかくのこの映画も猫に小判だ。
「大切にされたかった」。
「体の欲求も本当に満たされたかった」。
のだと、
ひとりの女アントニーナの心象をみごとに表す、あの最後の「前衛ダンス」。あれは悲しくて、そしてもの凄く良い演出だったと思う。
( 裸の男たちも周りで踊っていたが、そんなもの一切目にはいらぬほど僕はアントニーナの踊りに釘付けだった )。
それまでの画面での、1800年代終盤の、封建社会の、抑圧されて押し込められていたロシアの女が、まるで突然スペイン映画のように、パッションを爆発させて、彼女の生きる意思を発露。自由に四肢を解放して踊り出していた。
あれは本当に素晴らしい演出だった。
思うに、
ピョートルと、アントニーナと、この二人、
スタート時点で双方が無責任であったから悲劇だ。
それぞれ「惚れやすい性格である事」と「女性を嫌悪する体質である事」は、「個々の生き様としては」あのままで尊重されるべきで、彼らのスタイルは正しくて尊ばれるべきだと思う。
けれども同時に、双方とも「お互いへの結婚関係の仕方としては」間違っていたとしか言いようがない。
だから、
どちらかの肩を持つということは僕には出来なくて、このレビューにもホトホト困ってしまったのだが、
徹底して 妻のアントニーナにフォーカスしたこの143分は、観ていてぜんぜん苦にならなかった。やはりカメラの技量の高さが大きな役割を担っているはずだ。
衣装や室内の光や、街中でのロケ。そして森の中の湖の絶景・・
映像芸術作品としてかなりのものではないか。
・ ・
幾つも (反面教師として) 記憶に残る台詞はあった。
レビュー冒頭の「苗字が同じ他人」もそうだが、
「これは女に聴かせる音楽ではないですよ!」。
⇒これがチャイコフスキーへの「最大級の賛辞」として、演奏会直後の作曲者に向けての、《聴衆の、あろうことか『女性』から贈られた褒め言葉》である事には、僕は呻いてしまう。
ピョートル自身、同性愛者である境遇に、周囲からの差別や圧迫で苦しんでいたのであれば、ピョートルはアントニーナの赤いドレスが嫌いだの、イミテーションの珊瑚のネックレスがみっともないだのと言って、同性愛者である自分と一緒にそこにいてくれる一人の人間を見下したりコケにしたり しないでいてほしかった。
小さい男だ。
「わたしはロランス」の、カフェで怒号してロランスを守った友人フレッドの姿を、しかと見習うべき。
いったいアントニーナを「悪妻」「病人」と決めつけたのは、どこの誰なのだろうか。
了
・・・・・・・・・・・・・
【おまけトリビア】
没落貴族のアントニーナの実家で、「フランス語」の学習シーンがあったが、当時はロマノフ王朝はもとより貴族・上流階級はロシア語は使っていませんでした。フランス語での会話が彼らの日常の言葉であり、“下層階級の使うロシア語"は、皇帝たちは使っていなかったのがその頃の事情です。
よってストラヴィンスキーも、ショパンも、その他東欧〜ロシア圏の芸術家たちは何の障害もなくパリへと移住をして、即座にフランス国内で活躍が出来たわけです。
【減点】
映画の出来としては、肝心の音楽がもう少し聴けなかったのは残念。
劇中、ピアノのおさらい程度はありました。演奏会もさわりだけです。
たぶん編集の段階で相当の尺がカットされてしまったのでしょう。別にチャイコフスキーが筆頭助演でなくても構わないほどに音楽映画ではありませんでした。
日本国の民法において認められる離婚の要件については以下 (コメント欄)
ポリコレ文脈上の被害・加害の構図が逆転! 19世紀ロシアのテネシー・ウィリアムズ的考察。
若干嫌な予感はしつつも、クラシックファンのはしくれとして、律儀に観に行ってきた。
まがいなりにも、チャイコフスキーの伝記映画らしい体裁くらいはとっているのかと思ったら、全然そんなことはありませんでした(笑)。
面白かったかと言われると、冗長なうえに辛気臭く、さらに僕にとってはあまり興味のない部分でのメッセージ性がやけに強いので、しょうじき自分には合わない映画だった。
とはいえ、非常に興味深いことをやろうとしている映画ではあったと思う。
要するに、本作もまた、今日び流行りの「女性映画」の一種ではあるのだが、ここでの主眼は、単に男性に抑圧される女性の悲劇を描くだけではない。
まっとうな女性の恋心と性衝動が、ホモセクシャリティによって抑圧され、蹂躙され、狂気へと追いやられていく悲劇を描こうとしているのだ。
通例、ポリコレ汚染された映画において、ホモセクシャルやトランスジェンダーは、マイノリティとして擁護され、あるいは「抑圧される被害者」として共感をもって語られる側にある。ところがこの映画では、ヘテロの女性の「ごく当たり前」の結婚生活への夢想が、隠蔽された同性愛の組織的かつ家父長的な強制力によって、粉々に破壊され、憧れに満ちた生活を送るはずだった女性が生き地獄へと引きずり込まれていく様子を活写してゆく。
いつもとは、被害者と迫害者の構図が「逆」なのだ。
もう少し正確に言うと、19世紀末のロシアにおけるホモセクシャリティは、ホモソーシャリティによって隠蔽されている。
徹底的かつ強圧的な男性社会、父権社会、家父長社会のなかで、ヘテロ男性の形成する濃密で排他的なホモソーシャル集団の「一角」に、ホモセクシャルな集団も居場所を見出して、ホモソーシャルな友情(男子校的・軍隊的・サロン的)に偽装された状態で、半ば公然と同性愛的関係を結んでいる。
ちょうどヘテロ9割の男子校や兵学校で、1割くらいの同性愛者が「迫害されず」「暗黙の了解を得て」「それはそれでよろしくやっている」という(意外と日本でもよくありそうな)状況が、ロシアでは常態化していた、暗にそのことをみんな知っていても、口裏を合わせて隠蔽し、家族のあいだでも共同戦線が貼られていた、という描写で本作は一貫している。
一方で、19世紀のロシア女性の立場は、あり得ないほどに弱い。
あまりにも、女性の権利と自由が束縛されているがゆえに、正当な理由なしでは離婚すら切り出せない始末だ。まあ、名前に父親の名前がくっついてくるようなお国柄である。父権性は文化の奥底まで根を張っているから、容易なことでロシアの女性抑圧の傾向は変わらないだろう。
男たち(およびその親族の女たち)は結託して、アントニーナに「悪女」のレッテルを貼ろうとする。愛のない結婚を長引かせ、チャイコフスキーを苦しめるろくでもない女として、糾弾し、離婚を承諾させようと迫り、みんなで彼女の精神を追い詰めてゆく。
たしかにアントニーナは、そこまで優秀な女性ではないのかもしれない。
空気が読めない。社交性に乏しい。相手の気配を察せない。
恋をしたら一直線。長大な恋文を書き連ね、ガンガンアタックをかける。
相手のキャラクターよりも、自分の妄執のような恋に執着する。
いざ結婚したら、やたら自慢げに振る舞う。才能ある夫を鼻にかける。
それでいて、友人や家族の前で夫を貶めるようなことを平気で言う。
まあ、旦那さんに早晩嫌われても仕方のない部分のある女性ではある。
ちょっとボーダー(境界性パーソナリティ障害)か自閉の傾向がありそうな感じ。
フランソワ・トリュフォーの『アデルの恋の物語』に出て来る、激烈きわまる片想い系ヒロインを、もう少しマイルドにした感じとでもいおうか。
それでも、彼女は決して悪いことをしているわけではない。
彼女は熱烈な恋文を書いた。
チャイコフスキーはそれを受け容れた。
受け容れたのは、チャイコフスキーのほうなのだ。
同性愛者としての自分を隠して、世間体を優先して結婚しようとした。
そして破綻した。
あとは『ブロークバック・マウンテン』みたいな、よくある同性愛者の「ゲス不倫」話である(特定の相手は出て来ないが、ふだんから寵愛しているお小姓のアリョーシャとか、電車で遭遇してしきりに「匂わせて」きた大学時代の友人とか、男の裸体画だらけのサロンのおねえ風の主ニコライとか、あのへんはみんなおしりあいらしい)。
そんな同性愛者の「偽装婚」に巻き込まれて、いつまでたっても他人行儀な夫に困惑し、たいした理由もなく忌み嫌われることに傷つき、夜の性交渉を徹底的に拒絶されてほてる身体を持て余しながら、しだいに精神の均衡を喪ってゆくアントニーナ。
可哀想といえば、ほんとに可哀想な話なのである。
すなわち、このお話は『アデルの恋の物語』から始まって、それがテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』もしくは『熱いトタン屋根の猫』的なテーマ(同性愛者の夫に顧みられない妻の苦悩)に結び付く物語ということになる。
― ― ― ―
チャイコフスキーにそっちの気があったというのは、比較的よく知られた話である。
そのせいで結婚生活が破綻したことも、双子の弟が最後まで面倒を見たことも、クラシック好きならだれでも知っている話だ。とはいえ、アントニーナのほうにも大概に問題があったということが「通説」ではある。そこのところを「最新の資料に基づいて」「虐げられた妻の立場から」新たに描き直したのが、本作ということになる。
それはそれで一向に構わないのだが、ちょっと気になったのは、ラストで「実際のアントニーナは、40年間夫と会うことなく最期を迎えた」としれっと字幕が出たことだ。
映画のなかでは、ふつうにレストランで再会してたし、感情をぶつけあってたんだけど、あれって完全なフィクションってことだよね?
そういうあたりで、史実とは明快に異なる創作エピソードを平気で挿入してくるのって、どうなんだろう? これだけ、実在した作曲家であるチャイコフスキーを「悪者」にしようと「悪意」をもって描いている映画で、史実にないひどいことをさせるのは、さすがにルール違反なのでは??
ホモセクシャルの側ではなく、ヘテロセクシャルの女性に重心を置いて描いている点については、ある意味で「誠実」かつ「フェア」な視点なので、そこは共感する。
マイノリティだからといって、人を不合理に傷つけて良い道理はない。
それに、当時のホモセクシャル男性は、男性優位社会、ホモソーシャル社会、家父長制社会のなかで、ある種の「特権性」を獲得し、かかわる女性たちに大きな犠牲を強いていた。すなわち、彼らはマイノリティではなく、女性を抑圧する「強者」として存在していた。
このあたりの機微を敢えて「告発」した姿勢は、個人的には買いたいと思う。
ポリコレ脳の「善良な」映画愛好家に冷や水を浴びせるようなこういう反骨精神は、むしろ小気味よいくらいである。
とはいえ、やりすぎはよろしくない。
やりたいことがはっきりしているがゆえに、あまりにチャイコフスキーと回りの男たち、彼の家族連中を「悪者」として貶めて過ぎているのは、やはりどうかと思う。
『TAR』とか『ふたりのマエストロ』を観たときも思ったことだが、実在する音楽家を劇映画のなかで扱うときには、もう少しフェアネスが必要なのではないか。すくなくとも自分の映画が、相手の名声と評判を著しく棄損する可能性があることについて、もっと自覚的であってほしいと僕は切に願う。
結果的に、作品はちょっと毒々しいというか、主張が強すぎて、観ていて少しケツのこそばゆくなるようなところがある。演劇的な演出や無駄に過激な性描写も含めて、なんとなく観るストレスが大きい。
ただそれは最終的には好みの問題であって、総体としては相応に良く出来た映画だとも思う。
― ― ― ―
以下、寸感。
●チャイコフスキーの業績や生涯について、映画内でほとんど語る気がないのにも驚いたが、いちばん驚いたのは、人口に膾炙したチャイコフスキーの「有名なメロディ」がほとんど封印されて使われていなかったことだ。
三大バレエでは、男友達の戯言のなかで『白鳥の湖』のメインテーマをひとくさり歌ったり、群舞で同曲を使用していた以外は、あまり使っている部分に気付かなかったし、あとは若干のピアノ曲とか、『フランチェスカ・ダ・リミニ』の一部だとか、聴いても耳に残らないようなところばかり。むしろオリジナル曲のほうばかりが印象に残る作りだった。
これは、最近のマーラーやレニーの伝記映画のことを考えても、かなり奇異な演出だといえる。
要するに、天才作曲家チャイコフスキーの情緒的で旋律美あふれる音楽を、キリル・セレブレンニコフ監督は本作に「必要としていない」し、「賞揚するつもりもさらさらない」というわけだ。
●映像については、ヨハネス・フェルメールを意識したような静謐な室内空間の切り取り方と、絵画的(バロキッシュ)な人物配置、巧みで自然な光源の設定(窓から光が差して逆光になっているシーンが多い)などが印象に残る。
●基本的には、「演劇出身の監督が」「演劇的手法を前面に出して」撮った映画としてのカラーが強い。とくに冒頭のいきなり復活して叫ぶチャイコフスキーの遺体だとか、終盤の「家族写真」を撮る夢想シーンだとか、アンリアルのシーンがシームレスに入って来るのは、いかにも演劇臭い。あと、チャイコフスキーを駅で見送ったアントニーナがいったん待合室に戻って、外光が一巡して今度は帰りを待つシーンに移行しているのも、演劇の回り舞台のような演出だ(似たような時間経過をカットしてつなげる演出は、その後も数回見られた)。
●演劇的な演出について、パンフを見ると監督が面白いことを言っていた。
いわく、「あの時代全体が、とても演劇的なのです。人々はドレスアップして出かけ、社会が要求するコスチュームを身にまとい、期待される仮面を被り、社会から課された役割を演じました。生活はまさに舞台のようなもので、人々の振る舞いはまるで役柄を演じているようでした。とても魅力的な時代です。」なるほど……。
●もう一点、監督のインタビューを読んでいると、彼はチャイコフスキー自身を敵視しているというより、チャイコフスキーの抱える問題性を糊塗して、なかったことにして、偉大で高貴なロシアの英雄として祀り上げた「国家」に対して、強烈な不信感と闘争心を抱いていることが、よく伝わって来る。その意味では、本作もまた国家のプロパガンダをリジェクトしてみせようとする、頗るつきに「政治的」な映画だということができる。
●終盤のあの「珍」「珍」「珍」まみれの珍ダンスシーンは、バレエを通じて女性性がホモセクシャル&ホモソーシャルに蹂躙される様を象徴的に描き出した、作品のまさに「キモ」ともいえる部分(やはりここも演劇的な演出だ)。とはいえ、とにかく「珍」のインパクトが絶大すぎて、シリアスに受け取り難いのは辛いところである(笑)。うーむ、で●い。な●い。
●結局、最後の家族写真の描写を観る限り、彼女は同棲していた内縁の弁護士に三回孕まされ、三回出産し、三人とも施設に送って(意地でも離婚できないからだろう)、三人すべて早逝させているようだ。なんて業の深い……。この弁護士がまた、寄生虫だわ、DVだわ、アル中だわ、ロシア人男性のカスっぷりの一典型を示しているんだよなあ。
●ヒロイン、アントニーナを演じたアリョーナ・ミハイロワは、迫真の好演。アントニーナの際立つ情熱や攻撃性、異常性だけでなく、「凡庸さ」「平凡さ」「判断力の鈍さ」「薄ぼんやりとした頑迷さ」といった、地方貴族出身の「魯鈍なふつうぶり」をきちんとベースに演じられていたのが良かったと思う。
●ちょうど金曜日に日本フィル/カーチュン・ウォン指揮でチャイコフスキーの交響曲4番を聴いていて、相乗効果で何かのインスピレーションが湧くかとも思ったが、チャイコフスキーについてはほぼ全スルーの映画だったので、何もケミストリーは起きませんでした(笑)。
衣装も美術も演者も素晴らしい!※そんなにゲイゲイしてません
※巷で気にされてるほど同性愛主体の映画ではありません。
※なんならチャイコフスキーの伝記映画でもありません。
オケがバーン!と出てくる曲とてフランチェスカ・ダ・リミニ(多分)くらいしかなく、チャイコフスキーの香りはほぼない。
何かの真実を描こうとするとき、物語の設定を「困難」にすることは大映ドラマ的常套手段だ。時代によって困難を描く題材が変化していて、結核だったり白血病だったり戦争だったりマイノリティへの弾圧だったり。この映画の場合その困難の題材にチャイコフスキーが選ばれただけなんだろう。
あれから100年以上たってもロシアでは同性愛が違法で、冬季オリンピックが紛糾したのも記憶に新しい。
史実に則ってる部分もあるがかなりのエピソードがフィクションのようだ。
フランス語で語り合うまぁまぁ上流階級の描写もあったように、自分たちより高い文化があると認めている人々の中でも美しい女をただ美しい映像で、そして惨めに描いただけでもある。
象徴的なのがピアノの運送シーンで、結局「肉体の力」がないと世の中が回らない→オトコの威光でもなければ女には何もできない時代。男たちの肉体は老婆のはだけた胸を凌駕する。そこには肯定も否定もないんだと思った。
ロシアのオケを聴いていると馬力一発肉体のチカラが音色の特徴みたいになってることもある。ヴォートカかっくらったヒグマみたいな文化圏なのはわかってるつもりだが隣国に攻め入ったりするのはやめろと言いたい。
そんなことで先人たちの築いた自国の重厚な文化を台無しにするなと。
それとこの映画、ゲイであることがホモソーシャルのミソジニーであるかのように描かれていた部分は気になった。そこはイコールではない。
いや、待てよ。もしかするとそういう映画だったのかもしれない。だからといって映像美がチャラになるわけではないのだが。
チャイコフスキー夫妻に良い主治医が必要がいれば…
福岡で上映最終日に観ましたが、私以外は女性の観客6人でした。
クラシック作曲家では、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ドビュッシーに並びベスト5に好きなチャイコフスキーですが、彼の生涯について知っていたのは、ゲイの発覚が自死に繋がったことと、年長の女性支援者がいたことぐらいで、妻がいたことは知りませんでした。新聞や雑誌で紹介された記事を読んでから観ましたのが、予想外にゲイの場面が多く、チャイコフスキーと妻との考え方のすれ違いと夫婦の精神が病んでいく行程がストーリーの中心でした。
妻がロシア正教の教会で祈り、施しをするシーンが多く挿入される反面、チャイコフスキーには宗教的なシーンは無く、男友達一緒の時のみ楽しげな表情になります。教会での結婚式でチャイコフスキーは終始不機嫌で指輪が上手く入らないことがその後の夫婦生活を暗示しています。披露宴の食事会でも夫婦の会話は無く、妻の家族から葬式のようだと言われますが、妻自身は神が認めた結婚は必ず上手くいくと信じていて、この考えは彼女の中で生涯続きます。
妻はチャイコフスキーの顔、声、姿に一目惚れしますが、音楽的才能と作品に関しては無関係でした。神が祝福した結婚だから、絶対にチャイコフスキーは自分を愛していると信じていることが、この夫婦の不幸の始まりでした。チャイコフスキーも結婚当初は妻の献身に少しは感謝しますが、まとわりつく妻にどうしても我慢出来ず精神的に追い詰められていきます。妻は媚薬や香水を使って迫りますが、チャイコフスキーは首を絞めて拒否し、妻との別居を選びました。
別居後はチャイコフスキーから妻に生活費を送り続けますが、金額が少ないこと、演奏会のチケットが来ないこと、押しかけて会っても喧嘩になること等、不満が多く離婚を拒否します。その後、チャイコフスキーは名作を残して53歳で自死し、妻は精神病院で長く暮らして68歳、1917年に死去します。ロシア革命で混乱していて、埋葬までに時間がかかったそうです。
この映画で一番印象的な場面は、妻の幻想でチャイコフスキー夫妻と天使の羽を付けた3人の子供達が一緒に写真撮影をするシーンです。実際には子供がいた記録は無いようですが、彼女の夢を描いており、チャイコフスキーも笑顔で応じていました。ラストの男達が全裸で果てしなく出るシーンは、観るのが辛いシーンでもありました。
現代の心療内科の名医に相談すれば、チャイコフスキー夫妻の悲劇は無く、もっとより良い方向に進んでいたと思いますし、もっと名曲が残っていたのではないでしょうか。
悪妻?とは思えない
アントニーナは悪妻と言われているそうだが、この映画を見る限りそうは思えない。逆に気の毒な女性にも思える。確かに性格はキツそうだが、ただチャイコフスキーを一途に愛していた。彼も同性愛を隠すために彼女を利用したわけで、もう少し思いやりを持ってもいいのでは?
記念写真を撮るたびにやるせ無い、つまらなそうな目線のチャイコフスキー。まわりの友人達も結婚の理由を知りながら、アントニーナを心の中で笑い物にしていただろうに、その友人達に離婚を迫られても、決して受け入れようとせず、私は妻なの!と言い切るあの強さ、普通なら心折れるし、死にたくなるくらいなのに、彼女は強い。
どこまでが真実なのかはわからないが、別居してから子供を産んでいたのは真実なのかフィクションなのか?
冒頭から気になっていたのが、ハエ。ハエが飛ぶ羽音がとても気になる。いろんな場面でハエが飛んでいる。何故?と思っていたら、ちゃんと理由があった。なるほど、面白いというか、上手い演出。
5人の男性をあてがわされたアントニーナ、ニコライを外に出して、あの後どうしたんだろう?と要らん想像。
アントニーナの役者さんがとてもキレイだった。
評価は分かれるだろう
匂い立つようなリアリズム、
咽せかえるような描写、
技術的にはロシア作品ならではの,
非常に高いレベルのキャスト、スタッフによる作品である。
しかし、
物語の構造が複雑であり、
全ての要素をバランスよく描くことが難しかったように思われる。
そのため、観客によっては、
登場人物の行動動機が理解しづらいと感じてしまうかもしれない。
これらの要素を全て描き出すためには、
より長い尺が必要だったかもしれない。
勝手に整理してみると
メインプロット〈アントニーナの一途な愛〉
サブプロット1〈チャイコフスキーの取り巻き、弁護士達の思惑〉
サブプロット2〈その思惑に翻弄されるアントニーナ〉
サブプロット3〈アントニーナの本音(LOVE or MONEY)〉
4〈チャイコフスキーの作曲家としての凄さの強調、1と絡めて〉
5〈アントニーナの夢〉
6〈家族の環境とその関係〉
これらをしっかりと丁寧に描写するには、
恐らく140分の倍の尺は必要だろう。
もちろんロシアのスタッフならそんな事は100も承知だろうから、
何らかの理由があったのだろう。
それにしても、
駅や家で、時間経過の長回しのワンカット、
昼から夜、夜から朝、
生から死(生から死を1カットはロシア映画ならでは)、
晴天から雨、
しかも、
自然光を活かした舞台つくりは、
技術を超えた執念も感じる。
火事のシーン、落下した場所、
その意味・・・震えた。
プロットを効果的に編んでいけば、
ダンスもズバッと決まっていただろう。
ビクトル・ユーゴーの娘の実話、
「アデルの恋の物語」を思い出した。
【蛇足】
二時間で上記のプロットを省略して完成させる方法もあるが、
「チャイコフスキーの妻 ふるさと事件簿、偽りの結婚」
のようになるのでやめといたほうが・・・・
『初恋は実らない』
特にアタオカメンヘラ女子の初恋は。
「初めてお会いした時からお慕い申しておりました」
あの出会いの一体何が刺さってアントニーナをあそこまで駆り立てたのか。きっかけは何でもよくて、そこから先は“チャイコフスキーを愛する自分”をとにかく愛でてる感じ。
そりゃさ、愛する人が全然振り向いてくれなかったり、指1本触れてこなかったりしたら寂しいと思うよ。二十歳そこそこのうら若き女子だし、自信も無くすだろうよ。でもさ、次第に『ワタシにはアナタだけ〜』と言いながら他の男に抱かれる痛いオンナに変貌を遂げ、その男の子供を続々と産み落とす『自分正当化オンナ』になるのはいかがなもんかと。
結局愛ではなく最後の最後まで恋に恋してる感じから抜けきれてなかったなー。満たされない欲望が溜まりに溜まってヒステリックにもなるし。あの感じはアカン。
いや〜『愛』も無ければ『性的なつながり』も無い。
そんな婚姻関係、一体何を信じて生きていけばいいやら。
ツライだろーな、とちょっとだけ同情💦
とゎいぇ、性的欲求不満なヒステリック女子という重いテーマをよくあんなにライトに書き上げたもんだ。
それに約147分ってまぁまぁな長さだけど、長さを感じなかったのが不思議。特にアントニーナとピョートルの実質的な婚姻関係がほんの数ヶ月しかなかった事を考えるとその僅かな時間を脚色しながらとゎいぇよく147分まで膨らませたな、とそこを評価。
エンドロールでは無論チャイコフスキーの曲が続々と流れるんだけど、最初の曲があまりに軽妙で吹き出しちゃったよ😅
妻の座
妻というよりは熱烈なファン、恐怖のストーカー心理か? 有頂天で相手の表情とか空気とか読めなかったんですかね ゴーン・ガールを彷彿とさせるような狂気、妻とは多かれ少なかれ恐怖を与える存在なのかもしれません
当時のロシアの貴族の生活の様子や女性の社会的地位は興味深かった、映像も綺麗、無駄にエロだけど...子供は感心出来んが自分で育てられなかったの?やむ無し?
クラシック界の名だたる三大悪妻らしいですが、やはり偉人の奥様となるだけあって熱量、妄信度半端ない そして何故かそういう女性には一度見た瞬間からこの人と結婚する!と思い込みも激しいタイプが多いような気がします しかし気難しそうなチャイコフスキーと結婚出来ただけでも当時の女性の立場からすると充分偉業だったんじゃないでしょうか
「アマデウス」の時に女性は結婚失敗すると人生ダメージ大きいけど、男性の偉業にはあまり影響しない?とどなたか仰っていたのを思い出しました それにしてもモーツァルトといいこの間のラヴェルといい天才作曲家はこういうタイプ多いの?と思ってしまった
タイトルなし
予告編で多少予測できたけど、見てしまった。史実には興味がある。もっとも意味不明だったのは、裸体の複数の男性たち。妻のパーソナリティがいまいち掴めない。でも、相手も自分を好きだと思い込んでいたところは、かなり精神的に危なく、精神病院に入院したのもわかる。というか、史実とフィクションの差異がわかってないので、本当に妻がそう思ってたかはわからない。
彼女は自分も音楽をやりたかったのに結婚しろと言われていたので、当時の女性差別の犠牲者でもある。弁護士との肉体関係と裸体の比喩は、精神的な感情と肉体の分離を表現しているのか。この映画が何を描きたかったのかいまいちはっきりしない。無修正の男たちの裸体は圧巻ではあったけど。チャイコフスキーの欲望も表現?
やはり天才の方に同情してしまう
天才の妻になることを思い込んで実現して、結果的に自縄自縛になるヒロインには同情できなかった。フィクションの部分もあるようなので、すべてこの通りでなかったにしても、どうしても天才のほうに同情してしまう。イタい妻と笑い話にしてはいけないと思うが、われわれは天才の奇癖は許してしまう。映画としては、ロシアの教会の門前の様子や結婚式の面倒くささ、お祈りのクドさなどディテールが面白かったが、最後の締めの幻想ファンジー的な演出はその音楽ともども陳腐な感じがして頂けなかった。
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