「内臓フェチ」クライムズ・オブ・ザ・フューチャー 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
内臓フェチ
臓器登録局のところから状況を説明している台詞が続々出てくる。ここはこんな世界なんです、わたしはこういうもんなんです、というのが台詞になっているのは滑稽だった。(クローネンバーグの)頭の中にある饒舌さに、映像が追いついていないことと、登場人物が(とても)多く、解りにくい話をさらに整理しづらくしている。
クリステンスチュワートはサタディナイトライブで変なパーソナリティを与えられたロールをやっているかのようだった。言われたとおりのキャラクターをやろうとしている不自然なクリステンスチュワートを見るのは楽しかった。
ただし解りにくいとはいえ深度は感じ取れる。
よって、たとえばドゥニ・ヴィルヌーヴに渡したら、すごい映画になったのかもしれない。いわばビジュアルノベルをむりやり映画にしたような。こういうのはたぶんヴィルヌーヴとかノーランとか数学が得意じゃないと映像化は不可能ではなかろうか──という感じの、意欲的だがかならずしも成功しているとは思えない映画だった。
クローネンバーグには二通りの作風があり、片方がザ・フライやビデオドロームや裸のランチのような特殊効果を使ったフィクショナルなやつで、もう片方がイースタン~やヒストリーオブバイオレンスのような暴力を中心に据えた人間ドラマ。
Crimes of the Futureは前者の方法でつくられている。と解釈している。
が、全作品にあるていど一貫したモチーフがあると思う。それはfetishと愛が交錯する感覚であり、ザ・フライが上映されていた当時、ジェフゴールドブラムが醜く変容していくにもかかわらずジーナデイヴィスは彼を愛しているのです!──という謳いが盛んに喧伝されていたが、おそらくそれがクローネンバーグの核心を示唆していた。
つまりザ・フライは人の外見ではなく内面を愛する美談として喧伝されたのだが、それは誤解であり、クローネンバーグの心中は“わたしが愛しているのはあなたの内面ではなく内蔵です”と言いたいフェチ=変態だった。Crimes of the Futureは正にそれ(内臓愛)を映像化しようとしていた。
根本的にクリエイターの持っているなんらかのfetishが作品に反映されるものだが、日本人のfetishはそのままポルノ表現になるのに比べて、外国人はfetishをエンタメに変換する能力が優れている。──その代表例がクローネンバーグだ──と解釈するとCrimes of the Futureは腑に落ちる。
じっさいに腑を落とす話であり、内蔵に昂奮するfetishや内臓をつかった性交やマゾヒズムや奇食を併せて描いた超変態映画だが、その超変態を、美意識と美しい俳優が常人にも解るように均している。
カンヌで鳴り物入りだったのはクローネンバーグの映画産業にたいする長年の貢献度によるものでCrimes of the Future自体の評判はさほど芳しいものではなかったが、クローネンバーグらしさがたっぷり詰まったサービス精神旺盛な映画だったので、そのブレなさ=頑なな創作姿勢が敬重された。
クローネンバーグはこの映画と同じタイトルの映画を1970年につくっている。
『この映画はクローネンバーグの2022年の同名映画とタイトルを共有しているが後者はストーリーとコンセプトが無関係なのでリメイクではない。
しかし、2022年版の大前提である“創造的な癌”は1970年版にも登場するため、両作品には緩やかなつながりがある。』
(wikipedia、Crimes of the Future (1970 film)より)
内臓に昂奮する人がいると思うとぞっとするが結局内臓フェチが理解不能すぎて正直なところだからなんなんという感じの映画だった。w
凄いけれど乗りきれない、ジュリア・デュクルノーのTITANEチタン(2021)を見たときの感じと似ていた。
網羅した(全作品を見た)わけではないが個人的にはデッドゾーン(1983)がいちばんいい。クローネンバーグの両面が入っていると思う。
imdb5.8、Rottentomatoes80%と50%